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2000年 2月14日 No.36

古田史学会報 三十六号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也

古田武彦氏の新著五月書房 一七〇〇円(税別)
『日本の秘密「君が代」を深く考える』 古田武彦 著

「君が代」は大和王朝の歌ではなかった。壮大な構想力と日々の研鑽から明かにされた驚くべき古代の姿。国歌問題を古代史から考えた、衝撃の書。古代の真実を知った瞬間、現代国家(国歌)の虚構は崩れ初め、新しい日本の歴史学がこの本から始まる。古田史学の精華。


「両京制」の成立−−九州王朝の都域と年号論−−  古田武彦

学問の方法と倫理(序)すべての古田学派へ 京都市古賀達也


武雄温泉の御船山


奈良市 水野孝夫

 古田武彦氏らと共に佐賀県を巡り、武雄で宿泊した。この宿泊は木村賢司氏が御船山と武雄神社を見せたいと、なかば強引に計画されたものである。目的は古田氏による「万葉集や持統紀に現われる吉野は九州ではないか。」との仮説検証である。もちろん万葉集や持統紀に現われる「吉野」のすべてが九州ではないだろうが、これは九州の吉野だと言えるものが見つかれば、突破口になるわけである。
わたしは、宮坂敏和氏の著書(注1. )に次の記事を見つけていた。

 万葉集巻三−三八五に仙柘枝(やまひと・つみのえ)の歌三首として、「あられふり、吉志美(きしみ)が嶽を険(さが)しみと、草とりはなち妹が手を取る。右の一首は、或いは云はく、吉野の人味稲(うましね)の柘枝仙媛に与へし歌そといへり。但し柘枝伝を見るに、この歌あることなし」があり、岩波『日本古典文学大系』注記によると、「吉志美とは『肥前国風土記逸文』に県南にある一孤山で、毎年春秋に青年男女が酒を提げ琴を抱えて互いに手をとり合って登山楽飲歌舞の風があるので、柘枝の話に混入したらしく」

と記されている。
 これは万葉集中の「吉野」が九州と関係するらしい文献例である。わたしは、佐賀県旅行中ずっと、この「吉志美」という山はどれだろうと問題意識をもっていたのだが、帰って『肥前国風土記』(注2. )の杵島郡の項を見ると、次のようになっていた。

 県の南二里、一孤山あり、坤より艮を指して三峰相連なる、是れを名づけて杵島という。坤は比古神といい、中は比売神といい、艮は御子神という。[一に軍神と名づく、動けば則ち兵興る]郷閭の士女、酒を提さえ、琴を抱き、毎歳春秋、携手して登望し、楽飲歌舞曲 し、尽きて帰る。歌詞に云う、あられふる、きしまがたけを、さがしみと、くさとりかねて、いもがてをとる[是杵島曲]。
(訳文は古田武彦氏(注3. )に基づき、歌詞の漢字はワープロ上の都合でかなとした)。

