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『古代の霧の中から』(徳間書店)第一章

古代出雲の再発見

神話と銅と鉄

古田武彦

1神話と鉄

『魏志』韓伝に見る古代史の盲点

 古田でございます。今日はお暑い中を来ていただき、わたしの話をお聞き下さるということで非常に喜んでおります。わたしも出雲石見の国へ来たことは、もちろん何回もあるのですが、この横田町へは初めてでございます。今日も午前中からいろいろと製鉄関係の現場を拝見したり、また、考古博物館で貴重な文化財を拝見いたしました。実は、最初の予定ではここで二時間か二時間半ぐらいお話しして、それから質疑が三十分か一時間というつもりでございました。
 ところが、先ほどご紹介ありましたように、銅鐸が出た。「これを見せてやろう。ついては四時半に・・・」ということで、こちらをどうしても一時間十五分前には出発しなければならなくなり、この後が大変詰まってまいりました。これはいわば嬉しい悲鳴と言うべきでございましょうか。大変有難いことなのですが、辛いことでございます。以上のようなわけで時間がありませんので、ゆっくりと話させていただきたいと思います。
 と申しますのは、えてしてわたしなど時間がないと、焦りましてそそくさと早口で喋ってしまうという悪い癖がございます。そうすると、話している方ではたくさん話したつもりでありましても、お聞きになっている方では何を喋ったのか、ということになりがちでございます。ですから、本日は時間がございませんので、余分なことはなるべく言わずに、ポイントをゆっくりと話させていただく、こういうつもりでございますので、じっくりとお聞きいただければ幸いと存じます。
 さて、この標題にもありますように、「古代出雲の再発見 ーー神話と銅と鉄」ということで、ご当地ともっとも関係の深い鉄の問題に最後に触れさせていただくという予定でございます。ところがそういう形でやっておりますと、時間の関係から鉄の方になるともうタイムアップになってしまうということで、鉄のことに触れないままで終ることになっては非常に残念です。そこで逆に鉄の間題を先頭に持ってきました。
 鉄の問題もいろいろ申し上げたり、また皆様にご意見を伺いたいことはたくさんあるのですが、この一両年、わたしが認識を新たにしてきました重大なテーマをお話しして、そして横田町における古代の製鉄はどういう状勢の中に置かれていたであろうか、ということを申し上げたいので、最初に要点を申し上げて、あと神話等という話に移るという具合に、順序を逆転させていただくつもりでございますので、よろしくお願いいたします。
 さて、いわゆる「邪馬台国」と世間で言っておりますが、実は「邪馬一国」と言う方が原文そのものなのでございますが、その「邪馬一国」のお話が出ているのが『三国志』の「魏志倭人伝」というものでございます。これに研究を長らく集中していたのでございますが、昨年(一九八四)、その倭人伝の前にある「韓伝」を見ておりますうちに、ここに従来盲点になっていた問題が存在することに気がついたわけでございます。この点、『魏志』韓伝もいわゆる紹煕(しょうき)本という原本でコピーして皆さんのお手許にございますので、時間があればそれをいちいち「ここのところです」と申し上げたいところなのですが、今日はその点は省略させていただきまして、直ちにポイントを申させていただきたいと思うわけでございます。
 当時、朝鮮半島は南半部を「韓」と言っていました。現在の韓国と同じような名前なのですが、この南半部には倭地があった。これも非常に重要な問題なのですが、今日は省略します。その西側のもっとも大きい部分が馬韓です。こちらが辰韓ーー慶州近くですね。そしてこれが弁韓です。こういうふうに別れております。そしてソウル近辺に帯方郡があり、今のピョンヤンである平穣の近辺に楽浪郡がある。こういう形でございます。



 韓伝を見ますと、この辰韓の王様のことは書かれている、辰韓の王様は辰王でございます。これもいろいろな問題があるのですが、いまは省略します。そして、弁韓にも十二の国にまた王がいるというふうに書かれています。これも何という王か名前は書いてありませんが、やはり王がいると書いてある。
 ところが不思議なことに、馬韓については王がない。王が書かれていないわけです。これは一体なぜだろうと。よく読むとその理由ははっきり書いてあります。と言いますのは、本来ここに当然、馬韓の王はいたわけです。ところが楽浪・帯方郡、つまり当時の中国側が、辰韓の一部どの辺からとは書いてありませんが、これを割譲してしまった。つまり辰韓の方から取り上げて、自分に直属させてしまった。その理由は、元々、辰韓は楽浪郡に属していたからである、こういう理由で取り上げた。
 さてこの韓伝には、馬韓が辰韓を統轄していたように書いてある。そこで韓王(馬韓の王)は非常に怒って、これに対して軍をもって楽浪・帯方を攻撃した。帯方郡の太守はそのために戦死した。ですから、当時は馬韓が韓国代表で、韓王の軍が非常に優勢だったわけです。ところが、恐らく中国本国から援軍が来たのでしょう。形勢が逆転しまして、ついに韓王は敗退した。そして、ついに「中国側は韓を滅した」こう書かれております。

東アジアを震憾させた馬韓の滅亡

 「韓を滅した」ということは、つまり韓王を消し去ってしまった、言い換えると、中国がこの馬韓の地を直接統治の下に置いたということが書かれております。これは大変な大事件です。このあと、例の倭国の卑弥呼から使いを送るわけです。難升米等(なんしょうまい)です。あの倭人伝に出てくる有名な記事になっている。年代が書いてありますから。そういう順序になっている。この事件は東アジアを震憾させた。特に、倭国の卑弥呼あたりはびっくりしたと思います。そういうことで、難升米等が彼の地を通って帯方郡に行く話は倭人伝であまりにも有名ですが、それは実は滅亡韓国の地を通って行ったわけです。ということは、われわれが倭人伝だけを見ている限り、気がつかなかった。これは非常に重大な問題なんですが。
 さて、それでは中国はなぜそんな無茶をやったのか。それはもともと楽浪郡に属していたからか。漢の大帝国がありましたから、その時代は漢の四郡というものを朝鮮半島から北方にかけて敷いておりましたから、元々この辺が、楽浪郡に属していたというのはその通りです。しかし、そんな理由でいまこれを取り立てて直轄地に編入するのだったら、どこでも全部直轄地に編入できるわけですね。要するに、それは単なる口実に過ぎないわけです。辰韓の鉄の産地がほしかった。しかもそれを“直接に手に入れたかった”ということが原因なのです。
 では、なぜかというと、その理由が実は韓伝に書いてある。それは辰韓の項目に書いてある。「山に鉄を出す」と。そして「韓・歳*(わい)・倭、従いて之を取る」と。これはわたしの本をお読みになった方はわかると思いますが、この文章は何回か引用しました。

歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 つまり「韓・歳*・倭」の歳*というのは、この朝鮮半島の日本海岸の真ん中辺です。これが歳*。この三つの領域の人々が従って一緒にここに鉄を取りにきている。しかも彼らは貨幣の代わりに鉄を使っていた。つまり、鉄を持って行ったら、この朝鮮半島では何でも買えるわけです。通貨の役目に鉄を使っている。こういう記事があるわけです。これは非常に重大な記事です。ですから、倭人伝の卑弥呼は“鉄の女王”である。弥生期における鉄の分布図を見れば、卑弥呼のいた「邪馬一国」の中心部は容易に判明する。それは筑紫である、という論定をわたしがやったところなのです。
 そういうことでわたしは、何回もこの文章を引用したことがあったんです。ところがわたしが見逃していた記事があります。と言いますのは、いまの「従いて之を取る」の記事の最後に「また二郡にこれを供給す」。二郡というのは、楽浪・帯方郡。ここへも鉄を持って行っている。こういう記事が最後にくっついている。わたしももちろん、引用の時にはそういう引用をしたんです。しかし、“楽浪・帯方へ鉄を運ぶぐらい当り前だ”と思って見逃して、その意味を考えなかった。ところが、いま考えてみると、あまりにも散文的で簡単な、この一文こそ、韓伝と倭人伝を解く秘密のカギだったわけです。



