2010年10月8日

古田史学会報

100号

1,忘れられた真実
一〇〇号記念に寄せて
 古田武彦

2,禅譲・放伐
論争シンポジウム

3,地名研究
 と古田史学
 古賀達也

4,古代の大動脈・
太宰府道を歩く
 岩永芳明

5,「禅譲・放伐」論考
 正木裕

6,長屋王のタタリ
 水野孝夫

7,越智国にあった
「紫宸殿」地名の考察
 合田洋一

8,漢音と呉音
 内倉武久

9,新羅本紀
「阿麻來服」と
倭天皇天智帝
 西井健一郎

 

 

 

 

古田史学会報一覧

越智国に紫宸(震)殿が存在した! 今井久(会報98号)

「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 『松前史談』第29号(会報98号)

 

続・越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 合田洋一(会報111号)

越智国おちのくににあった「紫宸殿ししんでん」地名の考察 合田洋一(会報100号) ../kaiho100/kai10007.html


越智国おちのくににあった「紫宸殿ししんでん」地名の考察

松山市 合田洋一

     序

 紫宸殿という畏れ多い地名が愛媛県西条市壬生川にゅうがわの明里川あけりがわに在った(古代の越智国の領域。明治二二年の「地積登記台帳で確認。壬生川町時代に「地名遺跡」として登録。未だ発掘調査されていない。なお、古田史学の会・今井久氏はこの地名発見の論稿を『古田史学会報』No.98で発表 している)。そこは、「永納山古代山城」に守られた豊穣の地にあり、地積台帳にある紫宸殿は縦三四〇メートル・横二二〇メートルで面積は七四八〇〇平方メートルの長方形である(西条市東予支所農業委員会・中路忠信氏測量)。 今、これについて考察を試みるのであるが、考古学上の物証はまだ何も発見されていない状況下での地名考察だけによる論稿であることを、予めお許し戴きたい。そのうちに必ずや何がしかの「遺構・遺物」が出土するであろうことを期待して・・・。

 

一、 越智国の「紫宸殿」はいつ造営されたか

(一)「紫宸殿」名称がわが国へもたらされたのはいつか

 “いつわが国へ”が判明すればおのずと壬生川の紫宸殿造営の時期も論証できるのではないかと考えた。
 先ず、このような地名はその地方の人間が勝手に付けられるものではなく、またそこに紫宸殿がなければ付けられる筈もない。しかも、大宝元年(七〇一)以降の大和朝廷になってからは、天皇がそこに居るならともかく、天皇が居ない所でのそのような命名はあり得ないのではなかろうか。そうなると、この地での命名の時期は限られてくる。
 ところで、紫宸殿の名称は唐の「皇帝の宮殿」として名付けられたのが始まりと言われている。その紫宸殿の初見は『旧唐書』高宗の龍朔三年(六六二)という(古田史学の会・山田裕氏にご教示を戴いた)。しかしながら、この施設の最初の造営時期は不明のようである。これに関して、中国の文献に大変な学識をお持ちの安藤哲朗氏(多元の会・会長)に以下のようなご教示を戴いた。

 『梁書』の用例として、「宸極不可久曠、民神不可乏主」(武帝中)、「紫宸曠位、赤縣無主」(元帝、王僧弁上表)、「宸極不可以久曠」(元帝陳への禅譲)などで、現存している建物というより、天子の所在に対する理念的な表現と考えた方が適切だという結論になりました。天子の位を「紫宸」と表現する習慣は以前からあったようで、ことにこの場合、「天子の位」が危殆に瀕したときに使っているので、そう考えざるを得ないことになります。諸橋漢和では「紫宸殿」は『唐会要』と『水径注・穀水』を引いて、龍朔三年または開元五年としていますが、「この時にできた」と断定できる書き方ではありません。『大唐六典』を見ますと、「龍朔二年に高宗が大明宮を作った」として、その一群の建物の中に、紫宸殿が含まれている、という書き方をしています。それが短期間に全部完成したとは考え難いのですが、それ以上詳しい情報はありません。

