「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ

古田史学会報2号 へ


古田史学会報 1994年8月18日 No.2

探求道々(題字は縦書き)

                                   古田武彦

  新しい発掘のニュースが報ぜられる。そのたびにドキッとする研究者も多いことであろう。ことに古代史研究の専門家にとっては、従来の「自家の説」が“験(ため)される”リトマス試験紙、それが新発掘のニュースなのだ。
  もしそれが、今までの「定説」のように説きつづけてきた従来説と矛盾していたら。-そのときの対応姿勢によって、その研究者の「学問的誠実さ(シンセリティ)」が問われることとなるのである。
  今回、「韓国で埴輪十二点出土(6世紀、光州」(朝日新聞、一九九四・五・二〇)の報道は、従来も朝鮮半島の南岸部に「前方後円墳群あり」との情報が続出していたが、それに“追い打ち”をかけるものだった。 「朝鮮半島南岸、倭地説」に、あるいは反対し、あるいはソッポを向きつづけてきた従史来説の論者(NHKをふくむ)にとっては、手痛い鉄槌となろう。
  「被葬者は日本と往来していた当地の有力者の可能性がある。」との、識者のコメントが付せられていたけれど、“東京と往来しているイギリスの貿易商社の幹部”は、死んだら、ロンドンに「日本風の墓域」を作るものなのであろうか。いかにも、苦しい。 朝鮮半島南岸域には、「前方後円墳」が多い。なぜか。この問に対する、率直な答え。それは次のようではないか。-「そこは、倭地だったから。」
  民族感情や現代のナショナリズムで、歴史を歪曲してはならない。歪曲者に阿諛してはならぬ 。「「日韓併合」という名の侵略を、侵略として率直にうけとめる(当り前すぎることだ。)者こそ、歴史に対して率直であることを、決して恐れてはならない。 半島内「倭地」の存在は、すでに三世紀からだったのだ。 「韓は、帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為す。南、倭と接す。」(三国志、魏志韓伝) 陳寿は、ここでも虚辞をのべず、記述は真実(リアル)だったのである。
        ◇
 次のニュースも、すばらしい衝撃力をもっていた。

「国内最古?[イ方]製鏡が出土、福岡市の有田遺跡」(朝日新聞、一九九四・七・五)

 きれいなカラー写真が一面にあった。通例の、いわゆる「前漢鏡」と並べて、今回出土の「国内最古と見られる[イ方]製鏡」の写 真がクッキリと写されている。行き届いた配慮だ。 では、なぜそれがニュースか。この疑問は、一般 の読者には「分かりにくい」かもしれぬ。しかし、学問的には、大きなニュースだ。従来の通 説、「学問上の定説」がくつがえろうとしているのである。
 ことは、考古学の根本の編年、その「方法」の問題だ。
 従来は、BC一〇〇~AD一〇〇の間を「弥生中期」と称し、吉武高木(福岡市)・三雲(前原市)・須玖岡本(春日市)・井原(前原市)・平原(同上)のような、超一級の王墓を、その時期(とその直後)のように解してきた。「前漢式・後漢式鏡」の王墓だ。
 そして弥生後期(AD一〇〇~三〇〇)は「[イ方]製鏡の時代」だと言ってきたのである。それは、御承知の通 り、卑弥呼の時代。「銅鏡百枚」(倭人伝)の当時だ。
  わたしは、このような従来の編年を「非」としてきた。「前漢式鏡」「後漢式鏡」と「[イ方]製鏡」とは、別 時代ではない。同一の時間帯に共存し、「補完」する関係にある。そう、主張してきた。
 ところが、今回、まがうかたもなく、「弥魏生中期後半」のかめ(みか)棺から、問題の[イ方]製鏡が出土したのだ。
 従来の「考古学編年」の基準が、音もなく崩れ去ってゆく、そのひびきを感じとる考古学者は、いないのだろうか。そしていつ、従来の編年の「非」を、恐れずに世に告げはじめる人々が出現するのだろうか。
 ◇       ◇
  三内丸山遺跡を見てきた。青森県青森市。古代史研究会の鎌田武志さんのお宅のすぐそばだ。
 いつも、鎌田さんのお宅に泊めていただくたびに、「末の息子が、また、縄文土器のかけらを掘り出してきましてね。」と、話しておられた。道理、言語に絶する一大遺跡、この縄文中枢都市圏の一端に住んでおられたのである。
 見てよかった。これほどとは、想像すらできなかった。これはまさに「企画された都市」なのだ。
 最初に建てられた住居群が“手狭ま”になり、山を崩して谷を埋め、さらにその住居群を“拡大”しているのである。この縄文前期から中期にかけての千二~三百年の間に。
 「まるで、神戸市みたいですね。」
 
わたしがそう言うと、詳しく、丁寧に、長時間、説明して下さった岡田康博さんもうなずいておられた。まことに、あの秋田孝季の言葉のように「歴史は足にて知るべきものなり。」だった。
 格言だけではない。孝季の記録した『東日流外三郡誌』の中の「津保化族伝話」の中には、恐るべき一節がある。

「彼の故土に於て、幾百万なる津保化族栄ひ(へ)、雲を抜ける如き石神殿を造りき(し)あり。」(括弧 内は、古田)

「石神殿」とは、「石の神殿」ではない。「石神の殿」だ。なぜなら、
1 「阿蘇部族の石神」「津保化族の石神」といった風に、「石神」というのが、この書の“常用語”だ。基本用語の一つなのである。
2 「雲を抜ける如き」という形容句は、石造のピラミッドなどにふさわしい言葉ではない。相撲の櫓太鼓の“木の建造物”、あれを下から見れば、文字通 り「雲を抜ける如き」だからである。

  問題の『東日流外三郡誌』で靺鞨・珍愚志(ツングース)族の一派とされる津保化族、その宗教的習俗として、右のような描写 がある。 今回、この遺跡から直径八〇センチの木柱末端が整然と出土した。「二〇メートル前後」の木造建築だ。文献と遺跡と、両者の間の不思議な対応、その契合に、わたしたちは深く沈黙せざるをえないのである。
 もちろん、「東日流外三郡誌、偽作説」の泥沼に、両足を踏みこんでしまった論者たちは、ここでも冗舌に「中傷」や「証言つぶし」に奔走しようとするであろう。
 しかし、もっと慎重に、この貴重な文献の語るところ、その証言に、静かに耳を傾けてみよう。そのように思い、そのようにふるまう人々は日いちにちと増え続けるであろう。それが真実の力である。
(詳しくは、八月二月十八日の大阪、創立記念講演会にて。)

追記 2000.11.3 題字は古田氏です。


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ

古田史学会報2号へ

大和桜の反証へ戻る

古田史学会報へ

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"