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1994年11月 3日 No.3

古田史学会報 三号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
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和田家文書は真作である 大和桜の反証 古田武彦 (国史画帖大和桜について)


和田家史料の「戦後史」 古賀達也


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史料批判と学問の方法

 
一、序として
                               静岡市 上城 誠
 『和田家文書』偽書論争において、私たちは学問の方法を再考する良い機会に恵まれたと云わねばならない。          
 私たちは、古田武彦氏の提唱された多元史観を是とする以前に、氏自身が用いられた学問の方法を是としたのではなかったか。そして氏の依って立つ学問の方法は、今回の『和田家文書』に対しても、まったく変化なく適用されている事実を、私たちは確認していたのではないかーー。であるならば、当該文書は偽書であるが、他の古田説は優れた論考であるから、私は氏を支持し、当該文書については、研究及び発言をしない。というような立場は、既に間違いを内包していると言えよう。
 私たちは、自身の間違いを確認する為に、偽作説の立論点と、その方法を検討しなければならない。
 それは以下に見られる三つの柱で成り立っている。

第一、用語論
  『和田家文書』中に現れる学術的用語使用状況と、その使用年度を調査し、その用語の成立年との対比から、寛政年間より明治期には有り得ざるものと論考し、偽書である事を証明したとするもの。(進化、銀河系、光年、宇宙の年齢等々)

第二、筆跡論
 『文書』中の特定文字の誤りの共通性と筆順の同一性を、和田喜八郎氏の文章中より見出し、他の文字の字形の近似等と合わせて、氏の偽作と断ずるもの。

第三、人格論
 和田喜八郎氏の経歴、及び発言に種々の憶測を加え、人格を不審とし、偽書を造りうる人物とするもの。

 右記三点を繰り返し論ずるのであるが、これで偽書論争は決着したのであろうか。私たちが是とする「学問の方法」で考えるとき、第一第二の論点は調査研究の出発点(第一段階のWhy)であって、結論を出せるものとは思えない。また第三点に至っては学問上の論点ですらない。想起してみよう。松川事件における「共産党員」というレッテル。 あるいは広太王碑論争における「酒匂スパイ説」の果たした心理的役割。これらと同じ認識上の誤りを私たちに与えるためのみに述べられているのだ。私たちは古田武彦氏の次の言葉を「学問の方法」としている。

 「あるいは学者たちがいかに揃って“これが定説だ”と言っていたとしても、あるいは鋭利な専門家が“種々の状況証拠から見て結論はこうだ”と断言したとしても、ささやかなひとりのしろうとである私の目に、それが明白な論証、自明な道理として見えないかぎり、私は私自身を納得させようと思わない」(『邪馬壹国の論理』)