 これを対照させれば、吉志美=杵島ということになると考えたのだが、そう簡単ではないようだ。しかし仙覚以来の万葉学者たちも、そう考えてきたようだ。つまり吉志美と書いた『肥前国風土記』(逸文)は存在しないが、歌の類似から風土記の歌が万葉歌の異伝か先行と考えたようだ。しかし岩波『新・日本古典文学大系』(一九九九年)は吉志美の位置を不明としている。とにかく『肥前国風土記』(逸文)の「杵島」を考える。
 さて、現在の地図では杵島山は連山であって、とても「一孤山だ」とは言えない。それに西南から東北の方向に連なっていない。杵島郡の政庁位置は杵島山の西側、武雄市橘町あたりに比定されているようである。古墳が多いためらしい。しかし文献では、郡の西には「温泉の出る巌」が特記されていて、これは武雄温泉しかない。二里とはどんな距離か問題があるが、通説では九〇〇メートル程度である。そんな「三峰をもつ一孤山」があるか。ある。武雄温泉駅から南へ1メートル程のところに御船山がある。印象的な山容をもつ。杵にも島にも見える。
 わたしの結論、今までに出た杵島=御船山である。
 この『肥前国風土記』ないし逸文は古田氏によるA型(行政単位が郡でなく県で示される)風土記である。九州王朝当時の杵島県治は現在のJR武雄温泉駅近辺にあったものとせざるを得ない。万葉集の歌の吉志美を杵島と同じと仮定し、左注「吉野の人、味稲」を九州の人と仮定すれば、御船山近くに「吉野」がなくてはならない。古賀氏が見つけられた『太宰管内志』には武雄神社記事に接近して「吉野の嶽」記事があるとのことである。しかし具体的場所はまだわからない。
『肥前国風土記』逸文の杵島=御船山説には到達したが、吉野との関係づけには成功していない。
 御船山を眺める地点として最高なのは「かんぽの宿・武雄」であることを確認したが、ここにも御船山の写真を含んだ絵葉書等はなかった。木村氏に感謝。
(二〇〇〇・一・二一記)

(注)
1. 宮坂敏和著、『吉野--その歴史と伝承』、名著出版、一九九〇年十一月

2. 塚本哲三編、『古事記・祝詞・風土記』、有朋堂文庫、昭和三年。このうちの『肥前国風土記』は長崎の人・大家権平がもたらしたものを寛政十一年に城戸千楯等が校正し、明治に栗田寛が『標註古風土記』に採用。

3. 古田武彦著、『よみがえる九州王朝』、角川選書、一九八三年六月


古田武彦氏新春福岡講演要旨 「九州王朝の秘密」<倭国の史料批判> 福岡市 力石巌


◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』  第八話◇◇◇◇◇◇
   
翡 翠(2)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−     
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美

◇     ◇

「彌生(やよい)……!」

 血の気の失せた少年の前に、兵士らは、薄桃色の上衣と袴(パチ)という韓(から=南朝鮮) 風の衣装の若い娘を引き据えた。張った両鬢(びん)を同じ色の花輪が囲み、
「えい、離せ! 離せっちゅうにーー」

 八千矛(やちほこ)らには聞き慣れない言葉でもがく度、涼しい音色が起こるのは、造花の端に白く燦(きら)めく石造りの玉が結び付けられているせいらしい。
「御方(おかた)様にも宇迦美(うかみ)の若様にも何ちゅう事するだ?お前(メエ)様ら、竜神様の罰(ばち)が恐ろしくねエだか!?」

 少女が笛のような声で喚(わめ)くと、
「こいつは何を抜かすんだ?」

 八島士奴美(やしまじぬみ)が眉を寄せ、
「今、何て言ったの? 私達には、お前の言葉が判りません。」
 須世理(スセリ)も少年をかい込んだまま、首を捻(ひね)った。

「この子は、私の侍女の一人で彌生と申しますが……。」
 伊怒(いの)がうろたえ気味に口を挟み、
「越(こし)の住人ではなく、更に東の毛人(えみし)国から移って来たのでございます。頭飾りは……。」
 と、少女を促して白玉を脱(はず)させ、
「鈴と申しまして、毛人国の象徴でございます。」
 八千矛に差し出した。

