2016年10月11日

古田史学会報

136号

1,古代の都城
宮域に官僚約八千人
 服部静尚

2,「肥後の翁」と多利思北孤
 筑紫舞「翁」
と『隋書』の新理解
 古賀達也

3,「シナノ」古代と多元史観
 吉村八洲男

4,九州王朝説に
刺さった三本の矢(中編)
京都市 古賀達也

5,南海道の付け替え
 西村秀己

6,「壹」から始める古田史学Ⅶ 倭国通史私案②
 九州王朝(銅矛国家群)と
 銅鐸国家群の抗争
 正木裕

7,書評 張莉著
『こわくてゆかいな漢字』
 出野正

 

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「シナノ」古代と多元史観

上田市 吉村八洲男

1はじめに

 信州の古代は、今でも謎・不明に満ちている。既成の一元歴史観・定説だけでは説明しきれない事蹟や遺跡・遺品が多いからだ。古賀達也氏も二〇一五年の「洛中洛外日記第一〇六五話」で「信州の古代史を九州王朝説・多元史観で研究する必要があります」と指摘されている。
 しかし、一九九三年発行の「「邪馬壱国」徹底論争」第3巻ではすでに「信州の古代学」が主要なテーマになっている。その参加者からは各種の指摘、問題提起がなされている。これは四半世紀前である。今、改めて読んでも新鮮な内容と映る。逆に言うと、この間に古田史学及び学説がその内容を深化させ、質、量共なる伸張ぶりを示したのに比し、「信州の古代」解明はそのままで、その困難さ・低迷ぶりがより目立つ事になっている。


2困難にする理由①

 確かに「信州・シナノ」の古代の実相への追及は難しい。その最大の理由に資料(文献)の絶対的不足があると思われる。BC七〇〇年頃以前の同時代資料は無いと言ってよい。後世の資料も「古事記」「日本書紀」「続日本記」などが主で、更にここからの引用による歴史観文献がほとんどである。その為どうしても一元的な歴史文献となってしまう。これだけでは各種の文化(勢力)が時代ごとに混合し、支配を競う「信州・シナノ」の歴史判断・分析には十分ではないと思われる。それなのに既述の資料からの一元的王朝観が歴史編年のすべてを占める。結果、それに適合しない遺跡、発掘品はどんどん片隅に追いやられるのである。
 信州への他勢力の進出の痕跡は多い。筆者の住む長野県東信地方にもそれが歴然と残る。ベンガラ使用の赤色土器、巴型銅器、銅釧、鉄鉾、鉄鑿、槍鉋、壺鐙、鹿角装鉄剣、二重(はそう)、鳴鏑、陶塤などの遺物、さらに曝葬を示す遺跡などなど、日本唯一、九州以外はここだけ、東日本ではここだけなどと形容される発掘品が多い。
 だがこれらはすべて、「当時は全国各地と交流があったのだろう」という位の説明のままなのだ。そうなのだろうか。痕跡は泣いている、正当な評価を下してくれといっているような気がしてならない。

3困難にする理由②

 もう一つの理由が長野県の考古学が日本をリードしていた時代があった事だ。「縄文王国」を立証した輝かしい業績は、古代研究史上燦たるものである。明治期に始まったこの研究は八幡一郎、宮坂英壱、藤森栄一等の碩学を経て、縄文期、弥生期を中心に「長野県の考古学」として緻密に体系化されて来たように思える。これらの業績は素晴らしい事だが、逆にこれがネックとも思えるのが不思議だ。新しい研究はこの範囲に収まるだけだからだ。又、古墳期にまでそれらの研究は及んでいないと私は思うからだ。

 資料(文献)群の少なさと考古学の偉大さ、ここから、考古学の判断が歴史を決めてしまう、いや歴史の基準を考古学に求めるという安易な風潮が出てはいないか、私には心配される。(特に弥生期以後の歴史に)

 考古学があって歴史がない、などとなってはいけない。透徹した歴史眼と、考古学に裏づけられた真実を求める姿勢を持つ事こそが歴史学者にはふさわしいと思うからだ。

 最後に長野県考古学の伝統的研究法に地域中心主義が色濃くあることを指摘したい。長野県中心視点なのだ。更に「県下の○○地方の特色」を主張する歴史観なのだ。

 しかし古代には「長野県」「信州」などという中世以降の行政区分はない筈だ。彼らはもっと違う基準で住みつき、移動や生活をしていた筈である。

 「縄文王国」の時はいい。その活動のほとんどの範囲が長野県と重なるからだ。しかし弥生や古墳の時代に長野県という範囲を想定しては、これはもう正しいとは言えないだろう。これは「長野県一元主義」というべきかもしれない。長野県の弥生時代を「赤い土器の国」と呼称したり定義づけたりするのもこの流れの延長なのだろうか。

