2012年4月8日

古田史学会報

109号

1、七世紀須恵器の実年代
「前期難波宮の考古学」
 大下隆司

2、九州年号の史料批判
 古賀達也

3、「国県制」と
 「六十六国分国」
 阿部周一

4、磐井の冤罪 III
 正木 裕

5、倭人伝の音韻は
 南朝系呉音
内倉氏と論争を終えて
 古賀達也

6、独楽の記紀
記紀にみる
「阿布美と淡海」
 西井健一郎

 

古田史学会報一覧

古代大阪湾の新しい地図 -- 難波(津)は上町台地になかった 大下隆司(会報107号)

前期難波宮の考古学(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也(会報108号)
七世紀の須恵器編年 -- 前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁 古賀達也(会報115号)

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七世紀須恵器の実年代

「前期難波宮の考古学」について

豊中市 大下隆司

 会報一〇八号において古賀達也氏は『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究』の著者小森俊寛氏の考え方について「錯覚、土器様式の史料性格に対する認識不足」とされています。
 ところが、小森氏はこの著書において、
「現在の考古学会が行っている七世紀須恵器の実年代認定作業は、『日本書紀』の記事を基準に行っている。ところが『書紀』の記述が正しいかどうか、現在の時点では誰も証明できていない。このような安易な方法ではなくて、まず正しい編年を構築し、そしてそれを徹底的に突き詰めて実年代を算出すべきである。本当の考古学の方法論とはあくまでも考古学の立場を貫いて、まず考古学の立場から実年代を算出し、その結果を文献と照合する方法をとるべきである。」との主旨で「前期難波宮」の年代観について書かれています。
 現在の考古学会の実年代の出し方、また小森氏の方法論による実年代の決め方について紹介します。
 また古賀氏の「前期難波宮の考古学 -- ここに九州王朝副都あり」に事実誤認と思われること、また小生の認識と大きな相違があることについて、本論の後半に記します。

 

【須恵器実年代について】

一.現在の考古学会の実年代の算出方法

 (図○1)は七世紀の陶邑、難波宮、飛鳥から出土した須恵器の編年と実年代を一覧にしたものです。その作業は次のようになります。

図○1 『土器編年から見た前期難波宮の暦年代』』2010年佐藤隆、大阪文化財協会を一部修正 古田史学会報109号
 (1).地域別・編年の作成
 まず、それぞれの遺跡の地層毎にでる土器の編年表をつくります。

 (2).各地域・並行関係の認識。
 次に生産地であり、もっとも豊富に出土物のある陶邑の土器を基準にして各地に出土する同じ形式土器を見つけて、それらの土器の並行関係を認識します。例えば陶邑で作られたTK四三形式の土器が飛鳥寺でも出土していれば、それらは

 (3).実年代の認定
 そして、その土器が、西暦何年に作られたかを決めるのに『日本書紀』の記事を見ます。『書紀』では飛鳥寺は五八八年に造営されたと書かれています。従いTK四三形式の土器は六世紀末に作られ、使われていたものであろうとします。そして同じ形式の出土する難波宮遺跡の地層は同じ六世紀末頃のものだ、とするものです。難波宮遺跡ではその編年形式を「難波 II 新」と呼びその上の地層から出土する土器を「難波III 古」と呼び七世紀第二四半期のものとしてゆきます。

 (4).前期難波宮遺構の実年代
 このような考えをもとに、前期難波宮遺構は七世紀の中葉、孝徳紀の「難波長柄豊崎宮」の造営時期のものであるとされたものです。

二、小森氏による七世紀須恵器の実年代

 これに対して小森氏は、その著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究』において、飛鳥〜平安京から出土したすべての土器を調べ、その中から三〇〇近い資料を選び吟味して七〜十九世紀までの型式に分類しています。これにより同一基準の図版で京から出土した土器の全てが分かり、変遷の流れが理解できるようになっています。

 小森氏による実年代算出の考え方は次の通りです。(図○2)

図○2『京から出土する土器の編年的研究』2005年小森俊寛、京都編集工房 一部改変 古田史学会報109号

 (1).平安京〜藤原京土器の形式編年・実年代の確定。
 この時代の出土土器は、多くの文献や出土木簡からその実年代が把握できます。その最初の段階にある藤原京土器群の形式を「京 I 期中段階」とします。この土器群は六九四年頃から、早くて六九〇年頃から使われていたことがわかります。

 (2).藤原京以前の土器実年代の推定。
 前期難波宮整地層から出土した土器の編年は藤原京土器の前の段階のものでこれの形式編年を「京 I 期古段階」とします。須恵器の一形式の期間が二十数年〜三十年弱であることからこの土器群は六七〇年頃に始まり、六九〇年代中まで続くと考えられます。

 (3). 前期難波宮遺構の実年代。
 前期難波宮整地層の下にある下層遺跡からは「京 I 期古段階」の前段階の土器群が出土しています。この下層遺跡の年代下限は出土遺物などから六六〇年代前半頃と考えられる。これらのことから「前期難波宮遺構」は天武朝期の造営としか考えられない、としているものです。

