2012年12月10日

古田史学会報

113号

1、古田史学の会 ・四国
 例会百回記念
 古田武彦松山講演会
要旨 大下隆司

2、「八十戸制」と
「五十戸制」について
 阿部周一

3、『書紀』「天武紀」の
蝦夷記事について
 正木 裕

4、前期難波宮の学習
古賀達也

5、会報投稿のコツ
編集長 古賀達也

6、割付担当の穴埋めヨタ話6
玉依姫・考


古田史学会報一覧

二〇一一年度古田武彦講演 九州王朝新発見の現在 要約 文責=大下隆司
「高天原」の史料批判 古田武彦(会報114号)


古田史学の会・四国 例会百回記念講演

女王俾弥呼より今までを語る伊予(越智)の「紫宸殿」論

古田武彦松山講演会

要旨 豊中市 大下隆司

 二〇〇二年、古田先生を愛媛にお迎えし、その後すぐに北条市において「古田史学の会・四国」が発足しました。それから十年、お正月と五月を除く毎月第一土曜日に例会が開催されてきました。“古代に真実を求めて、ロマン溢れる古田史学・多元史観の探求”会員の方々の研究発表です。
 今年は、その例会がちょうど百回目を迎えましたので、十月六日(土)に古田先生を再度お迎えして松山市男女共同参画推進センター(コムズ)で記念講演が行われました。
 当日地元では松山市の秋祭りが行われていましたが、それでも百人近くの方が参加され熱のこもった記念講演会となりました。
 講演会は、「四国の会」事務局長合田洋一氏の司会で行われ、会長の竹田覚氏の挨拶で始まりました。
 竹田氏は先生と同年配で、北条・新城山巨石群の鏡岩を発見された方です。十年まえに古田先生の北条での講演のあと一緒に鏡岩を見に行かれたこと、そして現在の事務局長合田さんと一緒に「古田史学の会・四国」を立ち上げられたことなど、四国の会発足からの経緯について話しをされました。
 古田先生が愛媛へ来られたのは三度目で最初は松山市の子規記念博物館で行われた「万葉学会」です。その時、後で『人麿の運命』『古代史の十字路』『壬申大乱』万葉論三部作に書かれたことの一部を研究発表されました。
 二回目が十年前に竹田さんたちと一緒に鏡岩に行かれたときです。
 今回は三度目で、講演の前日には合田さんのドライブで西条市に向かわれ、そこで待っておられた会員の今井久さん、白石恭子さん、副会長の阿部誠一さんの案内で「字・紫宸殿」地名のところを訪問されました。水田の広がる明理川のほとりにあり、周囲に天皇(王)地名までもあるところでした。
 以下講演の要旨をまとめました。(文責・大下)

(演題)
「女王俾弥呼より今までを語る伊予(越智)の「紫宸殿」論」

 松山というところは明治以降文明の爆発を惹き起した多くの逸材を生み出しています。一方この土地は古い考えをいつまでも頑固に守っておられる方も多いと聞いています。古い考えを強固に守っている中で新しい考えに気が付いたときに爆発が起きたものと思っています。
 今後伊予から、新しい考えに火をつけて爆発させるような方がでて来られたとき、日本いや世界が大きく動き始めるだろうと、今回私は期待をもって松山へやって来ました。

 

【「邪馬壹国」問題の出発点】

 松本清張氏の『水行陸行』という本の中で、「邪馬台国問題は“学者が原文を自分たちの結論にあうように、文脈を勝手に解釈している”結論がでないのは当たり前だ」と郷土史家に話させています。これは清張氏の意見だと思い、その後、中央公論で『古代史疑義』が三年間連載されたとき、いつか「邪馬台国」は間違いで「邪馬壹国」が正しいと書かれると思っていたのですが、いつまで立っても出てきませんでした。
 これはだめだと思い「邪馬壹国」は自分でやらねばならないと決心して出したのが東大の史学雑誌です。これが朝日新聞、最近またミネルヴァ書房から復刊された、『「邪馬台国」はなかった』の私の研究の出発点でした。
 この話の発端となった「水行陸行」の郷土史家の出身地が松山です。このような意味で、さきほど話をしましたように松山はしがらみのきつい所でもありますが、突拍子もない新しい考えをもった人がでてくる土地でもあると感じているものです。

