報告 半田「鑑定書」に対する批判 古田武彦 (野村孝彦氏紀行文と東日流外三郡誌には関連はない。)


孝季眩映ーー菅江真澄の巻  『東日 流外三郡誌 』裁判判決の解説 判例タイムズが紹介
古田史学会報
1998年 10月12日 No.28

孝季眩映ーー菅江真澄の巻

「古田武彦顕彰会奈良」主宰 太田齊二郎

 【起】拾い読みでしたが、残念ながら真澄の日記にも、秋田孝季との関係を示す証拠は見つかりませんでした。しかしそこには、敗者の国「みちのく」に対する真澄の深い愛情が漂い、私には「東日流外三郡誌」の風景が、眩しく映し出されているのが見えるのです。
 本稿は主に「菅江真澄遊覧記(内田武志・宮本常一訳)東洋文庫」に依ったものです。にわか勉強であり、齟齬も覚悟の上ですが、ご笑読され、間違いをご指摘頂ければ幸いです。

 【承】真澄には、出自など、真澄自身が記録に残していない事に起因する謎が沢山あります。これらの謎は、初め柳田国男が指摘したものですが、其のほかにも、旅の目的を含め、日記の空白部分、交友についての説明不足などからくる数々の疑問が残されております。
 伊奈繁弐は『菅江真澄考』(平成七年自版)において、日記の空白部分は真澄が「東日流外三郡誌」の編集について秋田孝季に協力したことに関係があり、交友の中に、彼の行動を支援した人物がいた、と仮定すれば納得出来ると論考しておりますが、それを裏づけるかのように、日記には、真澄が当然触れてもいい筈なのに、敢えてそれを避けているかのように思わせる部分が、かなりあります。
★真澄が日吉(日枝)、山王、神明などに大きな興味を持っているのは疑えないが、目と鼻の近くを通りながら、例の「宝剣額」で知られる日枝神社(市浦村)には全く触れていない
★アラハバキ神社は後になって「門客人(まろうど)」にされ、多くは「てなづち・あしなづち」などを祭神とし、磯崎や荒磯、洗磯崎神社などと改名したものが多く(近江雅和「隠された古代」)、洗磯崎神社(市浦村)もその一つであるが、真澄は通りすがりのこの神社は勿論、他にも沢山あったと思われる(荒、洗)磯崎についても、日枝神社同様、一言も触れていない(しかし日記には「てなづち・あしなづち」の紹介はやたら多い)
★同じころ幕府巡見使の東北巡行に同行した古川古松軒は、真澄同様、坪村にある石碑を伝説の「坪の石文」であると断じている。当時は、地中にあり、現物を見る事は出来なかったが、古松軒は「日本中央」と書かれた石碑の絵を見て、この文字に不審を示している。しかし一方の真澄は、碑がなかった事を口惜しがっているだけで、碑の背景には全く触れていない。後に古松軒の日記も読み、絵の存在を知っていたと思われるのに、それを無視する彼の態度には、わざとらしさが感じられる
★内田武志は「菅江真澄研究」において、長期にわたる真澄の行方不明事件を詳細に紹介している。この事件は、松前藩主上国豊季が、真澄の知人鈴木常雄に当てた書簡から明らかにされたものであるが、真澄は一国の藩主に心配を掛けていながら、何故かこの件についても触れたがらないようだ
この様な疑問はその一端に過ぎませんが、その裏に、真澄の旅には隠された別の目的があったことを窺わせるのです。
一方、日記には、東北に関する伝説が数多く紹介されています。
★安日を含め、安倍、安東氏とその関連部族に関する伝承や、義経、将門、万里小路藤原藤房など、敗者の奥州逃亡伝説
★徐福、漢武帝、西王母など古代中国との交流を窺わせる伝説
★「かしこどころ(能代市)」、「シリベツ(岩木山周辺?)」のような古代東北王朝の存在を思わせる地名の紹介
★「アソベの森」などに住む「山人」などの異民族伝承
 真澄が再三にわたって紹介しているこれらの伝承や伝説の背景には、「みちのく」悠遠の歴史があり、拾い読みだけでも、それを示そうとした真澄の、さり気ない意図が十分に感じとれるのです。

