2019年10月15日

古田史学会報

154号

1,箸墓古墳の本当の姿
 大原重雄

2,持統の吉野行幸
 満田正賢

3,飛ぶ鳥のアスカは「安宿」
 岡下英男

4,壬申の乱
 服部静尚

5,曹操墓と
日田市から出土した鉄鏡
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
 二十 磐井の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

 

古田史学会報一覧

三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたのか 服部静尚(会報155号)
天平宝字元年の功田記事より 服部静尚 (会報152号)


壬申の乱

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 『日本書紀』では巻二十八のほぼ全てのスペースを壬申の乱に割く。『続日本紀』も併せて、乙巳の変(六四五)から天平宝字元年(七五七)までの期間で、臣下の功に対する報償記事が六十七件あって、その内約三分の二に当る四十四件が壬申年の功に対する報償である。
 それほど大和朝廷にとって壬申の乱が重要なのだが、その壬申紀に以下にあげる数々の不可解な記述がある。
 本稿では、その不可解点を抽出整理し、なぜこのような壬申紀になったのかを探った。
 その結果、実は九州にあった「倭国の都=倭京」を、「大和(今の奈良県)にあった京」とするための偽装で生じた不可解点だとの結論に至ったので報告する。

 

二、壬申紀の分析

 壬申紀を分析すると、以下の①~⑯に細分できる。本稿では以下この番号で引用する。

①天武の吉野入り
(天智四年十月)壬午(十九日)吉野宮に入る時、左大臣蘇賀赤兄臣らが之を送り、菟道より返る。曰く「虎に翼を着けて放てり」。是の夕に嶋宮御する。癸未(二〇日)に吉野に至り居する。

 

②天武が挙兵を決心するまで
(天武元年)六月壬午(二十二日)村国連男依らに「近江朝廷は私を殺そうと企んでいる。美濃国へ行き軍兵を起こし急いで不破の道を塞げ。」と指示。甲申(二十四日)駅鈴を手配させたが入手できなかった。

 

③吉野を抜け出し東国入り
是日(二十四日)東国へ徒歩で出発する。津振川で車駕に乗り換え、菟田吾城・甘羅村・菟田郡家・日暮れに大野に至り、隱驛家・横河・伊賀驛家・伊賀中山・夜明けに莿萩野に着いた。積殖山口で高市皇子と合流し、大山を越え伊勢鈴鹿に至り五百の軍兵で鈴鹿山道を塞いだ。川曲坂下、夜に三重郡家に着いた。丙戌(二十六日)の朝、朝明郡迹太川辺りで大津皇子と合流。「美濃の兵三千人で、不破道を塞いだ」との報告を受け、高市皇子に不破の軍事を任せた。東海軍・東山軍を起した。是日天武は桑名郡家に停まった。

 

④この間の近江側の動き
近江朝は天武の東国入りを聞いて、東国・倭京・筑紫・吉備国に起兵を促す遣いを送ったが、東国・筑紫への送使は果たせず戻り、吉備への送使は従わない国守を殺した。

 

⑤大伴連馬来田、吹負兄弟の動向
この頃大伴連馬来田と弟の吹負兄弟は、兄は天武の元に帰順し、弟は数十人を集めて倭家に留まった。

 

⑥東国での体制作り
天武が不破入りし、尾張国司が二万の兵を率いて帰順した。戊子(二十八日、己丑(二十九日)と天武は和蹔に出向き、高市皇子をして軍に号令させた。

 

⑦吹負が飛鳥寺で挙兵(以下、吹負の戦いを倭京戦と言う)
是日(二十九日)大伴連吹負は、小墾田兵庫の近江軍を數十騎で襲い勝利した。天武はこれを聞き吹負を将軍に任じた。庚寅(七月一日)吹負は初めて乃楽へ向かった。

 

⑧不破より近江へ進軍(以下、これを本戦と言う)開始
秋七月辛卯(二日)天皇は數万の兵で、不破から直接近江へ進軍させた。別に三千の兵を莿萩野に駐屯させ倉歴道を守らせた。近江側数万の兵と犬上川の浜で戦い、近江側に内乱があって勝利した。降伏した近江将軍羽田公矢国をゆるし、北方の越に入らせた。