 ということはつまり、中国が前漢の武帝の四郡以来、朝鮮半島を支配した目的は、もちろん、人間を支配することも目的でしょう。また農作物を税として取り上げることも目的でしょう。しかし、それと同じく、あるいはそれ以上に鉄を押える。と言いますのは、当時、中国は完全に鉄器文明です。ですから、武器としていかに重要かということを百も承知であるのが、当時の中国です。その中国が鉄の問題を抜きにして韓の四郡というものを考えるとは思えない。中国側にとって、この朝鮮半島を支配する最大の目的の一つは、鉄の支配にあった。こう考えてもわたしは決して空想や当てずっぽうではないと思います。そのことを示すのは、「二郡にこれを供給す」の一文です。こちらが主であって、言ってみれば、そのおこぼれといいますか、「韓・穢・倭もこの鉄山の供給にあずかっている」ということです。実は順序から言うと、そういうことなのです。
 そうしますと、何か変な“理屈”をつけて中国 ーー当時、魏と言いましたがーー 辰韓の八国を直轄領に編入したというのは、恐らく鉄山を押えるために必要な処置だったのではないか。これはわたしの仮説ですが、そういう仮説を立てると、一連の事件がはっきりと見えてきたわけです。つまり、この八国が鉄山の産地であるというケース。あるいはこの八国を通って鉄山に至るという、だからこの八国を押えなければ鉄山は確保できない、というケース。これのどっちかはしれませんが、とにかく鉄を安定確保することが本当の理由である。それに対していまのような「元楽浪に属していたから」なんていうのは、ただ口先の理由づけに過ぎないというふうに、わたしは理解したわけです。
 以上のようなことで、韓と中国との激突になり、韓が滅亡の憂き目にあい、そして今度は中国が全土を、特に韓の中心であった馬韓の地は直接支配をするという、そういう状況の中で、卑弥呼と中国との国交が始まったわけです。
 中国にすれば、やはり倭国卑弥呼との国交は必要だった。なぜと言えば、こんな無茶をやって直接軍事統治の支配をやったわけですから、実際問題として安定するのは難しい。そうするとやはり、その向うの倭国と手を握ることは、この「滅亡韓国」を支配する上で非常に重要な布石であったろうと思います。
 ですから、倭国が中国へ行ったのは、倭国は大国中国の財宝、宝物、鏡などが欲しくて行ったという形で従来は理解していたのですが、そんなことだけではなくて、倭国も中国と接触する必要があった。韓国の鉄山の鉄を貰いたければ・・・。ところが、同時に中国側も半島の安定上、向うの倭国との国交を必要とした。こういう理解の方が、わたしははるかに理性的な理解であると思うのですが、どうでしょう。
 これがつまり三世紀 ーー弥生時代の話です。「倭人伝を理解するのには、韓伝を背景にしなければならない」と。これが根本のルールです。それなのに韓伝をカットして「倭人伝だけで理屈を考えた」のが、従来の手法ではなかっただろうか。こう思います。

好太王碑“改竄”論争に決着

 さて、そこでわたしは今年(一九八五)の三月、宿願を達して、高句麗好太王の碑を見てまいりました。これは、朝鮮半島の北端部のさらに北にあります。鴨緑江 ーー皆さん懐かしいひびきを持ってお聞きの方もあるでしょう。ヤールー川 ーー という川が流れております。この鴨緑江の北岸部に集安県というところがございます。ここに有名な、高句麗好太王碑があります。これは参考文献の七番目のプリントにその全文が出ております。
 ここの中には九回、あるいは最近の中国側の学者によると十一回、「倭」という字が出てくるということで、非常に重視されてきた遺跡でございます。ところがこれに対しまして、十三年前ぐらいになりますか、在日朝鮮人の李進煕さんが、「あれは真っ赤なにせ物である。日本の参謀本部がでっち上げた・・・改竄して石の字を削り取って、石灰のにせ字を埋め込んで彫り込んだ。そういうにせの字を拓本、あるいは双鉤(そうこう)本に取って、持って帰ったものである」という説を発表されまして、みんなびっくりしたわけです。
 ところがわたしがこれに対して、いちいち再検査してみますと、どうもそうではない。そういう改竄の事実はないという結論に達しました。あれは昭和四十七年でしたか、その五月に出た李さんの論文に対して、十一月の東大の史学会でそれは間違いだ、改竄はなかった、という説を発表した。その学会の席上で李さんと四十分間ぐらい討論をやったわけです。そして今回、いよいよ現地に行けたわけです。
 そうするとやはり改竄ではなかった。まぎれもなく「倭以辛卯年来渡海破・・・」と「倭、辛卯年を以て来る」というあの有名な一節も石でちゃんと彫り込まれておりました。
 ほかにも「倭」という字があります。わたしが確認できたところでは八力所が確実に石の字で「倭」とございました。戦前は九カ所と言われていたのですが、その一カ所はもうつぶれていまは見えない。中国の学者が言う十一カ所というのは、わたしには確認できなかった。誰が見ても確認できる石の「倭」の字は、現在は八力所でございます。わたしはそう思っております。
 ともかく、数はともあれ、「倭が高句麗とそこで戦っていた事実」はもはや疑うことはできない。ですから、十四年来の論争を、初めて、今年わたしの目で決着したことを確認したわけでございます。


王健群氏が判読した碑文(第二面)

好太王碑のもう一つの読み方

 さて、ところがこの好太王碑には、今までに論じられたことのない重要な問題があることに気がついたわけでございます。と言いますのは、好太王碑の文面を見ていきますと、これも一つ一つ原文を説明するといいのですが、時間の関係でそれは省略させていただきます。
 そこに「平穣」という言葉が二回出てくるわけでございます。これが今のピョンヤン(平壌)、楽浪郡です。ここを好太王は本拠地にしている。それから「帯方」という言葉も出てきます。その「帯方界に倭が侵入した」という形で現われております。さらにこの石碑の本当の目的は、別に「倭と戦って勝った」ということだけが目的ではありませんで、好太王の墓を守る人間を定めることが第三面、四面にビッシリ書いてある。高さが六メートル半近く、幅が一メートル五十センチぐらいもあるその石碑の文面にビッシリ書いてある。墓守の規定が書かれている。ところがその墓守に、新たに征服して支配した、韓・穢(わい)の民をこれに当てようということが出てくるわけです。
 これはいずれも「穢」という字になっておりますが、これは卑しめて書いているのであって、先ほどの『三国志』で言うところのサソズイの「歳*」と同じ存在であると、認められているわけです。この高句麗が征服した韓・穢の民が墓を守る。そして先程言いました倭という字は、八回出てくるわけです。
 ところがふっと気がついたのです。と言いますのは、つまりこれをまとめて見ますと、ここには楽浪郡に当るのが平穣、そして百済・新羅などに当る韓と穢を押えて、さらに帯方を好太王は押えようとしている。というのは『三国志』韓伝にあるように、朝鮮半島から鉄が運び込まれていたのは、楽浪・帯方の二郡だった。だから二郡を押えるということは、その鉄を押えることを意味するのではないか。さらに今のように韓・穢を支配して倭と戦った。「韓・歳*・倭、従いて」という、あの国々です。
 そうすると、ピタッと一致するわけです。つまり、辰韓の鉄山。朝鮮半島で注目されていた鉄山の権利を持っていた二郡。同時に付属的かもしれないが、鉄の採取が認められていた韓・歳*・倭。それらがすべてピタッと高句麗好太王碑に出てくるわけです。そうしますと、これが「偶然の一致」とはわたしには思えない。つまり、好太王はなぜ南下したか。これはご存じのように、高句麗というのは、集安県に最初からいたわけではございません。もっと北の長春、旧満州時代は新京と言いましたが、あそことの中間に通化というところがありますが、ここに初期の高句麗の人がたくさんいたのです。つまり、そのあたりが高句麗の最初の第一代の基点になったらしいのです。それが第二代のときに南下して集安に来た。
 実に素晴らしいところでして、変な表現ですが、“大和盆地に利根川が流れている”という表現。そういう感じのところなのです。皆さん行ってみたいと思う方がございましたら、幸いこの八月の十七日からもう一回まいります。ここにパンフレットがございますので、もし行ってみようという方があったら、どうぞお持ち下さい。
 とにかく、そういう素晴らしい天地に南下してきた。ところがこの通化と集安の間に、また鉄山があった。この話も時間があればもっとしたいところですが、要するに集安に至る、途中の鉄の産地帯を押えて南下した。ただ、景色がいいためにとか、南の温かいのが好きとか、だけではないのです。
 この好太王がさらに平穣に進出し、この地を根拠地にして、帯方郡へと南下します。これも「倭人が侵入した」と言っていますが、倭人から言えば「高句麗が侵入した」と言うでしょうね。見る立場の違いです。ということは、ただ温かいところが好きだというだけではなくて、やはりわたしは「好太王の目は鉄に注がれていた」と思うのです。そういう意味では、好太王碑を“鉄を抜かして”読んだら、全体はただ「昔の人は戦争好きだったな」という感じになります。ただ“よくも、まあ戦争をやっている”というふうにしか言えない。
 しかし、今のように鉄という問題をぽーんとマスター・キーとして入れると、にわかにその行動の真の意味が見えてくる、ということを感じたわけです。
 これは、四世紀の後半から五世紀の初めにかけての人、四一二年に死んだ好太王のことを、子供の長寿王が四一四年に立てた勲績・守墓碑であったのです。四世紀から五世紀にかけては、そういう鉄をめぐる、高句麗と倭国との激突ということが行われていたのがこの地帯の状況です。
 一言申しそえますと、この守墓人の墓守りに倭が入っていないのです。ということは、どうもあの碑面に書いてある範囲では「倭はしょっちゅう負けている」けれども、どうも最後的にはまだ倭は負け切っていないのではないか。この朝鮮半島の南半部で依然として戦っていたのではないか。ということは、すなわち両者の緊張はまだまだ続いていた。そういうような問題も出てくるわけでございます。
 それはともかくとしまして、この当地、横田町でも新羅系の王者の冠らしきものが出てきたということを、さっきお聞きしたのです。それはまだどういうものか、わたしには分りませんが、それが古墳時代のものであるとすれば、こういう情勢の中における東アジア世界の中の当地のものだったわけです。そうするとやはり横田町周辺の鉄、また農富な中国山脈近辺の鉄の産地に対して、束アジア世界の中の倭国の人々、あるいは楽浪・帯方の二郡の人たちが無関心だったと思うことは、わたしには難しい。ということで、この横田町の歴史を、そういう国際的な広がりの中で考え直していただけたら、「そういえばこういうこともあるのではないか」というような、新しい問題提起が生れることになるのではないかと思います。

