2011年 4月 5日

古田史学会報

103号

1,新年賀詞交歓会
「古田武彦講演」(要約)
 文責 大下隆司

2,「筑紫なる飛鳥宮」を探る
 正木 裕

3,「逸周書」による
都市洛邑の規模
 古谷弘美

4,魏志倭人伝の読みに
関する「古賀反論」について

 内倉武久

5,入鹿殺しの乙巳の変
は動かせない

 斉藤里喜代

6,前期難波宮の考古学(2)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

7,大震災のお見舞い
 水野孝夫

 編集後記

 

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闘論 短里と二倍年暦


「逸周書」による都市洛邑の規模

枚方市 古谷弘美

 古代中国は城郭を有した都市国家の時代であるとは東洋史の碩学、宮崎市定氏の独創の学説です。
 その宮崎氏の論文「中国上代は封建制か都市国家か」に次の記述がある。 (1)
 いわゆる殷周革命、即ち陜西省の渭水盆地から起った周民族が、東に出て河南、河北の殷民族を征服した歴史的事件は中国社会の聚落たる邑が相当の発達を遂げ、内城と外郭と二重の城壁を有するようになった頃に起ったものである。それは周公が殷征服の直後に建設した都市洛邑の規模をみることによって察せられる。
 逸周書作洛解によると洛邑は、城方千七百二十丈。郛(=郭)方七十里とあって立派な内城と外郭とを具えているのである。この形式は恐らく殷の社会に普遍的に行なわれていたものを其儘採用したに過ぎぬであろうと思われる。 (2)
 この洛邑の大きさ「城方千七百二十丈、郛方七十里」を検証してみる。一丈を二、四mとすると、千七百二十丈は四一二八mとなる。一里を四三五mとすると、七十里は三〇四五〇mとなる。これを他の中国古代都市と比較してみる。

   戦国時代の国都の規模 (3)
    遺跡名       東西 m    南北 m
 魏  禹王城     三五六五   四九八〇
 趙  邯鄲大北城  三二四〇   四八八〇
 韓  鄭韓故城   五〇〇〇    四五〇〇
 楚  紀南城     四二〇二   三七五一
 燕  下都      九〇四六   三九八〇
 斉  臨シ*故城   三三一六   五二〇九
 唐  長安城 (4)   九七二一    八六五一
     シ*は、JIS第3水準ユニコード6DC4

 唐長安城の面積は約八四平方キロ、洛邑の面積は約九二七平方キロとなり、「方七十里」の洛邑は唐長安城の十一倍の面積を持つことになる。したがって、七十里という数値を疑わざるをえないが、これは誇大もしくは誤りであろうか。
 一九七一年以来、古田武彦氏によって「魏・西晋朝の短里」(一里は七五〜九〇mで、七五に近い数値)という画期的な概念が提唱されてきた。(『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社 昭和四六年十一月十五日)
 さらに、谷本茂氏は「周髀算経」についての研究によって、「魏・西晋朝の短里」ときわめて近似した里単位(一里は七六〜七七m)が、その中にあることを発見した。また「周髀算経」は周代以来伝承されてきた天文算術知識を集成して、後漢末頃に現在のような形に整理されたものであると指摘した。 (5)
 この検証を得て、古田氏は次のように論理を進めた。
 谷本氏の発見の意味は、魏・西晋朝の短里の真実性を示唆したことだけではなかった。さらにすすんでその成立の淵源をも示唆していたのである。いわく「それは、周朝の短里の継承・復活である」と(「古代は輝いていたIII -- 『風土記』にいた卑弥呼」昭和五九年十一月二十日 朝日新聞社 百九十九頁)
 逸周書作洛解の「郛(=郭)方七十里」における七十里は短里では約五二二〇mになり、戦国時代の国都とほぼ同規模となる。「城方千七百二十丈」にも適合した数値である。このようにして逸周書の中に「周朝の短里」が存在する可能性があるという認識に達する。
 中国古代都市の城郭の長さを「短里」の資料とすることができるのではないだろうか。城郭についての文献と考古学資料を「短里」の視点から検討することが必要と思われる

 (1) 「中国上代は封建制か都市国家か」「史林」第三十三巻第二号一九五〇年四月五日岩波書店刊「宮崎市定全集3古代」所収

 (2) 燎原書店刊 中国史籍解題辞典
いっしゅうじょ 逸周書 十巻 晋 孔晁注。
 周代の詔令・政事の書。「周書」・「周史記」(『漢書』芸文志自注)ともいう。後に誤まって「汲冢制書」とも呼ばれることがある。伝説によると「尚書」を編した時に逸佚していたものという。内容は周の文王・武王・成王時代の詔誓・号令などを中心として、最後は春秋時代の霊王・景王の時に及ぶ。その成立に関しては、戦国時代以後の偽作としたり(『直斎書録解題』)、或は「真贋参半」と言われたりするが(梁啓超『中国歴史研究法』)、恐らく一部は周代の文献に依據して、戦国或は秦漢以後に作られたものだろう。唐初に孔晁注『周書』四十五篇が存したが(『漢書』芸文志、顔師古注)、又別に七十一篇本も存在したらしい(『史通』所見本)。後両者を合せた『周書』が作られた。現存のものは孔注本三篇と七十一篇本十一篇が失われた結果、六十篇(内孔注四十二篇)となっている。『隋書』経籍志に誤まって「汲冢書」としたので「汲冢周書」の名が生まれたが、汲冢古文周書は別のものと考えられる。

 (3) 江村治樹「戦国秦漢時代の都市と国家考古学と文献史学からのアプローチ」三十三頁、二八四〜二九二頁「戦国都市遺跡表」二〇〇五年九月九日 白帝社

 (4) 愛宕 元「中国の城郭都市」一〇七頁一九九一年三月二十五日 中央公論社

 (5) 谷本 茂「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 -- 『周髀算経』の里単位」古田武彦「邪馬一国の証明」昭和五十五年十月二十日 角川書店所収

廣漢魏叢書 (大阪府立中之島図書館蔵)

廣漢魏叢書 (大阪府立中之島図書館蔵)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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