⑨吹負が乃楽山で敗退
壬辰(三日)将軍吹負は乃楽山上に駐屯し、癸巳(四日)近江将大野君果安と戦って敗れた。

 

⑩本戦では連勝する
甲午(五日)鹿深山を越えて倉歴に迫った近江軍を破った。乙未(六日)莿萩野の営でも近江軍を破った。丙申(七日)息長横河でも近江軍を破った。戊戌(九日)鳥籠山でも勝利した。

 

⑪倭京での敗戦を聞き援軍を送る
是日(九日)東道将軍紀臣阿閉麻呂らは倭京将軍大伴連吹負の敗戦を聞き、軍を分けて置始連菟ら千余騎を急ぎ倭京へ送る。

 

⑫本戦では瀬田で近江軍に最終勝利する
壬寅(十三日)安河浜で近江軍を大破さを退ける。辛亥(二十二日)男依らは瀬田に至る。瀬田の橋の西に大友皇子らが大陣を構えたが、大分君稚臣等の活躍で勝利した。是日、羽田公矢国らが三尾城(琵琶湖西岸)を攻略した。壬子(二十三日)大友皇子は山前に隠れて自ら首を縊った。左右大臣及び群臣は皆散り散りに逃亡した。

 

⑬吹負が河内・大和で敗退するが、援軍が届きその後勝利する
初め(七月一日に戻って)将軍吹負は河内からの敵兵を警戒し、龍田に三百の兵・大坂に数百兵・石手道に数百兵で守らせた。中一日おいて(四日)大津・丹比道を近江軍が大勢押し寄せ、吹負は一・二騎で敗退した。墨坂で(⑪の援軍、九日以降でないとおかしい)置始連菟に遭遇し、折り返して当麻で近江軍に勝利した。時に(四日)東から援軍が多くあり、吹負は上中下道を軍を分けて北上し近江軍を大破した。

 

⑭事代主神のお告げで吹負が勝利する
三日の後(七日)高市県主が神がかりして「私は事代主神だ。神日本磐余彦天皇之陵に、馬及び兵器を奉納せよ。今、私は天武の前後に立ち、不破まで送って戻ってきた。今又官軍を守護する。西道から敵が来るので備えよ。」と告げた。お告げ通りに近江軍を撃退した。辛亥(二十二日)将軍吹負は倭地を平定し、大坂を越えて難波小郡で以西の諸国司らに官鑰・驛鈴・傳印を進上させた。

 

⑮壬申の乱の終結(敵方処分と有功者への褒賞)
癸丑(二十四日)諸将軍らが筱浪に集合して、左右大臣及び諸罪人らを探索し捕えた。乙卯(二十六日)将軍らは不破宮に参って、大友皇子の首を捧げ献じた。八月甲申(二十五日)高市皇子に命じて近江の群臣を処罰させた。丙戌(二十七日)諸々の有功者に恩勅し、顕彰し、褒賞を与えた。

 

⑯不破から倭京・嶋宮への天武凱旋
九月丙申(八日)車駕で伊勢桑名にもどり宿る。丁酉(九日)鈴鹿に宿り、戊戌(十日)阿閉に宿り、己亥(十一日)名張に宿り、庚子(十二日)倭京に詣で嶋宮に御する。癸卯(十五日)嶋宮より岡本宮に移り。是歳、岡本宮南に宮室を造る。即ち冬にここに遷り、飛鳥浄御原宮という。

 

三、壬申紀の記述目的

 壬申紀の記述目的は、天武挙兵の正統性を示すため、それに従った臣下・軍兵の功績の記録を残すため、そう考えるのが普通だろう。ところが後者には疑問がある。
 紀・続紀には、壬申の功で授位報償を受けた人物が五十八名もいるのだが、その内十二名は壬申紀に名が出てこない。又、壬申紀に天武側の臣下として名があるが、その後に授位報償記載の無い人物が二十六名もいる。
 つまり、壬申紀は全てを記録しているわけではないのだ。臣下の功績記録という点では不完全なのだ。そうすると、壬申紀の主な記述目的は後者では無く前者となる。
 前者の天武挙兵の正統性を示すためだけであれば、①~④および⑥・⑧・⑩~⑫・⑮~⑯の本戦の記載で十分なのだ。残りの部分⑤・⑦・⑨・⑬・⑭、つまり倭京戦は本戦にはほとんど影響が無く、(天武挙兵の正統性を示すためには)不要であることに気付かれるだろう。