 【転】真澄研究の嚆矢と言われる柳田国男は、日記にたびたび登場する「山人・鬼人」伝説に注目した筈です。しかし彼は真澄に関し、これらの伝説に一言も言及しておりません。かつて「伝説に残る山神・山人は、日本先住民族の子孫である」という自説の是否について南方熊楠と争ったと言う(谷川健一「白鳥伝説」)柳田にしては、全く理解に苦しむところです。
 柳田国男が指摘する先住民族とは、アイヌ蝦夷か、奥州古代史に散見する靺鞨、粛真などを指すのか、或いはアソベ、ツボケか。いずれにしても、まさにこれは「東日流外三郡誌」の世界そのものです。それはそれとして「もし柳田が東日流外三郡誌を知っておれば日本民俗学の様相は一変していたのではないか」などと想像しても、天皇家一元主義を貫いた柳田にとって、その存在はきっと「目の上のたん瘤」であったに違いありません。
 一方、伊奈繁弐によれば、内田武志は東日流外三郡誌の存在を知っていたようです。この資料に関する内田の感想はとも角、「山人」についてどう思っていたか、今となればそれも謎ですが、同じ真澄観を持ち、柳田国男賞を受賞し、師として柳田を敬愛していた内田武志に、それ以上の期待は無理でしょうか。

 【結】真澄研究者は、真澄が秋田孝季に協力したことについて、それは和田喜八郎が「東日流外三郡誌」を本物らしく思わせる為のデッチ挙げであると反論しております。 しかし、真澄の周囲は疑問だらけです。中でも彼の「古代みちのく観」などは、旅の決意を探る直接のテーマであるのは明白なのに、それを探究しようとする人は一人もいませんでした。柳田国男などは、むしろその問題から逃げようとしたのではないのかと、かえって疑いたくなるのです。
 真澄研究者たちが本当に彼を愛するならば、その足跡を辿ることも大事ですが、それだけではなく、柳田国男が見過ごそうとした、真澄のもう一つの側面 を明らかにすることも必要です。「デッチ挙げ」論などはそれからでも遅くありません。
【エピローグ】昨秋帰郷の折、久しぶりに訪れた秋田県立博物館。しかし、新しく開展したと言う豪華な真澄コーナーから、率直に言って、私には真澄の謎に悩む先人研究者たちの悲鳴は、聞こえて来ませんでした。「真澄には疑問点など全くない」と主張するこのような展示方針は、あたかも「答は一つしかない」と教える今の教育を象徴しているようで、見学者が可哀そうに思いました。
 ともあれ、菅江真澄の名前すらロクに知らなかった私に、彼の隠された一面をも教えてくれた偽書派の研究者の方々に感謝しなければなりません。時が来たら、真澄が書き残してくれた、ふるさとの、この素晴らしい風景を、ゆっくり味わいたいと思っております。
【追記】私の想いが天にも通じたのか、「岩木山赤倉が岳の鬼神(内藤正敏〈写真家〉菅江真澄全集月報十三号昭和五十六年九月)」という、願ってもない文章を読むことが出来ました。岩木山の周辺に残る鬼神伝説を、近年における発掘調査の結果などと対照させ、次のように結んでおります。
「製鉄技術を持ち、ニンニクを持ち伝えた鬼には、どこか中国か朝鮮から裏ルートで渡来した漂着民のイメージがある。菅江真澄も書き残している赤倉が岳の鬼神の背後には、もう一つの日本史が隠されているように思えてならない」
 又、同じ号において、高橋富雄〈東北大教授〉は「菅江真澄の歴史的研究」と題し、「真澄遊覧記」を民俗学のジャンルから開放し、新たに「菅江真澄学」を組織することを提唱されておりました。  (一九九八年六月)