2 神話と青銅器文化

「国生み神話」と津田史学

 さて、それでは最初のテーマに入らせていただきます。昨年の七月から八月にかけまして、斐川(ひかわ)町から三百五十八本の「銅剣」が出てまいりました。みんな驚きました。学者あたりが真っ先に驚いたようですが、実はわたしはあまり驚きませんでした。大変驚かなかった。変な言い方ですが、「そうだろう、そうだろう。やっばり出ましたか」というのが、わたし自身の正直な反応でございました。なぜかということは、今から申し上げます。
 さて、その時わたしは・・・今でこそ皆さん百もご承知の三百五十八という数を覚えるのにちょっと苦労しまして、そこで昔、皆さんも中学・高校の勉強のときにおやりになったと思うのですが、三百五十八を「ミコーハ」と「ミコハ断(た)つ造作説」と、こういう言葉にして覚えたわけでございます。断つというのは、もちろん剣か何か(実は矛か戈 ーー後述)だから「断つ」なのですが、「造作」説とは何だというのは、本日の中心をなすお話で、やがておわかりいただけるところでございます。
 「造作」説というのは、津田左右吉さんという方が大正から昭和にかけて発表された説であって、「『古事記』、『日本書紀』の神話・説話は嘘である。歴史事実とは関係のない全くの作り話である」ということなのですが、よくもあの時代にあのような説を発表されたと思うのです。大変な勇気だと思います。早稲田大学で、そういう講義をされたわけです。ところが、当時の東大、京大、その他の大学の学者は皆、皇国史観ですから、一切それを相手にしなかった。ところが戦後一転して、この津田左右吉の考えが定説になった。それで学会も教科書も全部、津田左右吉の考えに従って作られてきたわけです。そして神話などは一斉に教科書から追放されてしまったわけです。
 わたしが古代史の世界に入りましたのは、遅かったのです。昭和三十年代は親鸞の研究に没頭しておりました。いわゆる「中世」です。そして、昭和四十年前後の頃に古代史の世界に入ってきたわけです。わたしは、「おかしいぞ。神話造作説は問違っているのではないか。神話はそんな作りものではないらしいぞ」、こういう感じを持ったのです。と言いますのは、今から思うと、古代史に入ってきた時期がよかったのです。
 なぜなら、昭和三十年前後の頃、文化財保護法ができまして、それまではいいものはすぐ骨董屋へ運ばれていたものが、いきなり国の財産ということで公共の管理の場に出てくるようになった。それで考古学的な出土物の分布図がわれわれの目に入ってきたわけです。
 そうしますと、まずわたしが気がつきましたのは「国生み神話」というものでございます。これは年配の方は子供のころ習ってどなたもご存じかと思いますが、伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命の男女の両神ですね。淤能碁呂(おのごろ)島というところで、海の中に天の瓊矛(ぬぼこ)というものを差し入れて、それを引き上げるとポタポタ(「コホロ・コホロ」と書かれています)と海の滴が垂れて、それが大八州の国になったという話です。瓊矛という瓊(ぬ)は玉ですから、勾玉などを紐で括(くく)りつけた矛という意味でございます。『日本書紀』一書ではここのところが、天の瓊戈(ぬか)となっています。やはり、あとは同じで天の瓊戈を差し入れて引き上げたらコホロ・コホロという形でこうなっているわけです。ですから、五つぐらいの説話は矛(ほこ)であって、一つだけは戈(か)という形で使われている。これは『古事記』、『日本書紀』を見れば冒頭に出てまいります。



 その場所は話の全体の流れからいうと、どうも舞台は筑紫であるらしい。ところが、先ほどの分布図を見ますと、今の福岡県、博多湾岸に銅矛の鋳型がほぽ一〇〇パーセント近く集中しております。銅矛の鋳型 ーー銅矛は槍みたいなものですが、銅戈というのは鎌の親玉みたいな柄(え)の長いものですーー この銅戈の鋳型はやはり博多湾岸を中心に、東は宗像(むなかた)、北九州市近く、西は佐賀市に至る、翼が両方に仲びているように広がっておりますが、中心はやはり博多湾岸です。ですから、場所は筑紫でございます。
 ここに弥生時代の青銅利器の一大中心があるということは、考古学者の間に異論はございません。ということは、つまり、弥生時代の筑紫では、銅矛と銅戈が大量に作られていた。これは、昭和四十年代前後にはわれわれには常識となっている知識であったわけです。
 ところが一方、今のように『古事記』、『日本書紀』の神話を見ると、筑紫が舞台で、矛と戈を主役として、その神話は語られている。筑紫、矛、戈と、この三つの言葉のセットで、弥生時代の考古学的出土物の分布の状態と、神話内容とがピシャリと一致しているわけです。そうなると、果して津田左右吉が言っていたように六世紀の前半の近畿天皇家の史官の「造作」といえるか。ところは、今でいう奈良県です。そこで、机の上で、彼等がお話を面白おかしく作っただけで、歴史事実とは何の関係もない、津田はそう言ったわけです。それを戦後の歴史学者はみんな信奉してきた。しかし、どんな天才であっても、大和の後世の史官が、そんな空想で考えたことが、後になってみたら、それが弥生時代の筑紫圏を中心とする出土状況とドンピシャリ一致したということがありますか。そんな“偶然”というものを考える方が異常だと思うのです。“偶然でない”と考える方が、普通の人間の理性だとわたしは思うのです。
 ならばどうなるかというと、ことは簡単です。あの「国生み神話」は筑紫で作られた。いつ作られたか、弥生時代に作られた。それならば両方一致するのは当り前ですね。
 大体、あれほどの大量の矛や戈を作るのに、どうせ権力者がバックにいて作らせるのですが、黙って作らせる、黙ってただ作らせるということはあり得ないですね。沈黙のうちに作り、沈黙のうちに配るでは、これは無理ですね。当然、説明がつく。「これはこういう由来のものであるぞ」と。権力者というのは、そういう自己PRこそ非常に大事な仕事ですから、そのPR付きで作られ、配られた、と考える方が自然だと思うのです。そのPRは何だと言えば、記・紀の神話です。全く両者一致しています。
 そう考えると、これは何の不思議もない。そう考えないとゴチャゴチャ変な庇理屈を並べなければいけなくなってくるわけです。というようなことで、わたしは「これはどうも津田説はおかしい」と、これは大和の史官が後世に勝手にでっち上げたお話などではないのではないか。弥生時代の筑紫の権力者が、自分たちの権力の神聖な淵源を語るべく作った話が、あの神話である。こういう理解を持っているわけです。これは従来の学者たちが何と言おうとも、わたしの頭が余程変でなければ・・・わたしは大変平凡な頭の持主だと思うのですが、その平凡な頭で理解する限りは疑うことはできない、こう考えております。

