2013年 6月 6日

古田史学会報

116号

1,「古田史学」の
   論理的考察
  古田武彦

2,「消息往来」の伝承
  岡下英男

3,白雉改元の宮殿
「賀正礼」の史料批判
  古賀達也

4,「放生会」は
 九州王朝の儀式
利歌弥多弗利の創設
  正木 裕

5,元興寺と法隆寺(二)
勅願寺としての同一性と
斑鳩寺の存在
  阿部周一

6,『文選』王仲宣の従軍詩
『三国志』蜀志における
二つの里数値について
  古谷弘美


古田史学会報一覧

『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について 川西市 正木 裕(会報113号)
九州王朝の女王たち -- 神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱予・玉垂命(会報112号) 正木 裕

 


「放生会」は九州王朝の儀式

それは利歌弥多弗利の創設だった

川西市 正木 裕

 

一、はじめに

 現代日本では、春又は秋に八幡宮を始めとする全国の寺社で、「放生会」が、広く催されている。これは食された生物を供養するとともに、殺生を戒めるため魚や鳥獣を放す宗教儀式で、その由縁は仏教経典(『金光明最勝王経』『梵網経』ほか)にあり、中国では天台宗の祖「智[豈頁]」の魚放生に始まるとされている。
     智[豈頁](ちぎ)の[豈頁]は、JIS第3水準ユニコード9857

 一方、我が国では天武五年(六七六)八月壬子(十七日)の、天武による「放生」令が嚆矢とされている。ただ何故この時期に、何のため天武は「放生」をおこなったのか定かではない。
 本稿では、これは近畿天皇家の天武の事績ではなく、
(1). 「放生会」の起源は、九州年号命長二年(六四一)に九州王朝の天子「利(利歌弥多弗利)」が、恵穏らによって唐から齎された「無量寿経」に触発され、四月一日から九月末日までの無慈悲な殺生や肉食を禁じた「殺生・肉食禁断令」ともいうべき詔と、翌年八月末日に催した「放生」供養にあること、

(2). この九州王朝の「利の事績」が『書紀』天武紀に盗用され、近畿天皇家の「天武の事績」のように潤色されていること、

 等を『日本書紀』の分析に基づいて順次述べていく。

二、九州年号「命長」と無量寿経講話

 『二中歴』によると九州年号は西暦六四〇年(『書紀』舒明十二年)に「僧要」から「命長」に改元されている。その背景は、僧恵穏等が、舒明十一年(六三九)九月に唐より帰国し、翌十二年五月に大規模な「無量寿経」の講話が行われたことだと考えられる。
■舒明十二年(六四〇=命長元年)五月辛丑(五日)に大きに設斎(をがみ)す。因りて、恵穏僧を請せて、無量寿経を説かしむ。(略)

 「無量寿経」は無量寿仏(阿弥陀仏)のおわす「仏国土=極楽」への往生のすべを説くものだが、漢字の字面からすれば「無量寿」は「量(はかる)事の出来ない長い寿命」即ち「命長」を意味するから、九州年号「命長」改元はこの「無量寿経」伝来と講話が関係するのは疑えないだろう。
 それでは、九州王朝は改元に当たり単に「無量寿経」を布教・講話させたのみだったのだろうか。この点で注目されるのが天武四年の「殺生禁断令」なのだ。

三、「殺生・肉食禁断令」と「放生会」

1、天武四年の「殺生・肉食禁断令」

 『書紀』では、天武四年に、無慈悲な殺生を戒め肉食を禁止する詔が出されている。
■天武四年(六七五)四月戊寅(五日)に、僧尼二千四百余を請せて、大きに設斎(おがみ)す。(略)四月庚寅(十七日)に、諸国に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁猟(すなどりかりする)者を制(いさ)めて、檻穽(ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫。亦四月の朔以後、九月三十日より以前に、比満沙伎理(ひみさきり=小魚まで獲る仕掛け)・梁を置くこと莫。且牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫。以外は禁の例にあらず。若し犯すこと有らば罪せむ」とのたまふ。

 檻穽は落とし穴で、恐らく底に槍襖が敷いてあるもの、また、機槍は機械仕掛けの槍で、いずれも動物に苦痛を与える猟法だ。また比満沙伎理・梁を禁じるのは、「禁漁期間」を定め資源を確保する意味だけではなく、小さい魚まで余さず獲る一種無慈悲な猟を禁じるものともいえよう。こうした措置に加えて、一定の動物について肉食を禁じることで、詔全体の目的は、「無慈悲な殺生を禁じる」ものと考えられる。
 この詔では「四月朔より以後、九月末までの間」の猟・肉食を禁じているのに、何故か四月「庚寅」(十七日)の発布となっている。これは明確に「禁猟開始時期を過ぎてからの発布」で、通常このような令の発布は考え難く、この点で大変不合理・不可解な詔となっている。