『東日流外三郡 誌』裁判判決の解説

判例タイムズが紹介

編集部

 数年来続いた『東日流外三郡誌』裁判は最高裁での上告棄却により、和田喜八郎氏側の実質「勝利」で幕を閉じたが、その後も和田家に対して、嫌がらせ電話などが続いているという。一方、偽作論者側からは最高裁判決後も「裁判所は偽作説を認めた」「勝利した」などという論調を繰り返してきたが、この度裁判関係の専門誌『判例タイムズ』No. 976(九月一日刊)に、同裁判の判決文の紹介と解説が掲載された。その解説のポイント部分を紹介したい。専門家による第三者としての解説だけに、同裁判の性格を知る上で貴重なものでる。同時に、偽作論者(原田実氏ら)の判決評価が虚勢であったこともうかがえよう。
《解 説 》
(前略)「この事件が上告審判決で決着が付いた時、X(野村氏側)、Y(和田氏側)双方はそれぞれ勝利宣言をした旨報じた新聞記事があった由である。Xは判示事項一の通り写真関係では終始勝ったのだし、控訴審で賠償額も倍加したのだから、Xの勝利宣言はある意味で当然であろうが、他方五〇〇万円ほか謝罪広告・訂正広告・指揮部分削除等の請求中、認容されたのは四〇万円だけである。訴訟費用の負担も一・二審を通じ四分の三がX負担とされた。それを不満としての上告も例文棄却となったのであるから、Y側の実質勝利宣言も無理のないところがある。
 この事件の甲号証(野村氏側提出証拠)は二百号証を超えたという。判決文から窺われる事案の寸法からはちょっと考えられない数字であるが、結局本件訴訟におけるX側の狙いは「写真」「論文」を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとするにあったことからの現象であろう。裁判所が判示事項二のように述べてその判断を回避した段階でその狙いの大半は失われた筈であるが、もし、判示事項三が全部排斥でなく、七項目中一つでも剽窃・盗用の判断が出ていたら、判示事項二にもかかわらず、X側は実質上狙いを ーー論理法則上「偽書でない」という全部否定は一部肯定で崩せるからーー 達することもできた。
 その意味では、控訴し上告しても偽書説へ敗訴感はX側の方が大きかったであろうと思われる。」
 ※文中()内は、編集部による注。
 以上のように、判例タイムズ解説は本裁判の手掛かりを全然残せなかった点で、実質的の目的が『東日流外三郡誌』偽書性を裁判所に肯認させることにあったと指摘し、にもかかわらず「偽書説への手掛かりを全然残せなかった」判決であり、敗訴感は野村氏側の方が大きかったであろうと、見事に本質を突いている。専門家による客観的な解説であるだけに、偽作論者の「勝利」キャンペーンはその声高な主張とは裏腹に、一層空しく響いている。(判決文詳細は「新・古代学」3集に掲載

 

裁判関係の資料は以下の通り

報告 半田「鑑定書」に対する批判 古田武彦

報告 報告書 和田家文書をめぐる裁判経過 古田武彦

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (齋藤陳述書〔甲第二八四号証〕)古田武彦

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (野村孝彦氏陳述書[甲第二八三号証])古賀達也

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (野村孝彦氏側斎藤隆一氏報告書【甲第二八五号証】)古賀達也

和田家文書1邪馬台城総覧


報告 平成七年二月二一日 青森地方裁判所判決 付 別紙(九) (野村孝彦氏が主張する「邪馬台城」剽窃一覧

報告 平成九年一月三〇日 仙台高等裁判所判決 へ

報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 へ


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここへ

和田家文書〔「東日流外三郡誌」など〕訴訟の最終的決着について(『新古代学』第三集)へ

『東日流外三郡誌』とは ーー和田家文書研究序説」(『新・古代学』第1集 東日流外三郡誌の世界)へ

知的犯罪の構造「偽作」論者の手口をめぐって(『新・古代学』第2集 和田家文書の検証)へ

古田史学会報28号へ

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