 手に取ってみると、虹色の瞬きは材質となる石が雲母(キララ)を含んでいるらしい。表面に穿(うが)たれた穴を覗いてみると、中には指先程の小石が入れられ、動かす度に転がって、枯れたアシの裾を濡らし、玉砂利の上を滑って行くせせらぎのような澄んだ響きを振りまくのだった。
 八千矛らも毛人国の話は耳にしていたが、実際には原地人や産物に接するのは初めてだった。自分達の先祖の一人八束(やつか)が、冬の佐伎(さき=現ウラジオストク付近)遠征を敢行した頃には、黒曜石と交換する為、食料を携(たずさ)えた使者団が東の山奥の湖畔へよく出かけて行ったと聞く。今でも年に数回開かれる大市の日には、塩漬けの貝や魚を担いだ東の商人(あきんど)達が、大国(おおくに)へやって来た。よく見ると彌生の花輪は、絹紐(ひも)を複雑に束ねて山桜を象(かたど)ってある。年端もいかない少女までが舶来の衣装をまとい、手の込んだ細工物を無造作に飾り付けているとは……中国から「東人」(とうていじん=東の端に住む人の意味)と呼ばれている越の住人は、魚と音楽が皇帝への主だった献上品だったが、毛人国もカジカの声より佳(い)い音色を振り鳴らす鈴を紋章代りにしているところを見ると、歌舞の才に長(た)けているのではなかろうか……?須佐之男(スサノオ)は羽山戸(はやまと)や武沼河(たけぬなかわ)との確執にのみ気を奪(と)られていたが、今後は毛人国対策も考慮せねばならないかもしれない。その為にも、自分達の基礎は固めておかなければ。

「彌生、おぬしはここの主(あるじ)がどちらにおられるか、知ってはいないかな?」
 八千矛が鈴を返してやりながら聞くと、少女はためらっていたが、伊怒の目配せと須世理に刃を向けられている少年とを見て、
「奥津の、宮ですだ……。」
と弱々しく頭を垂れた。
「では、案内して貰おう。」
 須世理が一歩踏み出そうとすると、
「おぬしが取り次いでくれても良いぞ。」
 八千矛が遮るように少女に言った。
「兄者は手温(ぬる)い。」
 八島士奴美が顔をしかめる
「取り次ぎなど乞うては、敵を利するようなもの−−秘密の抜け穴を通って、従者が長(おさ)を逃がしたりしかねませんぞ。」
 彼の耳打ちが聞こえたのか、
「お社(やしろ)は男子禁制でございます。」
 伊怒がぶっきら棒に言った。
「白山の主は女神(にょしん)にて、みだりに殿方をお入れすると天罰が当たります故。」
(チッ、勿体(もったい)つけやがって−!)
 八島士奴美は、口には出さずに毒づいた。

 巫女達がこうまで長との面会を渋るのは、戦に破れたら敗者の女性は敵に供される慣わしだったからだ。長でも奴婢でも、その点は変わらない。巫女達にとっては、伊怒に続いてその息子の宇迦美までが人質に奪られた上、神聖極まりない女主人(おんなあるじ)が敵将の言いなりにされるのは耐え難い事なのだろう。それだけ、ここの長が強大だという証拠なのだが……

「よろしい。私が代表してお目にかかりましょう。」
 須世理が宇迦美を抑えつけたまま、片手で赤銅(あかがね)の胄(かぶと)を脱ぎ、黒髪をなびかせた美貌を露わにすると、伊怒達は呆気に取られた。須世理は弟よりも背が高く、胸も腰つきも些(いささ)か未熟でほっそていたから、越の人々には若い兵士の一人としか映らなかったのだろう。

「さあ、長の許へ連れて行っておくれ。」
 須世理は、今度は彌生に刃を向けると同時に、宇迦美を弟に押しつけ、
「そなたらの若君は、今暫くお預かりしておく。」
 と、一同を睥睨(へいげい)した。
(続く)

〔後記〕須佐之男の跡取息子は八島士奴美という名前ですが、日本列島の古称は「大八島国」。この呼び名もいつ、どこで、誰が考え出したのでしょう……? 又、会報(第三五号)で古田先生が書いておられる「高良山の古系図」中の、「星明麻呂」なる人物、臣下ではあっても星神信仰の家系に属するのでしょうか。
(深津)


