2015年12月7日

古田史学会報

131号

 

1,訃報
古田武彦先生ご逝去の報告

2,古代の真実の解明に
生涯をかけた古田武彦氏
古田史学の会事務局長
 正木 裕

3,追憶・古田武彦先生(1)
蓮如生誕 六百年に思う
 古賀達也

4,「桂米團治さん
オフィシャルブログ」より転載

5,昭和四十四年十一月十二日
読売新聞第二社会面

6,「みょう」地名について
「斉明」と「才明」
 合田洋一

7,垂仁記の謎
 今井俊圀

8,「熟田津」の歌の別解釈二
 阿部周一

9,「ものさし」と
 「営造方式」と「高麗尺」
 服部静尚

10,「壹」から始める古田史学Ⅲ
古代日本では
「二倍年暦」が用いられていた
 正木 裕

11,割付担当の穴埋めヨタ話⑧
 五畿七道の謎
 編集後記

古田史学会報一覧


大化改新論争 服部静尚(会報129号)
「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」 服部静尚(会報131号)../kaiho131/kai13106.html
令亀の法 服部静尚(会報133号)

古田史学会報の公開は本131号より、文字コードをユニコードに変更いたしました。


 

「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 黒板にチョークで(確か五十センチくらいの)横棒を引いた先生が、「これ何センチに見えるか?」と質問をして、受講生が七十人程度いたのですが、その答えが何と、三十センチから一メートル越えまであったのを記憶しています。昭和五十年頃に受けた統計的品質管理の最初の講義で、「独立な多数の因子の和として表される確率変数は正規分布に従う」ということを教わる授業だったのですが、「ものさし」を持たない人間の長さ感覚がひどいものだと知って、強く印象に残っています。
 「ものさし」があってこそ、人々の共通の長さ認識があるわけで、現代社会にも、「ものさし」があふれています。この「ものさし」も個々に勝手に作っていては、間違いも出ますし変化もします。そこで各種製造メーカーでは、「トレーサビリティ」と言って、社内の測定器が最終的にはフランスにある「※メートル原器」とずれていないかを、定期的にチェックすることを義務化しています。
※現在は物としての原器でなく、約三億分の一秒に光が到達する距離を基準にしています。

 驚くべきことに文武天皇の時代には、銅製の樣(ためし=基準器)を大蔵省及および国司に支給して、官用私用のものさしを、これで毎年チェックして承認印を受領して後、始めてこの「ものさし」を用いると、まさに尺(長さ)基準の「トレーサビリティ」が行われていたようです。
 日本国内の四世紀から八世紀頃の尺(長さ)基準がどうであったかのか、いくつかの説がありますが、当時広く用いられていた尺がどうかは、当時の「ものさし」の出土品・伝承品で判断されなければなりません。
 今から千年後の人が、現代の「はがき」あるいは「B5ノート」の遺品を測定して、建物遺物の柱間距離や畳の大きさを測定して、一メートルの長さを推測するとしたら、おかしいと思いませんか。
 一部の歴史学者は、「六世紀末に造営が始まった飛鳥寺は高麗尺の完数値で設計されている」「この陵墓は高麗尺で造られているので七世紀の陵墓である」と当然のように言われています。しかし以下に述べるように、この「高麗尺」と言われる尺の当時の「ものさし」は、今に至るまで実は一本も発見されていないのです。

 

