これらの歌は大和で

天皇家に奉られた歌

ではない

案内

1、英文解説

2 二百三十五歌
見失われていた佐賀県

3 二百三十五歌
 二百四十一歌

4、皇(王)は神にしませば
正木裕 解説

5、 二百四十四歌
み吉野の三船の山に立つ雲の

DVD「701 
人麻呂の歌に隠された九州王朝
の解説

 

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古田武彦 YouTube講演大王は神にし座せば雨雲の雷の上に廬せるかも


古田武彦講演会   二〇〇〇年十一月十二日

於:佐賀市立図書館

見失われていた佐賀県

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この種の問題に最初に手を付けました問題の歌がございます。
岩波古典大系に準拠
『万葉集』二百三十五番
天皇、雷岳(いかずちのおか)に御遊(いでま)しし時、 柿本朝臣人麿の作る歌一首
皇者 神二四座者 天雲之 雷之上[入sita小]廬為流鴨
皇は 神にし ませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも
すめろぎは かみに しませば あまぐもの いかずちの うえに いほら せるかも

 この歌は非常に有名な歌でありまして、とくに私のように戦前(第二次世界大戦前)を経験した、青春というか少年・青年時代を経験した人間には大変有名な歌でして、教育の場でもたえず教えられていた歌です。読めばお分かりのように、わが国の基本精神は、極端に言えばこの歌にある。天皇を神と見る。これが日本精神である。教育の場で話すのには一番分かりやすかったのでしょう。そのような話を私どもはさんざん聞かされた。後で気が付いたのですが有名な明治憲法の第三条「天皇は神聖にして冒すべからず」。この第三条に対して明治の人が付けた注釈、たとえば岩波文庫『憲法義解』(伊藤博文著、宮沢俊義校注)に説明として、この歌が載っている。多分そのことを先生方は知っていて、先生が生徒に第三条の説明をするときに、「天皇は神聖にして冒すべからず」では、なじみにくい。しかし『万葉集』に柿本人麻呂という絶世の大歌人が、天皇を「大王は 神にし 座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも」と讃えている。その説明が一番分かりやすい。だから良く使われたのではないか。

 しかしちょっと待てよ。そう考えたのは大和明日香近辺に行きだしてからです。ご存じのように、飛鳥池などは新聞にいつも出てきますから、よく行きました。もちろんそれ以前にも古代史の関係で行ってはいましたが。黒塚の鏡が展示された時、大和明日香の雷丘(いかずちのおか)へ行きました。そこには教育委員会が立てた看板があり、ここで人麻呂が天武をほめたたえ歌った。そう書いてあります。(天皇は天武の説の他、持統説、文武説もある。) しかし、えっと思いました。私は雷丘を知らないうちは、すごい鬱蒼たる山岳で荘厳なところだと思っておりました。しかし行って見れば何のことはない。私の背の二倍ぐらいの高さの丘である。三倍はないでしょう。そのぐらいの高さの丘です。私のように年をとっていても、上がるのに五分はかからない。若い人なら二分ぐらいで上がれる。そんなところに上がったからと言って、天皇は神である証拠である。そんな馬鹿な話はない。またそこに庵(いおり)を作って居られる。そこに亭(休憩所)ぐらいは作ったこともあるかもしれませんが。そこに亭を作ったからといって、庵(いおり)を作ったと言われて喜ぶ天皇は居るのでしょうか。そこに座っているからと言って、天皇は生神様である証拠であると言われてニコニコ喜んでいる天皇や、とぼけた天皇は居るのでしょうか。それに天武・持統・天智等の天皇が作った歌がありますが、それを見ましてもそんなセンスの悪い人物には見えない。正直なところ私はガッカリした。少年時代から聞かされていた歌にしては、本当におそまつなところだ。

