2021年2月15日

古田史学会報

162号

1,「高良玉垂大菩薩」から
「菩薩天子多利思北孤」へ
 正木裕

2,野田氏の「女王国論」
 藤井謙介

3,大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀
 大原重雄

4,六世紀から七世紀初頭の大和政権
「船王後墓誌」銘文の一解釈
 日野智貴

5,田和山遺跡出土
 「文字」板石硯の画期
 古賀達也

6,「天皇」「皇子」称号
 西村秀己

7,「壹」から始める古田史学二十八
 多利思北孤の時代Ⅴ
 多元史観で見直す
 「捕鳥部萬討伐譚」
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,割付担当の穴埋めヨタ話
 「春秋」とは何か?

 

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「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 西村秀己 (会報163号)
「天皇」「皇子」称号について 西村秀己(会報162号)../kaiho162/kai16206.html

割付担当の穴埋めヨタ話 『太平記』の中の壬申の乱(会報156号)


「天皇」「皇子」称号について

高松市 西村秀己

 一九九八年三月二日、奈良国立文化財研究所は奈良県明日香村飛鳥池遺蹟から「天皇」の文字が書かれた木簡が出土したと発表した。飛鳥池遺蹟からは他に「穂積皇子」「舎人皇子」「大津皇」「大伯皇子」などと書かれた木簡も出土している。また、一緒に出土した木簡二点に「丁丑」と記されていたことから、この年は天武六年(丁丑年六七七年)と考えられ、少なくとも七世紀後半の天武・持統期には「天皇」号が実用されていた事が定説となった。だが、特に各種「皇子」木簡は『日本書紀』を一度も読んでいない(天武の子供の名乗りをまったく知らない)人が当該木簡を見た時、本当にそう読めるのだろうか?当該木簡を写真等で確認した筆者からしてみればそういう疑問が沸き上がるのだが、本稿の趣旨とは異なるのでこれについては保留する。これを古賀達也氏は『洛中洛外日記』で次のように記す。

 

『古賀達也の洛中洛外日記 第444話2012/07/20 飛鳥の「天皇」「皇子」木簡』

(前略) 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。この点、市大樹著『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』(146頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』 が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」と されています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。

 要するに出土地が大和の飛鳥であり『日本書紀』の記述内容とも整合しているので、この「天皇」或いは「皇子」は倭国のナンバーワンである「天子」に臣従する倭国ナンバーツーのヤマト王家の呼称であるという訳だ。
 だが、少しお待ち戴きたい。それでは倭国ナンバーワンは何と呼ばれていたのか?古賀氏は古田氏に倣って「天子」と呼ばれていたと考えているようだが、残念ながら「天子」では無い。『隋書』には「日出ずる処の天子」との倭(俀)国王の名乗りが有り、また他の中国の史書には「天子を僭称する」等の記述が相当数出て来るので「天子」が正式な呼称だと勘違いされる向きがあるかもしれないが、正確には「天子」は呼称では無く概念なのである。天=天帝の子供が天下を治める、という概念の基に創られた言葉だ。その証拠に『史記』を紐解けば「五帝」(「三皇」は司馬遷が書いたものでは無いので省略する)も「夏王」も「殷(商)王」も「周王」も「始皇帝」も漢の「皇帝」も皆「天子」なのだ。従って、倭国ナンバーワンの称号を探すに「天皇」以上のものを提示してもらわねばならないのだが、この時代、少なくとも七世紀後半での東アジア世界の至高の称号はどうやら「天皇」のようなのだ。

 舊唐書の本紀には以下の8例の「天皇」が記載されている。
①高宗天皇大聖大弘皇帝、諱治、太宗第九子也。
②(顕慶五年〈660〉)秋八月壬辰・・・皇帝称天皇、皇后称天后。
③群臣上諡天皇大帝
④改諡曰天皇大弘孝皇帝
⑤高宗称天皇、武后亦称天后
⑥皇孝高宗天皇大帝
⑦上玄元皇帝尊号曰大聖祖高上大廣道金闕玄元天皇大帝
⑧高宗諡曰高宗天皇大聖大弘孝皇帝

 ⑦は初代皇帝李淵の父李昞を追号した記事だが、①~⑥及び⑧は高宗(李治)を「天皇」と称した記事である。即ち、唐の最高権力者は660年から683年(高宗没年)まで「天皇」であったのだ。
 つまりこの頃の東アジア世界では権力者の序列は、天皇>皇帝>王だった。倭国はその世界の一員であるのだから(漢字を使用している以上)基本的にはその序列に従っている筈だ。(従っていないという向きは論証が必要である)この時期は唐の半島侵略戦争の時代なので倭国ナンバーワンが唐の李治に対抗して「天皇」を名乗ることは十分に有り得ることだ。しかしながら倭国のナンバーツー以下であるヤマト王家が「天皇」号を名乗ることは有り得ない。先に述べたように、もしヤマト王家が「天皇」ならば倭国トップの称号は何だったのか?また、倭国ナンバーツー以下のヤマト王家の子供たちが「皇子」なら倭国ナンバーワンの子供は何と名乗っていたのか?著者にはちょっと想像がつかない。
 従って七〇一年の王朝交代までは、「天皇」や「皇子」の文字が何処(筑紫だろうが大和だろうが河内だろうが摂津だろうが)で出土したとしても、取り敢えず倭国ナンバーワンの倭国王のものと考えるのが自然ではないだろうか?正確に言うならばヤマト王家のものだとするには、倭国ナンバーワンのものではない、という論証が必要不可欠ではあるまいか。
 大和飛鳥池遺跡で出土した「天皇」「皇子」木簡は倭国(九州王朝)の統治者たちを表わし、決してヤマト王家の者たちを表わしているのではない。首都(古賀氏は副〈複〉都と考えているようだが、筆者はこう断言する)難波宮が焼失した後、倭国王とその家族と数千人の官僚やそれを取り巻く人たちは何処へ行ったのか?すぐに藤原京を計画するのだから、筑紫に還った筈はない。おそらく、藤原京計画地の近傍、すなわちヤマト王家の本拠地「飛鳥」を接収して臨時の都にしたに相違ない。筆者は以上のように考えているのだが、如何だろうか?


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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