「国ゆずり神話」の本質

 ところが、怖かったのはその次なのです。と言いますのは、『古事記』、『日本書紀』の神話内容は今のお話だけで終ってはいないのです。むしろ、神話の巻の話の進行のキーポイントを成すのは「国ゆずり神話」である。皆さんご承知の、天照大神が出雲の大国主命に対して孫の邇邇藝(ににぎ)をつかわしたいから、国をゆずれ、ということですが、大国主はこれに対して「私はもう隠退するから、美保の関で釣をしている長男の事代(ことしろ)主命に聞いてみてほしい」と。そこで美保の関に使いをやったら、この事代主命は「承知しました」と答えて、そのあと、海に飛び込んで自殺したわけです。
 これは、今は簡単に言っておりますが、当時は、私にとってびっくりした発見なのです。『古事記』、『日本書紀』ではここのところが何となく曖昧に書いてあります。ところが現地の美保の関の美保神杜に行きますと、まさに今言ったようなお話で、お祭が春先に毎年行われている。海の中に進んでいく事代主命を土地の人々が嘆き哀しむその様が神楽になって残っているということを聞いて、びっくりしたわけです。これが恐らく、わたしは本来の姿だと思うのです。それを、それではあまり具合悪いので、曖昧にしたのが記・紀神話の方だ、という判断に達したわけです。この点も詳しくはわたしの『古代は輝いていた』という全三巻の古代通史(朝日新聞社刊)が今年の四月に完結しました。その第一巻でご覧いただければわかります。
 多分、その次男の建御名方(たけみなかた)命は諏訪まで退き、そこで降伏したと書かれています。ということはこの「国ゆずり神話」というものの本質を考えてみますと、「権力中心の移動」なのです。それまでは出雲が中心だった。簡単に言ってしまえば、それがこの件があって筑紫に中心が移ったということなのです。いわゆる「天孫降臨」とは、この場所は天国(あまくに 壱岐・対馬)から出発しまして、筑紫の中に到着する。そこに降臨したと書いてある。これは江戸時代の前期・中期ぐらいのところでは、むしろ筑紫のどこかだと考えられていたと思うのです。
 それを本居宣長が出てきて、近畿の出身の人だからというわけではないでしょうが、彼が新しい解釈をしたわけです。途中に出てくる「筑紫の日向(「ひむか」と訓んだ)の高千穂の・・・」という言葉を取って、これをいわゆる、宮崎県と鹿児島県の境の高千穂の峰へ持って行った。なぜ持って行ったかという理由ははっきりしています。神武天皇は宮崎県に当る日向(ひゅうが)から出発した、と『日本書紀』に書いてあります。彼は、天皇を天照の直系にしたかったわけです。だからむりやり、天孫降臨の地を宮崎県に持ってきた。
 「筑紫」という言葉で始まっているのですから、「筑紫というのは『九州全体』のことでしょう」という非常に強引な解釈をやった。それではおかしいのです。そういう先入観念、イデオロギーで事を運ぶのではなく、文献をあくまで実証的に書いてあるとおりに ーーこれはわたしの立場ですがーー その目で見ますと、「筑紫」という言葉で始まっているのですから、福岡県の中です。そして、その最終点はクシフル峯(だけ)と書いてあるのですからクシフルに到着しているわけです。
 クシフルはちゃんとあります。福岡県の中に博多と糸島郡との問の高祖(たかす)山連峰というところにクシフル峯がある。しかもそこは「日向」という字を書いて「ヒナタ」と読む。だから筑紫の日向の高千穂。高千穂というのは“高い峰がそびえた”という意味なのです。そのクシフルということで、天孫降臨は筑紫のクシフルの地だったわけです。この点で、また面白い話が、時問があればできるのですが、今日は省略いたします。
 要するに、今の「国ゆずり神話」の意味するところは、「今までは出雲が中心だった。みんな知っている通りに。しかし、これからは違うのだぞ」というわけです。「国ゆずり」ということを主人の大国主に承知させたのだと思います。今までは家来ナンバーワンだった天照。「天照は家来ナンバーワンだ」と言うと、皆さんびっくりするかもしれませんが、これもわたしの書いた本の第一巻(『古代は輝いていた』)で詳しく書いてありますから、興味のある方はご覧ください。
 「これからは私が中心の支配者である。その現われとして、孫を筑紫につかわせる」。これが「国ゆずり神話」の内容の核心なのです。もちろん、神話を作ったのは筑紫の権力者です。ところが自分の権力の神聖な由来を説いて、その権力の正当化のために「出雲から筑紫に中心が移った。以後そういうふうにみんな心得てほしい」と、そういうPRの材料をもりこんだものが、あの『古事記』、『日木書紀』の神話なのです。
 いわゆる神武は実在の人物だと思うのですが、日向の国という、今の宮崎県の地方豪族。その末端で、しかももう宮崎県ではとても食っていけない。自分ぐらいの身分では食っていけない、ということで、野心に満ちた青年たちが出発して、近畿の銅鐸圏の中に侵入する。初め大阪湾で破れ、長兄、五瀬(ごかせ)命の方は死んで、そして末弟の若御毛沼(わかみけぬ)命つまり神武は大和に迂回してそこに根拠地をつくる。その意味で、わたしはやはり神武の「東侵」は歴史事実であると考えております。
 この点も一口に言って、皆さん方びっくりされるかもしれませんが、これはわたしの先ほどの『古代は輝いていた』第二巻の冒頭で詳しく述べてありますので、またご覧いただければ結構でございます。

荒神谷遺跡は“巨大なる断片”

 さて、そこで先に述べたような「国ゆずり神話」が記・紀神話全体の“話の筋”の中心です。そうすると先ほどの「国生み神話」は、弥生時代の筑紫の権力者が、自己PRのために作った神話であるという一点にとどまることができない。つまり、そのもう一つ前には出雲中心の文明圏が存在したのだ、ということも、認めざるを得ない。
 「こちらの方は大和の天皇家の史官が勝手にお話を面白おかしく、嘘八百に作ったのですよ」というのでは、これは全く論理一貫しませんね。ですから、筑紫の「国生み神話」が、弥生のリアルな事実であると、わたしは考えざるを得なかった。ということは、論理必然的にその前に出雲中心の時代が存在したということもまた、歴史的事実であると考えざるを得ないと、苦しかったけれども、どうしてもそこにいってしまったのです。
 これを書いたのはわたしの第三の本で、朝日新聞社から出しまして、いま角川文庫に入っています。幸いにこの八月中にはまた重版が出る予定ですので、興味があればご寛いただければいいと思いますが、この『盗まれた神話』の最後の章で論証の結論となったのは「出雲王朝」の問題です。
 筑紫の中心権力に九州王朝という名前をつけた。それが実は天皇家の母体である。ちょうど小さなイギリスを母体に大きなアメリカが成立したように、小さな九州を母体にして日本列島の統一に成功した近畿天皇家ですね、それを生んでいった。だから天皇家はアメリカである、とは変な表現ですが、九州はイギリスで、天皇家はアメリカであるという、こういう理解をしたのですが、しかし、その九州王朝のさらに前に出雲王朝というものを考えざるを得ない。怖かったんですが、そう書いたんです。
 ところが、それに対して学者たちは例によって知らんぷりをしたわけです。今わたしが申し上げたことでどこが間違っていると、皆さんお考えですか。「これはおかしいよ。話が全然変じゃないか」というふうには、皆さんお考えにはならないだろうと思うのです。話は一応合っていると思うのです。学者も話が合ってなければ「だめだ」とバーンと言ってくるのですが、こられないのだろうと思うのです。言ってきません。
 しかし、どうも今の戦後の学者は「出雲神話」をみんなバカにしている。「あんなのは嘘八百の代表だ」と。なぜなら出雲には大したものはないじゃないかというわけです。ところがそれも最近はちょっと学者も首を傾(かし)げはじめたのが、四隅突出方墳あるいは四隅突出填丘墓。こういうものが出てきておりまして、これはどうも出雲中心(中国山地近辺をふくむ)で、いまの岡山とか能登半島などに分布したものらしいということになってきましたから、「出雲は何の中心でもないよ」とは言えなくなってきているはずです。
 実は、筑紫はすでに「弥生の宝庫だ」ということになっていますが、「出雲はまだかな」という感じでいたのが、今度ドカンと出てきたわけです。わたしは「あれは巨大なる断片である」という言い方をしております。資料でご覧になればおわかりのように、「中細剣」は約十一本出ています。これも勘定の仕方で違うので、もうちょっと数が多くなるかもしれませんが、それにしても中細・中広剣と呼ばれるものを全部合せても十五までいかないくらいです。ところが今度は三百五十八本というのは、バランスも何もない、すごい数のわけです。
 すごいけれども、しかしわたしは「断片」だと思います。いわゆる考古学的な出土物は、それだけで考えてはいかん。一つ出てきたら、その五倍、十倍のものが実際は存在した。その五分の一、十分の一のものが、われわれの目の前に現われたと考えなければならないということを、これは森浩一さんが何回も書いておられ、わたしも研究室へ行って直接お聞きして「そうです。その通りです」と賛成したのです。
 わたしこの点、ちょっと森浩一さんに対して不満がありますのは、今度の三百五十八本を『出雲国風土記』の神杜の数と合うというようなことを何か言われたという話なのですが、もしそうであるとすれば、これはやっばりおかしいですね。先ほどのように森さんは何回も書いておられ、わたしにも言われたように、「出てきたもので考えてはいかん。その五倍、十倍あるということで考えなければいけない」ということは、あの方が何回も書いておられることで、それが正しいと思うのです。が、今度は出土数と「神杜の数と合う」などと言ったのでは、これは自分の研究思想を自分で破ってしまうことですから。あまりびっくりしてしまって、ついつい普段言っていることを忘れられたのではないかと思います。わたしは、あれはやはり言い過ぎですよといいたいと思います。もし、これ以上出てきたら、困るわけです。
 というようなことで、これはやはりいままでの方法論通りに考えるべきで、あれはまだ断片である。しかも、あれを使った人間もいるわけで、無人のはずはない。人聞を統率した権力者もいるわけで、人間たちの住居もあるはずだし、権力者の住居も庶民の住居みたいなところにいたはずはないのです。当然、「宮殿」に住んでいたはずです。それが出てこないはずはない。何年あとか何十年あとかわかりませんが、わたしは予言します。「必ず出ます」と。