 ここに示された先入観なき実証精神、実証主義こそ原点である。状況証拠をいくら積み重ねても、直接証拠とはなりえない、だからこそ偽作論者は第三の人格論を利用、強調するのだ。私たちは松川事件裁判、広太王碑改竄論争の誤りを繰り返してはならない。  
 一例を示そう。             
 斉藤隆一氏(市民の古代研究会会員)は、私(上城)が『和田家文書』中に現れる「過却」という用語は、和田喜八郎氏の使用する「過却」と意味上の違いが有り、和田喜八郎氏偽作説は成り立ちにくい事を述べたことについて、「過却」イコール「過去」という使用例を『文書』中から抜き出し反論をされた。その用例は『北鑑三十七巻』「永き過却の物語」や、「過却・現在・未来」というようなものである。それは良いとしよう。問題は、ここに表現された斉藤氏の史料批判の方法である。
 『文書』中に現出する「過却」には(A)単なる時間的昔を意味し、私たちが使用する「過去」と全く同じ意味を有するもの。(B)過去の事で忘却されてしまったもの、あるいは過ぎ去りつつあり忘却されようとするもの。という意味に使用される思想的用語。以上(A)(B)二つのタイプの使用状況が認められる。そして、喜八郎氏の文章中には(A)タイプの使用法しか認められないのだ。特に(B)タイプこそ特徴的な使用法であり、過却という文字面 にふさわしい意味を持つだけに、氏の文章中に現れない事実は重要である。これを斉藤氏は判っていながら論じようとしない。
 自己の立論に不都合な事実にはふれようとしないのである。
 これでは史料批判ではない。直接研究しない読者に一方向からの誤情報を流すために書かれているといっても過言ないであろう。
 八幡書店版『東日流外三郡誌』第六巻二七〇~二七一頁を参照されたい。ここでは「うつせみの歴史の過却は今は惟荒芒たる寒村落に遺れる民の貧しき暮しに息跡残る耳なり。(中略)富める者は過去に貧しき非民の輩に在りしも(中略)亦、過去に高貴徳富たる者とて云々」というように「過去」と「過却」を同一文章中で使い分けているし、同社刊『東日流六郡語部録』三七七頁にも同様の例として「過去現在未来を往来すること自在なる(中略)過却の罪障を断って神なる聖判を受く。」が見られる。このような点から考えれば、本来は「過却」と「過去」は明確に使用区分がなされていた(秋田孝季段階)。和田末吉、あるいは長作再写 段階で区分の混乱が生じた(長作段階の可能性大)。和田喜八郎氏は『文書』の最多読者であり、氏は「過却」をすべて「過去」と読み、ゆえに氏の文章中には「過却」=「過去」という誤使用のみが出現した、と考えられよう。
  これが史料事実のみを見た結論であり、和田喜八郎氏偽作説は成立しにくいのだ。斉藤氏の立論には作為的な面 が少なからず見うけられる。私たちは結論を急がず、史料事実を一つ一つ検証しながら、Whyを積み重ねていかねばならない。良い意味で『和田家文書』は手ごわい。再写 と再書の意味上の違いはないか・・・長三郎吉次と壱岐は本当に同一人物か‥‥長作の昭和初期改編はどこまで及んでいるのか等々、私たちのなすべきことはあまりにも多い。次回は原田実氏の立論を検討しながら、『文書』の成立論を進めてみたいと思う。


『和田家文書』の可能性と史料誤読

         静岡市 上城 誠  

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ビッグバン理論の誕生          
 『和田家文書』中に寛政丁巳年八月二日(一七九七年)に秋田孝季が長崎でビッグ・バンの講義を受けたことが記されている。従来、この理論が提起された時点が一九四〇年(昭和十五年)であることが科学史の定説となっているため、同文書偽作説の根拠の一つとされていた。これに対し古田武彦氏は『真実の東北王朝』という著作のなかで「科学理論は、それ自身が定説化する迄に、長い前史を持っている」という至極当然な考え方を示し反論された。              
 私は、その具体例を報告したいと思う。進化論を初めて唱えた事で知られるエラズマス・ダーウィン(有名なチャールズ・ダーウィンの祖父)は、その著『ゾーノミア』以前、一七九二年六月『植物の経済学』を著し、その中で詩と脚注においてビッグ・バンを予見していた。               
 --「光よあれ!」と全能なる神が告げる
 と、渾沌はその力ある言葉を驚きのうちに
 聞いた---
 彼のすべての領域を輝くエーテルが走り
 物質が集まって百万の太陽を作り始める。
 あらゆる太陽の惑星が素早く爆発し、
 二つ目の惑星が投げ出され、
 推進力で飛ぶうちに進路を曲げて、
 ためらいがちにもみごとな楕円を描く。
 天体は円をなして回り、
 その中心も天体を回り、
 釣り合のとれた一つの全体が回転する。

これが詩の部分であり、脚注での説明は次のようである。
 
  星々が渾沌から爆発によって投げ出されたのだとすれば、周知の重力の法則によってふたたび渾沌に戻ったにちがいないという反論が予想される。しかし、渾沌全体が火薬の粒のように一斉に爆発し、同時にあるいは時をおかずして、無限の空間に向けてあらゆる方向に拡散したならば、そのようなことは起こらないだろう。

