つばする天空

古田史学会報
2000年12月12日 No.41


つばする天空

−藤田氏の著作への書評に代えて −
藤田友治著『魏志倭人伝の解明――西尾幹二「国民の歴史」を批判する――』

古田 武彦

     一
 好著である。永年、高校の教育現場にあって教鞭をとってきた著者だけに、叙述は平明でわかりやすい。その上、「邪馬壹(台)国比定地一覧」のような、読者が机辺において役立つ、便覧的工夫の種々こらされている点なども、さすがにソツがない。
 本書の肝心をなす、魏志倭人伝の解説は各項の原文を、短文でわくに囲み、読み下し、単語解説、その上、術語には丁寧に仮名が振られている。中・高校生自身にも、また教師や親にとっても、それぞれ有用な「作り」をもつ。編成の苦心がうかがわれる。
 わたしも昨年来、隋書イ妥*国伝などの読み下しや注記を試みた。それを『九州王朝の論理』(明石書店刊)の末尾に付載するためである。その経験から見ても、この著者の手さばきは、いかにも平易、かつ印象的である。

     二
 けれども本書は単なる解説書ではない。決して倭人伝に対する凡庸なる紹介書にとどまるものではない。
 副題がしめすように、西尾幹二氏が世に問われた大冊『国民の歴史』(産経新聞社刊)に対する、真摯なる批判、それが本書成立の動機をなしている。
 もちろん右の大冊は、古代から二十世紀の現代に至るまでの長大な時間帯を背景にしての略述であるから、本書はその全体を直接の対象としたものではない。その古代史に関する叙述、ことに第七章の「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」にしめされたような、一種の“暴論”に対し、的確に再批判したもの、それが本書成立の動機である。
 それも、イデオロギーではなく、事実を以って答えようとしたところ、そこに本書の面 目があろう。

     三
 今、わたしは西尾氏の「倭人伝の資料価値」否定論に対し、これを「一種の“暴論”」と呼んだ。 その理由を、本書の著書がふれなかった側面 から論述してみたい。

 周知のように、倭人伝には次の一節がある。

  「又裸国・黒歯国有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し」。

  かつては、各「邪馬台国」論者の無視するところではあったけれど、約三十年前、わたしが『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、昭和四十六年刊)の最終章「アンデスの岸に至る大潮流」の中で、この一句を特筆大書して以来、少なくとも古代史界では“周知の一句”となったと言いえよう。
 もっとも、右の一書刊行時、もっとも嘲笑と悪罵が集中されたのも、右の一章であった。この従来ほとんど「不問」に付されていたテーマが、さに非ず「史実」をしめすもの、少なくとも三国志の著者、陳寿には“そのように見なされ、そのように書かれた”こと、その一事をわたしは疑わなかった。
 それゆえ、倭人伝の中の年代表記法、いわゆる「二倍年暦」(現在の「半年」を以って一年とする暦法)によって換算し、測定すれば、悠々たる黒潮の大海流の導くところ、その(裸国・黒歯国の)地は南米の西海岸の北半分、現在のエクアドル・ペルーの領域にあり、そのように論じたのである。それはわたしの解読の必然の帰結だった。
 そしてこの一書の名編集者、(故)米田保さんよりアメリカ合衆国のスミソニアン研究所のエバンズ博士夫妻がすでに「日本の縄文人の南米(エクアドル)渡来」の学説を出しておられることを聞き、直ちにその一事を右の一書に記させていただいたのである。
 もちろん、倭人伝の時代は「弥生」(三世紀)だけれど、右の叙述は決して「当時の一事件」などを記したものではなく、「縄文以来の累積された歴史認識」の表現、と見なしたからである。「船行一年にして至る可し。」の一言は、「既知の航路認識の表現」としか、わたしには見えなかったからだ。
 だが、批判は多かった。否、批判というより中傷だった。キチンとした論文ではなく、片言隻語の「悪口」以外の何物でもなかったからである。中には、真顔で(つまり好意的に)わたしの立論の「撤退」をすすめてくれた考古学者や著名出版人さえあったのである。
 しかし、やがて事態は一変した。一九八〇年、ブラジルの寄生虫の研究者、アラウージョ及びその共同研究者たちより、南米のミイラ内外の糞石から採取された寄生虫は、アジア大陸、ことに日本列島に多い種属であることが報告された。三六一〇〜三三六〇年前(縄文時代)の時間帯に属する(放射性炭素年代)。
 さらにその後、日本のウイルスの研究者、田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって南米のインディオのもつウイルスや遺伝子が日本列島の太平洋岸部(高知県等)の住民のもつウイルスや遺伝子と同型・同種であること、すなわち「祖先」を共有していることが報告された。氏は現在のところ、従来説(ベーリング海峡経由)に“同調”しておられるけれど、先の寄生虫問題、縄文土器問題からすれば、「黒潮という一大回路の存在」を無視することは困難であろう。
 ともあれ、「日本列島とアンデスとの回路」それ自体を否定することは、およそ不可能となった。これがこの「三十年の研究史上の事実」だ。
 かつては、「縄文人の南米渡来説」を一切無視してきた考古学界も、“もう、無視できなくなった。”旨、高名な考古学者のもらした言葉が伝わってくる昨今である。

