2015年12月7日

古田史学会報

131号

 

1,訃報
古田武彦先生ご逝去の報告

2,古代の真実の解明に
生涯をかけた古田武彦氏
古田史学の会事務局長
 正木 裕

3,追憶・古田武彦先生(1)
蓮如生誕 六百年に思う
 古賀達也

4,「桂米團治さん
オフィシャルブログ」より転載

5,昭和四十四年十一月十二日
読売新聞第二社会面

6,「みょう」地名について
「斉明」と「才明」
 合田洋一

7,垂仁記の謎
 今井俊圀

8,「熟田津」の歌の別解釈二
 阿部周一

9,「ものさし」と
 「営造方式」と「高麗尺」
 服部静尚

10,「壹」から始める古田史学Ⅲ
古代日本では
「二倍年暦」が用いられていた
 正木 裕

11,割付担当の穴埋めヨタ話⑧
 五畿七道の謎
 編集後記

古田史学会報一覧



九州・四国に多い「みょう」地名 古賀達也(会報129号)
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎 合田洋一(会報130号)

伊予国分寺と白鳳瓦 最初に国分寺制度を作ったのは誰か (伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)今井久(会報132号)

四国・香川県の史跡巡り 清水誠一(会報129号)

『要衛の都』前期難波宮」に反論する (会報134号)へ

九州王朝説に朗報! -- 古期前方後円墳の葬送儀礼「折り曲げ鉄器」は九州北部起源―大和にはない 合田洋一 (会報143号)

 

古田史学会報の公開は本131号より、文字コードをユニコードに変更いたしました。


「みょう」地名について

「斉明」と「才明」

松山市 合田洋一


 古賀達也氏は『古田史学会報』一二九号に、「九州・四国に多い『みょう』地名」と題して、私の「越智国斉明(さいみょう)」論に関連して「みよう」地名をインターネットで八二件検索している。この内「名(みょう)」が付く地名は五九件あることから、これについて少し述べて見たい。
 「名(みょう)」について『国史大辞典』(吉川弘文館)は、

 みよう 名 古代・中世において、荘園・国衙領の内部を構成した基本単位、
徴税単位。荘園領主・国衙は、この名を単位として農民を支配したが、その実態・性格については、確たる通説はない。かつては名田との区別はなされていなかったが、現在では両者は区別されている。初見は貞観元年(八五九)十二月二十五
日元興寺領近江国依智荘検田帳(『東大寺文書』)に見える「(中略)家継之名」である。

とあり種々解説がされた後に、

平安時代は単一の経営体ではなくて複数の経営体からなる徴税組織である、という解釈が通説化している。

としている。
 古賀氏が検索した愛媛県今治市吉海町名(みょう)の近くには上島町弓削島があり、ここには『東寺百合文書』(記憶遺産認定)に記されていた「塩の荘園・弓削島荘」があって、これを研究している松山大学の山内譲教授監修のもと『愛媛新聞』(二〇一五年一〇月一二日)の記事に、

 鎌倉時代初期の検注目録(土地台帳)などによると当時、荘内で中心となる二二人の百姓がいた。経営単位「名(みょう)」には、有重、時永、行成・・・などの呼び名が見える。各自が「塩浜」と、煮沸用の燃料木を得る「塩山」を有し、ほぼ均等に塩の生産と年貢納入を担っていたようだ。

とあるが、弓削島の近くにある吉海町(大島)の「名」も塩田地帯であるので、ここも同じ経営単位の「名」と思われる。また、愛媛県上浮穴郡久万高原町二名(にみょう)は、拙書(注1)で述べているが「名田二ヵ所を併せた説もある」としているが、「名田」ではなく「名」の可能性もある。
 さて、「名」についてはこのようであるが、これは通説通りの「経営単位」と見てよさそうである。
 ところで、折角古賀氏が検索されているので、ここで九州と四国の「名」について見てみると、全部で五九件(但し、宮城県の下名生と上名生は平安時代における東北との関係から除外)の内、九州は三三件で全体の五六%、四国は一七件で二九%、その他九件で一五%となり、これら古賀氏が述べておられるように九州・四国に圧倒的に多いことが解る。
 そうなると、「名」の成り立ちが気に掛かる。そこに何らかの特異性があるのではなかろうか、と。史料上での初見は、あくまでも平安時代の貞観元年(八五九)ではあるが、その淵源は九州王朝の制度にあったように思われるのである。何故
ならば、言わずとも九州・四国に多いからである。なお、これについては今後の課題でもある。 
 それでは話を戻して、古賀氏が検索している他の「みょう」地名「明・苗・妙・女」は、発音が同じであっても違う意味合いがあると考えたい。
 そこで、拙論の「越智国斉明(さいみょう)」現在地名愛媛県今治市朝倉大字太之原字才明であるが、拙書(注2)ではこの地名を「斉明」としている。
 その訳は、朝倉に遺る『岡文書』(注3)に、
 
朝倉上村、飯成神社旧記(注4)に云う、古老の説に、斉明天皇七年天皇親ら西征せんと、太子・皇子等と伊予国石湯の行宮に幸し、居ること月余にして、宇摩郡磐瀬宮に移る。途上、朝倉を経過するに当り地を橘の広庭に卜し、行宮を作り、これに勅して、明神を祀らしめ給うと。其広庭の地、後世 字を斉明と称す、斉明は旧社地近傍に有り。