九州王朝と鵜飼  京都市 古 賀 達 也


古田武彦 著 『日本の秘密「君が代」を深く考える』 五月書房

現在的争点の無化


大阪府泉南郡 室伏志畔

 「国旗国歌法案」成立の煽りを受け、この春の卒業式をめぐりどの学校も、国旗掲揚と君が代の斉唱を実施しようとする管理職とそれを阻止しようとする教職員の間が例年にまして厳しいものとなっている。昨春、この問題をめぐって広島で起こった校長の自殺と処分は、明日と言わず教職員に降りてくるであろう。
 しかしこの対立図式は戦前、戦後を通して変わることはなかった。賛成派と反対派は問題の根底にある「国」や「君」について共通の観念を前にして対立する図式を今も変えない。
そこでは解決はさも「敵」を倒すことにあると言わんばかりで、目前におかれた共通の観念に問題があり、それを無化することが本質的な解決につながることが忘れられている。かくして公務員規則を盾に取る管理職側と「民主主義」的な手続の尊重を説く教職員が原理的対立に入り、日常的な学校運営までぎくしゃくしたものとしている。
 私はかくならざるをえぬ現状を予測してこの休みに「灰色の弁」を書いた。その趣旨は、百年の計を立てるなら、問題は力によってではなく、この問題の基底にある共同幻想を解体・無化することなくしてありえないとした。それは力づくで白黒つけるのではなく、この国の成立という灰色の疑問に答えてこそ、本質的な解決となるであろうとした。
 しかしこの私の「灰色のリアリズム」の提唱は、現状では対決を避けた妥協策のごとく映るであろう。しかしすでに政治的に決着し法制化されたものに、個人の良心だけで対抗できるとする考えが如何に甘いものであったかを時が実証するであろう。今世紀始めは当分日の丸と「君が代」がその好悪に関わらず、あらゆる場を次第に席巻していくのは避けられないように思える。かくして国鉄の次は日教組といわれた問題はいま具体的日程に入ったのである。わたしはその犠牲者の少ないことを望みながら、本質的な問題がどこにあるかについて反対派の猛省を望みたいのである。というのは反対派は、こと日本国の共同幻想については賛成派と同じ諸観念を今まで共有しており、そこを突破されて抵抗の根拠をもたないのでいま必死なのだが、その抵抗図式が不毛なのは、アイロニーを込めていうなら、すでに小林多喜二が死をもって、また獄中十八年組が身をもって示した「抵抗」の苦い教訓でしかなかったからである。
 いささか長い前置きとなったが、ほかでもない一見遅きに失したともいえる法案成立後改めて古田武彦が『日本の秘密「君が代」を深く考える』を上梓した理由を考えるとき、この問題の本質的な解消を目指すことなく、戦後、反権力を標榜するだけでは何の問題の解決とならないことに目を開くべきだという古田武彦の声が聞こえないではないからである。それは戦後史学が皇国史観を排除しながら、本質的に大和一元史観の同じ土俵に上がっているのに無自覚なのとまったく同じである。
 すでに我々は、古田武彦を始め灰塚照明等の探索によって九〇年代の始めに『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社刊)をもっている。これによって我々の多くはかつてのしゃちこばった「君が代」幻想を脱却した。我々はこの「君」をもはや現人神として奉ることはありえないし、この国を神国などと思いもしないのは、この「君」が大和朝廷に先在した博多湾岸に都を営む九州王朝・倭国の人間的温もりをもつ「君」に奪回したからである。不幸にして我々は長い間、「記・紀」の造作が、日本国の、成立とその天皇を歴史の外に置いたところに本当の秘密があったことをよく理解しなかったのである。
 もし我々がイギリス王が名誉革命後にオランダから迎えられ、その後またドイツから迎えられ現王室のウインザー朝となっているのを知るように、現皇室の由来を歴史的に明らかにすることができていたなら、かつての皇国史観による狂態を招くことはなかったであろう。しかし戦後史学は「日本国」の成立についても「天皇」の淵源についても、大和一元史観を疑わないため、ついに明らかにすることはなかった。
