2019年10月15日

古田史学会報

154号

1,箸墓古墳の本当の姿
 大原重雄

2,持統の吉野行幸
 満田正賢

3,飛ぶ鳥のアスカは「安宿」
 岡下英男

4,壬申の乱
 服部静尚

5,曹操墓と
日田市から出土した鉄鏡
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
 二十 磐井の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

 

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欽明紀の真実
満田正賢(会報160号)


持統の吉野行幸について

茨木市 満田正賢

 古田武彦氏は「日本書紀にある持統の吉野行幸記事は白村江以前の九州王朝の史書からの盗用であり、三十四年遡上した九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸記事である」という考察を行った。しかし私は、日本書紀がなぜわざわざ三十四年前の記事を持統紀に挿入しなければならなかったのかということに疑問を感じていた。又持統は十一年間の在位期間中に、吉野訪問三十一回以外にも伊勢、紀伊など十二回の行幸をしており、吉野訪問だけを問題にするのではなく計四十三回の行幸、すなわち持統の頻繁な行幸という名の外出自体の理由を調べなければならないのではないかという問題意識を持っていた。今回その疑問への回答となる仮説を立てたので発表する。

 

一.持統の異常な外出過多について

1.吉野以外にも外出先はあった
 持統の行幸は吉野以外にも十二回ある。造営中の藤原宮視察三回、伊勢一回、紀伊一回、高安城一回、泊瀬一回、葛城高宮一回、飛鳥皇女の田荘一回、多武峰一回、菟田吉隠一回、二槻宮一回である。このうち持統六年三月の伊勢行幸については、農繁期を妨げるという中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂の諫めを振り切って行幸している。
 この一連の行幸の間に吉野行幸が三十一回あるわけであるが、吉野行幸だけを取り上げて考察するのは恣意的すぎると考える。

2.吉野行幸が多い理由
 持統の吉野行幸の目的は通説では亡き天武天皇を偲ぶ為ということになっているが、公式的な理由としてはそうであったと考える。逆に言えば、「亡き天武天皇を偲ぶ」という理由が吉野行幸の免罪符になっていたのではないか。吉野以外に行幸するときにはその理由を臣下に説明しなければならず、伊勢行幸の時のように臣下に諫められる可能性もある。しかし、吉野に行くと言えば臣下は誰も反対できなかったのではないか。四十三回の行幸中三十一回の吉野訪問は明らかに多い。持統は亡き天武天皇を偲ぶ為という公式的な理由と別に真の目的を持っていたということも考えられるが、行幸(外出)それ自体が目的となっていたとも考えられるのではないだろうか。

3.吉野行幸に関する記述
 持統の吉野行幸記事は実に簡潔に記されており、理由も行幸中の出来事も記されていない。そして吉野行幸の記述は以下の三パターンに分かれている。
A=〇月〇日天皇が吉野の宮に行幸した。(帰りの記事はなし)七回
B=〇月〇日天皇が吉野の宮に行幸した。〇月〇日天皇が吉野の宮から戻った。十八回
C=〇月〇日天皇が吉野の宮に行幸した。〇月〇日車駕が宮に戻った。六回
 ちなみに吉野以外の行幸でAと同じパターンなのは、高安城、泊瀬、飛鳥皇女の田荘、藤原宮、二槻宮である。高安城は別にして、その他の場所と飛鳥浄御原宮との距離から推定すると、このAのパターンは日帰りコースであると考えられる。実際に日帰りしたと記載しているケースもある。
「八年春正月乙酉朔丙戌・・乙巳、幸藤原宮、即日還宮」

 高安城と吉野については通常の車駕の隊列を想定すると同様の日帰りコースとするには無理があるが、持統が少数の供を従えて馬に乗って出かけたという想定であれば可能なのではないか。
 又持統は乗馬ではなく正式に車駕の隊列を組んで行幸したケースもあるであろう。その時の記載方法がCのパターンだったのではないかと思われる。

4.吉野行幸の行程
 飛鳥から吉野に行くルートは記録には残っていないが、一般的には飛鳥川に沿って稲渕・栢森を経て、芋峠を越えて吉野に入る、総行程一八㎞の最短コースを通ったと考えられている。しかし、この芋峠は標高五五六mであり冬期には凍結もする道である。私は持統の吉野行幸の場合、高取町から標高三一五mの壺坂寺のある土佐街道の峠を越えて吉野に入ったものと考えている。飛鳥から吉野宮までは二十~二十五㎞の道のりになるが、土佐街道(登り道)に入って峠までは二㎞強で、馬で越えるにもこの程度の距離であれば問題はない。峠近くにある壺坂寺は大宝三年(七〇三年)に創建されている。持統が亡くなったのは大宝三年一月のことであり、本堂である八角堂は持統の供養のために建てられたと伝わっている。又峠を越えてしばらく下った地域には高取町馬佐という地名が残っている。吉野川に突き当たってから吉野宮があったとされる宮滝まで五~八㎞程度の川沿いの道は乗馬には適任の道ではなかったかと感じさせる道である。