 偏見を恐れずにいうと、そこには多元史観の入り込む余地はないのである。だから半永久的に「信州の古代」は不明で解りにくいままになってしまう。

4信州の弥生時代

 改めて長野県の弥生時代を推察してみよう。まず忘れてならないのが縄文時代、長野県は特に黒曜石産地を中心にした地域で繁栄を極めていた事である。これが「縄文王国」である。ある意味日本の中心地だったのである。
 けれども次の時代、弥生時代はそうではない。はっきりと違う。県下の縄文繁栄地、その周辺の人々は、その記憶をひきずり、次の時代すぐに完全な弥生人には成りきれなかったと私は思う。次の時代への移行が生産手段、社会構造そして各種の文化面でスムースでなかったといってよいと思う。発掘品からもそれは読み取れる。長野県の弥生後期の遺跡に縄文の石器が多く残され、使われているのだ。縄文の地が、すぐ次の年から弥生の地になるのではなかろう。地域、与えられた条件などで所々の実相があったのではないだろうか。
 稲作のもたらした生産性の増大が社会構造を劇的に変え、そこからまったく新たな権力や文化が生まれたのが全国の弥生時代とすれば、それらは長野県下の弥生社会とはまったく同一ではない。初期・中期の弥生時代、県下では弥生と縄文が並立していたのだと思う。(濃淡の差は当然ある)
 全国各地では、弥生の時代、それぞれの地域に新勢力が生まれて来るのは自明である。そしてそこには強弱の差が生まれて来ていたと思う。勢力間の争いもある。ここから人間とその勢力の歴史は「弱肉強食」の世界・歴史になって行くのである。縄文と弥生には大きな溝がある。
 これらの大きな流れを長野県古代史を考えるにあたりはっきり認識する必要があると思う。だから縄文文化と弥生文化の対立が弥生初期に(所により中期まで)この地では随所にあった事と想像して良い。そして弥生人になりきれない、縄文を残した人々とその地域・文化は、強大な弥生文化勢力の進出により徐々に追われ、消失して行く事になる。過去に縄文の繁栄地であった事は、次の時代の弥生勢にとっては、格好の侵略・進出の対象地になっていくのである。
 長野県下ではこの混乱した弥生時代の銅鐸がいくつか発見されている。だが、その多くが縄文文化中心地といえる遺跡と重なる。この事実から、県下への外部からの進出の動きを、銅鐸文化圏への銅戈・銅矛文化圏勢力の侵入と考えても良いのかも知れない。(鉄器文化も)発見された銅鐸の数が少ない事から長野県は銅鐸文化辺縁地だったようで、ある意味そこは金属器文化勢からは脆弱な地と判断される。これがさらに敵対勢力に侵入を決意させたのではないかともいえる。
 解りにくい長野県の古代史を解明する、そのキーワードは外部勢力(「九州王朝勢力」や「関東王朝勢力」)の進出を想定する事なのだと私は思う。

5東信(佐久地方)の赤色土器への定説

 佐久で弥生時代後期、大量に出現する赤色ベンガラ土器についての定説はこうだ。
 弥生初期に、長野市ではベンガラを造ったと思える棒と硯のような受け皿が発掘されている。両者にはベンガラの付着が確認された。ベンガラがこの地で製造されていたと判断できる。一方、佐久の土器、特に甕などは長野市の箱清水地籍や吉田地籍で発掘された弥生初期の甕の型式と形状・その他が似ていると認定できる。(研究史上の若干の問題はあるが)だから佐久地方の弥生後期の土器は弥生初期の箱清水型式を持つ赤色土器なのである、となる。独特な土器の文様にも同じことがいえる、とする。
そして結論的には弥生初期の千曲川下流・長野周辺の文化が伝播・波及・発達して佐久に及び、何らかの理由でこの土器が多量に造られたと思われる、とする。長野市の箱清水土器の中にはベンガラを使った赤発色を持つ物がある。他の千曲川流域地にもこの赤色土器は多い。だから弥生後期の佐久地域でのものは高地(標高が高い)発達型の櫛描文赤色箱清水様式土器と認定されるのである。
これだけ考古学上の素性のはっきりした土器なのだから、疑う余地はもう無い、というのが定説派の見解なのである。多量に使用されたベンガラの産地がどこか、それが佐久地方には見当たらない、という事実への追及は遠くへ追いやられてしまう。また土器様式・文様ばかりが尊重され、その土器を使い、生活した人々の思想なり信仰への追求や、赤い土器に込められた集団としてのアイデンティティへの想像がないと私には感じられる。ここにも、考古学はあって歴史学がないのではないかと疑ってしまう。