四、「倭京」とは

 ここでは、大伴連吹負が倭京将軍と称されていることもあって、吹負の戦いを倭京戦とした。
 この「倭京」は、日本書紀の壬申紀以外に孝徳紀・天智紀でのみ出現する(続日本紀では出現しない)。
 白雉四年是歳条では、天智が「倭京への遷都」を孝徳に願い入れたが却下される。そこで天智は孝徳を残し、皇祖母尊・皇后・皇弟らと百官を引き連れ倭飛鳥河辺行宮に遷る。孝徳崩御後、皇祖母尊(斉明)が飛鳥板蓋宮で即位する。つまり、「倭京」を飛鳥河辺行宮および飛鳥板蓋宮を含む地として日本書紀は記述する。そうであれば嶋宮も岡本宮も同地域だ。⑯の「詣于倭京而御嶋宮」は、そのようにとれる記述である。
 ところが歴史学者は困っている。京と言う言葉から条坊都市が連想されるが、仁藤敦史氏(注1)は、岸俊男氏らの諸説を照会した上で「発掘成果によれば、倭京には規則的な方格地割さえ設定されていなかった可能性が高い。(中略)天武朝以前の支配機構にとって、条坊地割や方格地割はまだ京たりうるに必須の条件ではなかったと考えられる」と、京の定義見直しにまで言及する。
 一方、古田武彦氏(注2)は「倭京」が、倭国=九州王朝の存在と、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)の存在より、北九州にあった倭国の都としての「倭京」であると提起した。
 「漢書」以降「旧唐書」まで歴代中国の正史には、朝鮮半島東南大海の中の島国としての倭国が報告されている。その倭国の都であれば九州にあったと考えるのが道理であろう。加えて、聖徳太子の一生を伝える『正法輪蔵』(注3)には、「倭京二年の太子による難波および近江への遷都予言」、「倭京四年の太子入滅」などが記されている。『二中歴』にも年号としての「倭京」を伝えている。この「倭京」と言う年号を論証無く偽年号としたり、偶然の一致として無視することはできない。ここでは、「倭京」が日本書紀が匂わす「大和(今の奈良県)にあった京」なのか、それとも「倭国の都の名称」なのか、以下両面で考えてみる。

五、壬申紀の不可解点

【A】過酷なスピードでの天武吉野入り
 養老律令公式令行程条に一日の標準行程が示されている。「凡そ行程は、馬は日に七〇里、歩は五〇里、車三〇里」。換算すると「馬で行く場合は一日三十一km、歩いて行く場合は一日二十二km、車で行く場合は一日十三km」となる。もちろんこれは、伝送とか戦中行軍など特別な場合は除いての話であろうが、通常このような行程で移動したようだ。
 天智紀には「(十月)壬午(十九日)東宮は天皇に見え吉野に行き仏道修行をせんと請う。天皇これを許す。東宮即ち吉野に入る。大臣等がこれを送り菟道に至り還る。」とあって、吉野入りする天武を大臣等が宇治で見送る。壬申紀でも、印象深いこのシーンを①で繰り返し記述する。つまり、天武は十月十九日の朝、天智の許しを得て、近江京を立つ。同行した大臣等が菟道で見送り、その日の夕べには嶋宮に到着し、翌日には吉野に入る。発掘調査により、近江京は滋賀県大津錦織にあったとされている。そこから逢坂山を越えて宇治橋辺りで見送られ、その夕べには「奈良県高市郡明日香村・島ノ庄にあった離宮」とされる嶋宮に到着し、二十日には吉野(宮滝遺跡の辺りか)に到着したわけである。
 現代地図で道程を計算すると、明日香村・島ノ庄―吉野宮滝遺跡間は十九kmであって、馬でも、歩いてでも一日で往ける標準的な距離だ。しかし、大津市錦織―宇治間は十九km、宇治―島ノ庄間は五十三kmもあって合計七十二kmとなる。表向き天武は仏道修行に行くのだから過酷な行程は要らない。もし急ぐ必要があったのなら特記されるであろうが、その旨の記述も無い。
 ちなみに⑯天武凱旋は、九月九日伊勢桑名―鈴鹿三十一km、九月十日鈴鹿―阿閉(佐那具辺りか)三十四km、九月十一日阿閉―名張二十六km、九月十二日名張―嶋宮三十二kmと、妥当な道程だ。