まさしく、現在のビッグ・バン理論の予見であり、『和田家文書』中の時間帯の五年前なのである。 
 この文章は工作舎刊『エラズマス・ダーウィン』著者デズモンド・キング=ヘレ、訳者和田芳久、一九九三年六月十日発行を参照した。同書は「進化」「遺伝」「ロケット」等『和田家文書』偽作説に疑いを抱かせる多くのヒントに満ちている。是非一読されたい。

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出雲荒神谷遺物と誤読された和田家文書
              
 『和田家文書』は大いなる可能性を秘めた一大資料である。私たちはいまだにその全容に接していないのであるから、現代人のあまりにも現代人らしい感覚と、そのさかしらで偽書と断じるのは早計にすぎよう。
 偽書説論者が用いる例に出雲荒神谷遺物の件がある。『和田家文書』中「荒覇吐神一統史」は荒神谷遺跡発見後に書かれたものであり、それ以前には、考古学者さえ予想しえない出雲での銅鐸・銅矛の同時埋蔵を記していること自体、発見後に書かれた偽書の証拠であると述べるのだ。個人的感想としてならば許されであろう。しかし学問上の発言ではない。
 私たちは、もう一度先入観を捨てて史料そのものを読みなおしてみよう。

(前略)出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし処なるも、廃社となりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ 。倭領に荒覇吐神にて一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。(中略)開化天皇鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を埋めたり。(後略)

  以上である。全文及び廃神器図は八幡書店『東日流六郡誌大要』四〇八~四一〇頁で確認されたい。
 さて、この文面の何処に出雲荒神谷に銅器を埋めたと書かれているのであろうか。素直にありのまま文章を読み取るならば、「出雲荒神谷神社が存在した。同神社は神器としての銅器を神に献じる為の神社であったが、開化天皇の代に、その行為を倭領において禁じた為、同神社の存在は無用となった。そして廃社となった。各地域で銅の神器は土中に埋められ、神社は存続しても祭神が変更される事が多くあった。荒覇吐神はこうして廃されていった。」という意味にしか読めないのである。偽作説論者は大いなる誤読に立っていると言えよう。そして私たちが史料事実に向かい合う時、『和田家文書』の秘めたる可能性を感じないではいられないであろう。要点のみ列記してみよう。          
一、出雲荒神谷神社は祭神大物主。
一、神に献じる銅器の為の神社である。
一、他の地域の神社は神器の変更、祭神の変更により存続。
一、同神社のみ廃社。
  この四点からみると、同神社の重要性が透けて見える。出雲荒神谷出土物が同地で作られた物という見解が決定的な現在、当該『和田家文書』のもつ重要性に注意を払わなければならないであろう。
このように『和田家文書』はいまだ多くの可能性を秘めている。私たちは謙虚に研究を進めなければならない。


