2021年2月15日

古田史学会報

162号

1,「高良玉垂大菩薩」から
「菩薩天子多利思北孤」へ
 正木裕

2,野田氏の「女王国論」
 藤井謙介

3,大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀
 大原重雄

4,六世紀から七世紀初頭の大和政権
「船王後墓誌」銘文の一解釈
 日野智貴

5,田和山遺跡出土
 「文字」板石硯の画期
 古賀達也

6,「天皇」「皇子」称号
 西村秀己

7,「壹」から始める古田史学二十八
 多利思北孤の時代Ⅴ
 多元史観で見直す
 「捕鳥部萬討伐譚」
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,割付担当の穴埋めヨタ話
 「春秋」とは何か?

 

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女王国論 野田利郎(会報161号)


野田氏の「女王国論」について

神戸市 藤井謙介

 会報№161に掲載された野田利郎氏の「女王国論」を興味深く拝読した。私も編集後記にあった、いわゆる「不弥国・邪馬壹国間距離0」という表現はいささか誤解を招くものであり、論理的な補足説明がいるだろうと思っていたからである。その上で、野田氏の立論にはいくつかの疑問を感じたので、以下に述べてみたい。

一、不弥国は「女王国」か

 野田氏の論旨を要約すれば「総里程万二千余里に適合する国は不弥国」である。また、女王国は郡から万二千余里にある」と明記されている。だとすれば「不弥国が女王国である」という一種の三段論法に依っている。
 だが、不弥国から邪馬壹国までの里程が書かれていないのは、倭人伝の里程記載の最小単位が百里であって、邪馬壹国までの距離は百里に満たない短さであったためと理解するのが自然ではないだろうか。野田氏が「倭人伝の各国間の距離は邪馬壹国に近づくにつれ、短くなる傾向がある」と要約されているように、私が里程についての古田説を正しいと考えるのもこの平明な論理性にある。このことを古田武彦氏は端的に「距離0」と表現されたわけだが、この0を数学的な意味での0と理解する必要はないだろう。いわば“言葉の綾”であって、論理的に言い換えれば「百里未満の短い距離」となるのではないか。
 そして、百里未満の短い距離は余里という表現に含まれるだろうから、不弥国までの距離が万二千余里であることと同じく、邪馬壹国までの距離“もまた”万二千余里だということになる。つまり万二千余里という距離に適合するのは不弥国“だけ”という野田氏の演繹的推論の前提が崩れることになる。
 野田氏の言われる「陳寿が(中略)万二千余里に該当する国は一つであることを前提にしている」についても、陳寿が述べているのは、単に「女王国は郡から万二千余里の距離にある」という理解であって、郡から見て不弥国と邪馬壹国はほぼ同距離にあるということを否定するものではない。すなわち、倭人伝の記載から分かることは小国の不弥国と大国の邪馬壹国とが極めて近接して並んでいたという事実である。このことを古田氏は「不弥国は邪馬壹国の玄関」と表現されたのであり、この二国の関係の解釈として特に矛盾はない。だとすれば、「南至邪馬壹国女王之所都」「自郡至女王国万二千余里」と原文に書かれてある通り、邪馬壹国が女王国であり、郡から万二千余里の距離にあるという平明な解釈で何ら問題はないように思われる。この論理の筋道は野田氏が述べている「はじめから邪馬壱国が女王国であることを前提に」した循環論法ではない。また、氏が「不弥国と邪馬壱国との距離が書かれていないのは、その方向へ進行していないから」とするのも、奴国や投馬国等、傍線行程の記載例から見て無理があると考える。

 

二、「南至邪馬壹国女王之所都」について

 これに関する論証で野田氏が述べたかったのは、「所都」は「都する場所」という意味だから、あくまで小さな領域を指すものであり、邪馬壹国という大きな領域とは一致しない。つまり、小さな領域が不弥国であり、すなわち女王国であるということなのだろうか。
 だが、氏が述べられた「邪馬壱国が女王国であるなら、邪馬壱国と『都する場所』とは同一でなければならない」に関して挙げておられるイ~二は、要するに「逆は必ずしも真ならず」という例であって、氏の論理を補強するものではないように思われる。野田氏は「~する所」という表現を一定の領域の中のピンポイントを指すと捉えておられるようだが、むしろ文の調子を整え目的語に焦点をあてる強意表現だと思うのだが。そもそも、氏も挙げておられる「天子所都曰京師」も野田氏の論法を流用すれば“天子の都を京師と呼ぶが、京師のすべての領域が天子の都であるとは述べていない”といった非論理的な結論になってしまわないだろうか。
 また、野田氏は「邪馬壱国と不弥国が接していても、それは不弥国の東の国境が接しているだけであり」と述べているように、不弥国の東に邪馬壱国があると理解されているようであり、原文が示す位置関係とはずれているのではないだろうか。「南至邪馬壱国」とあるように邪馬壱国は不弥国の南にあるとするのが自然な解釈だと考える。

三、「論理の行きつくところ」とは

 私が、かつて古田武彦氏の論説に頷くことが多かったのは、その平明な論理性にある。それは、古田氏も述べられていたように、魏志倭人伝の第一の読者が皇帝をはじめとする宮廷人であるとすれば、素直に読んで理解できる内容でなければならず、独特な解釈を積み重ねて、ましてや原文改定を重ねてやっとたどり着くようなものであるはずがないという点であった。そして、その平明な解釈を積み重ねた結果が、「邪馬壹国」説であったり「九州王朝」説であったりといった、一般には“奇矯な”説であっても私には納得ができた。まさに「論理のいきつくところに行こうではないか」であって、おそらく本会の会員の多くもそうに違いない。ただ、もちろん古田説と言えど無謬ではないのだから、それへの反論はあって当然だろう。ただ、その反論は、やはり平明な論理の上に立つものでなければならないと思う。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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