【原文改訂】

 三国志魏志倭人伝のどの写本をとっても「邪馬壹国」としか書かれていません。それを江戸時代の松下見林が“ヤマト”と読ませるために「邪馬台国」としたものです。
 これは本願寺が「親鸞はこのように言った」とまず結論を作ってそれと親鸞の書いたものが違っていれば「原文は間違っている」と原文改訂をしたのと同じです。
 若い頃、私が親鸞の自筆本や弟子の書いた本を詳しく調べたら本願寺の解釈が
間違っていることがわかりました。自分のイデオロギーに合せて原文を変えてしまったものです。
 松下見林のやり方はこれと同じで悪い典型です。それをいまだに学会やNHKが使い続けているのです。

【東夷伝序文・爼豆之象、存す】

 東夷伝序文は三国志全体の序文であることをミネルヴァから出した『俾弥呼』で述べました。その序文に「東夷の中には先祖を祀る習慣が存在している。中国でも本来はそれがあったが今は失ってしまった。それが残っている、素晴らしい」と陳寿は書いています。
 これは何かといいますと「邪馬壹国」のことなのです。「豆(とう)」は、神を祭る器具。「士」は「仕」(仕事とする)「冖」は器具の上の台板。それらを“合わせた”のが、この「壹」の字です。
 「邪馬壹国」という漢字は俾弥呼が中国の古い伝統を守り続けているという意味で国書にこの字を使って来たのです。素晴らしい国だと陳寿は書いているのです。
 だからこれは「邪馬壹国」でなければいけないのです。いままで私は松下見林の“ヤマト”でなければいけないから「邪馬台国」だという形式論からだけ話を進めていたのですが、今回は文献処理の実質論からも「邪馬壹国」でなければならないことがわかってきたのです。

【「評」制と「記紀」の原点】

 記紀の書かれた十〜二十年前の七○一年に全国の「評」制が「郡」制に切り替えられたという大変革が起こっています。しかしこのことは記紀に一切書かれていません。
 それどころか『日本書紀』にはすべて「郡」が使われています。このため有名な「郡評論争」が坂本太郎氏とその弟子井上光貞氏の間でたたかわされました。この論争は「評」の書かれた木簡が出土したことにより決着がつきました。出土した木簡から七〇一年を境に全国一斉に「評」が「郡」に変わったことがわかったのです。井上光貞氏が正しかったのです。
 ただ坂本太郎氏は、大化改新以後も「評」制が使われていたにもかかわらず、なぜ『日本書紀』が「郡」と書き直したのか、との疑問を呈されました。しかし学会は負け犬の遠吠えとばかりにこの疑問を黙殺し、東大、京大そろって、孝徳天皇の時に「評」が造られ、七〇〇年までそれが使われていたとしました。
 ところが、九州から関東まで「評」があってその長官は「評督」です。そして「評督」を総括して監督する官職名は「都督」です。その「都督」がいたところは『日本書紀』にある筑紫の都督府しかありません。太宰府に都府楼跡があります。大和や難波に「都督府」は文献・地名にもありません。そうすると「評」の時代の中心は筑紫であったという問題がでてきます。
 「古事記序文」や『日本書紀』を書いた太安万侶や舎人親王は「評」の時代にも生きてよく知っているはずです。彼らだけでなくすべての人が知っていることだったのです。ところが、このことは記紀には一切書かれていません。
 『古事記』『日本書紀』は七〇一年を原点に書かれているということなのです。「評」のはじまりは孝徳天皇の時だなどといっていますが、記紀のどこにもそんなことは書かれていない、それは学者の説にすぎないのです。
 ところが七〇一年に「評」が「郡」に変わったというのは万人が経験しただれでも認める事実なのです。『古事記』『日本書紀』は七〇一年を原点に書かれているとするのが筋だと思います。