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�� 連 載 小 説 �����������������
 太陽神流刑    (一)
 --古田武彦著『古代は輝いていた』より--     
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 闇の中に道が一筋、雪明りを放っている。
 赤ギツネは、その路上でもがいていた。左の後足と尻尾に太い綱が絡んでいる。猟師のしかけた罠だ。雪がうまく覆い隠していたので、キツネは知らずに足を踏み入れ、虜になってしまったのだ。    
あがく程綱は食い込み、キツネの体を陥穴の底へ引きずり込もうとし、尻尾はちぎれそうに痛む。しかし、キツネは暴れるのをやめない。雪が跳ねて目は霞み、耳も鼻面 も背中までびしょ濡れだ。何て汚いのだ、人間は……! こちらは月夜の散歩と洒落込んだだけなのに……なまじ風流心を起こしたばかりにこんな目に会うとは……
 上空にはもう血の匂いを嗅ぎつけて、夜鳥の群れが渦巻いている。鋭い声が夜気を裂き嘴や爪が柔毛(にこげ)を掠める。闇に光る目、牙をかみ鳴らす音、時折雪が飛沫を上げるのは獲物を認めての武者震いだ。奥の岩場はオオカミの巣窟なのだ。八方から竜の息吹が迫って来る。このままでは、炎の頤(あぎと)に吸い込まれてしまう--嫌だ、死にたくない!自分には、愛する那美と可愛い子供達がいるのだ。自分が死んだら、誰が彼らを守ってやるのだ? 神魂命(かもすのみこと)、お救い下さい--!  
 「あなた、あなた、どうなさったのです」
 「父上、父上!」
 左右から揺すぶられ、八束(やつか)はハッと目をあけた。仄暗い中に、妻と長男の心配そうな顔が浮かび上がる。
 「夢だったのか……。」 
 八束は大きく息を吐いた。
 「ひどくうなされておりましてよ。」  
 妻のみづほが濡れた衣を渡し、
 「父上、これをお飲みなさいませ。」  
 長男の淡島が、スグリの実の酒を差し出した。
 一気に仰いで、八束は外を覗いた。風が荒れ狂い、波が打ち寄せている。岩屋の奥にいても、身を切られるようだ。背後の廣野では、夢見た通 りの光景が展開しているやもしれぬ。かすかに瞬く灯を認め、オオカミ共はここへもやって来るだろうか……? いや、獣は海を恐れる。優しくせせらぐ泉や小川はともかく、へたに海岸に近づいては足を滑らせ、暗黒の淵に飲み込まれかねない。
(明日は、あの怒涛を乗り越えねばならんのか……)        
 八束はそっと矛を握り締めた。      | 
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 「父上、よくお休みになれましたか?」 
 淡島が岩屋へ入って来た。
 方々の小さな穴から眩い日が射し、灯は皆消えて黒くくすぶっている。
「すっかり凪いだようだな。」
 八束は表を覗いた。吹き荒んでいた風は弱まり、入り組んだ岩場の向こうに海が開けている。一面 に日を受けた水は、銀灰色に漣立っていた。かすかに漂う薄青い煙は、祈祷か朝餉(あさげ)の用意だろう。
「父上、母上が昨夜の夢占をされるそうです。おいで下され。」   
淡島は先に立って、煙の方へ歩き出した。十七になる淡島は、皮膚こそ浅黒いがいかにも華奢で、骨太な父親とは対照的だ。曇天の多い珠洲岬で生まれ育ったせいか、伏目がちな睫 毛、細い鼻、薄い口元、顔全体が沈みがちで、漁よりも貝を拾ったり選り分けたりする方が似合いそうな雰囲気である。実際には弓も矛も一人前に扱ったし、船も漕ぎ、泳ぎも出来たが、後継としては八束にも物足りなさを感じていた。
 岸への途中の小じんまりした広場に火が焚かれ、白衣の女達がせわしく往来している。衰えたとはいえ、内陸に比べたら強い海風に抗(あらが)いながら、正面 の祭壇に標縄を張っている者、両側に榊を立て、白と青の幣やま勾玉を吊す者、薪をくべる者--火の上には鳥や魚が何匹も串刺しになって、香ばしい匂いを立てていた。 