 その意味で、邪馬台国問題をあらゆる妄想から邪馬壹国として博多湾岸に決着させた古田武彦は、「君が代」問題を日本の多元的な歴史展開の中に位置付けることによって、どこに軟着陸させるか分からず、ただむくつけく力こぶを見せあうしかなくなった現在的争点を本書で無化し尽くしている。それは問題を力づくで決着させようと図る時勢への、知性による問題解体の提起と別ではない。
 古田武彦が「日の丸・君が代」問題を「“たいした”ことには見えていません。徹底して楽観しています」という裏に、「権力とてうたかた。強制力を発揮しはじめたら、もうそれはながくはつづかない証拠なのだよ」という確信と共に、七〇年代以来、「方法としての歴史的無化」を通し問題を解体してきた自信のほどを我々は見るであろう。
 本書はその意味で法権力の圧迫で土俵を割りかけ、途方に暮れている者への本質的な「抵抗」の在り方を身をもって示した実践の書として有益である。それと共に大学退官後の「毎日が日曜」の日々を、暇(scole)を学校(shool)に昇華したギリシャ哲人さながらに昨 年度(一九九九年)における古田学の探究・発見がどのような進展を示すものであったかを一望のもとに集めており、その提起の深い意味を追い続ける者は目が離せない。
 本書は第一部・「君が代」を深く考えるに始まり、昨年の成果を集大成した第二部・「評」の論理と、追悼文を含む随想である第三部・閑中月記に加え回想文を含む第四部・歴史を学ぶ覚悟の四章構成から成っている。そこには鴬を三つ合わせればかしましいといった冗談もあれば歌の披露もあり、それらが「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところに至ろうとも」というおなじみのテーマ曲に合わせ様々な表情を見せている。
 さてその上で、かつての郡評論争を「評」制度と「郡」制度の法権力の転換問題として、「曲水の宴」、「富本銭」、「藤原宮の木簡」、「都督府」、「魏と日本書紀」から多面的に論じた第二部は本書の圧巻である。その問題を私の領域に持ち込むなら、筑後の久留米から発見を見た「曲水の宴」跡の発見は、私が『伊勢神宮の向こう側』(三一書房刊)で倭国主神(高神)の流れを、壱岐の月読神社→糸島の高祖神社→太宰府天満宮→筑後の高良大社と幻視した線上の恐ろしいばかりの展開となっており、その中心が高良大社と今一つ同地の大善寺玉垂宮にあるらしいとしても、その行方を私は固唾を呑んで見守ってきたのである。その私がそれを共に追えなかったのはその倭国(本朝)の主神が天照大神ではなく月読命としたことに関わる。この実証的研究に先鞭つけた古賀達也のそこに月読命を発見したという報告を見たとき、私はもう一方の大和朝廷の主神・天照大神の行方を求め、倭国を二つの中心をもつ楕円王朝と見ることによって、もうひとつの倭国(東朝)を豊前に追うほかなかったからである。ともあれこの四世紀半ば以後の筑後における倭国(本朝)の中心の発見は、そこにおける正倉院地名の発見と共に今後大いに期待されるのは、「九州古代史の会」が、肥後に上宮神社や法皇神社の発見を伝え、その祭神が多利思北孤に今、直接つながらないながらも、「近くに阿蘇山あり」とした『宋書』に関係し、筑後とさして離れていないのはやはり見逃せない。
 ところで古田武彦は本書で、思わぬことに『日本書紀』と『正倉院文書』と『万葉集』がこぞって七〇一年以前の「評」を「郡」としていることから、八世紀造作説へ大きく踏み込んでいる。それは新年の関西例会での講演「壬申の乱の大道」で、天武紀における倭国文書からの盗用を論じた所に重なろう。私はその八世紀造作説が古田武彦にないのを不満として「向こう側」シリーズを書きついできたが、遅ればせにいま古田武彦は巨歩を記しつつ現れたのである。果たして八世紀の造作の主体をどう解いてくれるのか、私は期待と恐怖を覚えながら注視したいと思うのは、「評」の論理の内にまた異論がないわけではないからである。その齟齬の意味を噛みしめながら私はひたすら幻視することによって自らの論理を深く深く飛翔させるしかないのである。
(H十二・一・二五)


