2011年12月10日

古田史学会報

107号

1、古代大阪湾の新しい地図
 難波(津)はなかった
 大下隆司

2、「大歳庚寅」
 象嵌鉄刀銘の考察
 古賀達也

3,中大兄は
 なぜ入鹿を殺したか
 斎藤里喜代

4、元岡古墳出土太刀の銘文
 正木 裕

5、磐井の冤罪 II
 正木 裕

6、朝鮮通信使饗応
『七五三図』絵巻物
 合田洋一

 編集後記

 

古田史学会報一覧

入鹿殺しの乙巳の変は動かせない(会報103号) 斎藤里喜代
乙巳の変は動かせる 斎藤里喜代さんにお応えする(会報104号) 西村秀己
斎藤里喜代さんへの反論 水野孝夫(会報105号)

7 「乙巳(いつし)の変」はなかった 古田武彦講演記録部分(『古代に真実を求めて』第12集)


中大兄はなぜ入鹿を殺したか

小金井市 斎藤里喜代

はじめに

 会報一〇四号に、西村秀己さんからのわたしの疑問への、解答が寄せられました。「稿末に最も重要なこと」とあったのが、西村命題だとおもいますが、それは今証明しようとしても、煩雑になるばかりなので、別の機会に譲ろうとおもいます。
 また、わたしは西村命題の詳細は知りませんので、詳しく解説していただけると、ありがたいのですが、よろしくお願いいたします。
 わたしは大化の改新《律令配布施行》が六四五年から六九五年になるのは大賛成です。孝徳天皇=〔軽皇子〕の大化の改新《六四五年》は、文武天皇=〔軽皇子〕の大化の改新《六九五年》に変わるのですから、決まったのも同然です。軽皇子のすり替えです。
 文武の即位は『新唐書』にあるとおり「長安一年〔七〇一〕その王、文武を立てて、改元す。大寶という」大宝一年〔七〇一〕になるまで文武は天皇ではないのです。それが自然です。

 それから一〇五号の水野孝夫さんの反論は誤植があったのか、『古代に真実を求めて・第十四集』に水野論文が見当たらず、わたしは見ていません。それでわたしのこの原稿を見てからご回答ください。
 わたしは九州年号は二中暦より、大化と大長とを足した古賀試案で決まりとおもっています。古賀試案では大化は「六九五から七〇三の九年間」、大長は「七〇四から七一二の九年間」です。
 後の上図は斎藤オリジナルから、下表は古賀試案から採りました。

斉藤オリジナル年表 中大兄はなぜ入鹿を殺したか 斉藤里喜代 古田史学会報107号

一、渡りの皇太子

 中大兄は渡りの皇太子よろしく、舒明天皇の皇太子?→皇極天皇の皇太子?→孝徳天皇の皇太子?→斉明天皇の皇太子?→そして七年もの称制の後、やっと即位しました。その後三・四年で崩御しました。
 なぜそんなに即位が遅れたのでしょうか、ふしぎです。普通ではないです。
 まず舒明崩御の後、十六歳の天皇が生まれなかったわけは、母が摂政代わりに即位してしまったことも、考えられます。しかしその実母には、中大兄にとって異母兄弟の古人大兄が、おそば近くに侍っています。皇極天皇と斉明天皇は同じ人物で、重祚だといいます。

二、天豊財重日足姫(皇極・斉明)

 昔は天皇を表すのに住んでいる宮の名を使いました。皇極天皇は飛鳥板蓋宮・斉明天皇は後岡本宮でした。しかし重祚した斉明天皇が即位したのは、実は、飛鳥板蓋宮でして、一年で火災にあいまして、飛鳥川原宮に遷りました。そして飛鳥岡本に宮室を起って遷ります。『日本書紀』の編者はわずか一年未満の飛鳥板蓋宮を斉明即位の宮として書いています。
 その当時は、九州王朝の元貴族なら、誰にでもわかる、うその歴史書『日本書紀』を書いている、九州王朝の元史官のSOSのメッセージです。そのミスに見えるメッセージによって、わたしたち後世の者が、三十四年遡りや、五十年下りなどの解明ができるのです。
 『日本書紀』は万世一系にするために、九州王朝と近畿の王と皇太子を、ミックスして書いています。わたしは皇極天皇は位を譲ってないと見ました。皇極天皇と斉明天皇に挟まれた、孝徳天皇は全治世中、九州年号だけの大化五年と白雉五年の九州王であります。
 孝徳を万世一系からはがして、九州王の副王として大阪難波か豊前難波の地へ置く。このとき、九州の天子は大宰府の倭京にいるのです。
 近畿の皇極天皇こと斉明天皇は、孝徳天皇が九州の副都を治めていた十年間も入れて、二十年間、近畿の王として、ずーっと変わらず近畿の飛鳥板蓋宮と他の宮に君臨〔といってよいかわかりませんが〕していました。
 そして六四五年六月に入鹿が殺されるまでは、古人大兄が近畿の皇太子、それ以後は、中大兄が近畿の皇太子でありました。これで中大兄は天豊財重日足姫〔皇極・斉明〕以外の天皇の皇太子になっていないことがわかります。即位が遅れたのではなく実母の斉明が死ぬまでは即位できないのです。称制のことは後で「おわりに」で書きます。
 もちろん孝徳天皇も九州王朝の副都の難波宮で君臨していました。
しかし孝徳の即位は、『日本書紀』の大化元年〔六四五〕年や白雉元年〔六五〇〕年ではなく、古賀試案の如く九州年号白雉元年の〔六五二〕年です。『新唐書』では「永徽〔六五〇から六五五〕初その王孝徳即位す。改元して白雉と曰ふ」とあります。