 妻の那美が、複雑な文様を飾り付けた素焼の瓶を運んで来た。昨夜、淡島が気つけ薬として父に供したスグリ酒が、縁まで湛えられいる。漁猟の獲物も新たな酒(みき)も、まず神に捧げた後、人が食む。祭壇に供えず口にした食物は不浄であり、災いが生まれる原因だと人々は信じていた。
 臨月近い那美はせり出した腹に燦びやかな裳や上衣を重ね、蓬莱山が動いているようだ。元々老成した一面 があったが、妊ってからは日に日に血色は冴え、態度も物言いも決して慌てず急がず、大母神のような豊けさが漲って来た。八束の妻の中でも最も若く健康体であり、巫女としても優れていたので今度の遠征にも従って来たのだが、人々の受けも良く、那美の子供こそ八束の後継と秘かに期待している部下も少なくない。
 突然、瓶が滑り落ち、真っ二つに砕けて黒い液が飛び散った。    
 「那美、どうした!」  
 「お方様、しっかり--。」
 八束や侍女達がうろたえる惟中で、那美は腹を抑えて呻吟し始めた。 
               (続く)
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 『太陽神流刑』連載のご挨拶
深 津 栄 美
 以前も時々投稿させて頂いておりました、東京在住の深津でございます。
 この度、古田先生や古賀氏のお勧めにより、拙いながら、古田説をベースにした小説を発表させて頂きました。本当は丸五年がかりで、『古代は輝いていた』三部作全部を「彩 神(カリスマ)」という総題で勝手に小説化させて頂いたのですが、この作品はその冒頭に当り、「『風土記』の中にいた卑弥呼」の「流された太陽神」(=ヒルコ神話)、及び「国引き神話」をベースにしております。学界に遠慮して古田説を取り上げないプロの小説家達も情けのうございますが、せっかくの古田説をハーレークイン・ロマンスに仕立ててしまいました事、どうかお許し下さいませ。
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ファッショを許すな
 ---設立記念講演会に参加して
福島県原町市 青田勝彦
 七月に佐々木広堂さん、外里富佐江さんたちと無事「古田史学の会・仙台」の結成総会と古田先生の講演会を成功のうちに終えることができてホッとしていた所でしたが、その折に古田先生が話された例の『東日流外三郡誌』、特に奉納額の件について、その後の推移と偽作説者たちの言動が気になっていたので、思い切って大阪の設立記念講演会に参加しました。
 講演では、最近佐倉市から縄文前期後半の人面が出た話、信州の阿久遺跡、阿久尻遺跡の話、そして最新の青森県三内遺跡の話などがありました。特に三内遺跡の二〇メートルの建築物について、それが『東日流外三郡誌』の古代編に出ている津保化族の話と結びつくという所は圧巻で、思わず息をのみました。
 今までの縄文のイメージを一新する発見が続いてること、教科書が言う世界とは違って、縄文時代にはすでに階級があり、先生が前から書いておられる「縄文都市」をこえて「縄文国家」の概念も必要ではないかとのお話にひきこまれてしまいました。そして縄文という時代の奥行きの広さと深さに改めて驚かされ、縄文人の生活に思いを馳せました。 
 また朝鮮半島南岸部に出土した埴輪と倭地問題では、その前に彼の地から前方後円墳が次々と見つかっている事と合わせて、先生が論証された「朝鮮半島に倭地あり」の命題が証明されたと言えます。これはもうそれ以外の説では絶対に説明がつかないだろうと思いました。
 私の一番聞きたかった奉納額の件について偶然が重なって「発見」に至ったとの事でしたが、本当にラッキーだったと感じました。そして東北大での鑑定と新聞発表の件。偽作説者たちは素直にその鑑定結果 を認めようとしないばかりか、鑑定された教授に圧力をかけたり、記事が国民の前に明らかにされないよう報道機関に圧力をかけ続けたとのこと。その結果 、一番に掲載すべき東北の新聞には記事が出なかったことなどが話されました。また地元の昔から奉納額を見たという人たちにも執拗な圧力を加えて口を封じようとした等、何としても国民の前に真実を知らせまい、認めさせまいとする動きがあったことが語られました。
 そればかりでなく、和田喜八郎氏に対するマスコミの偽作キャンペーンの結果、親族の方が入院されたこと、親族の子供に対しても「いじめ」が見られたとの話を聞いて、唖然とすると共に強い憤りを感じました。
 古田先生も「ドレフュス事件」(編集部注参照)の例を出されて「今の問題に果敢に立ち向かうことが大事である。そうでないと日本はもう一度恐ろしい時代に戻ってしまう。それはファッショである」と語気を強めて、心からの怒りと憂慮を面に出して話されました。日本をもう一度暗く恐ろしい時代に戻させないためにも、また本当の学問がなされるためにも徹底してこれらの勢力と闘わねばならないし、彼らにも純粋に学問的なやり方で古田先生の説に挑んで来るように猛省を促さなくてはなりません。   
 ことの次いでの様ですが、最近目にする「市民の古代ニュース」等を読むと、夏に行われたという研究集会も含めて、会の中身は完全に変質してしまった様に感じました。邪馬壹国にしても、紀州や甘木説等も出てきて、またぞろ「オレがオレが」の勝手な比定の世界に入り始めたようです。しかも集会で「従来の博多湾岸説を支持する積極的な意見は特になかった」と言うにおいては、もう何をかいわんやです。古田先生が内外の文献や考古学的出土事実等を通して証明されたこと、しかもその前提によって古代のあらゆる事象が無理なくつながり、理解されるべきであるという先生の二十年来の学問の方法から何を学びとったのであろうと、本当にがっかりしました。
  古田史学という大きな幹から離れてバラバラになった枝が勝手に集まっている様な気がします。いずれまた今までの邪馬台国論者と同じ道をたどって行くのではないかと思いますが、どうでしょう。
 ともあれ今回の関西講演会は、古田先生を中心にまとまって頑張って行こうという再出発にふさわしい素晴らしい会でした。懇親会での先生のお話、先生が帰られた後での二次会での楽しくも熱気に満ちた語らい。私にとってはこれ以上ない素晴らしい一日でした。自分も仙台で頑張るぞという決意を胸に帰途に着いたのでした。大阪の会の皆さん、ありがとうございました。