プロジェクト「貨幣研究」 第4報 『秘庫器録』の史料批判(3)京都市 古 賀 達也


古田武彦同行記
鬼を問う
        静岡市 上城誠

 平成十二年一月十日、早朝、宮崎県延岡市で古田先生の到着を待った。現地伝承で「細石」と呼ばれているものの実地確認に同行志願しての事であった。
 五時三八分、延岡駅に降り立った先生を見て、私は驚いてしまった。それは昨年「天の香具山」調査で別府に同行させて頂いた時より、先生が若返って見えたからだった。青年のようなオーラを発している先生に、昔、藤田友治さん、今井久順さん(故人)、中谷義男さん(故人)など「囲む会」の人達に初めてお会いし、古田先生のお話を間近で聞いた時と同じ驚きを感じられて、非常にうれしく思えたのだった。
 近くのファミリーレストランに移動し、「壬申の乱」の本質、「万葉集」研究の最新の成果等、約5時間のレクチャーを受けた。その中で、七日夜見学された「大善寺玉垂宮」の「鬼夜神事」の事をお聞きした。詳細は先生がお書きになられると思うが、この祭りにおいては、鬼は邪悪なものでない事、神と同じあがめられるものであるが、闇(夜)の中でしか活動しない事とか、「玉垂宮」の本源的な重要な神であり、縄文まで遡る可能性が有る事等をお話しされた。(ここの部分は私の解釈なので間違っていたら私の責任である。)
 お聞きしているうちに、私の中に『隋書』イ妥*国伝の有名な一節が浮かんだ。

「イ妥*王は天をもって兄とし、日をもって弟とす。天、未だ明けざる時、出て政をきき・・・日出ずれば、便ち理務をとどめ云う、我が弟に委ねん。」

 ここに語れている特異な政治形態のよってたつ原点がこの宗教思想(祭祀思想)に有ったのではないか、「多利思北孤」は「鬼」の立場における王ではなかったのかと…思いたったのだった。先生にお話ししたら、「それは十分に有り得ますね。一度考えてみましょう。」と楽しそうにうなづいて下さった。
 北浦町の海岸で「細石」(ビーチロック)を見学し(先生の新刊『「君が代」を深く考える』に詳しい)、帰途に着いたのだったが、室伏流幻視が私を導いたようであった。
 共立された女王卑弥呼で国が治まったその鬼道とは…、壱与が十三才(六・五才)で王でありえた理由も…兄弟統治であり、この二人とも「鬼」の立場であったからではなかろうか…。この「鬼」の原思想の生まれた背景に「魑魅」があるのではないか…。「天」という言葉を含めて、次稿で再度考えてみたいと思っている。
 大きなヒントに巡り会えた、楽しい同行であった。