四つの神名火山を頂く古代信仰圏

 そういうことですから、「巨大なる断片である」ということです。しかも、それは単なる一般論からだけではございません。『出雲国風土記』に具体的な証拠がございます。と言いますのは、『出雲国風土記』によりますと、これはお手許の資料を見ていただければわかります。No.3の資料ですが、神名火山というものが四つございます。その一つが皆さんご存じの仏経山なんです。その麓の神庭(かんば)から今回出てきた。ところがもう一つの神名火山。つまり佐太神杜のところにある神名火山。ここの北隣りのところの志谷奥から今回と全く同型のものが六本出た。ということは、この四つの神名火山からはまだまだ出る可能性があります。わたしは、この神名火山は、仏経山の近辺の人が仏経山という神名火山だけを信仰していて、あとの神名火山は知らん、というものではないと思う。つまり、四つの神名火山がワンセットになって、その神名火山に対する古代信仰が存在した。つまり、これは古代信仰圏です。こう考えるわけです。
 これを一つの仏経山神名火山を信仰し、ほかは全く知らなかったという、そんな状況を想定するほうが、わたしは不自然だと思います。ということは、先ほど言いましたように、あの四つの神名火山からまだまだ出る可能性がある。それと銅鐸の件も、去年の八月の終り頃に現地の教育委員会の方に、「銅鐸がこの辺からきっと出ますから気をつけて下さい」と言ったのです。そうしましたら、「いや、出ればいいのですが、せめて土器でも見つけたいと思っています」と言っておられた。
 それからこれも変な話ですが、確か先週の土曜日でしたか、大阪の朝日カルチャーセンターというところで、毎月講演をやっているのですが、そこでこの問題に触れました。あの荒神谷からも銅鐸が出るはずだとのべ、「うんと近くから出るはずですよ」ということを講演で申したのです。その講演が終って、別の写真をちょっと見せてもらうために下の朝日新聞の編集部へ行ったところ、担当の方(高橋さん)が「古田さん、銅鐸が出ました」と言われるわけです。「どこから」とわたし。「荒神谷からですよ」。そこで翌日(七月二十一日付)の新聞を見せてもらったのですが、そこに大きく書かれていました。三百五十八本の出た、すぐそのそばです。
 あとで、その前の講演を聞いていた人が「古田さんはそのニュースを知っていたのではないのですか」と言われたぐらいなのです。タイミングがよすぎるというか、予見が早く当りすぎた、という感じですが、これは別に不思議なことではございません。事の性格を追っていけば、時代と地域性において共通の性格をもっている志谷奥で銅鐸が出たことを思えば、今回の荒神谷で出ない方がおかしい。ですから、道理に従って予言しただけであって、決して超能力などというものではございません。そういう目から見まして、わたしはまだまだ出ると思います。これから、銅鐸もまだまだ出ます。(後記 ーーこれも、この翌月〈八月〉、四個の銅鐸が出土、計六個となって、さらに“予言的中”となった)そのほかの神名火山からも出ます。わたしはそう思っています。
 ということで、まさに「巨大なる断片」に過ぎないと考えます。しかも、そういう巨大な古代信仰圏というものがいつ成立したかというと、わたしは弥生時代ではないと思うんです。もちろん、今回の三百五十八本や銅鐸などは弥生時代ですよ。しかし、弥生時代にポーンと初めて新しくそういう信仰圏が生まれたのではないと思う。それは縄文期に淵源する古代信仰圏であると、わたしは思うんです。
 なぜか。それは今の四つの神名火山の一つ、大船山の近くに、立石という部落があります。ここにわたしは去年八月末に行きました。そうすると、そこには四軒のお宅がある。麓では六軒あると初め聞いていたんですが、到着してみると四軒です。つまり、家はあったんですが、おじいさん、おばあさんばかりだから、結局二軒はもはやいらっしゃらないのでしょう。
 おじいさんに案内していただき、竹藪のずっと奥の方に、回り回って、ポッと穴があいておりました。そこから入ったんですが、巨大な石神がありました。それが奥に一つ、両側に二つ半。その前に小さな広場があったわけです。思わず驚きの声をあげました。わたしは本当に無信仰な人問ですけれども、思わずそこに跪(ひざまず)きたくなったような雰囲気です。まさにこれは古代巨石信仰が本当に荘厳な姿で現存している。そして祀りつづけられているという感じを受けました。
 わたしがなぜそこを目指したかというと、『出雲国風土記』で「大船山神名火山のそばに大きな石神がある、小さな石神が百余りある」と書いてあるんです。それでもしやと思って行ったんです。そこで、今もお祀りしているんです。(後記 ーー立石・庄部(しょうぶ)・田ノ戸・黒目繁田(くろめしぎた)の四十軒の家々が北組と南組に分れ、交互に祭儀を担当する。明治維新後、弾圧を受け、わずかに立石の二軒〈本家・分家〉によって敗戦まで祀られていた、という)
 こういう巨石信仰というものは申すまでもなく、縄文以前において「時代の信仰の花形」であった信仰形式でございます。弥生に金属が入ってきてからは、だんだん「時代の主役」ではなくなっていくわけです。ところが縄文以前には、「時代の主役」の花形の位置を持っていたのが巨石信仰である。これはもう皆様、ご存じのとおりでございます。
 ということは、この神名火山はすでに縄文期に栄えていた信仰形式であることをしめしています。弥生になって初めて、思いついて誰かが作った、というようなものではない。同じく仏経山にも、ご存じのように麓の神杜に「これはあの辺にあった御神体だ」というような、御神体の石が境内にございますね。あれもその断片だと思います。ということで、わたしはこの巨大な古代信仰圏は、縄文期から連続しているものである、という確信を持ったわけでございます。つまり、この場合に大事なこと、それは宍道湖をこの四つの神名火山は取り巻いております。宍道湖をホーリィ・レイク、つまり神聖な湖と考えた。その“神聖なる湖 ーー宍道湖を取り巻く四つの神名火山への信仰”というものが、この縄文期に淵源する古代信仰圏の姿であったと思うわけです。



黒曜石産出によって繁栄

 では、なぜ縄文時代にそれだけスケールの大きな信仰圏が成立できたか。わたしにはこの答は、一つしかない。明白であるように思われました。その答は黒曜石でございます。これは非常に硬くて黒くて美しくて、そして非常に割れやすい。その特徴を持つことによって、縄文時代においてはダイヤモンド、金・銅・鉄を合わせたような貴重な材質として珍重されたものが黒曜石であることは、皆様もご存じと思います。
 日本列島で質がよく、量の多い場所はそれほどございません。北海道の十勝地方、信州の和田峠、出雲の隠岐島、そして九州の国東半島の先にある姫島。ただし、ここは白曜石と言った方がいいでしょうね。それと佐賀県の腰岳、これだけなのです。特に、本州の中では信州の諏訪盆地と松本盆地の問にある和田峠と出雲の隠岐島が二大産地である。
 わたしは、去年出雲の隠岐島にまいりました。皆様よくご存じでしょうが、現在でも黒曜石はおびただしくございました。ある海岸では歩きましたところ、拾えども拾えども、ポケットがすぐ一杯になって・・・もっと大きな黒曜石があって、今まで拾ったものを全部捨てて大きいのを拾っていくと、またさらに大きいものがあって、またポケットから全部捨てて拾い直すという、少年時代にやったようなことを経験しました。しかもそれは非常に純黒の良質の黒曜石でございます。
 縄文時代に隠岐島では黒曜石を取って取って取り尽くした。今は残骸の島であるはずなのですが、その残骸の島がまだあれほど豊富な良質の黒曜石を蔵している。それほど隠岐島の埋蔵量は大変なものです。その黒曜石をバックにして出雲における黒曜石製品の分布、すなわち縄文文明の証拠を示すものが、資料のNo.4にあります。これは宍道正年さんがお作りになった貴重な地図でございます。A・B・C と分けてありますが、Aは隠岐島でございます。隠岐島は島前(どうぜん)、島後(どうご)と分かれておりますが、島前が「三つ子の島」です。島後は丸い方の島で、黒曜石は島後しか出ません。そこをバックにしてBの位置、これはほとんど黒曜石の製品ばかりのところです。これは当時の縄文時代においては、みんながうらやむべき豊かな大地です。それが宍道湖を取り巻く地帯です。さらには、次のCの領域を加えますと、もう少し広くなります。
 そしてあとD・Eの領域、つまり、いまの瀬戸内海周辺になりますと、非常に黒曜石が減り、サヌカイト(讃岐岩さぬきがん)の方が有力になってまいります。そういうことで、この図が示しますように縄文時代の出雲は、まさに全日本がうらやむべき繁栄の地であったわけでございます。そういう中において、先ほど申しました宍道湖を神聖なる湖とする古代信仰圏が成立した。こういうふうに、わたしは考えているわけでございます。



 

「国引き神話」の成立は縄文期

 さて、そこで皆様ご存じの「国引き神話」がございます。あの「国引き神話」というのは、わたしは縄文時代に成立した、そう考えています。これも今までのいかなる他の学者とも、わたしは見解が全く対立します。なぜ、そう考えだしたかと言いますと、これは先ほどの「国生み神話」と関係します。「国生み神話」の主役は矛と戈であった。矛と戈が主役になるのは弥生期である。だから弥生期にこの神話は作られた、こう考えましたね。
 ところが、皆さんご存じの「国引き神話」には金属器は登場しない。わずかに[金且]か何かが乙女の胸か何かの形容のようにして出てまいります。あれは現在カネヘンの字を書いておりますが、[金且](すき)は本来木製でございますので「すき」という言葉そのものは「金属製」とは限りません。後に字を当てた人が金属の[金且]を当てただけです。しかもあれは形容的な言葉に過ぎない。あの肝心の神話を動かす主たる道具は、「杭」と「綱」でございます。いずれも金属ではございません。