 地域文化が川下(長野)より川上(佐久)へと伝わる事、そして時代が経つにつれ発達するケースがある事、土器でいうと、縄文や弥生初期に使われたベンガラの赤色には呪術的意味合いがあり、時代が進むにつれその使用は一般化していく事、などには疑義はない。しかしこれはあくまでも共通の、いわば同質の文化を生む土壌(社会)があっての話である。それが佐久に当てはまるのだろうか。

6突破口があった

 これに私はひょんな事で気付いたのだが、これは弥生時代への説明書や、公式な研究紀要・報告書、個別の発掘調査記録には出にくい観点からの評論かも知れない。逆に永年研究に携わった人だからこそ書ける記述から生まれたものと私には思われる。(なじみにくい地域名だが「上小地区」とは平成の大合併以前の表記で旧上田市、東部町、真田町、丸子町、青木村、武石村、長門町、和田村を指す。これに佐久地区を加えたものが長野県の東信地方となる。)
 長野県・上小地区の弥生文化の特徴をまとめた文の一節だ。

「信濃の各地区の弥生時代遺跡数は木曽と下伊那を除くとほぼ200で大差ない。・・・上小地区は221であるが、中期の遺跡は3で、218が後期の遺跡である。・・・上小の3は異常である。・・・中期前半の遺跡は全くなく、中期後半の遺跡も異常に少なく、・・・自分としては不思議である。」
信濃国分寺資料館発行「信濃における弥生文化の広まりと発展」から(引用文責吉村)

 筆者は永年長野県の遺跡発掘を担った研究者である。挙げられた数字、内容に誤認・誤記はないだろう。短い文中で「異常」意味の語を3回も使われ、その困惑ぶりが想像される。(上田市誌にも似た表現があるのだが、そこでは具体的な数字が明記されていない)
 私はこの文に初めて接したとき、「何だこれは」と思った。文の意味する事の重要さがおぼろげながら感じられたからだ。弥生時代中期(一五〇年間はあるだろう)、ここ上小地区には人の姿がまったく無かったといっているのだ。いてもほんの少数、彼等が定住していたのかすら判明しないという内容なのだ。この地はほぼ原野に帰していたのである。全く信じられない事実だった。
 よく言われる「弥生住居の変遷と空白」とは明らかに違う。遺跡そのものが無いのだ。佐久地区ほどの広さはないが、古代なら十分に「国」といえる面積を持つ地区なのである。弥生中期に、そこに人の住居あと(遺跡)がまったく無かったとは!!
 この驚きの事実は新たな結論をもたらす。それは今までの教科書的、一元的歴史観には決してないものなのだ。
 定説では、佐久の土器又その生活様式に代表される文化は、千曲川沿いの遡上、伝播というパターンで、そして地域ごとに進歩が進むものとして、その存在や特徴を説明されてきた。
 A(長野・初期)→B(上田・中期)→C(佐久・後期)という千曲川に沿った伝播・発達順序だ。一見なるほどと思う。ところが前述の文のように、Bには人々が存在していないのである。遺跡が無いのだ。空白領域なのである。それなのに文化がこの空白を通りぬけ、さらに標高の高い地で発達した、と今まで説明していた事になる。これらは到底私には信じられない事なのである。どう考えてもこの定説はありえないのだ。
 ということは佐久地方の土器などの特徴的な文化(詳細にみると異質ともいえる文化を含む)が、千曲川ではない他のルートからもたらされたと判断できよう。その信仰、赤色土器にこめた思い、武具・道具の優秀さ、社会構造の違い、水田耕作への工夫、住居・埋葬形態などを総合的に考えた結果、彼らが県外からの勢力(外部勢力)だったのでは、という推論が可能となってくる。
 長野地域と佐久地域での社会、文化の進化などが前述のように連続したものではないといえるからだ。そしてこれらへの検討の結果、外部勢力としては九州勢力が想定できるのではないかという結論がでる。
 私は彼等こそが佐久の地へ弥生中・後期の優れた文化をもたらしたと判断したい。彼らは現在でもその祭神名中に海人族関係の各種祭神名を残す神社のある道を通って、上小から佐久へと進出して来たのである。そして彼らこそが佐久の独特な弥生文化を生んだのである。