     四
 以上の事実を、倭人伝の史料批判という立場からふりかえってみよう。それは端的に「倭人伝の記述は信憑に値した。」
 その一事を意味する他はない。言いかえれば、資料として「無二の価値」をもっていたのである。
わたしはさらに、この問題は、わが国の古代資料を蔵する、古事記・日本書紀、さらに風土記などの伝える「常世の国」伝説と深い関係をもつ。そのように考えている。
 少名毘古那神の「常世の国への出立」譚(古事記、神代巻)や多遅摩毛理の「常世の国への往復」譚(記・紀、垂仁天皇)や水の江の浦島の子の「常世の国への往還」譚(丹後国風土記、雄略天皇)などだ。神武天皇(若御毛沼命)の兄、御毛沼命もまた、この「常世の国」へ去った、と伝えられる(古事記、神代巻、末尾)。
 この「常世の国」とは、常夏の赤道地帯の領域全体に対する“あこがれ”の呼び名だった。わたしはそのように考える。この問題についても、興味深い新発見があったけれど、今は割愛する。
 ともあれ、倭人伝の中の例の一句は「中国(魏)の使者が倭人から聞いて書いた」ものだ。その倭人の島である、この日本列島において、それと関連する神話や説話が“ないはずはない。”――これがわたしの理解のしめすところだった。

 このような豊穣の大海に向かって、あえて西尾氏は背を向けようとした。倭人伝の貴重無類の史料価値に対して、言わば「面 罵」されたのである。

「私はこの文書(魏志倭人伝を指す――古田)には歴史資料としての価値がほとんどないと信じている。」(一五〇ページ)
「唯一無二の文字記録は、膨大量の文献でもないかぎり、歴史解釈の対象にもなりえない。」(一六五ページ)
「唯一無二の文字記録というのでは『史料』とさえいえない。」(一五九ページ)

 わたしは氏の見解とは、逆だ。この貴重なる同時代史料の存在によって、わが国の古代伝承探求の新たな光が与えられたのである。右の「常世の国」問題も、その一つだ。また戦前から、人々の間でひそかに「古事記・日本書紀に対する嘲弄」の根拠として、軒並み百歳を越える「天皇寿命」の長寿の不合理さが語られていた。しかし、倭人伝の記載する「二倍年暦」に拠ってみれば、さに非ず、真実(リアル)な古代年齢の表記だったのである。
西尾氏の「倭人伝嘲罵」のつばがみずからの「記・紀尊重」という天に向かってなされたものでなければ幸いである。

     五
 もう一つ、是非のべたいことがある。西尾氏は次のように言う。

「しかし、歴史家に主観があって、初めて客観も説得力を持ち始めるのだ。その逆の、小心者に特有の官僚的文章の客観は、取るに足らぬ 小さな主観の羅列に終わって、なんの客観も語っていない平板単調な叙述に終わりがちである。陳寿はおそらく晋朝のお傭い歴史官僚であろう。」(一六九〜七〇ページ)〈「タキトゥス『ゲルマーニア』との比較」〉

 これも、わたしが倭人伝を読み、そこから感じた陳寿の人柄と正反対だ。
 彼はまさに西晋朝の歴史官僚である。それゆえ、朝廷から“傭われていた”と言いうるかもしれない。だが、氏の「お傭い歴史官僚」とは、事実の記述ではなく、罵言とみてまちがいはあるまい。 しかし、倭人伝が「平板陳腐な小記録」と見えるのは、実は氏の目の光が「平板陳腐」なためではあるまいか。
 なぜなら、先の「黒歯国・裸国」の一句がいかに長年月の倭人たち海洋民の辛苦や物語りの伝承を「圧縮した一句」であったか、すでに見てきた通 りだ。そこに氏の目は“何物も見えなかった”ようであるから。