インターネット事務局注2003.08.30
イ妥*(ダ)は人編に妥です。


福岡県大平村で「神篭石」発見

編集部

 昨年十二月、福岡県大平村で九州では九番目となる神篭石が発見された。地元紙の記事より略載し、紹介する。

**   **   **
 山国川に近い福岡県大平村下唐原の山林内で、同村教委は古代の山城を囲んでいた神篭石(こうごいし)を確認した。神篭石は土塁を築く際に基底部に並べて用いられたとされる。七世紀の築造と見られ、古くから山国川が交通の要所だったことをうかがわせている。
 神篭石は三ヶ所で確認された。花崗岩で大きさは高さ約八〇センチメートル、長さ一・二〜一・六センチメートル、幅六〇〜八〇センチメートル。断面は神篭石の特徴であるL字形をしている。断続的ではあるが、石の列は最短で六メートル、最長で三〇メートル余りつながっている。一部で土塁跡も残っていた。
また、周防灘に近い北側では長さ約五〇メートルにわたって大きな石(縦と横が約一メートル)を二段に積んでいるのが確認された。谷をせき止める形になっており、「沢の水がたまらないように設けた水門跡」と同村教委は見ている。
 丘陵を取り囲むように確認された神篭石と水門跡を結んだ外郭線(列石線)の長さは約一七キロメートルになり、丘の上からは山国川や周防灘が一望できる。
 九州の神篭石は朝倉橘広庭宮を囲むように佐賀、福岡両県で計八ヶ所確認されている。九番目になる下唐原は最も東に位置する。他の神篭石との比較などから、下唐原は七世紀の築造と見られている。

〔編集部注〕築造年代については最新の年輪測定法の成果を考えると、六世紀に遡る可能もあろう。古田先生も現地調査に入られる予定とうかがっている。注目すべき遺跡だ。


新泉社社長 小汀良久氏を悼む
事務局長 古賀達也

 新泉社社長、小汀良久氏が平成十一年十二月十九日、病気により御逝去されました。享年六十七歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 故人とは市民の古代研究会以来のお付き合いでしたが、最後にお会いしたのは平成六年五月でした。その日、本郷の新泉社に藤田友治氏と訪問し、市民の古代研究会分裂による「古田史学の会」設立の説明と、雑誌「市民の古代」の廃刊、「古田史学の会」から出す新雑誌の協力要請が目的でした。もっとも、藤田氏と小汀氏との事前折衝により大筋の合意は出来ていたため、話はスムーズに進みました。その新雑誌の創刊は、古田先生の提言により友好団体共同編集の『新・古代学』として実現しました。その後も、本会の図書贈呈事業に協力していただいたりと、故人の御協力なしでは、今日の古田史学の会はなかったと思います。故人のご厚志に感謝申し上げ、追悼の辞といたします。

□□事務局だより□□□□□□
▽新ミレニアムを迎え、古田先生の研究は神(歴史の神様)がかったかのような新展開を見せている。例えば『万葉集』。ついに白村江の歌が、しかも筑紫の君薩夜麻の妃の歌までが発見された。
▽この衝撃的な新説が、来る二十日、福岡市での「古田史学の会」九州地区会員懇談会で報告される(本号4頁参照)。もちろん、九州以外の会員も参加可。この懇談会を期に、「古田史学の会・九州」の設立を期待したい。九州地区で古田先生をサポートし共に古代の真実を解きあかす歴史的事業に参画する同志を求む。
▽持統紀に頻出する吉野が、佐賀県吉野ケ里だったという新説も、当初は信じられなかったが、「肥前国風土記逸文」より史料根拠を水野さんが発見された。現地地名群もそれを指示している。ここしばらくは先生の研究と「九州」には目を離せそうもない。
▽『新・古代学』の編集が5号より東京古田会の担当となった。投稿原稿は本会を通して一次選考がなされ、その後東京古田会へと転送されます(本会会員の場合)。締切は三月末。
▽本会の機関誌『古代に真実を求めて』3集は発行が遅れていますが、鋭意作業中です。しばらくお待ち下さい。こちらの投稿は「古田史学の会・北海道」(吉森)まで。
▽最近、インターネットの本会ホームページを見て、入会される方が多い。西村俊一東京学芸大学教授の論文を掲載したが、各方面に影響を与えているようだ。国立大学教授で日本国際教育学会会長が公然と古田支持を表明する時代になったことに、歴史的変化の兆しがうかがえる。和田家文書偽作論者の狼狽ぶりが目に見えるようだ。
▽今年も古田史学会報は古田先生の研究を紹介し、会員の研究発 表の場として、そして古田史学の継承と発展いう歴史的使命を果していきたい。会員の皆様の変わらぬ御協力をお願いいたします。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 
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