 ここに、安藤哲朗氏・山田裕氏のご教示に対して、深甚の謝意を表したい。
 これによると中国では「紫宸」の言葉は古くから有るらしいが、肝心の「紫宸殿」がいつ造営されたのかは解らないようである。そして、この名称がわが国へもたらされた時期もまた不明なのである。
 そのような中で、取り敢えずの作業仮説ではあるが、ここ越智国の「紫宸殿」の造営時期とその主人公について以下に論述する。
 なお、わが国で「紫宸殿」地名及び建物が遺存している所は、これまでのところ九州王朝時代の太宰府(福岡県)と大和朝廷の平安京(京都府)のみである。(二)「副都の詔」による「紫宸殿」の考察 古賀達也氏(古田史学の会・編集長)は、越智国の「紫宸殿」について次のように述べている。
 『日本書紀』天武一二年(六八三)一二月一七日の条 -- 「副都の詔」(都を二・三箇所造れ)の記述から、この地に紫宸殿があっても不思議はない。その際、この当時の『日本書紀』の記事は、「三四年のずれ」(正木裕氏説)を考えなければならないので、そうなると「副都の詔」の実年は六八三マイナス三四の六四九年となる」(平成二二年七月三日松山市での講演)。
 私はこの「三四年ずれ説」を支持するので、「副都の詔」は六四九年としてこれを基軸に論証することにした。
 また、太宰府にあった紫宸殿の造営時期と副都と考えられる「前期難波宮」についても、古賀氏より次のご教示を戴いた。

 「太宰府政庁2期跡」の造営年代は、考古学上の検証並びに『二中歴』の記述から考察すると、「白村江の戦い」(六六二年)以後である。但し、「紫宸殿」の命名時期は不明である。それに対して九州王朝の副都であった「前期難波宮(大阪)」の造営時期は、考古学上の見地と『日本書紀』の記述から太宰府よりも早く六五二年であり、そしてここには「紫門」(『日本書紀』白雉元年二月条)があったので天子の宮殿を「紫宸殿」と呼んでいた可能性もある。

 と。

(三)論証に関連する項目

 ここで、関連する事項を時系列で追うと、次のようになる。
(1) 法王大王・多利思北孤の伊予行幸 ーー 法興六年(五九六)~『伊予国風土記』「温湯碑」
(2) 遣隋使六〇〇年・六〇七年~『隋書』「イ妥国伝」
(3) 隋使・裴世清が多利思北孤に謁見 ーー 六〇八年~『隋書』「イ妥国伝」
(4) 唐建国 ーー 高祖・李淵~六一八年。全土統一~六二一年。
(5) 上宮法皇・多利思北孤 崩御 ーー 法興元三一年(六二二年二月二二日)~法隆寺の釈迦三尊像後背銘
(6) 第一回遣唐使・犬上御田鍬 ーー 六三〇年~『日本書紀』
(7) 唐使・高表仁来日 ーー 六三二年~『日本書紀』
(8) 舒明天皇伊予行幸 ーー 六四〇年一二月~六四一年四月~『日本書紀』
(9) 「副都の詔」 ーー 六四九年(正木説)
(10) 斉明天皇治世 ーー 六五五~六六一年~『日本書紀』
(11) 斉明天皇七年正月「伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ」 ーー 六六一年~『日本書紀』
(12) 「白村江の戦い」 ーー 六六二年(『旧唐書』『三国史記』)
(13) 九州王朝消滅・大和朝廷成立 ーー 大宝元年(七〇一)

(四)造営年代の総括

 そこで、「紫宸殿」の名称がわが国へもたらされたのは“いつか”を類推すると、最初の造営年代は不明であるので明確ではないが、唐の高祖・李淵が全土を統一した六二一年頃を上限として、下限は六六二年の「白村江の戦い」におけるわが国の敗戦(これ以後、唐・新羅の進駐軍が博多湾岸に都合数千人で九年間に六度来倭 ーー 『日本書紀』)までの間と考えたい。
 一方、太宰府の「紫宸殿」の造営時期に関しては、「太宰府政庁2期跡」の考察と中国での「紫宸殿」の初見記事(六六二年)と相まって、「白村江の戦い」から九州王朝の終焉に到る年代を比定する考え方もあると思う。
 しかしながら、右の考え方を許容して、越智国の「紫宸殿」もこの九州王朝末期時代に造られたとなると、誰のための宮殿なのか全く解らない。つまり、該当する人物が見当たらないのである。そして、わが国は完膚無きまでの敗戦であり、越智国国主・越智守興も唐の捕虜となっており、越智国の多くの将兵も海の藻屑と消え去って、財力・労力ともに尽き果てている状況下、しかもわが国の政情が混乱を極め風雲急を告げているこの時期に、一体このような宮殿を造ることができるのかどうか。
 更に思うことは、太宰府の「紫宸殿」においても同じではなかろうか、と。つまり、六七二年まで唐・新羅の進駐軍が居たその目前でこのような造営・命名ができるはずはない、と思うからである。これは、『日本書紀』の「白村江の戦い」前後に「神籠石城こうごいしじょう」「朝鮮式古代山城」「水城みずき」などを築いたとする記述に対して、この時期ではあり得ないとする考え方と同じである。
 そこで、全くの仮説ではあるが、太宰府の「紫宸殿」の造営時期は、進駐軍が去った六七二年から王朝落日の少し前までの間ならば可能性があるとの考えに至ったのである。
 そうなると、一連の「紫宸殿」の命名時期は、「前期難波宮」にもし「紫宸殿」があったとするならば、そこが一番早かったと思われる(六五二年)。次いで、「副都の詔」から六六二年の「白村江の戦い」までの間の越智国と考えたい。そして、最後は六七二年以降の進駐軍から解放された太宰府となる。
 当初私はこの考察をするに当たって、九州王朝の首都であった太宰府の「紫宸殿」の造営が最も古く、越智国の場合はその後であると考えていた。ところが、「太宰府政庁2期跡」の考古学上の見地から、これは違っていた。何分にも考古学上の検証が優先されるので、越智国の紫宸殿もまた発掘調査によって変わる可能性があることを付言しておきたい。