[金且](すき)は、金偏に且。第3水準ユニコード924F

 このように金属器の登場しない神話が、すでに金属器が華々しく登場した「弥生以後」に作られるとは思えません。その証拠に、ちゃんと弥生期に作られた神話(国生み神話)には「青銅器」(矛・戈)が出現している。また、古墳時代以後にこんな「金属器なき神話」は作りません。なぜかというと、古墳時代以後はもう鉄器が完全に時代の主役です。そんな時代に鉄器を全然無視して神話を作るなどということは、わたしには考えられません。そういう点から言いましても、津田左右吉のように「これらの神話は六世紀以降につくったお話だ」などという考え方は、わたしはそもそもおかしいと思います。六世紀はもちろん、すでに鉄器の盛んな時代です。
 そのように考えますと、金属器が一切登場しない「国引き神話」は日本列島に金属器がまだ流入しない時代に成立したということになります。そう考えれば、そこに金属器が登場しないのは、当然ですね。その時代に金属器が現われたらおかしいわけです。ですから、いまのような神話の年代学的な分析、「神話の層位学」と言いますか、“順序立て”から言いますと、「国引き神話」は縄文期に作られた、と言っていいという、怖いような答にわたしはすでに入っていたわけです。しかし、これは一つの論理的思考だけだから、怖かった。
 ところが去年、黒曜石の古代出雲文明へ問題を押し詰めていきますと、実はこの黒曜石問題からもまた、これが裏付けられたのです。と言いますのは、皆さんお気づきだと思います。あの「国引き神話」の舞台になっている場所は、あまりにも狭い。石見など全然問題にされていないでしょう。出雲だって全部入っているかどうかわからないような感じです。なぜ、あんなに狭い領域だけを問題にするのだろうかと、ご不審を抱かれた方もおられると思います。
 今ご覧になる黒曜石はBの領域、それはまさに狭いでしょう。せいぜいCの領域を入れても、狭い。それがまさに「国引き神話」の舞台なのです。あの黒曜石の時代に作られた神話なら、あの範囲だけを語れば、いいわけです。でも弥生時代になったら、当然もっと広がっていますから、あれでは石見の人も怒りますよ。古墳時代でも、もちろんです。ですから、この黒曜石問題からもまた「国引き神話」が、実は古代黒曜石文明の栄えた縄文期の成立であることを告白しております。
 そうしますと、二つの異なった方法、その結論が同じ結論を示した場合は、まずそれは真実である ーーこれは裁判でも何でも普通に使われる自明の方法です。最小限、二つの方法で神話の成立の時間帯を求めたのです。その一方は、金属器が登場しない神話だから、金属器が日木列島に入ってこない縄文期に作られたのだろうという論理と、もう一方は、黒曜石の繁栄している地域と「国引き神話」の対象とされた時代とが一致する、という全然違う論法ですが、それが同じ結論を示した。つまり、縄文期にあの神話は作られた、ということです。それならば矛盾はない、という結論を示した。ですから、わたしは「国引き神話は縄文期に成立したしということが、現在は確言できると考えているわけでございます。

3荒神谷“弥生銅剣”への仮説

「剣」ではなかった三百五十八本

 さて、次は今日の一つのメインテーマとなります三百五十八本のいわゆる「中細剣」ですが、あれは「剣ではない」というテーマに移らせていただきます。これは皆さん初めてお聞きになるでしょう。わたしは、大阪の朝日カルチャーセンターで「『倭人伝』を徹底して読む」という題の講演を、去年(一九八四)の四月からもう一年半ぐらい続けております。その中でいろいろなテーマを抜き出していったわけです。特に最近は、剣・矛・戈というものについて、『三国志』全体からその記事を抜き出した。また四書五経、『詩経』、『書経』、『礼記』というような文献からも剣・矛・戈を抜き出していく。こういう作業に取りかかっております。
 細かいことは抜きにしまして、結論を申し上げます。剣は諸公、あるいは諸王が身につけているものなのです。印象的な一つの例を申しましょう。『三国志』にこういう言葉が出てまいります。「剣履上殿」これは曹操という、魏の第一代の天子、文帝の親父さんです。その曹操が後漢の天子から「剣履上殿」を許された。これは要するに、諸公や諸王や将軍たちが天子の宮殿に来ますと、宮殿の入り口で「お腰のものをお預かりします」と取られてしまう。丸腰にされてしまうわけです。「履物もどうぞおはき替え下さい」と、内履きにはき替えさせられた。
 これは当然でしょうね。大化の改新ではありませんが、剣を持ってずかずかと天子の側へ行って「エイッ」というようなことで傷つけられたら困りますからね。だからお召物預かり係というのがちゃんといるようです。ところが曹操に対しては「あんたはよろしい。剣もつけたままで履物もはいたままで上がっていいぞ」と。天子自身はもちろんそうでしょうね。天子自身はいちいち剣を取ったり履物をはき替えたりはしないと思います。同じように曹操にも、あなたは完全に信頼できる人だから、天子なみに「剣履上殿」を許すということです。
 このあと、漢が“禅譲”という名で滅亡して魏に移るのですから、大体この話が出てきたらその王朝は終りみたいな感じなのです。次の魏の終りのときにも司馬懿(しばい)が「剣履上殿」を許された。そして今度は魏が“禅譲”という名で滅亡して西晋となった。こういう印象的な事態なんです。これから言いますと、結局、天子、諸公、諸王、将軍たちは剣を身につけているということがわかるわけです。このほかにも今の『書経』とか『詩経』などを見ていきますと、いわゆる周の制度で卿や大夫が、やはり剣を身につけていることが各所で述べられております。
 これに対して三世紀の代表的な軍隊の武器、これは矛である。軍勢を揃えることを“矛を揃える”と言いますが、この用例が『三国志』にございます。その意味では倭人伝で「卑弥呼の宮殿が矛に囲まれている」というのは、優れて三世紀的な軍隊の武器のあり方をしめしているわけです。
 ところが、これに対して意外だったのは戈ですね。これはあまり出てこない。『三国志』の中ではこういう文例で出てくるのです。「戈を逆さにして迎えた」。つまり、これは周の武王が殷の紂王に対して反乱を起こします。ところが殷の軍隊は、本当は反乱軍鎮圧すべきところですが、すでに紂王に愛想をつかしていたので、周の武王に対して、私たちはあなたたちに抵抗しませんと言って、戈をひっくり返して「戦う意志はありません」という形をして迎えた。これは周の側で書いている文献をもとにしているものですから、あまりあてにはなりませんが、そう書いてあります。
 これは元をたどりますと、四書五経の『尚書』にも同じ文面が出てまいります。ということは、殷の終り、周の初めでは戈の方が武器代表として扱われた。ですから、戈の方が古いということができる。大体、農民の鎌がもとで、それにいろいろな工夫をしてできた武器、つま農具が発達したわけです。それが代表的だったのが殷・周初の時代です。だから、この時代には「干戈(かんか)」という言葉があります。「干」がその時代の楯で、「戈」の方が武器の代表だったわけです。
 なぜ「干戈」かというと、これは今のように「干戈」が主だった時代にできた言葉だから「干戈」というわけです。これに対して周の終りの戦国期に「矛盾」という故事が出てきます。そして矛が主の時代に変っていくらしいのですが、残念ながら本日は時問の関係で譲させていただきます。

二つの重大な疑点

 さて、ここで今の話を整理いたします。つまり、剣というのは諸公や諸王や将軍、せいぜい大夫 ーー難升米が大夫だったと倭人伝に書いてありますが、そういう連中が護身用として、またシンボルとして持っていたのが剣なのです。それに対して軍勢が、もちろん全員ではありませんが、軍勢の統率者みたいな連中が持っているのが矛であり、戈である。そうしますと、いま博多湾岸に矛や戈の鋳型が集中している。矛は一〇〇パーセント近く、戈は両翼に広がりながら、やはり博多湾岸を中心に鋳型が存在している。それの実物の分布図は、北は朝鮮半島の洛東江沿いに、かなり広く分布している。「倭人」の関係でしょうね。「倭の土地」があった証拠でしょう。そして、南は四国の西半分ぐらいのところにまで分布している。これは、いいとしましょう。



 問題はその東側に中細剣・中広剣という世界があると、考古学者は言うわけです。それが、いま皆さんがお持ちの地図に出ていると思いますが、その地図のNo.5に出ておりますように、出雲から土佐までを含みまして大きなおむすびのような形に囲まれているのが中細剣・中広剣の領域なわけです。それに対してその次の平剣という、さらに幅の広い大きなものになったものが、瀬戸内海周辺の領域に狭(せば)まった。なぜ狭まったかが、また非常に面白い問題になる。ところで、この図では中細剣・中広剣というのは数が少なかった。ところが三百五十八本出てきた。実際に存在したのはその五倍、十倍、あるいはそれ以上である。これは先に申したとおりです。