【B】先に示した本戦と、⑤・⑦・⑨・⑬・⑭の倭京戦は⑪で連結している。⑪で、吹負の敗戦を聞いた紀臣阿閉麻呂が七月九日に軍を分けて吹負の元に置始連菟ら千余騎を送る。ところがこれを受けた⑬では、七月四日「墨坂(奈良県榛原辺り)で援軍の置始連菟に遭遇し」ている。更に「東師頻多臻」と、次々に援軍が到着している。五日も早くあり得ない。

【C】倭京戦の記述には、⑭で七月七日の幾日後~七月二十二日までの間、二週間程度の空白期間がある。

【D】本戦と倭京戦で兵の数に大きな差がある。前者は五百軍・三千人・二萬衆・数萬衆・数萬衆・三千衆・(近江軍も数萬衆)・後者への救援に千余騎。対して後者は数十人・数十騎・数十騎・三百軍・数百人・十二騎・(対する近江軍も二百精兵)という具合で、規模が桁違いだ。
吹負が倭京将軍だが、養老律令・将帥出征条によると将軍は三千~一万の兵を率いる。日本書紀中に現れる将軍が率いる軍兵は、欽明紀―大伴連狹手彦大将軍領兵数萬、用明紀―大将軍領二万余軍、推古紀―将軍来目皇子軍衆二万五千人、天智紀―前将軍・中将軍・後将軍率二万七千人と、いずれも吹負とは桁違いだ。

【E】倭京戦の主役は大伴連吹負だが、吹負は負け戦を続けている。倭京戦での功労者は援軍でやって来た三輪君高市麻呂と置始連菟だ。

【F】ほとんど戦時功績のない兄の大伴馬来田が後に正三位相当を授位したのに対して、弟の吹負は三段階下の正四位下の授位である。ちなみに、壬申紀に全く記載の無い、阿倍御主人が従二位、坂田公雷・星川臣麻呂・膳臣麻呂が正三位を、壬申の功で授位している。吹負に従った人物で後に報償記事があるのは、坂本臣財・佐味君少麻呂・鴨君蝦夷の三名のみである。

【G】不思議なのは⑯の天武凱旋だ。天武は戦中ずっと不破宮で待機し、大友皇子の首を確認した後、伊勢桑名―鈴鹿―阿閉―名張―倭京―嶋宮―岡本宮と凱旋する。その後、岡本宮の南に宮室を設け遷居する(これが飛鳥淨御原宮)。天武は近江京に見向きもせずに倭京・嶋宮・岡本宮入りする。
 ところが日本書紀によると、舒明紀二年(六三〇)十月に遷った岡本宮は、舒明八年(六三六)六月に焼けている。そして二〇年後の斉明紀二年(六五六)「是歳、飛鳥岡本にあらたに宮地を定める。(中略)ついに宮室が建った。天皇は遷って後飛鳥岡本宮と号した。(中略)岡本宮が(再度)焼ける。」つまり、岡本宮は焼けて、その後に建てた後飛鳥岡本宮もすぐに火災にあって、この時期には岡本宮は無いのだ。存在しない宮への凱旋だ。

【H】⑬の戦いだが、「(高安城から坂本臣財等が)西方を臨み見ると、大津・丹比両道を軍衆が大勢押し寄せ、旗・のぼりが見えた。(中略)財等は高安城から降って衛我河を渡り河西で戦った。財等は軍衆少なく防ぎきれず退却した」とある。このような戦い方をするだろうか。山の上から自軍を上回る敵兵を俯瞰し、有利である高所からわざわざ降りて行って、しかも川を背に戦い、あっさり退却する。地勢的に見て明らかにおかしい戦い方だ。