     表1:尺ものさしの出土品・伝承品の時代別一覧

出典:小泉袈裟勝「ものさし」より、(注1)のみ台湾計量協会のHP量測園地より引用

中国の時代と西暦年 尺長さ 備考
商(殷)〜BC1000年 15.78〜16.93cm 殷墟出土骨尺(故宮博物院蔵)他計2点(注1)
17.0cm 伝安陽出土(南京博物館蔵)
戦国〜BC221年 22.7〜23.1cm 伝長沙出土(羅振玉蔵)他計6点
前漢〜5年 23.3cm 牙尺(北京歴史博物館蔵)他計3点
23.3cm 銅尺拓本計2点
23.4cm 牙尺(白鶴美術館蔵)
新〜23年 23.1cm 甘粛定西県出土拓本王莽度
後漢〜220年 23.0〜23.6cm 伝長沙出土銅尺(北京歴史博物館蔵)他計7点
22.8〜23.9cm 牙尺(白鶴美術館蔵)他、骨尺、竹尺以上計3点
魏〜265年 24.3cm 正始弩尺、弩桟に刻まれたもの
劉宋〜479年 24.7cm 骨尺(北京歴史博物館蔵)他計2点
梁〜557年 24.8〜25.2cm 銅尺(白鶴美術館蔵)他計4点
唐618〜907年 28cm 陝西出土石尺(陝西文管会蔵)
29.6〜31.1cm 牙尺(正倉院蔵)他計7点
29.9〜31.4cm 銅尺(北京歴史博物館蔵)他計6点
宋〜1279年 27〜32.9cm 北京歴史博物館蔵他計8点
明〜1644年 32cm 故宮博物院蔵他計2点
清〜1912年 31cm 羅振玉蔵
34.3cm 羅振玉蔵(量地尺)
34.9〜35.3cm 羅振玉蔵他計2点(裁衣尺)

 

 

二、尺ものさしの変遷

(一)尺という漢字は人の親指と人差し指を目一杯広げた象形文字で、ちなみに自分の手で測ってみると、十六〜十七センチぐらいになります。古い時代の「ものさし」出土品および伝承品の一尺の長さを、年代順に表1に示しますが、紀元前千三百年から千年の商(殷)の時代の尺は、文字通り一尺が十六〜十七センチだったようです。これが漢および魏・南朝と時が過ぎるに従って、二三〜二五センチ近くまで長くなっていきます。
 隋および唐の時代に至り、急に三十センチ前後のいわゆる大尺が現れます。
 唐では古い時代に使われ既に浸透していた一尺二三〜二五センチの尺を小尺とし、新しく約三十センチの尺を大尺と規定して、その後大尺が主流になっていきます。

(二)日本国内はどうかというと、大宝律令の注釈書である令義解に「北方の秬黍(くろきび=コーリャン)の中程度の一粒を小尺の一分とする」と説明しています。小泉袈裟勝氏によると、このくろきびは大きさが比較的揃っていて、現代において入手できた「くろきび」を測ってみると、一粒平均二・四ミリで十粒=十分=一尺=約二四センチだったそうです。小尺一・二尺を大尺とするとあり、大尺は二八〜三〇センチとなります。

〔令義解〕凡度十分爲寸、〈謂度者、分寸尺丈引也、所以度長短也、分者、以北方秬黍中者之廣一爲分、秬者黑黍也、〉十寸爲尺、〈一尺二寸爲大尺一尺〉十尺爲丈、

 この令義解の説明は次の唐律疏議の説明と同じです。つまり、大宝律令の尺は唐の尺に習ったのです。

〔唐律疏議〕以秬黍中者一黍之廣爲分、十分爲寸、十寸爲尺、一尺二寸爲大尺一尺、十尺爲丈、

(三)日本国内の「ものさし」出土品および伝承品の一尺の長さですが、表1中の正倉院蔵「ものさし」五点、二九・六〜三〇・四センチ以外に、古事類苑によると(明らかに一二〇〇年以降のものは除いて)次があります。
① 法隆寺象牙尺(伝太子遺物)二九・六センチ

② 陸奥国慧日寺瑠璃尺 二九・一六センチ

③ 東寺金蓮院尺(背に大師所有と有り)二四・六センチ

④ 槇尾尺(背に東寺一體と有り)二四・八センチ

⑤ 大宰府蔵司跡発掘の木簡状「ものさし」 平均で一寸=二・九五センチ

 以上のとおり、前述の唐および大宝律令の大尺と小尺の「ものさし」に限られます。  「ものさし」の出土品および伝承品の寸法と、大宝律令の記載からみて、当時の日本においても中国唐と同じく、二三〜二五センチの小尺と、二八〜三〇センチの大尺が並存していたものと考えられます。

(四)表1を見ると梁の時代から唐になって、急に二八〜三〇センチの大尺が出てきますが、その間のものさしが残っていません。「ものさし」が無いので推測になるのですが、隋書律暦志によると南北朝時代の北朝の東魏(五三四年〜)の後尺、北周(五五六年〜)の市尺、隋(五八一年〜)の開皇官尺が、晋前尺(=後漢尺)で一尺二寸八分一厘(約二九・六センチ)であったと記されています。
 これが唐大尺とほぼ同じなので、唐大尺の淵源は、北朝で六世紀中旬から始まったものと考えられます。
 前述⑤の大宰府の「ものさし」は、同時に出土した木簡に「久須評」とあるので、七〇一年以前の「ものさし」と推測されます。つまりこれは、唐大尺が大宝令のかなり以前より、日本に伝わって使用されていた証拠とも考えられます。