【七〇一年以前の天皇】

 そうすると七〇一年以前、持統天皇より前に天皇と呼ばれている人たちは本当に天皇だったのだろうかという問題がでてきます。
 答えは簡単です。『魏書(北魏)』という史書があります。北魏というのは北方の鮮卑族が南下して作った北朝最初の国です。三八六年に華北を統一して部族長の拓跋珪が道武帝とはじめて「帝」を名乗ります。ところが北魏の系図を見ますと、道武帝以前も彼らは北方民族の部族長にすぎなかったのにかかわらず、すべて「帝」としています。これを真似したのが『古事記』『日本書紀』なのです。
 文武が天皇になったのは確実です。しかしそれ以前はすべて天皇ではなかったのです。ただ記紀によって天皇とみなすようになっただけです。天智も天武もすべて天皇とすることで混乱が生じ、ややこしくなってしまったのです。
 『古事記』『日本書紀』の原点は七〇一年でこの時から近畿天皇家の実質的な天皇は生まれました。それを神武から持統までを天皇としているのは、北魏の史書をそっくり真似したものです。

【近飛鳥と遠飛鳥】

 『古事記』序文に“近淡海”と“遠飛鳥”がでてきます。“近淡海”は滋賀県の琵琶湖でよいと思うのですが、問題は“遠飛鳥”です。これに対比する言葉として“近飛鳥”が存在します。
 『古事記』本文の履中記に“近飛鳥”と“遠飛鳥”がでてきます。ところがその名前の付け方は「明日ゆくからアスカ」などわけのわからぬ説明をしています。こじつけです。また奈良県にいた太安万侶からすれば奈良の飛鳥が近いのに“遠飛鳥”とし、逆に遠いところにある大坂のアスカを“近飛鳥”にしています。混乱しています。
 実在した“近飛鳥”と“遠飛鳥”はどこにあったかということです。最近ミネルヴァから復刊された『壬申大乱』に詳しく書きましたが、筑紫に“飛鳥”があります。柿本人麿に「日並皇子尊の殯宮の時」作ったとされる歌がありますが、ここに書かれている飛鳥は筑後朝倉郡近くの小郡の飛鳥を指しています。
 “遠飛鳥”とは小郡井上地区にあった“飛鳥”です。“近飛鳥”とは太安万侶のいる奈良県にある”飛鳥”で、はっきりしています。

【序文・清原大宮の天皇】(注記*)

 “戦いに勝ち、華夏にかえり、昇りて天位に即たまひき天皇”は従来の解釈では天武のこととしていました。ところがそれでは序文には天武のことばかり書かれて肝心の文武のことが書かれていないことになります。
 これは文武のことです。(この点.「継体」と変更。注.参照。) 先ほどいいましたように、初めて実質天皇になったのは文武です。天武の名前は「真人」、臣下の最高位の称号で天皇ではありません。天智は「天命開別」で“文武が天皇になる道筋を作った”という名前です。彼らが天皇になったという名前ではありません。
 天智・天武は序文では「潜龍元を體し」と“潜龍”という言葉で表されています。二人ともまだ龍ではありませんが、将来は龍になれる元を開いたという意味の“潜んでいる龍”という形であらわされたものです。

【天瓊矛(弟)について】

本居宣長の『古事記伝』本文の先頭に“天の浮橋から瓊矛を下してコヲロコヲロとかき鳴らす”という文があり「瓊矛」と読んでいます。ところが、『古事記』真福寺本では、「瓊矛」ではなくて「瓊弟」と書かれています。「弟」とは何かといえばサウンドの「音」を意味します。それを「弟」という字であてているのです。「瓊」というのは小銅鐸で楽器です。それを紐でつるして「音」をだしているのです。それでコヲロコヲロと鳴るのです。「矛」では音はでません。宣長は「弟」を「矛」に改竄したのです。(寛永本による。)
 島根県の隠岐島へいったときにそこに展示館があって「天の浮橋」というものを見ました。一メートル余りの板でした。海人族が使っていた船と陸地をつなぐ浮橋です。これを「天の浮橋」と呼んでいるのです。『古事記』にはこの浮橋から小銅鐸を紐で吊るして潮につけてコヲロコヲロと音を鳴らしていることが書かれているのです。
 「天」とは数万メートルの天上ではありません。海士族の「海士」です。たとえば「高天原」は天空の上にあるのではなくて、海士族の神聖な水が出るところという意味です。
 『東日流外三郡誌』に「高天原寧波」のことが書かれています。中国浙江省杭州湾の寧波です。
 高天原とは宣長が空想した、天上にあるのではなくて現実の地上にあったのです。壱岐の北端部に天の原海水浴場があります。『古事記』『日本書紀』にはリアルな歴史事実が書かれていたのです。
 本居宣長はそれらのことを知らずに間違って、現実のことを壮大な天空の話にしてしまったのです。それを後代の学者が今にいたるまで、宣長を絶対視してそのまま踏襲し間違ったままでいます。