 私には重大な宿題があった。歴史学を専攻をする私にはこの歌に関して、より重大な問題がありました。それは『日本書紀』、終わりの方に天武・持統記がありますが、どこを見ても「柿本人麻呂」が出てこない。柿本人麻呂が、まったく出現しない。これは有名なことですからご存じでしょう。ですから学者の中には『日本書紀』の中には「柿本さる」という人が出ている。この人が、実は人麻呂なのだ。これが人麻呂の後の姿だ。人麻呂が天皇家の方と、何か不都合なことやけしからんことがあって、「人」ではなく「さる」だ。「柿本さる(獣偏に爰)」と改名させたのだ。そう言われる方がいる。しかし学問の目というか、人間の理性と言い換えても良いですが、それは成り立つ話ではない。なぜなら柿本人麻呂を「柿本さる」と改名させた。そういうことが分かっているなら『日本書紀』にそう書けばよい。人麻呂はけしからんことがあって改名させました。そんなことを改名させた方が、書かないと言う遠慮深い権力者は私は見たことがない。そんな遠慮するぐらいなら改名させる必要はない。改名させたら、そのように書けばよい。これは、なにも考える必要のない常識論でしょう。何も不思議はない。ですから改名させたという議論は苦し紛れの議論であり、私は受け入れられない。ですから人麻呂は結局『日本書紀』には出てこない。

 しかし『万葉集』には、やたらに出てくる。『万葉集』には出てこないと言う人はいない。質も良いですが量においても最大の歌人であることは疑いない。それが、天武・持統の息子・孫の歌をたくさん作っている。あれだけ作っていて天武・持統の孫段階、元明・元正の時につくられた『古事記』・『日本書紀』に、まったく姿を見せないというのは大きな疑問だ。これを論じなくて『日本書紀』・『万葉集』を論じる人の態度は問題である。これは何か。何かあるぞ。これは歴史学を論ずる人間の根本の疑問だ。そこへ持ってきて現地に行けば、あのような小さな丘だ。飛鳥池の近くの丘ですから、そこに上がって休憩しても何の不思議もない。また休憩所を作って休むぐらいはあったかもしれない。しかしそこで休憩したからと言って、天皇は生神様である証拠である。現人神である証拠である。これが事実なら、人麻呂は権力者にうそを付いて、見下げた歌人だ。素晴らしい歌人であるとはどうしても思えなかった。そんなことをあまり言わなかったけれども、心ではそう思わざるを得なかった。

 ところが私はしばしば九州を訪れましたが、筑紫・雷山に千如寺というお寺があるのはご存じの通りです。このお寺には私は非常に注目していました。その件に付いて触れて発言させていただきます。それはこの寺の開祖、法持聖清賀上人。法持聖清賀というのは、おそらく古田武彦というような苗字と名前であると思います。法持聖清賀上人、この人開祖である。インドから直接来ましたのは二世紀の後半。青年時代に仏教を伝えようとして直接来ましたという。これは非常に素晴らしいことであると思う。
 なぜなら普通の教科書では、仏教伝来は百済から聖明王が教典をもたらした。これが仏教の始まりである。そのように理解されている。しかし私はこの事件は、大した事件のように思えない。なぜならこの事件は結局隣国の国王が、国交の道具に、外交手段として仏教を利用したに過ぎない。悪いとは言いませんが。しかしこれが本当の仏教伝播なら、お釈迦さんは否定しなければならない。釈迦の精神とは違う。釈迦は王家の息子である。長男、やがて皇太子。待っていればやがて国王になれる。小国といえども一国の国王になれる。奥さんも子供さんも居た。しかし彼はなやみ始めたわけですよ。このまま行ったら、ちゃんとした国王になって皆から尊敬され快適な毎日が待っているだろう。しかし俺の一生はこのままで良いのか。このように考えるところが素晴らしいところです。悩んだ結果、全てを棄てて肩書きのない一人の人間に帰って、そこから再出発しようと決心した。それが出家です。考えたら国王が出家するなど、とんでもないことです。棄てられた奥さんや子供から見れば、たまったものではない。王家の間では醜聞(スキャンダル)以外の何物でもない。見え透いている。しかし見え透いていながら、彼は敢然とこのスキャンダルである出家を実行した。この決意のすさまじさが、いかに時間を離れていても伝わってくる。そこで新しい道を切り開いていった。そこが素晴らしい。
 もし王家から仏教を伝えること。外交手段が仏教伝播と言うなら。それで済むなら釈迦は、何もせずに国王に成れた。国王に成って仏教を伝えればよい。言うならば高尚なことを書いて送ればよい。何も出家する必要はなかった。ですから私どもが理解する本来の仏教とは違う。言葉は悪いですが、「えせ仏教」というか、外交の手段としての偽仏教。ですから百済からの仏教伝来という事件は、本来の仏教とは違う事件である。外交としての手段の宗教にすぎない。
 ところが二世紀後半、清賀という青年ですが、インドから中国経由でなく直接博多湾にきて上陸した。その清賀という青年が倭国に来た五十年前、中国に仏教が伝えられ、洛陽に白馬寺というお寺が出来ていました。その白馬寺というお寺が出来たというニュースがインドの祇園精舎に伝えられて、インドの青年は感激したと思う。その中の青年の一人だと思いますが、この話を聞いて今度は救済に倭国へ行こうと考えた青年がいても不思議ではない。もしインドから中国を経由せず直接倭国博多湾に来ても不思議でもない。それで九州・雷山に上陸し、お寺を建てた。そして仏教を広めた。別に大きなお寺ではなく、小さな祠のようなものだと思いますが。この人は私にとっては、これこそ青年です。青年という言葉は、青年が貧弱になって今はあまり見かけません。同じく若くして処刑されたイエスも大好きな青年です。