三、賀正礼

 『続日本紀』では正月朔に、天皇が、大極殿で朝賀を受けられたことが頻出します。しかし、『日本書紀』では大極殿でやることは無いのです。
(1) 、孝徳大化二年、正月朔の賀正礼、畢て〔おえて〕 ーー が『日本書紀』初見である。〔六四六〕→〔六九六〕

(2) 、その後大化三年、正月十五日、朝庭に射す。〔六四七〕→〔六九七〕

(3) 、大化四年、正月朔、賀正す。〔六四八〕→〔六九八〕

(4) 、白雉元年、正月朔、車駕、味経宮に幸して賀正礼を観す。車駕宮に帰りたまふ。

(5) 、白雉三年、正月朔、元日礼訖りて、車駕、大郡宮に幸す。

 右は『続日本紀』とはニュアンスが違い、朝賀を受けることはなく、九州王朝の天子というより副都の王にふさわしく出かけて行くことが多いのです。
 二中暦の大化は大寶の前であり、古賀試案も同じです。したがって六四五年から六四九年の孝徳大化は架空です。そこから、即位前孝徳=軽皇子大化と、即位前文武=軽皇子大化が導き出せます。その差五十年です。
 『日本書紀』では、孝徳大化元年の正月は、皇極四年元年正月《近畿》なので記事自体が無いのです。

四、なぜ中大兄は入鹿を殺したか

 西村さんの言うとおり、大化の改新〔律令配布〕を取り払ってしまえば、入鹿殺しはたいした事件ではないです、単なる皇太子の位をめぐる殺し合いです。親の蝦夷でさえ舒明即位前紀に「蘇我蝦夷臣、大臣たり」皇極元年にも「蘇我臣蝦夷を以って大臣とすること、故の如し」大臣なのに臣で出てきます。入鹿はその子ですから、もちろん大した人物でないはずです。入鹿がたいした人物であるなら、最初から軍隊がいります。ただ入鹿は蝦夷の押す「上宮の王等」を廃てて、「古人大兄を立てて天皇とせむ」としただけです。
 まず舒明紀から天智紀までで、ミックスされた皇太子を、上手に、はずさなければいけません。
 中大兄の名がどこに出てくるでしょうか。中臣鎌子とセットで出てきます。主に入鹿殺しのときと、古人殺しのときです。
 『藤氏家伝』でも軽皇子〔孝徳〕の即位まで、「中大兄」、で出てきます。それ以後は「皇太子」です。きっぱり分かれています。孝徳〔軽皇子〕は九州王朝の王です。皇太子も九州の皇太子の方が多いです。
 そして、中大兄は称制の七年を終えてから、即位します。そのときに、自分が殺した、古人大兄皇子の女、倭姫王を皇后にしているのです。これから見ると古人大兄のほうが正統な跡継ぎ〔いわゆる皇太子=大兄〕だったようです。
 岩波書店の日本古典文学大系文学大系『日本書紀下』補注17?四・?→「大兄「これらはすべて皇后もしくは正妃所生の第一男であり、皇太子、即ちヒツギノミコの最有力な候補者の資格をそなえている」とあり、〔中の大兄〕は文字どおり、二番目の大兄ではないでしょうか。
 孝徳〔軽皇子〕が即位するとき、『日本書紀』では、古人大兄と、天皇位の譲り合いをしますが、『藤氏家伝』にはその話はないです。当たり前です。孝徳と古人では王朝が違います。うその譲り合いです。
 その証拠に古人大兄は同じ王朝の山背大兄とは皇太子の譲り合いをしなかったのです。
 皇極四年六月十二日、古人大兄の目の前で、鎌子と中大兄が、古人大兄の後ろ盾の入鹿を切ります。そして軍隊を把握します。つまり古人大兄は私の宮に入り、中大兄は法興寺を城とした。すると諸皇子王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造悉く、皆、随に侍る。つまり入鹿の死後、皆、諸王子・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造は、古人大兄ではなく、中大兄に付いたのです。
 そして十三日、「蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍寶を焼く。船史焼かるる国記を取り、中大兄に奉献る。」
 そして、《その年の九月三日、〔つまり三ヵ月後〕吉備笠臣垂〔しだる〕、中大兄に自首して曰く「吉野の古人皇子、曽我田口臣川堀等と謀反けむとす。」中大兄、古人大市皇子等を討たしむ。》
 入鹿の後ろ盾を失った古人大兄は苦も無く討たれた。そのための入鹿殺しだったのです。
入鹿殺しと古人大兄殺しに限って、乙巳の変は動きません。これを動かすと、西村さんが蛇足として出した不比等の名のように、いろいろな登場人物を変えなければならない。中大兄は誰にしましょう。
 ただの皇太子なら誰を持ってきても良いですが、本名の中大兄で出ている以上、もう六七一年十二月に、天智天皇として崩御しているのですから無理です。
 また、日本書紀の他の天皇紀がどのようであろうとも、皇極四年六月までは皇極四年、七月からは孝徳大化一年であり、したがって皇極四年の七月以降は無く、孝徳大化の一月から六月はないのです。