 

三、「ものさし」が出ていない高麗尺

(一)江戸時代に羽倉在満が「度制略考」と言う著書の中で、大宝令の小尺は唐の大尺は今の曲尺(約三十・三センチ)のことで、大宝令の大尺は高麗の度地尺=今の呉服尺(約三六・四センチ)であるとしました。
 この羽倉説は、左にあげた令集解(九世紀前半に編纂された養老令の私撰の注釈書)などの記事から、高麗法といわれた制度、高麗術といわれた田地測量の方法があって、そこから高麗尺という二寸長い尺の存在を浮かび上がらせたものでした。

(令集解該当部分の要訳)
 「雑令では地を測るに五尺で一歩だったが、和銅六年(七一三)の格では六尺で一歩となっている。しかし令も格も田積を改めたとしていない。令の五尺を一歩とするのは、地を測るに高麗法を用いるが便利だからで、この尺は長大に作ってあり、二五〇歩で一段である。これを高麗術ともいう。すなわち高麗の五尺は今尺の大六尺に相当する。だから格で六尺を一歩というのはその大きさに変わりが無い。」

 これによると、唐大尺の一・二倍の高麗尺が七一三年の格前つまり大宝令で使われていたとなります。
 これを歴史学者が採用して高麗尺の存在と、それが建築などに広く普及していたことと、決定的な事実のように扱ってきました。
 ちなみに、隋書律暦志で「東後魏尺」が、晋前尺で一尺五寸八毫(約三四・三センチ)であって、東魏(五三四〜五五〇年)および斉(五五〇〜五七七年)で採用されたあり、先程の歴史学者は、これが朝鮮半島を経由して我国に伝わったものとしています。
 そして先にも挙げましが、「日本での本格的な尺度導入は六世紀末の飛鳥寺造営時に、百済から高麗尺を導入した時に始まる」(木下正史氏)「法隆寺は唐尺では寸法が合わない。唐尺よりも古い高麗尺が使われている」(関野貞氏)というように、高麗尺が使用されていたかどうかが、一つの時代考証手段とされています。

(二)高麗尺の存在根拠は以上なのですが、この根拠の全てに問題を含んでいます。これを列記します。

①冒頭述べましたように、測量基準とされるには「ものさし」の存在が不可欠です。その尺度が広く使われていたということは、それはつまり大量に「ものさし」が配布されていたということに他なりません。その「ものさし」が一本も残っていない。出土しない。これでは高麗尺が当時の基準尺であったとはなりません。

②羽倉在満が根拠にした令集解は同時代資料ではありません。九世紀前半の知見で七世紀のことを記述していますが、同時代史料と言える令義解で、大宝律令の大尺・小尺が唐の大尺・小尺と同じであると証言しています。これはやはり令義解の方を取るのが妥当です。

③高麗尺の淵源とされている東後魏尺ですが、表1のとおり中国においても「ものさし」が出ていません。何より尺の基準が時代と共に変遷していった経過の中で、約三四・三センチというのは全く異質な寸法です。尚、隋書では約三四・三センチですが、(小泉袈裟勝氏によると)宋史では東後魏尺は約三〇・〇センチとされているそうです。だから東後魏尺を淵源とする高麗尺が無かったとは断言できませんが、少なくとも広くは普及していなかったと言えます。

④中国の宋の時代の書籍に「営造方式」というのがあります。解説書を書かれた竹島卓一氏は「漢末までに多岐多様に発達してきた建築と建築技術が、漢以後整理されて、単純化・規格化・工業化した。そして当時一般に行なわれていたものを文字にまとめたもので、建築細部の寸法まで非常に精細に記述されていて、これによって実際に建築を計画しても、ほとんど支障がない」と言う、現代風に言うなら建築ハンドブックです。まとめられたのは一一〇三年ですが、漢以後の木造建築の技術の集大成がなされたもののようです。