 では、今後どうなるのでしょう。この地帯には東アジアでいえば何と、諸公・諸王や将軍にあたる人々が何百人、何千人いたことになりましょう。これは変だ。そう思いませんか。これは今回、わたしがぶつかった、抜き差しならない問題なのです。いや、もうすでに考古学者が前から気がついていてもよかった。なぜかと言いますと、平剣はかなり出ていますからね。あれも本当に「剣」だとすれば、諸公・諸王のもの。あの瀬戸内海領域に束アジアにおける諸公・諸王クラスの人々がずらずらといた、とはちょっと考えられない。その矛盾に考古学者もほかの古代史の学者も、誰も気がつかなかった。わたしの見たところでは「これはおかしい」と言った人はいない。わたしもその一人だったのですが、今回「これは、おかしい」と思ったわけです。
 もう一つあるのです。これは皆さんすぐおわかりのことと思います。これがどうも大国主命の「八千矛の神」「八千戈の神」という言葉と関係するのではないかということは、皆さん必ずお感じになったことと思います。「八千矛の神」「八千戈の神」などというものは戦後の古代史学者・考古学者みんな笑い飛ばしていた。「あんなの大嘘、嘘八百だよ。出雲なんて大したものは出ないじゃないか」と。しかし、今はもう笑える人は、いませんね。「あんなもの嘘だよ・・・」などと言いかけたら、途中で笑いがとまってしまうでしょう、今は。これは、うっかりお笑いになっていると顔が強(こわ)ばりましょう。わたしは昨年、三百五十八本の出た当時、この件について大阪で読者の会(市民の古代研究会)の方々とお話ししたことがあるのですが、わたしはこういうことを言いました。
 「大国主命の原産地」と言っては変ですが、彼の本拠は石見の国の方の「大国」だったのです。その「大国村」。わたしは、そこが原産地であろうと考えているのです。ちょうど須佐之男命の原産地が「須佐」であるのと同じく、地名から出発していると思うのです。そこに大国主神杜というのがあって、そこに八千矛山というのがあります。その八千矛山というのは、有名な石見銀山の玄関口です。「ここを掘ればたくさんの矛が出てくるかもしれませんよ」。わたしはそう言ったのでした。
 ところがよく考えてみると、これは「おかしい」のです。なぜかなれば、先ほどのわたしの論理からしまして、記・紀の神話は、決して近畿の後世の史官が勝手に小説作るみたいに作ったものではない。歴史上の事実を本質的に反映している。細かにいちいち反映、ではありません。枝葉末節ではなくて、歴史の節目の大きな変転を反映している、こう考えたわけです。
 そうすると「八千矛神」というのも、誰かが勝手に面白おかしく、嘘で作った名前とは考えられない。やはりそこに何らかの歴史上の実態が反映しているのではないか。おびただしい矛・戈を持った神として大国主が考えられていたということは本当ではないか。ところが、この場合、八千矛山から矛がたくさん出てきたとすると、また「おかしい」と思います。なぜかというと、今度のは「剣」です。ところが「八千剣の神」などという言葉はないのです。まさか、「剣」の方は無視して、矛の方だけをクローズアップした、というのはおかしいでしょう。「これは一体、何だ」という問題にぶつかった。これで五、六月に悩んだ。七月に入っても悩んでいた。そしてある日、思いつきました。「まてよ、この銅矛とか銅剣とかいう言葉は誰が考えたのだろう」と。
 疑問の初めは、こうなのです。いわゆる「剣」というものには金属の部分があります。それに木の柄の部分を付けるわけです。ところが木の柄の部分は三十センチ、二十センチですむとは限らないではありませんか。その柄が「長かったら」どうなるのでしょう。一メートルか、一メートル半もの柄があったら、それは「剣」でしょうか。一定の接着の仕方の場合、二、三十センチの柄は付けられるけれども、それより長い柄は付けられませんよ、ということはあり得ませんね。そうすると、柄が長かったら、それでも「剣」と言いますか。やはり「剣」とは言いませんね。それはやはり矛か何かではないでしょうか。つまり当然のことながら、いわゆる剣というのは柄が短いものです。矛や戈は長いのです。それなのに、いま出土した金属部分だけを見て、果たしてそれが何か、わかるのでしょうか。そのようなことで、わたし、頭がおかしくなってこの五、六月、悩んでいました。

剣・矛・戈の定義

 そこでふと気がついて、考古学者が剣・矛・戈とちゃんとはっきりしたように言っているが、それは一体誰が言い始めたのだろう。そう思って、思いついたのです。高橋健自(けんじ)という有名な考古学者がいたのです。上野の国立博物館の歴史課長をしたことのある方で、大正年間に青銅利器の研究をまとめた人として有名です。この人がいわゆる考古学上の銅利器研究の先達となった。京大の富岡謙蔵という人は鏡の研究で有名な人です。この人が「高橋氏の研究に、私は賛成だ」と言ったので、それが「考古学界の定説」となったことは、前から知っていました。それで高橋健自さんの論文を読んでみようと思ったわけです。大正十二年に「日本青銅文化の起原」という論文がありまして、そこにこう書いてあります。

 まず、筑紫矛から述べよう。これはその名の示すごとく、九州北部地方から数多く発見されるので、筑紫矛という名で呼ばれたものである。昔は型式の如何にかかわらず、すべて矛と見なされた。

 今、われわれが言っている剣や矛は、全部「筑紫矛」という名前で江戸時代は呼ばれていた、というわけです。続けて、

 けれども今日、われおれは研究上の便宜からこれらを二大別し、本の方が袋になって、柄を挿込むに適した型式を鉾といい、同じ本の方が普通の刀剣のように茎(なかご)になって、前者と反対にその茎が柄の方へ挿込まれるようにできているのを剣ということにしている。

 つまり、こういうことです。「これを剣と便宜上呼んでいる」ということです。そして、「こちらの方を矛ということにしておく」ということです。「こういうことに便宜上しておく」と、こうはっきり高橋さんが書いておられるのです。「実際に剣だったか、矛だったか、戈だったか知らないが、しかし名前がなかったら不便だから便宜上こう呼んでおきます」と、はっきり言っています。“仮設名称”です。
 ところが、それがそのお弟子さんたちによって剣・矛・戈と「実体化」されてしまった。怖いことですね。ですから、これがもしわたしだったら、こちらの方をA型。その I 式(従来の「剣」)と II 式(従来の「戈」)です。そしてこちらをB型(従来の「矛」)と、こう呼べばよかったのです。これなら誰にも文句ありませんね。突き出た方をA型、引っ込んだ方をB型。これなら「けしからん」と言われない。大丈夫ですね。「実際にこれが使われていたときの呼び名が何であったか、知りませんよ」と言えばよかったのです。それを便宜上、こういう名前にしたために、お弟子さんたちはみんな「実体化」してしまった。考古学者もすべて「実体化」し、博物館の説明も全部それを「実体」視して解説を書いた。
 今のように考えてみますと、これは要するに、接着方法なわけです。剣や矛や戈という言葉は、われわれは接着方法で呼んだりはしません。金属部分と木材部分とを総合した、全体名称です。こんな言い方をわざわざするのはおかしいくらいです。金属部分と木材部分を一緒にまとめてわれわれは剣と呼んだり、矛と呼んだり、戈と呼んだりしている。
 どう接着しているかを見てみて、「あっ、剣だ」「あっ、矛だ」などと言いますか。言ってはいません。柄が短いのは、どんな接着方法であっても剣であって、矛や戈とは言わない。また、柄が長いのは、これはやはり矛か戈であって、どんな接着方法をしても剣とは言わない。日本の考古学では木材の方が大抵腐って出てきませんので、一応はやむを得ないかもしれない。だから接着方法で分類したこと自体はいいとしても、これにこんな、具体的な、見てきたような名前を与えたことが、わたしは大きな誤りだったと思うのです。
 そうしますと、今わかることは、東アジアの常識でこの出雲や瀬戸内海領域が諸公や諸王だらけであったというような、こんな考えを誰が押し通せるか。「日本の考古学」の名において押し通せるか。わたしはできないと思います。また『古事記』では「八千矛の神」と書いてある。ところが『日本書紀』では「八千戈の神」と書いてある。だから、矛ないし戈をたくさん持っていた神様であると言っている。それが後世の想像による「作り物」だとはわたしには思えない。
 ということは、この間出てきた三百五十八本は木の柄に付けるものである。こう槍のように直線的に付ければ矛になるし、これを直角に付けて縄でつなげば戈になる。つまり「八千矛の神」「八千戈の神」に関連する証拠になる ーーーということが、わたしがこういうところで初めて申し上げるテーマなのです。ここではっきり明言させていただきます。もちろん仮説ですが、わたしはこの仮説の方が筋の通った仮説であって、高橋健自の便宜上つけた、それこそ「仮説」を、「絶対」として疑わなかった考古学者たちは、大きな誤りを犯していたのではないかと思うわけでございます。