 「九州勢力の長野県佐久地方への進出」説は、ようやく学問的主張とはっきりいえる資格、論理を持つに至ったと思われる。今までのように「あなたはそう考えるのですね」と軽くあしらわれるのとは違う。考古学者が認めた事実と数字、遺跡の発掘状況からの結論だからだ。現在も残る遺品を個々に取り上げてもこの論理はでてこないだろう。
今までの考古学は発掘された土器の様式・文様に過大にこだわりすぎていた、そして土器のほとんどに赤色(ベンガラ)を使った意味への認識が足りなかったのではないだろうか。長野県中心に考えすぎた為、珍しい遺品が多い佐久地方の弥生後期文化へ正当な評価がされていたのだろうか・・・
 最終的には佐久地域の土器に使われたベンガラへの化学分析(産地を特定できる)がこの問題を解決するのだろうが・・・その分析が待たれる所ではある。

7残された問題

 大きな問いが残った。上小地区の弥生時代中期のこの空白の理由である。前述の筆者はこう述べている。

 弥生時代を特色づける稲作文化がこの地に定着できない何らかの理由があったのだろう。

 しかし、それ以上の言及はない。この「何らかの理由」を考えてみよう。
 古代稲作が伝播した時以降、上小地区での稲作不定着の理由として、この地区の持つ気候やその地形はあげにくい。降水量が少ないのが目立つ位である。他の自然上の諸条件も長野県下の平均的なものと言っていいからだ。天災も考えられるが、局所的な出来事としてはあり得ても、長期間、しかも広域にあったとは考えにくい。もし起こればその痕跡が残るからだ。
 稲作不定着の理由に、「社会的な不安定さ」を挙げていいと私は思う。その原因としては縄文文化と弥生文化との軋轢・衝突が考えられる。先述の通りである。成熟しつつある弥生文化を持つ強い外部勢力が弱者の地へ攻め入ったとする。その両者の衝突が社会の不安定さを生むと考えられないか。そしてそれが最大の理由ではないだろうか。
 縄文の時代から鳥居峠を中心に関東平野と日本海を結ぶ道がすでにあったと言われている。大笹道だ。これは最古の道といってよい。関東勢は険しい山越えを無理にしなくても(このルートもあった)、この大笹道を介すれば信州・上小地区と接点を持つ。そしてそこを通れば、目的とした縄文文化が繁栄した地、またその周辺の地にたやすく行けるのである。この道と東部町は三ヵ所で結ばれていたという。そして真田町も鳥居峠で結ばれている。上小地区は外部勢力の進出やすい地域であったのかも知れない。
 これらの道を通し、新しい弥生文化の恩恵を受け、領土拡大意欲を持った強い勢力が絶え間なく侵入を試みていたとしたらどうだろう。縄文勢力は、やがては住んでいたその地を放棄し、人々は逃げ出してしまう。
 後世、戦国時代にも似た現象がある。外国の歴史にもある。天災、人災による経済的な理由や、生命安全の保障がない時、人々は村や領地から一斉に逃げ出すのだ。「逃散」と呼ばれる行動だ。時代、条件の違いはあるだろうがそっくりだ。
 弥生前期末・中期の上小地区の空白には、この様な説明が可能であろうと思う。前述の上小地区の村、町の遺跡には縄文期のものが数多い。四阿山から鳥居峠に至る尾根から千曲川に向かった南斜面はまさに縄文のゴールデンベルト地区の一部なのである。縄文文化繁栄地の一つと言ってよい。しかしなぜかそこに弥生期の遺跡は少ないのである。(「信濃資料」の遺跡からの判断)この事実は私の説明の補完になるかも知れない。
 又、「佐久市史」掲載の「弥生後期の土器分布図」でも上小地区の数が異常に少ない事が読み取れる。中期の空白からの回復がまだ不十分とそこからは判断できるだろう。
 関東王朝勢が進出を試みた時期は弥生時代初期の後半であろう。それが中期の上小地区の空白を生む事になる。そしてもっと強力な九州勢が弥生中期に、佐久へと侵入するのである。そして中期末から後期、佐久地区では赤色土器に代表される独特の文化の繁栄期が始まることになる。

8終わりに

 「上小地区の弥生期の空白」という新たなキイ・ワードは上小地区、そして長野県の古代史を一変させる。それらに付いては稿を改めて論じていきたい。佐久地区へ九州勢は来ていたのである。これで上小地区・佐久地区に残された痕跡たちにも立場が与えられた事になる。それらは再評価されたのを心から喜んでいるかも知れない。同時にそこからは消されて来た「科野」のもうひとつの歴史に新しい陽が当たり始めていくのである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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