 

(五)「紫宸殿」が同時代に二ヵ所あることへの妥当性

 このような考察の中で、古田武彦先生から「太宰府と越智国に同時代のもので紫宸殿が二つあることが妥当なのか検証しなければならない」とご教示を戴いた。 確かに、「紫宸殿」「大極殿」「内裏」などは天皇家にとっては特別な施設であるので、普通に考えるなら同時に二ヵ所在るのはおかしいと思われる。ところが、律令時代に土佐国の国府を「内裏」と言っていたらしい(古賀達也氏にご教示を戴いた)。これについて調べたところ、南国市の旧・比江村に「国府跡北方の字内裏に土佐国司として在任した紀貫之の邸宅といわれる地」(『高知県の地名』平凡社)がある。これを南国市教育委員会で確認したところ、比江の小字地名に国庁(国府跡)があって、その北に小字地名の内裏(伝・紀貫之邸跡地)があるという(生涯学習課坂本氏)。
 また、北九州市門司区には「大里」地名があった。ここはかつて安徳天皇の行宮があった所で「内裏」と言われていたが、江戸時代の享保年間に高貴すぎる地名であるので大里に改めたという(山田裕氏にご教示を戴いた。読み方は門司区役所で確認)。
 このほか、福島県喜多方市内に「熱塩加納町相田字下内裏乙」が、また愛知県一宮市にも「春明字内裏」地名がある。しかし、この何れもが読みは「だいり」ではなく「うちうら」であった。
 そこで、この二ヵ所の「うちうら」地名の由来を調べたところ、喜多方市は「地名命名時期は江戸時代であり、詳しいことは不明であるが皇居の内裏とは関係がない」(喜多方市文化課上野氏)と、また一宮市の方は「地名は春明にある観音寺の裏山にあるところから地勢に関係して命名された」(一宮市博物館成川氏)。とあることから、この二ヵ所は本来の内裏とは関係がなかったようである。
 しかし、これは「内裏」の用例であって「紫宸殿」の場合はどうであるのか、「副都の詔」により都が複数あるということは「紫宸殿」もそれに伴い複数あってもおかしくはないのであるが、これ以上のことは今後の研究課題としたい。

 

二、 越智国の「紫宸殿」は誰の宮殿か

(一) 伊予に関連する天子・天皇

 次に、越智国の紫宸殿は誰の宮殿かを考えてみたい。
 「白村江の戦い」以前の伊予関連の天子・天皇を年代順に挙げると次のようである。
イ、聖徳太子に擬せられた九州王朝の法王大王(上宮法皇・「日出ずる処の天子」)・多利思北孤。
ロ、舒明天皇 ーー 私の最近の問題意識として、大和王朝と対等の越智国(共に九州王朝の支配下にあり“個別独立に存在”)に五ヵ月間も滞在していることから、大和王朝の天皇ではなく九州王朝の天子ではなかったのか、と。
ハ、九州王朝の天子・斉明(袁智天皇ともいう) ーー これについて古田先生は、二二年七月三日の久留米大学での公開講座で九州王朝天子説を論じている。
ニ、その他、例えば朝倉天皇・長沢天皇・長坂天皇など?『無量寺文書』