 少し話が迂回しますが、簡単にこの営造方式での柱の寸法・間隔の決め方を紹介します。
 「構屋の制は、皆、材をもって祖とする。材には八等の別がある。建物の大小をはかって、それによって材を使い分ける」とあります。ここで「材」と言っているのは言わばモジュールです。
 八等級のモジュールがあって、建物の大小によって、これを使い分けるということです。

第一等 広さ九寸。厚さ6寸。殿身九間〜十一間の場合に用いる。
第二等 広さ八寸二分五厘。厚さ五寸五分。殿身五間〜七間。
第三等 広さ七寸五分。厚さ五寸。殿身三間〜五間の殿、或は七間の堂。
第四等 広さ七寸二分。厚さ四寸八分。

三間の殿、五間の庁堂。
第五等 広さ六寸六分。厚さ四寸四分。小さい三間の殿、大きい三間の庁堂。
第六等 広さ六寸。厚さ四寸。亭榭(ていしゃ)、或は小庁堂。
第七等 広さ五寸二分五厘。厚さ三寸五分。小殿と亭榭。
第八等 広さ四寸五分。厚さ三寸。殿内の藻井、或は小亭榭。
(殿身は軒を二重に出した格の高い建物。亭榭は庭園などに設けられる小さく凝った建物。藻井は天井。)

 右記が八等級のモジュールです。
つまり建てようとする建物の格・大きさが、例えば五間の庁堂と決めたとすると、第四等の七寸二分(宋尺を三十センチとすると、二一・六センチ)を基準単位にして全ての設計をすることになります。
法隆寺の建築様式も、ほぼ営造方式に準じた構造になっているものと思われます。
 これでできあがった、柱寸法や柱間距離から、当時使われていた尺長さが判りますか。私は判らないと思います。

四、古代基準尺についてのまとめ

 現在の歴史および考古学界で、大宝律令以前は高麗尺、以降は唐の大尺が広く使われていたというのが、定説となっていますが、学術的には根拠が乏しいことを述べました。
 特に、広く使われていたことの証明には、「ものさし」の実在が不可欠であることに言及しました。

 日本古代の「ものさし」の出土品・伝承品として、魏および南朝系列の二四〜二五センチの尺(これは唐の小尺でもあるので、以下小尺とします)と、北朝系列の三〇センチ前後の尺(これは唐の大尺でもあるので、以下大尺とします)の二種類しかないことと、歴史的に見て北朝系の大尺が小尺の後に生まれてきたことを併せると、結論として、六世紀の中頃以降※に日本に大尺が入ってきたが、それ以前の日本では小尺を用いていたと考えられます。
※例えば七世紀初頭、多利思北孤の遣隋使の直後に大尺が北朝尺として、九州王朝に伝わっていた可能性も考えられます。

 

     表2:条坊跡の坊間隔と基準尺

  坊間隔 高麗尺 大尺 小尺
36cm 30cm 25cm
大宰府政庁Ⅰ期 90m 250尺 300尺 360尺
前期難波宮 265m 736.1尺 883.3尺 1060尺
≒750尺 ≒900尺
藤原京 265m 736.1尺 883.3尺 1060尺
≒750尺 ≒900尺
平城京 533m 1481尺 1777尺 2132尺
≒1500尺 ≒1800尺


五、追加の考察 ―古代条坊の基準尺についての考察

(一)古代の基準尺がどうであったかは、「ものさし」で評価し、その結果、四項の結論を得ました。
 今度は、その尺基準の結論を用いて、例えば古代条坊の時代考証を行なうことは、論理上可能と考えます。
 条坊間隔は、建築のように特別のモジュールを持つということは考えにくい。基準尺の完数値で設計されていた可能性が高いと思われます。

(二)試しに、表2で大宰府政庁条坊跡、難波宮条坊跡、藤原京条坊跡の、現在までの発掘調査で報告されている条坊間隔を、大尺・小尺・高麗尺に換算し、当時の採用尺を推察してみました。
 現状までの発掘情報で判断するとすれば、表にあげた条坊間隔はほぼ大尺の区切りの良い完数値で、これを基準尺として建造されたと見るのが妥当と考えます。

 だからと言って、大宝律令以後の建設とも言えないことは、四項のまとめのとおりです。


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