2、『書紀』天武・持統紀記事の三四年遡上

 私は、古田武彦氏の「持統天皇の吉野行幸は、三四年前、九州王朝の天子が佐賀なる吉野へ行幸した記事からの盗用である」との発見に基づき、
(1).『書紀』には九州王朝史書からの盗用が広く行われている。
(2).その際には記事を「暦日干支」付きで切り取り、『書紀』の任意の年に張り付けている。(盗用の基本単位は暦日記事)
(3).張り付ける月は、「盗用元と同月」か、或は「同月に同じ干支日がないときには直近の月」に張り付けている。
(4).とりわけ天武・持統紀においては、三四年前の白村江敗戦前の記事からの盗用がある。

 つまり持統紀の末年(持統十一年六九七=九州年号大化三年)記事は、三四年前の白村江敗戦の翌年(天智二年六六三=九州年号白鳳三年)から、前年の持統十年(六九六大化二年)は天智元年(六六二白鳳二年)から、以下天武二年(六七三)まで各年より三四年遡った記事からの盗用がみられる。
ということを指摘してきた。そして、これら盗用記事は、「本来は三四年前に遡る記事である」という趣旨から、「『書紀』天武・持統紀の三四年遡上現象」と名付けた。

 

3、三四年前なら三月末日の発布

 こうした考察に基づき、この詔が三四年前の舒明十三年(六四一=命長二年)のものであれば、四月に「庚寅」は無く、三月「庚寅」(二九日)となり、これは三月末日にあたる。つまり、翌日の四月一日から実施される措置を前日の三月末日の二九日に発布したことになるのだ。 このように天武四年なら不自然な四月「庚寅」十七日の詔は、三四年前なら、命長二年(六四一)三月「庚寅」二九日=末日との詔となり、「四月朔以後」の猟の禁止という詔と見事に一致することになるのだ。


四、『無量寿経』講和と「慈心不殺」

1、恵穏等による無量寿経講話

 そして「殺生・肉食禁断令」の背景に、先述の恵穏等帰国による『無量寿経』伝来とその講話があると考えられる。(註1)
 恵穏等が講じた『無量寿経』がいかなるものか不明だが、『仏説無量寿経』下巻(康僧鎧訳・魏訳三世紀)の中では「殺生」は「五悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)」の一つとして誡められている。また、『仏説観無量寿経』(宋元嘉中?良耶舎訳五世紀)では散善顕行縁に「慈心不殺」を勧める句がある。
■かの国(西方極楽国土)に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し(*仏・法・僧の三宝に帰依する)、衆戒を具足し(*戒を守る)、威儀を犯さず(*行往・坐臥の威儀 を犯さない)。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す(*人に仏教を教える)。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
(欲生彼国者 当修三福。一者孝養父母 奉事師長 慈心不殺 修十善業。二者受持三帰 具足衆戒 不犯威儀。三者発菩提心 深信因果 読誦大乗 勧進行者。 如此三事名為浄業。)

 このように無量寿経では浄土への往生の要件として「慈心不殺」「読誦大乗」「勧進行者」などの浄業が挙げられている。多利思北孤の次代の九州王朝の天子「利」が、命長七年に善光寺如来にあてたと考えられる善光寺文書には「仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念」とあり、「利」の極楽往生・浄土転生を願う強い願望が読み取れる。ここから、殺生禁断令の動機は、無量寿経に触発された「利」の西方浄土転生への強い願いだったと考えられるのだ。

2、天武四年の「大設斎」も法要の一環

 また、「読誦大乗」「勧進行者」とあるが、先に示したように『書紀』天武四年(六七五)四月「戊寅」(五日)に「僧尼二千四百余を請せて、大きに設斎(おがみ)す」との記事がある。
 これも何のための設斎なのか不明だが、三四年前の舒明十三年(六四一)なら、四月に「戊寅」の日は無く、三月戊寅(十七日)となる。そうなら「殺生禁断令」発布の前段行事に相応しく、かつこれで無量寿経の謳う「慈心不殺」「読誦大乗」「勧進行者」という浄業を積むことになるのだ。

3、『書紀』に盗用された九州王朝「利」の事績

 恵穏等が、舒明十一年(六三九)九月に唐より帰国し無量寿経を齎した。それを契機に、「利」は西方浄土転生を期し、経の説くように「大乗を読誦し、行者を勧進」するため、翌舒明十二年(六四〇)五月五日から七日にわたって、恵穏等による多数の沙門を集めた無量寿経の講話をおこなわせ、九州年号を「命長」と改元した。
 そして「慈心不殺」の浄業をなすため、舒明十三年(六四一)三月戊寅(十七日)から、再び僧尼二千四百余を請せた設斎法要を行ない、三月「庚寅」(二九日=末日)に「翌四月一日からの殺生禁断令」を諸国に布告し、経の説くところを諸国に周知させようとしたのだ。

 

五、天武五年の放生令と金光明経・仁王経講和

1、天武五年の「放生」

 ところで、『書紀』天武五年(六七六)八月「壬子」(十七日)、十一月癸未(十九日)に「放生」、即ち「生物を放て」との詔がある。
■天武五年(六七六)八月壬子(十七日)是の日に、諸国に詔して、放生(いきものはなた)しむ。
■天武五年(六七六)十一月癸未(十九日)に、京に近き諸国に詔して放生たしむ。
■天武五年(六七六)十一月甲申(二十日)に、使を四方国に遣して、金光明経・仁王経を説かしむ。