[ドレフュス事件]一八九四年、フランス軍部がユダヤ系のドレフュス大尉をドイツ軍に通 謀したスパイとして免官、流刑にした後、真犯人が発覚、無罪が明白になったが、政治的な配慮から、右翼愛国主義者や反ユダヤ論者と結んで、真犯人を無罪にし軍部の非を隠そうとした事件。この事件は当時フランスの朝野を二分し、中でも当時の人気作家ゾラはドレフュスの無罪を確信し、フランス史始まって以来の最も偉大なパンフレットと言われている『私は告発する』を新聞発表し、陸軍による冤罪事件を告発した。曖昧な筆跡鑑定や不利な証言者への圧力、そして支援者のゾラをも有罪にするなど、和田家文書偽作論者の手口と驚くほどよく似ている。(編集部)

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南洋諸島から出土した縄文土器と「持衰」
         八尾市 後藤茂樹

  古田先生が益々お元気な御様子なので安心しました。お話は例によって面白く大変有益でした。問題の東日流についても有力な証拠として額が見つかったことは今後の展開に有利に働くと考えます。   
 さて古田先生が倭人南米渡航説を出されて以来、その痕跡が南方の島々に残っていないかと、いろいろ本をあさって探求していまししたが、全然成果 が上がりませんでした。ところが、一九九二年七月二十九日午後七時三〇分、NHKスペシャル「海・大紀行」--星と風の航海者たち--☆女王と南十字星の島、☆南太平洋クック諸島 、☆古代のカヌー復活という番組があり、それは女王時代からの伝統行事で、六三〇メートル離れた島へ行くために、二〇余の大型カヌーを造るというドキュメントでありました。
その若者は一五三の星の位置を覚え、頭の髪もひげも終わるまで手入れができなく伸び放題にするというのでした。その島へ行く目的は二十年ごとに神殿を立て替えることでした。この若者、即ち航海を指揮する若者は正に「倭人伝」に出てくる「持衰」そのものではありませんか。
 そして今年八月、週間文春の書評の中に(『楽園考古学』篠遠喜彦・荒俣宏)ニューヘブリデス島から日本の縄文土器の破片が出たと紹介され、早速購入して読みました。篠遠博士は京都でこの事を発表されたが無視されたそうです。私は近い将来是非篠遠博士(ハワイ・ビショップ博物館副館長)と古田先生の対談を期待しています。新しい学問の発展になるのでは。