(二) 越智国「紫宸殿」の主人公

 そこで、右の人物で関係の薄いと思われる順に具体的に見ていくことにする。

ニの朝倉天皇などの不思議な天皇
 『無量寺文書』に出来する天皇名であり、可能性はなきにしもあらず、であるが他の史書にはこのような天皇名が無いことから、これだけで論証することは無理である。

ハの斉明天皇
 年代的には「紫宸殿」名称がわが国へもたらされた時期、「副都の詔」、越智国での数多の斉明天皇伝承(『新説伊予の古代』と『古代に真実を求めて』第十三集所収の拙論を参照して戴きたい)などと重なるところから、ここの主人公と見なしがちである。
 しかしながら、斉明天皇の行宮伝承地は五ヵ所(越智国朝倉に二ヵ所、同西条市に二ヵ所、そして宇摩国津根長津<土居町>に一ヵ所)もある。その上最近知り得たことであるが、紫宸殿地名の在る旧・周桑郡の川之内国山湯(現・本谷温泉の辺り、朝倉に隣接している)に、斉明天皇が入湯し近くの柳ノ本に宿泊、その後ここに宮が建立され(小社現存)その宮を柳ヵ内天皇と称した(『無量寺文書』、今井久氏にご教示を戴いた)、とある。ところが、当該紫宸殿地名の近辺(徒歩でも二~四時間以内で行ける距離)に行宮などが何ヵ所も造営されているにも関わらず肝心のこの地名のある所には天皇伝承が無い。言い換えれば、紫宸殿の主人公が斉明天皇であるとすれば、何故これだけの行宮を造る必要があるのか。従って、どうもここは斉明天皇のために造営された宮殿ではないばかりか、使用した可能性もないと考えられる。となると、この宮殿はこの時点で何らかの理由で、既に消滅していたのではなかろうか。
 因みに、斉明天皇崩御の場所は『日本書紀』では「朝倉橘広庭宮」とあって、通説は福岡県朝倉市に比定されているが、拙論は愛媛県の旧・朝倉村大字太之原(たいのはら 旧名・皇之原こうのはら)字斉明(さいみょう 現・今治市)である。その故は、ここは「朝倉橘広庭宮」伝承地であり、近くに「伝・斉明天皇陵」もあるからである(『古代に真実を求めて』第十三集所収「<越智国の実像>考察の新展開」と「娜大津の長津宮考」を参照して戴きたい)。

ロの舒明天皇
 舒明天皇は伊予に約五ヵ月滞在したことになっているが(『日本書紀』)、『無量寺文書』(旧・朝倉村、現・今治市)を見ると、その間朝倉滞在が濃厚である。また「副都の詔」以前の行幸なので、この紫宸殿は舒明天皇のために建てられた宮殿とするには無理があるように思われる。但し、この旧・周桑郡には舒明天皇の数多の足跡があるところから、ここを使用した可能性は充分窺うことができる。

イの多利思北孤
 多利思北孤が伊予行幸の際、越智国の何処に居を構えたのかは「温湯碑」にも記載がないので不明であるが、この地「紫宸殿」に行宮を造営した可能性は充分考えられる。それは、福岡八幡神社の「能面」(白雉二年奉納)やこの地の神社・仏閣に数多く遺る「九州年号」の存在を考えると、この旧・周桑郡一帯(壬生川を含む)で一大仏教行事が催された可能性が大であるからである(これについては今井久氏も『古田史学会報』No.98で論究している)。
 但し、多利思北孤の行宮として造営されていたとしても、その当時は「紫宸殿」の名称はまだ付けられていなかったと思われる。しかし、その後に「副都の詔」により六四九年以降、ここが整備され「紫宸殿」と名付けられた、と考えたい。

   むすび

 現時点での拙論の帰結を次に記す。
 五九六年の「多利思北孤」伊予行幸の際に築かれた行宮が、「副都の詔」により、六四九年以降一段と整備され「紫宸殿」と名付けられた。そして、九州王朝内の一大王国であった越智国に、それ以後他の天子が行幸した際、宮殿として使用したことが考えられる。それ故、現在までに「紫宸殿」の地名が遺っているのである。
 但し、紫宸殿としての使用は短期間であったと思われる。
 最後になるが、この「紫宸殿」に対する確たる論証は、何にも増して発掘・調査にあることは言うまでもないので、是非ともこの実現を切に願う次第である。
 なお、この「紫宸殿」の発掘・調査に関しては、壬生川地区文化財保護審議委員・眞鍋達夫氏、古田史学の会四国会員・玉井三山氏が目下その実現に向け活動中である。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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