 これは、通常「放生会」の始まりの詔と見られているが、何故天武五年に突然放生令を出したのか、その経緯や動機は全く不明なのだ。
 そして、天武四年の「殺生・肉食禁断令」が三四年前の九州王朝の事績の盗用であれば、これと内容が密接に関連するこの「放生」令も、同様であろうと推測される。
 放生令が三四年前の皇極元年(六四二=命長三年)に発布されたものであれば、その経緯や動機はどうなるのだろうか。
 八月壬子(十七日)は皇極元年八月「壬子」では八月二九日の月末となる。当時の経済活動・産業の基本は農耕と狩猟であるから、この禁断令の実施による庶民の被害は容易に想像でき、庶民にこれを破るものが続出したことは確かだろう。智?の故事では漁民が採り過ぎた魚を無用に捨てていることから放生供養を始めたとされる。「利」はこれに倣い「慈心不殺」の徹底を図るため、九月朔日を期して令に反して捕獲した生物(魚等)を放すよう令を降したのではないか。

2、金光明経・仁王経説法と放生会

 また、癸未は皇極元年(六四二)十一月には無く、十月癸未(一日)となる。これは禁断期間明けにあたる日だ。そして翌日に金光明経・仁王経説法法要が行われている。こうしたことから十月一日の「放生詔」は、天子の膝元(京い近い諸国)に、十月一日以降やむなく殺生せざるを得ない生き物の供養法要(放生会)をおこなえとの詔で、当然「利」自身がこの法要を主催したもので、翌日の詔は法要を執り行う際には金光明経・仁王経を読誦せよと「法要のあり方」を示したものと考えられる。

3、「利」の放生会創設に相応しい金光明経・仁王経

 金光明経だが、『金光明最勝王経』長者子流水品には、釈迦仏の前世「流水長者」の魚放生という「本生譚」があり「放生会」に説かれるに相応しい。
 また、仁王経については九州年号資料の『園城寺伝記』には仁王三年癸未(「癸未」は仁王元年六二三)に仁王経が齎されたとある。(註2)仁王元年は六二二年「多利思北孤」の崩御をうけ、「利」が即位した年であるから、九州王朝「利」にとっては由緒深い経典なのだ。
 このように、この二つの経典の説教は、「利」の放生会創設に極めて相応しいのだ。

4、盗まれた放生会

 「京に近き諸国」とあるが、放生会の起源の地、中心地は「飛鳥」ではなく、宇佐八幡、あるいは筥崎宮(元宮の大分八幡宮も)、即ち九州であることは疑えない。
 これは、放生会は九州王朝の創設で、「京」は大宰府であることの証左といえよう。全国で筥崎宮だけが「ほうじょうや」と呼ぶ特別な呼称を持っていることとも符合するのだ。
 近畿天皇家は、これら九州王朝の「利」の事績を三四年後の「天武紀」に盗用することによって、九州王朝の事績を消すとともに、「信仰心熱い天武天皇」を作り上げたのだ。

 

(註1)先掲の舒明十二年(六四〇=命長元年)五月辛丑(五日)設斎の翌日の記事が、白雉三年(六五二)四月記事に切り取られ盗用されていることは「九州年号の改元について」(『古田史学会報』第九六号・二〇一〇年二月)で指摘した。
■白雉三年(六五二=九州年号白雉元年)夏四月戊子朔壬寅(十五日)、沙門恵隠を内裏に請せて、無量寿経を講かしむ。沙門恵資を以て、論議者とす。沙門一千を以て、作聴衆とす。丁未(二〇日)、講くこと罷む。

 「岩波注」では「舒明十二年五月条。内容もほぼ同じ」とこの二つを重複記事と見ている。重複記事なら、元記事は舒明十二年(命長元年)だ。何故なら直前の舒明十一年秋九月に「大唐学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従ひて入京す」の記事があり、これは対外的資料で動かしづらいからだ。
 しかも(1).の「設斎日」の暦日干支は「辛丑」、(2).の「無量寿経講話日」は「壬寅」で「辛丑」の翌日の干支だから、本来の記事は
 舒明十二年(六四〇)五月辛丑(五日)設斎(法事の膳振舞)→翌壬寅(六日)無量寿経講話、五月丁未(十一日)に終わる(講くこと罷む)という七日間の法要の記事だったと考えられる。

 つまり、「沙門恵資を以て、論議者とす。沙門一千を以て、作聴衆とす」以下の部分が切り取られ白雉三年(六五二)に移されたのだ。

(註2)『園城寺伝記』「夫仁経自晨旦渡我朝欽明天皇御宇仁王三年癸未正月八日辰尅」
 仁王「三年癸未」とあるが、癸未は仁王元年。「仁王」改元であるから当然経の渡来年は元年のことであり、従って三は元の誤りと考えられる。


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