四隅突出墳丘墓が語るもの

 さて、ここで大事な問題が二つ残っております。まず、四隅突出古墳 ーー四隅突出方墳とも呼ばれます。さらに最近は、それは弥生時代の後期に当るということで、「四隅突出墳丘墓」こういう名前で呼ばれるものがあることはご存じのとおりであります。
 これはもう(黒板に)書くまでもなく皆さんご存じですが、四隅に祭壇というか、祭式土器などの土器を置いたような場所がある。この型式の墓は出雲(中国山脈あたりを含む)が分布の中心であって、周辺に伝播したらしい。ところが、なぜこのような風変わりな墓が作られたかについての説明は、今のところ考古学者からも古代史学者からも出されていないように思います。しかし、今日のわたしのお話をお聞きいただいていれば、その想像はつくのではないでしょうか。
 つまり、宍道湖を神聖な湖として、それを取り巻く四つの神名火山がある。まさに宍道湖の四隅に神聖なる祭の場がある。これがいわゆる縄文から弥生に至る出雲における巨大な誇り高き信仰圏である。そして、弥生の後期になって四隅突出墳丘墓が築かれた。これを自然の信仰形式の発展と考えた。これも仮説ですが、それをバーッと切ってしまって「無関係ですよ」という仮説よりも、そこには自然の流れがある。
 信仰というのは、ある人がパッと「私が思いついた。これから四隅にしますよ」などと、そんな形で成立するものとは、わたしは思いません。そんなことしたって誰もついてこない。いかに権力者だって、それほど信仰を左右する力はないと思うのです。やはり、その地帯に存在する信仰の形式を襲うてこそ、権力者は自分の支配を保ち得る。主たるものは、その土地の民衆の信仰の形式である。
 一見表に立っているかに見える権力者は、実は信仰への忠実なる従属者であることによって、権威を保ち得る。わたしはこの道理を疑いません。そうすると、いまの四つの神名火山とこの四隅突出墳丘墓との間には関係ありと、こう見なす方が自然ではないでしょうか。
 さらに、先ほど申しました「国引き神話」は、あれは何と四つのところから国を引っ張ってきたわけですね。新羅の三埼(みさき)から一つ、北門(きたど)の佐伎(さき)の国で二つ、第三番目が同じく北門の良波(よなみ)の国で、第四番目がいわゆる越(こし)の都都(つつ)の三埼という四カ所から引っ張ってきた。これもやはり無関係ではないのではないかという感じがいたします。
 このように、四隅突出填丘墓というのは、「国引き神話」の上にも、その姿を現わしているような、出雲等の古い信仰系列の中に存在すると見る方が自然であるということを、これも今日初めて皆さんの前で明言させていただきます。
 

日本海こそ世界だった

 最後に、この「国引き神話」ですが、わたしは非常に長らく疑問、不満でございました。と言いますのは、岩波の『日本古典文学大系」の注で見ましても、いまの新羅はよろしい。越もよろしい。越がいわゆる、能登半島あたりかということですが、越前・越中・越後のあの土地であることは疑いはないでしょう。問題は第二回目と第三回目の北門 ーーホクモンと書いてある。佐伎の国というのは大杜町の北の日本海沿岸に鷺浜とある、その辺だろうということです。そして、また第三回目の良波という、この「良」を直してしまう。これを「農」の間違いだろう、というふうに直して「ぬなみ」と読んでいる。今の佐太神杜の北の方にある「野波」に合せた。これは例によって例の如くです。邪馬一国と邪馬台国みたいに、天皇家の大和に合わせるために、邪馬一国を邪馬台国と直して大和と呼んだ、あれと同じやり方をここでもやっている。こういうやり方はいけません。アンフェアである。
 さて問題は、従来の鷺浜や野波から考えているあのようなところが「北門」であったら、あれは出雲の中でしょう。ところが第一回の新羅、第四回の越、これはいずれも明らかに出雲の国ではないのです。ところが第二回と第三回だけが出雲の国の中だったら、タコの足食いです。全然、出雲は大きくならない。それでわたし、困ったわけです。
 大阪(他に東京・博多)でわたしの読者の会というものがあります。これは読者の方々が本当に“自分勝手に”お作りになって、定期的にわたしは講演に呼んでいただいているのですが、その中で清水裕行さんという若い神戸大学の理学部ご出身の方ですが、その方が論文を書かれまして、今と同じような不満から、あれを隠岐島の島前と島後に二つの北門の国を当てられたのです(『市民の古代』第3集、一九八一年刊)。しかし、それもわたしは不満です。なぜかと言いますと、隠岐島はやはり昔から出雲の国です。隠岐島が出雲の国以外の国に属したことはない。しかもこれは足どころではない。先ほど言ったように黒曜石の聖地で心臓部ですから、タコの足食いではなくタコの心臓食いになってしまう。(笑)死んでしまいますよ。だからこれもだめだ。
 論理的に考えれば、わたしは答は明らかであると思った。つまり第一回の例、第四回の例から見れば、これは出雲国以外から取って来ているのである。そして出雲から見て北に位置することは明らかである。とすれば、地図を開くまでもなく答は明らかである。ソ連領・北朝鮮領これしかありません。まさに、その中でも特に中心はウラジオストック。あれは昔もいまも良港、いい港です。わたしは「良波」の「良」はその意味が「良い」か何か知りませんが、ナミという「ナ」は港のことを言っている。「ミ」というのは海です。だから港のある海。つまり、港を持った湾岸です。これが「ナミ」だと思うのです。まさに、今の「野波」はそういう場所です。そうすると、あちらの北の方で港を持った湾岸といったら、ウラジオストックが一番ですね。「良波」というのはもちろん、日本語ですよ。新羅の三埼だって ーー岬は日本語ですーー 新羅側は新羅語で言っているでしょうけれども、出雲の人々は日本語で呼んでいるわけです。
 もう一つは第二回目の佐伎の国の方ですが、これはわたしは北朝鮮の東岸だと思います。地図でご覧下さい。いい岬があります。一番大きな岬がムスタン岬、他にも幾つかありますが、あそこはまさに、ウラジオストックの湾入部に較べると、突き出た岬の国という感じです。わたしの考えでは、出雲の海上の民がこの神話を作ったと思います。なぜかと言いますと、あの引っ張り寄せ方は、船を引っ張るときの引っ張り方ですね。杭に綱をつけて引っ張る。あのような海の漁民の労働のやり方に立って神話を作るのは、海の民である、漁民であると思うのです。
 出雲の漁民で日本海を知らない漁民はいないとわたしは思う。関東を知らなくても、出雲の漁民はつとまります。中国も北京や上海には行ったことがなくても、つとまります。しかし、日本海(ことにその西半分)を隅々まで知らないと出雲で漁民はつとまらない。わたしはそう思うのです。わたしの先祖は土佐の漁民だったらしいのですが、そう思います。
 これは皆さんには釈迦に説法ですが、出雲で沖合に魚取りに出て行って、あれよあれよという間にかなり流されてソ連領へ着く。北朝鮮へ着く。これはもう日常茶飯事です。着くまいと思って頑張っても着かざるを得ない、ということなのです。まして、今と違って国境はないのですから・・・。それで死んでしまって一生帰って来れない、という者もいたでしょう。また、何年かたって帰ってきた漁民もいたでしょう。
 日本海の隅々を知らずにすまし得るような、“幸せな”漁民というのはいないと思うのです。彼らの生活の知識、言い換えれば、出雲の漁民にとって、日本海こそ世界である。出雲の周辺である。だから、その日本海という世界を舞台にして、この「国引き神話」は作られたと考えるのは、わたしは大変自然だと思う。
 なお一言申し上げますと、この場合、語り手としては無人の陸地を引っ張ったか、人問のいる陸地を引っ張ったと考えているか。わたしは恐らく人問の乗った陸地を引っ張ったと考えていると思う。各地から出雲まで行けるわけですから。と言いますことは、これは右の各地と出雲との人的・文明的交流という、悠遠な歴史事実が背景になってこの神話は作られている、ということになります。
 新羅と出雲とに交流があったことを疑う人はいませんね。越との問も、そうです。同じ「交流を背景とした」例が、四つのうちすでに二つ認められているのです。とすれば、他の二つもそうです。いまの沿海州、あるいは北朝鮮。出雲とこの領域との人的・文明的交流は非常に遠く深く存在していたと、わたしは思うのです。そちらの資料や考古学的出土物はわれわれまだよく知りませんのでわかりませんが、これが将来わかるようになってきたら、その交流の深さにわたしたちは驚くでしょう。当然のことですが、わたしはそう思います。わたしにとってこれは前の週に発見して、長年のもやもやが解けたと思った件なのです。しかし、わたしが思うに、出雲の郷土史の方やこういうことに関心のある方は、大変平凡なこんな考え方は、すでに早くのべておられる方もいらっしゃるのではないか。ですから、皆さんに「この話はもうこの人が前にこう書いていますよ」ということがきっとあると思いますので、それをお知らせいただきたいというお願いを含めまして、今日の講演を終らせていただきます。
 お話をお聞きいただきまして有難うございました。今後とも出雲横田町のことを、これを機会にご縁としまして、お教えいただきますようにお願いして話を終らせていただきます。有難うございました。


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