二.古田武彦氏の吉野行幸記事三十四年遡上説について

1.なぜ斉明期の九州吉野訪問を持統期に挿入しなければならないのか
 古田氏は著作「壬申大乱」の中で、万葉集にある柿本人麻呂の歌の吉野がその内容から大和の吉野ではなく九州佐賀の吉野であると考察している。この考察は優れた考察であると考える。しかし、持統の吉野訪問を「白村江直前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸記事を三十四年遡上したものである」としたのは飛躍のし過ぎではなかろうか。素直に斉明期の記事の中に折り込めば何ら問題がないと思われるからである。

2.月中にない干支の記述について
 古田氏は、持統八年夏四月の干支(丁亥)がその月には存在しない干支であることに着目し、吉野行幸記事三十四年遡上説の一つの根拠とした。たしかに、持統八年夏四月に「丁亥」がないのは事実だが、日本書紀の原文には持統八年夏四月の朔(一日)の干支(甲寅)と吉野に行った日の干支(庚申)が正しく記載してある。
「夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆贈筑紫大宰率河内王、并賜賻物。庚申、幸吉野宮。
丙寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丁亥、天皇至自吉野宮。」

 吉野から戻った日の干支のみが間違っている理由は、干支の誤記、又は戻りは翌月(五月)のことであり月の記載漏れ、のどちらかであろう。三十四年前の記事を持統紀に挿入した際に干支の書き換えを漏らしたという可能性もなくはないが、この干支問題を三十四年訴求説の根拠とすることは出来ないと思われる。

 

三.持統が乗馬を趣味にしていたという仮説

1.持統五年の馬の観閲
 持統五年三月五日に天皇が公私の馬を御苑で観閲したという記事がある。これは公式行事ではなさそうである。持統の馬好きをうかがわせる記事である。ちなみに天皇による馬の観閲記事としては、天武八年八月に天武が良馬の駿足を鑑賞するために実際に馬の走り比べを行ったとする記事がある。天武も乗馬好きであったからこそ持統の乗馬好きを認めていたのではなかろうか。

2.天武紀にある女性の乗馬に関する不思議な詔
 天武十一年夏四月二十三日に、「『今から以後、男女ことごとく髪を結え。大晦日以前に結いおえよ。ただ髪を結う日は、また勅の旨を待て』という詔が出され、婦女が男のように(鞍にまたがる中国風で)馬に乗るのは、この日に始まった。」という記事がある。続いて天武十三年閏四月五日には「女の年四十以上は、髪を結いあげようが結いあげまいが、また馬に横に乗ろうが縦に乗ろうが、どちらも任意である。」という変わった詔が出ている。この詔は天武が何のために出したものだろうか。持統の年齢を確認したところ、持統の生年は大化元年(六四五年)、天武十三年は六八四年であるから持統の年齢は数えの四〇才であった。これが偶然だとは思えない。天武は皇后持統の要望を受けて持統が髪を結いあげて馬に縦乗りする姿を天下に認めさせ、更に持統が四〇才になった時点では、疲れた時に横乗りする(従者に馬を引かせる)のも髪を下ろして乗るのも自由だ。と宣言したのではないか。
 唐代の中国では、北方騎馬民族の風俗を反映して女性の男装や乗馬が流行していた。唐代の中国の風俗はすでに郭務悰などを通じて天智期に伝わっていたものと思われる。天智の娘であった持統が乗馬に親しみを持ったことは必然とも言えそうである。

3.鸕野讚良という持統の名前について
 持統は、讃良郡鵜野村に住む宇努連の乳母に養育されたと伝わっている。古墳時代の讃良は馬を飼う初期牧場であったとみられており、讚良郡にある蔀屋北遺跡からは古墳時代の大量の馬の骨が出土している。そして、讃良郡の名を冠する娑羅羅馬飼造と鵜野村の名を冠する菟野馬飼造の両名が天武十二年十月に同時に連の姓を授かっている。天武が持統の為に女が髪を結いあげて馬に縦乗りすることを天下に許した翌年である。持統と讚良郡鵜野村(現四條畷市)にいた馬飼集団との関連が推測できるのではなかろうか。

 

四.まとめ

 古田氏が「日本書紀にある持統の吉野行幸記事は白村江以前の九州王朝の史書からの盗用であり、三十四年遡上した九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸記事である」という考察をおこなう原因となった持統の吉野行幸に関する数々の疑問は、持統が乗馬による遠出を趣味にしていたという単純な理由で説明出来る。持統が日帰りで吉野を往復したことは乗馬の感覚であれば可能であろう。季節に関係なく冬期にも吉野に出かけたということも、積雪量が多くなければ可能であろうし、乗馬日和を選んで外出したと考えればなお問題はない。在位中四十三回の行幸のうち三十一回も吉野に行ったことは「亡き天武天皇を偲ぶ」という公式的な理由に誰も逆らえなかったと考えれば納得がいく。持統が退位後に一回しか吉野を訪問していない理由は、持統はすでに五〇才を超え体力が衰えていたからではなかろうか。ちなみに、持統は十一年間の在位中に吉野その他への日帰り行幸を十四回行っているが、そのうちの八回は行幸が始まった持統三年・四年に集中している。在位期間の後半になるほどゆとりを持った行幸に変えていったことが読み取れる。
 古田氏の考察した持統吉野行幸記事三十四年遡上説は、持統の異常な吉野訪問に対して納得しうる理由が見つからなかった為に考え出された仮説であると思われるが、持統の乗馬好きという単純な理由との比較で再検討すべきものではなかろうか。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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