 (4). 七世紀後半の須恵器形式の基本的変化
 古墳時代を通じて使われていた「杯H」型須恵器が七世紀後半に姿を消して、新しい「杯G」「杯B」型の須恵器が現れます。特に「杯B」型は六七〇年代にとつぜん姿を現す。これは「白村江の敗戦のあと大きな社会変動があったため」としています。

図○3『京から出土する土器の編年的研究』2005年小森俊寛、京都編集工房 を基に作成  古田史学会報109号

三.まとめ

 小森氏が前期難波宮遺跡の年代を六七〇年以降とされたことは極めて論理的な方法に基づいて行われていると考えます。
 また古賀氏は「前期難波宮の造営は孝徳期で“考古学的事実により論理的に証明”されている」とされていますが、現在の考古学会の実年代の認定作業は『日本書紀』を基準に行われており、これでもって『書紀』の記述を確かめようとしても答えは必ず『書紀』の記述の通りになります。一種のトリックのようなものになると考えます。

 

【その他事項】

一.太宰府の規模と上町台地の地形

 会報一〇二号「前期難波宮の考古学( I )」において「太宰府政庁二期はあまりにも規模が貧弱である」として、太宰府と前期難波宮などとを比較した地図が掲載されています。たしかに朝堂院の規模だけを比較すると太宰府政庁は畿内の朝堂院の半分程度の大きさしかありません。しかし最近の発掘により政庁周辺に中枢官衙群が確認され、東西八〇〇メートル南北も中心部ではこれも八〇〇メートルにおよぶ広大な領域をもつまさに九州王朝の首都にふさわしい姿が現われてきています(図○4)。

『遠の朝廷・太宰府』杉原敏之、二〇一一年 古田史学会報109号

 これに対して、難波宮の場合は周囲を谷に囲まれて大規模な官衙群をつくるスペースがありません。(図○5)は大阪文化財協会による二〇一一年金曜歴史講座で使われた資料のからの抜粋です。

上町台地の地形 「考古学からみた難波のミヤケ」大阪文化財研究所 古田史学会報109号

 難波宮の東西にある遺跡群が官衙遺跡と考えられています。しかし西方遺跡は主に倉庫群で、東方遺跡は一〇〇メートル四方ほどの遺構が確認されていますが、その半分は饗宴施設のようなもので、大規模な官僚機構の存在を伺わせる遺構はでていません。
 さらに太宰府政庁のとなりには観世音寺があります。難波宮の周辺には大規模な寺院は確認されていません。また四天王寺が首都に付随する寺院であるとはまず考えられません。
 太宰府政庁遺構こそ首都にふさわしいものと考えます。

二.「戊申年」木簡について

 会報一〇二号「前期難波宮の考古学( II )」において「難波宮北西の谷から出土した木簡は“荷札木簡”であり、その使用時期と廃棄時期を特定できる」かのように記載されています。
 しかし実際、この木簡は「荷札木簡」でなく「文書木簡」です。
 調査報告書によると「戊申年は六四八年と考えられるが、この木簡は書かれた後すぐには廃棄されずにある期間保持されており、その間に表裏にわたって異筆書き込みが何回か行われている。そしてしかる後に廃棄されたもので、その時期は他の多くの木簡が廃棄された時期に等しい。」とされています。(「難波宮跡西北部出土木簡の諸問題」『大阪の歴史』五五、栄原永遠男)
 また「戊申年」木簡に共伴して出土した土器については「住友銅吹所下層SD八〇一出土土器群にもっとも近く、かつ質量ともに充実している。これまで七世紀末八世紀初めまでの間に位置付けられる資料としてはこのSD八〇一例と森ノ宮遺跡SD七〇一出土遺跡群がある。(「古代難波地域の土器様相とその史的背景」『難波宮址の研究第十一』 二〇〇〇年)と書かれています。
 「戊申年木簡」をもって前期難波宮遺構を七世紀中葉とするのは何の根拠のないことと考えます。

三.上町台地出土の筑紫土器

 会報一〇八号「前期難波宮の考古学(III )」において、「上町台地出土の筑紫土器は九州王朝副都説と整合する。」として、筑紫土器の出土を前期難波宮遺構=九州王朝副都説の重要な根拠であるとの説明がされています。
 しかし、古来から大阪湾岸と北部九州の交流があったことは明らかで、上町台地からは韓式土器や百済、新羅の土器も出土しています。筑紫の土器が出土していることから、「九州王朝の副都」であったとの根拠にはならないと考えます。
 会報一〇七号「古代大阪湾の地図」において「古代上町台地に“難波”地名はなかった」ことを報告しました。今回は須恵器編年からも前期難波宮遺構の孝徳期造営説はありえない説を紹介しました。「前期難波宮遺構=九州王朝副都」説の根拠はなくなってきていると考えます。

(注記)
 小森論文においては須恵器だけでなく土師器も含めた京(みやこ)で使われた食器全体の分析がなされています。本論においてはその中の七世紀後半の須恵器にしぼり内容を紹介しました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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