□北海道の会・九月例会報告□□□□□□□
千葉英一氏を講師に北海道考古学レクチャー
北海道の会・事務局

 九月十日に開かれた北海道の会例会は、会員・千葉英一氏を講師として、北海道考古学の「レクチャー例会」となった。
 千葉氏は(財)北海道埋蔵文化財センターの調査第三課長を務めている発掘の専門家。長年発掘と遺跡保存の第一線に携わる氏の豊かな知識を、会員が学ばないテはないと、会創立以来四回にしてはじめて、北海道の考古学のイロハにつきレクチャーを受けることになったもの。
レクチャーは、同センターが今年迎えた創立十五周年を記念、発刊した『遺跡が語る北海道の歴史』をテキストに進められた。
  …
1 本州の考古学年代は、最近の発見で五十万年前まで遡る可能性が出ているが、北海道の場合は現段階で二万数千年前の石器が最古であり、前期旧石器時代の確実な石器は出土せず、そのため旧石器時代の石器は後期(三万年前~一万年前)に含まれること、
2 石器の変遷はI 期(不定形な石片を石器にする時期)、II期(石刃と呼ばれる形の整った細長い石片が発達する時期)、III期(石刃とともに細石刃と呼ばれる小型の石刃が発達する時期)、IV期(有茎尖頭器と呼ばれる装飾用の柄のついた石槍が発達する時期)に大別されること、
3 気候、動植物の種類、地形、大陸に近い位置など環境の違いから、北海道の旧石器時代の変遷は本州と大きく異なること
   …
 などを導入部に、時代を追って各種の石器や土器、貝塚、環濠集落、ストーンサークル、周提墓、周溝墓などについて詳細に説明が加えられた。
  そして、石刃や細石刃の製造技術、とくに細石刃は峠下技法をはじめ美利河、湧別 、オショロッコ、蘭越、広郷、ホロカの各技法とそれぞれの違いなど、きわめて専門的な分野にまで及んだ。

 事務局の怠慢でテーマを設定しなかっため、千葉氏には進めにくいレクチャーだったが、それでも発掘の第一線で仕事を続けてきた氏の豊富な知識の一端を知ることができた。今後はテーマを決めて系統立てて地域の考古学の知識を深めていきたいとの全員の希望から、氏の了解を得て「千葉レクチャー」を定期化していきたい。   
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□□事務局だより□□□□□□□□□□□□
◎会報3号の発行が遅れ、ご迷惑をおかけしました。ご覧のように、古田武彦氏より、大部の御寄稿をいただくことができました。いよいよ、和田家文書「偽作」論者への本格的な反論が開始されました。上城誠氏が述べておられるように、「私たちは学問の方法を再考する良い機会に恵まれた」ようです。
◎日本のドレフュス事件を許すな、という古田氏の訴えは、まさにゾラの名論文「私は告発する」を髣髴とさせます。ゾラたちの闘いで、ドイツやイタリアのようなファシズムの発生をフランスは阻止することができました。いま、同じことが日本で問われています。古田氏の学問は、古代・中世にとどまらず、現代を問い続ける「史学」と言えそうです。
◎各地で例会活動が広がり始めました。そうした報告や、投稿などもたくさん寄せられています。次号より掲載したいと思います。
◎本号より、深津栄美さんの小説「太陽神流刑」の連載が開始されました。古田氏の『古代は輝いていた』の小説化です。どんなストーリーが展開されるか、興味津々です。
◎古田氏の新刊二冊が出ました。『日本書紀を批判する』と『古代通史』。もう読まれましたか。書評、感想文などもお寄せ下さい。
◎世話人会では、本会会則の作成を進めています。来年夏の総会で、採択する予定です。原案ができましたら、掲載いたします。


これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail
sinkodai@furutasigaku.jp


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