【紫宸殿の地名】

 伊予の「紫宸殿」地名は今井さんが見つけられて、合田さんがそれを述べられたわけです。
 「紫宸殿」というところは太宰府にあったことが『大日本地名辞書』の中に書かれています。ただこの辞書には“そんなことはありえないだろう”と注釈がつけられています。
 ところが私の住んでいる向日市にも字「大極殿」という地名があります。最初そこが何であるかわからなかったのですが、後になって、そこが長岡京の「大極殿」跡であったことが、発掘により証明されました。
 奈良市においても「大極の芝」といわれている地名がありました。そこに平城宮があると信じて調査をした人がいましたが、最初はだれにも相手にされませんでした。しかしそこには平城京の大極殿があったのです。
 紫宸殿や大極殿というのは神聖さをもった名前なのです。誰かがいい加減なことでそのような名前をつけてみても誰も相手にせずにすぐに消えてしまいます。
 太宰府においても事実「紫宸殿」があったのでその名前がつけられて後世まで残ったと考えざるを得ません。
 そして伊予の「紫宸殿」ですが、昨日初めて法安寺の近くの現地へ行かせていただきました。ここも誰かが勝手に名づけて周りの人がいつまでもそのように呼んでいたことはありえないと思います。
 そして今井さんが“「紫震殿」と違った字紫震殿が使われていますが、これは本当の「紫宸殿」というのを憚って、意図して一字変えて使ったものと思います”といっておられましたがその通りだと思います。
 私の経験からして、ここに「紫宸殿」という地名があることは重大で、ここに「紫宸殿」と呼ばれていたものがあったという証拠と考えて間違いないと思います。
 白村江までは太宰府に「紫宸殿」がありました。そのあと、筑紫に唐の軍隊が進駐してきてそこがいつまでも「紫宸殿」ではあり得なかったので”越智の国に移動し、そこを「紫宸殿」としていた時期があった。これは九州王朝の末期のころ”と考えていたのですが、昨日現地をおとずれてその確信を深くしました。
 「紫宸殿」地名のあるところは、家もありますが、まだ田も多いので是非発掘をしていただきたいと思っています。大きな考古学的な収穫がもたらされるだろうと確信しております。そういう意味で「伊豫の紫宸殿」を研究する会を発展させていただければ有難いと思います。

【九州年号問題】

 「九州年号」というのが『二中歴』という平安時代の文書(全体としては鎌倉時代の成立)にでています。ここに「九州年号」にあたる年号が六世紀の前半から七〇〇年までまったく欠けることなく続いています。それが七〇〇年で終わっていることは大変なことです。坂本・井上の「郡評論争」となった「評」から「郡」への切替時期とピッタリと一致するわけです。
 それと大事なことは『日本書紀』の中に「九州年号」の一部をとったと思われる年号が三か所あります。大化・白雉、時代をおいて朱鳥です。年号というのは連続してなければ意味をなさないのです。これは『日本書紀』が「九州年号」の一部をとったと考えるべきで、『二中歴』が『日本書紀』に書かれた部分からあとを継ぎ足して、全体に連続する年号を造作したとは考えられないことです。
 逆に「九州年号」から三か所抜き出し
て『日本書紀』に入れた。それを本当の年号だとして「二中歴」の年号を偽物だとしているのが現在の学界です。
 この「九州年号」問題もミネルヴァ書房から『「九州年号」の研究』という本がでていますので関心のある方はご覧下さい。