 それで話を引き返しますが、その雷山(らいさん)に行きました。調べてみますと、雷山には上宮・中宮・下宮とありまして、その上宮を「天の宮(あまのみや)」、中宮を「雲の宮(くものみや)」と言います。中宮には雷神社があります。
これも、この歌では問題となります。だってそうでしょう。この歌では「雨雲之」と歌っています。大和明日香の雷丘では、低すぎて雲がかからない。高さ五、六メートルの丘にどうやって雨雲がかかるのか。曇れば雲はかかることはあるかもしれないが、それを「雨雲之」と言うでしょうか。まったくふさわしくない。
 ところが筑紫・雷山はたいがいは雲がかかっている。雷山へは私も何回か行きましたが、晴れていたのは一回切りで、後はほぼ雲がかかっていた。また晴れていたと思ったら雲がかかってきた。そういう状況です。ですから天の宮・雲の宮をかけて「天雲之」の文言は非常にふさわしい。
 それでこの歌は、大和で作られた歌ではなくて、雷山(らいさん)で作られた歌である。そう考えてきた経緯(いきさつ)は他にもいろいろありますが、今は結論だけ話させていただきます。

 そして、この問題は重大な問題を含んでいる。この場合『万葉集』のこの歌自身がふさわしいのは、断じてちんけな大和の雷丘(いかずちのおか)ではなくて九州背振山脈の雷山(らいさん)である。私はこれは動かし難いと思う。だから人麻呂が本当に雷山で作った歌。そうなりますと『万葉集』の前書きは、ちょっと信用できない。この歌を作った場所から見ましても、この歌は天武・持統段階の天皇という感じで受け取っている。ところが天武・持統と関係ないよ。九州雷山(らいさん)である。そのような話に成っていく。
 しかも雷山(らいさん)に、天神七社、地神五社が祭られている。ところが『古事記』・『日本書紀』にはない。『古事記』・『日本書紀』の天神には最初にニニギノミコトが入っていますが、天神七社、地神五社が雷山に祭られているという話は『古事記』・『日本書紀』のどこを見ても書いていない。しかし人麻呂は雷山で作っている。
 私は、「大君は おおきみは」と読んでいますが、これは「皇者 スメロギは」はと呼ぶ方がよいと考えます。字は「皇(スメロギ)」です。その「皇 スメロギ」として祭られているのは天神七社、地神五社です。この天神七社・地神五社が雷山に祭られているという話は『太宰管内誌』や現地の説明にもありますが、『古事記』・『日本書紀』にはない。つまり人麻呂の神々に対する教養は『古事記』・『日本書紀』ではない。それとは別世界の教養、現地・九州の教養を持っていて、それでこの歌を作っている。それで人麻呂は九州の人間ではなかろうか。この歌を初め検討したときはそこまで考えなかったけれども、矢印・方向はそれを指し示していた。『古事記』・『日本書紀』にも出てこないということも、この問題を指し示していた。これは響き合うものを持っていた。