おわりに

 中大兄の他のもう一人の皇太子の話をしましょう。この話をしないと中大兄の七年の称制の説明が終わりません。称制のことは、後で「おわりに」で書くとお約束しました。
 この皇太子は皇弟と皇祖母尊とセットで出てきます。この皇太子は九州倭国、倭京の皇太子で、皇弟は天皇薩耶麻の弟だから皇太子にとっておじさんです。白雉四年、《是歳条「太子奏請して曰く「冀はくは倭京に遷らむ」天皇〔孝徳〕許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、併せて皇弟等を率て、往きて倭飛鳥河辺宮に居します。時に公卿大夫・百官の人等、皆随ひて遷る》
 倭京の天皇は倭王武と同じく自ら甲冑を身に着けて戦いに行って留守勝ちです。薩耶麻です。天智称制で消された天皇ですが一回だけ天皇が出てきます。ミスのように。学者は当然、中大兄の、つまり皇太子のことだとして、ミスとして扱っています。
 九州倭国の倭京で皇太子と皇弟は皇祖母尊を助け、外交も公務もテキパキこなします。副都の難波宮にいる孝徳天皇とは意見が対立しているようです。ちょうど近畿では、天智天皇が称制を行っていたときです。
 薩耶麻が捕らえられ捕虜になったとき、倭国には死亡と伝えられたとおもいます。
 そこで六六八年、九州王朝の皇太子は天皇に即位します。皇弟は大皇弟になります。新しい天皇には子供がいないのか大皇弟は東宮大皇弟となります。
 実母斉明天皇の崩御のときあれほど取り乱した、天智天皇も七年の称制を終わって、この時、晴れて天皇になります。称制は、天皇が留守勝ちで、皇太子が大活躍の倭国の歴史を取り込むための『日本書紀』のトリックです。
 六七一年、死んだと思った古い天皇、薩耶麻が帰還します。十一月十日に薩耶麻が帰ると十二月に天智天皇の崩御。少しでき過ぎていませんか。
 これで中大兄がなぜ入鹿を殺したが、お分かりいただけたとおもいます。またなぜあんなにも、いろいろな天皇の渡り皇太子を勤めて、さらに七年の称制を経なければ天皇になれなかったかも、お分かりいただけたとおもいます。
 そして入鹿殺しが五十年下らせられないかというと、西村さん自身が言うように鎌足を不比等に、そして人物の総入れ替えをしなければなりません。そんな調子のいい説は、古田説としては通用しません。
 どこかがおかしいのです。古田史学会報一〇五号の上城 誠さんの「論争のすすめ」良いことです。大いにやりましょう。
    〔二〇一一年七月二十日記〕

参考文献
多元 No.九五「大極殿はなかった」斎藤里喜代
多元 No.九九「四ヶ月で何ができるか -- 古事記所文後半を読む」?《題名が悪かった。「四ヶ月でできること」が良かった》
多元 No.一〇〇「軽皇子二人と四律令」
多元 No.一〇二「皇極と中大兄 -- 乙巳の乱〔入鹿殺し〕の実体」
多元 No.一〇四「消された元正」


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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