 

(質問1=能の起源について)

 松山には野球・俳句・能などが盛んです。能の起源について教えて下さい。
(回答)
 昨日泊めていただきました大和屋さんには立派な能舞台が造られていて驚きました。
 能には記紀より古い歴史が語られています。有名な「高砂」という曲があります。最初に阿蘇の友成という神主が語り始めます。ということは舞台は九州です。そこにでてくる老翁の居る住吉は博多の住吉神社のところです。
 そしてこの曲は高砂の女性が万里を離れた所に住む男を慕ってうたったものです。それでは「山川万里」を隔てたところにあるという姥の住む高砂はどこかということです。
 さきほど申し上げました『東日流外三郡誌』には中国杭州湾の高天原寧波に高砂族がいたことが書かれています。そこから対馬海流に沿って奄美大島など海士族の島が点々と存在します。海士族の海域です。彼らは杭州湾から見て東にある九州東部を日の出る国とみなしていました。『東日流外三郡誌』に「日の出る国」と書かれているのは筑紫のことです。彼らが九州に渡ってきてそこに「日の本」を作ったのです。
 従ってこの謡曲の「高砂」という曲は杭州湾にいる高砂族の女性が博多湾の「住吉」にいる男を謡った曲ということです。いわれている大阪の住吉と兵庫の高砂の話ではありません。
 この能の代表的な曲は“『古事記』『日本書紀』とはあっていないが『東日流外三郡誌』とはあっている”ということがいえると思います。つまり『古事記』『日本書紀』は新しいのです。記紀よりもっと古い話が能の中で伝えられてきたのです。
 「筑紫舞」という九州王朝の舞が傀儡子の間で伝えられ現在でも残っています。これと同じように九州王朝が征服されたあと、彼らの古い説話が被差別民の間で伝承として伝えられ、それが能の形で現されたものだと思います。被差別民といわれているのは今の天皇家よりもっと古い神聖な家柄であった人々と考えています。

(質問2=黄泉の国)

 高天原の反対側とされる「黄泉の国」についてお考えをお聞かせ下さい。
(回答)
 黄は紀の国、和歌山です。泉は大阪湾にある泉州、和泉国のことで、和歌山から南大阪にかけての土地を黄泉の国と呼んでいるのです。本居宣長は死んだらどこでも地下の黄泉の国へゆくことにしていますが、『古事記』にある黄泉国は実在の地名です。詳しくは『古事記伝‐本居宣長批判』として書きました。ミネルヴァ書房の『多元的古代の成立』(上・下)以降の「日本の生きた歴史」として近く出ると思いますのでご覧ください。
 その他たくさんの質問があり、最後に副会長の阿部さんが“今日も目からウロコの話を聞かせていただきました”と絶妙のスピーチで締めくくられました。また司会をされた合田さんの素晴らしい議事進行もあり「四国の会」の記念すべき講演会になりました。 
 講演会のあと懇親会が行われました。多くの方が参加され、そこでも“朝倉に斉明天皇の痕跡を求める研究”など古田先生との熱のこもった交流が繰り広げられました。
 自分たちの郷土を従来のヤマト中心の歴史観でなく、古田史学から見ると素晴らしい歴史像が浮かんでくる。全員でそれに取り組み着々と成果を上げられていることが、生き生きとした会員の皆様から感じられました。四国から日本を変える、これからも素晴らしい活動の成果が期待されます。

(注記*)
「清原の大宮の天皇」について、十一月十日の八王子セミナーにおいて、古田先生は“これは継体天皇のことである”
・古事記において武烈天皇までが二倍年暦で、神武に始まる王朝は武烈で終わっている。
・文武、元明天皇の直接の祖先は継体天皇であり、太安万侶は現王朝を始めた継体のことを序文に書いたもの。
・「清原の天皇」の次に書かれている「是に詔りたまひしく・・・・」の「天皇」は文武天皇のことです。
とさらに進めた論を展開されました。詳しくは別途書かれると思います。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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