 大事なことを言い忘れましたが「皇(すめろぎ)は 神にし 座せば 皇者 神二四座者」の意味は、皇(スメロギ)は社(やしろ)に祭られている。この場合は「皇(スメロギ)」というのは、ニニギノミコト以下、九州王朝代々の王者・権力者がそこで祭られている。祭られているということは、死んで祭られている。生きているときは君主・権力者。人間は死んだら神様になる。神道(しんとう)では、だいたいそうである。生きているときには、競輪や競馬にばかり通っていたおやじさんも、亡くなれば神道に属していれば「○○○○命」として祭られる。死ねば神様になる。これが日本人のメンタリティ。死んだら神様になって祭られますが、社(やしろ)に祭られている。その社(やしろ)に祭られていることを、庵(いおり)をしているように見えると形容した。なぜか。そこがキーポイント。当然この歌は、白村江の戦い以後。白村江の戦いは『日本書紀』によれば六百六十三年、『旧唐書』によれば六百六十二年にあった。その戦い以後。当然というか唐の占領軍が倭国の首都太宰府近辺に乗り込んで来て、筑紫はぐちゃぐちゃの状態。それが幸いというか不幸というか、私にはよく理解できる。なぜなら私の青年時代、日本が第二次世界大戦で敗北してマッカーサーを先頭にしてアメリカ軍が東京に乗り込んできて、東京がぐちゃぐちゃになっているところを通って、広島から仙台に行った。そういう光景はよく知っている。
 あのような状態が(筑紫にも)来た。庵もくそもなく、白村江の戦いでおびただしい倭国の軍勢が死んだり捕虜になっていた。君主の薩夜麻(さちやま)も捕虜になっていた。ですから筑紫やその周り佐賀や熊本あたりまで含んで、戦いに出ていって帰ってこない旦那さんや息子さんを待っている人々や、食べる物が手に入らなくて苦しんでいる人もいっぱい居た。だから人々の家は、庵の形を成していなかった。そこを通ってとうぜん雷山(らいさん)に行った。だから民の庵は荒れ果ててしまった。しかし、この歌の皇(スメロギ)は、しかしあなた方は幸いというか死んで神様になって居られるから、社(やしろ)を庵(いおり)として安泰に鎮座して居られる。しかし民の庵は荒れ果てています。さらに少し突っ込んで言うと、これは誰が悪いのか。指導者が悪い。皇(スメロギ)というニニギノミコト以下代々の九州王朝の君主、あなたがたが生きているときは良かった。もちろんピンチがあったでしょうがそれなりに切り抜けてきました。しかし現在の指導者は道を誤ったために、民衆はこんなに苦しんでいます。まさに凄い歌です。

 この歌を大和で理解するとちんけな歌と成ります。オベンチャラも大概にしろ。そのような理解となる。しかし筑紫で理解すればゲーテの作った詩にも勝るとも劣らない詩である。私は青年時代ゲーテが大好きで、そのためにだけドイツ語を勉強したような生意気な少年・青年でしたが、ゲーテの詩の中にも、これだけの詩を見たことがない。まさに世界的大詩人だと思います。その中には民衆の悲しみや道を誤った権力者の風刺というか、そんなうすっぺらな表現ではなくて、まさにやりきれない気持ちを表現しています。考えてみれば戦後これに匹敵する歌は出ましたかね。私は戦後詩を良く読んだわけではないですが、これだけの歌や詩を作った人は出ましたかね。私はまだ出ていないように思いますが。民衆の苦しみを表現しながら、権力者への痛烈な批評を含んだ詩や歌を。このような歌が出なければ私はダメだと思う。後世の人には分からない。私の見方が狭ければ幸いですが。私は人麻呂のようなこれだけの詩人をまだ見たことがない。

 そして大和で歌ったという大和一元の理解と九州・雷山で歌ったという理解とは、歌の理解に天と地との開きがある。まったく違う歌になってしまった。私はやはりその歌自身を歌を作った環境を徹底して理解してなければならないと考える。そのような目で捕らえると、すばらしい歌である。

 


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