【I】⑬に奈良盆地の上・中・下道が出てくる。藤原京の東京極から北上し平城京の東京極と連なる中ツ道、そして藤原京の西京極から北上し平城京の朱雀大路となる下ツ道が、この時期にできていたのであろうか。
 逆に小学館版『日本書紀』注は「壬申紀の戦闘記事にすでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前には完成していた」とする。七一〇年の平城京設計図が既にこの時期にできているはずはない。この部分は日本書紀編纂時の知識で書かれた造作であろう。

【J】⑭で唐突に「事代主神が出てきて、神日本磐余彦天皇之陵に馬と種々の兵器を奉れ」と託宣する。なぜ事代主神であり、神武陵なのだろうか。ちなみに、事代主神は巻一~四を除いて神功紀とこの壬申紀にのみ出現する。神日本磐余彦は巻一~四を除いて壬申紀にのみ出現する。

 

六、壬申紀がこの記述になった理由

(1)【B】~【F】から、倭京戦は本戦とは別の異なる記録を繋ぎあわせたものと考えざるを得ない。岩波書店版『日本書紀』の注でも、倭京戦は大伴氏の家記などの記録と推察するが、【B】【C】の日程の不可解さは説明できても、【D】・【E】・【F】の不可解さを飲み込んでわざわざ壬申紀に加えた理由は説明できない。

(2)あらためて日本書紀を俯瞰すると、骨格ストーリーは、神武が大和の地にやって来て、最後は天武・持統がそこで我が国を治めたと言う歴史である。「神武東征の後、都を定めたのが畝傍の東南の地」であって、「壬申の乱の勝利後、天武はその地、飛鳥浄御原宮で即位」した。天武はこの地でその後に続く近畿天皇家の治世を完成させたと、日本書紀は語っているのだ。
 重ねて言うと神武紀で、神武は「事代主神の子、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし」、「畝傍山の東南の橿原の地を都に定め」、「橿原宮で帝位につく」のだが、壬申紀ではこれを想い起こさせるように【I】事代主神・神武陵のエピソードが挿入される。つまり、神武の橿原宮での即位で始まった、万世一系の天皇治世が同じ飛鳥(畝傍の東南)の地で完成させられるのである。倭京戦はこのため付け加えられた。

(3)ここで言う「倭京」が、日本書紀が匂わす「大和(今の奈良県)にあった倭京」ではなくて、実は「倭国の都」であったとすれば、先のストーリーを完成させるために九州から大和へ持って来なければならない。
 【A】で、なぜ大臣等が宇治で見送ったのか、こうは考えられないだろうか。琵琶湖から流れ出る宇治川が、宇治橋の下流で巨椋池に流れ込む。ここは古代中世を通じて、水上交通の中継地だ。近江京から宇治に至り、そこから九州の倭京へ船出する天武を見送ったのではないか。九州には唐の駐留軍も居る。まさに「虎に翼を着けて放てり」だ。これを「大和(今の奈良県)にあった倭京」への道程とするため、北九州と畿内の話を繋ぎ合せた。その歪みが過酷なスピードでの天武吉野入りとして現れたのだ。
 【B】の逆転した日程や、【C】の二週間程度の空白期間も、この継ぎ接ぎの歪みと考えると肯ける。

(4)「大和(今の奈良県)にあった倭京」を匂わすために、【D】【E】【F】【H】【I】の大和盆地における局地戦、小競り合いを倭京将軍の戦績として加えたとすれば肯ける。【G】の存在しない宮へ凱旋も継ぎ接ぎの歪みであろう。岡本宮南の宮室、つまり飛鳥浄御原宮も九州にあったと考えられるのである。

(5)さいごに、古田武彦氏は(注2)で、飛鳥浄御原宮は福岡県の小郡とした。そして「日本書紀の編者は全体においては、郭務悰と天武天皇との筑紫における出会いそして深い両者の信頼関係、それを隠した。」と結論づけている。

 

(注1)『古代王権と都城』平成十年、吉川弘文館、仁藤敦史著

(注2)『壬申大乱』二〇〇一年、東洋書林、古田武彦著

(注3)『日本庶民文化史料集成』第二巻に収蔵、一九七四年、三一書房


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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