とあり、地名は「斉明」である。また朝倉の無量寺に伝わる『両足山安養院無量寺由来』(注5)にも、

 當寺遙ニ人皇三十九代帝齋明天皇勅願寺也天皇天下リ玉フ御鎮座之所ヲ皇ノ原ト云フ年月立テ後太ノ原トモ書ケリ是皆皇原ノ畧字ナリ此所ニ齋明ト云所有リ是天皇ノ地名也
 
 とあって、ここでも地名を「斉明」とし、しかも天皇地名であるとしている。これらを受けてか『朝倉村誌』も、

「斉明天皇が朝倉行司原に仮御所(筆者注、木丸殿―このまるでん―のこと)を設けられ、今の太の原、斉明あたりに移築した(一九五頁)。

と記している。
 余談になるが、『朝倉村誌』編者の故・長野光雄氏は古田武彦氏の「九州王朝」説をご存じのようで、「白村江の戦い」で九州に赴く斉明天皇について次のように記している。

 九州の邪馬台(壱)国の後身である、九州王朝の記録入手のための征西ではな
かったか(九州王朝の国王=筑紫君以下、国を挙げて、百済救援のため、半島に渡っていて、留守であった―一九一頁)。

と。また他にも「邪馬壱(台)国」の記述は三ヵ所(九二〜九三頁)もある。
 それは別として、拙論は朝倉に伝わる古文書から、現地名の「才明」ではなく古い時代の地名「斉明」としているのである。
 ところで、古賀氏は『古田史学会報』一三〇号の「『権力』地名と諡号成立の考察」で、再び拙論の「斉明」地名について、
 
 『古田史学会報』一二九号で報告した「みょう」地名の分布調査の結果、愛媛県にある字地名「才明(さいみょう)」が各地にある「みょう」地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さんは斉明天皇の「斉明」ではないかとされています(後略)。

として、天皇や皇室に関する地名や天皇諡号について縷々考察されている。
 現在の小字地名の「才明」は、明治九年調査の『段別畝順帳』(注6)でも「才明」である。
 ところが、前述しているように私は、中・近世文書にある当時の地名「斉明」を記しているので、現在の「才明」地名が斉明天皇の「斉明」ではないかとはひとことも言っていない。
 それではいつ変わったのかであるが、『無量寺文書』には「皇ノ原ト云フ年月立テ後太ノ原トモ書ケリ是皆皇原ノ畧字ナリ」とあって、旧地名「皇ノ原」が「太ノ原」(現・大字地名)に変わったとしている。しかしながら、「斉明」地名はこの時点ではそのままである。
 この文書は、古い記録を集めて江戸時代初期に編纂されたと考えられていることから、はっきりしたことは解らないけれど、「斉明」地名はずっと後の幕末か明治初年に変わったのではなかろうか。
 また、天皇名を軽々しく地名に使ってはならないとの詔が『日本書紀』にあるとのことであり、一考しなければならないであろうが、その当時全国的に徹底されていたのかどうか疑問である。無論、安易な地名比定をするつもりは毛頭ない。
 しかしながら、これらの古文書を全て否定するのであれば別であろうが、この地では古い地名は「斉明」であり、「才明」ではない。そして、ここ「斉明」には『日本書紀』の斉明天皇最晩年の記事にある「橘廣庭宮」跡もあり「伝・斉明天皇陵」もある。また、越智国内には「熟田津石湯行宮」跡や広大な面積の「紫宸殿」(七四八〇〇平方メートル)・隣接して「天皇」(約八一〇〇〇平方メートル)地名も遺っている。この他、越智国内には斉明天皇の行宮伝承地が五ヵ所もあり、同天皇に纏わる夥しい天皇地名も各所に遺っているのである。また隣の宇摩国には、これも『日本書紀』に記されていた斉明天皇の行宮「磐瀬宮」改め「娜大津長津宮」跡まである(四国中央市土居町)(注7)。
 それに、何と言っても皇室・天皇地名の最たるものである「紫宸殿」地名があることからも「軽々しく使ってはならない」の「詔」は空虚に響いてくる。
 そして、古田武彦先生が述べておられる通り、「斉明」の「さいみょう」は中国の「南朝音」であり、南朝に臣従していた九州王朝の天子に正しく相応しい呼び名であり、近畿天皇家の「さいめい天皇」ではないのである。
 そのようなことからも、「斉明」地名は古賀氏の言われる「みよう」とは関係がなさそうである。

 わが国の古代史及び思想界に偉大な足跡を遺した恩師古田武彦先生の訃報に接し衷心より哀悼の意を表します。
 古来こんにちに到るも、この世を覆い
尽くしている虚飾の古代史が改められるのを見ることもなく身罷れました。何とも心残りだったことと思われます。  
 しかしながら、先生は日本の各地・隅々まで歴史の真実の種をまかれました。必ずや先生を支持する人達によって生育され刈り取られる日も近いと思われます。私達は先生が示して下さった学問に対する真摯な態度を継承し、真実の追究をしていかなければなりません。どうか天空の園から温かく見守り応援して下さい。
 当論稿を、不肖の弟子である私の「越智国斉明天皇論」を支持して下さった先生に謹んで捧げさせて戴きます。
合掌

1、『新説 伊予の古代』「国生み神話の伊予之二名洲考」(創風社刊)。久万町教育長森氏談―当時。『久万町誌』には名称由来不明とある。

2、『新説 伊予の古代』や『松前史談』・『古代に真実を求めて』の論稿等

3、当該文書は『朝倉村誌上巻』所収。文書は九二巻あったが現存七四巻、文明年間(一四八〇頃)〜明治初年までの記録。岡氏は平安時代より朝倉行司原に舘して、南北朝時代は笠松山城主、豊臣時代に帰農。

4、飯成神社は現在の稻荷神社であるが旧記は現存していない。

5、『両足山安養院無量寺由来』 成立年代不明

6、愛媛県立図書館所蔵

7、『古代に真実を求めて』第十三集・十四集・十六集・十七集・十八集に関連論稿あり。

 


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