 他の一例をあげよう。

「古より以来、その使中国に詣るや皆自ら大夫を称す。」

  三世紀の陳寿にとって「古」とは「夏・殷・周」を指す言葉だ。その「古」から、彼等(倭人)はわれわれの国(中国)と交流していた、というのである。
 これ一つとっても、大変な記載だ。周の成王のとき、倭人が来て「暢草」を献じ(『論衡』)、成王の摂政として「周」の国威の(周辺国からの)承認に腐心してきた周公がこの「倭人交流」を生涯の喜びとして発した言葉(「書経」)、さらには孔子が“中国に礼節の失われた今(周代、春秋の時期)、むしろ周公に礼をしめした国々(東方海上――倭国など)へ亡命しよう。”とのべた有名な挿話(『論語』)を背景にした一文である。とても「平板陳腐」どころではない。(古田『邪馬一国の道標』講談社、角川文庫、参照)
 さらに「大夫」問題。
 周代には「大夫」とは、「士」の上に立つ、正規の官名だった。けれども陳寿の時代、陳腐なる「俗称」となっていた。日本の後世の、あの「山椒大夫」のように、地方土豪の自称と化していたのである。
 しかし、倭人の使者はちがった。中国の周期の正規の官号たる「大夫」を名乗り、堂々と来朝してきた、というのである。この一文の中には、「中国(西晋朝)における、本来の礼節の亡失」に対する、倭人側の“威厳”と“礼節”に対する尊敬が争いようもなく、ひそめられている。
 もちろん、倭人伝の「表面」には、中国側の東夷(倭国)に対する“おごり”や“たかぶり”が現われている。たとえば、「奴」「卑」などの卑字を頻用した国名表記があらわにしめしている通 りだ。しかし、その「内面」には、この東方礼儀の国(倭国)に対する、陳寿の深い敬意がにじみ出ている。つつみこまれているのである。それが陳寿だ。
 さらに、一言しよう。
 先の「黒歯国・裸国」問題も、この「大夫」問題も、西晋の天子には次のように“見えた”であろう。
 「はるか東の果ても、わが中国の天子に服属する 倭国の海洋民の活動領域である。また夏・殷・周の聖天子に交流してきた倭人の使節が、今やわが西晋の朝廷に臣下の礼をとるに至った。」 と。虚栄心に満ちた「天子の目」にはそう見えるように記述されている。――これが「表面 」だ。

 だが、史家としての陳寿の内なる目は、次のようではないかと思われる。
 「今、西晋朝は魏朝の禅譲をうけ、天下を統一しているけれども、歴史という『時』の流れは、当代よりはるかに悠遠であり、世界という『空間』は、いわゆる“中国の天下”よりはるかに遠大にひろがっている。」と。中国の天子の「虚栄心」も、実は“井の中の蛙”にすぎないのである。――これが「内面 」だ。

× × ×
 ことは、倭人伝内だけではなかった。
 三国志中の蜀志には「諸葛氏集目録」が掲載され、「右二十四篇、凡十萬四千一百一十二字」と記されたあと、「泰始十年(二七四)二月癸巳、平陽侯相臣陳寿上。」と結ばれていた、長文の上表文が全文掲載されている。倭人伝の末尾が、同じく西晋朝への貢献で結ばれているのと好一対である。
  右の孔明の扱いは異例だ。魏志や呉志には、このような例はない。魏や呉には「人なし。」と言わんばかりに見える。しかし、陳寿はあえてこの掲載に踏み切った。なぜか。
 蜀出身の陳寿は深く、孔明を敬慕していた。幼少時からの崇敬の人物だったようである。その蜀朝は、孔明の遺志に反し、空しく滅亡した。けれども陳寿は、「敗亡の蜀の名将」を敗亡ゆえに“捨て去ら”ず、これを敢えて天下に顕賞せんと欲したのであった。
 「蓋し天命の帰する有り、智力を以て争うべからざるなり。」という一文には、彼の心中の深き愛惜の念があふれるように表現されている。
 そして「敵国誹謗之言」すなわち、孔明の敵国(魏朝)に対する攻撃や誹謗の文章を、決して「排棄」せしめず、すべて収録し、保存できたことを、深い喜びとしているのである。

 これが果たして、次の西尾氏の言のごときか。
「自己を語っていない平板陳腐な小記録は、他者をほんの少しでも語ることには成功しない。」(一七〇ページ)

  氏は、大冊のためにペンを走らせることに忙しすぎて、三国志全体や倭人伝の内部を丁寧に味読する時間をもたれなかったのか、と惜しまれるのである。
 氏の比較された、タキトゥスの「ゲルマーニア」も、わたしにとって青年時代の愛読書だ。昭和二十三年からの高校教師時代(長野県立松本深志高校)以来、時あって生徒たちに語ってきた。当時の生徒と西尾氏(昭和十年生れ)とは、同年代だ。
 だが、もしかすると、戦後の教育の中で失礼ながら「漢文の読み」に熟しえぬまま、今日に至られたのでなければ幸いである。

     六
 筆を返し、再び藤田氏の著作をかえりみよう。
 現在の「邪馬台国」論争の不毛性、それは「行路解読」の論議を“やめて”しまったことにある。
 わたしに対する論争や批判も、「壹」と「臺」の当否問題に限られ(榎一雄、三木太郎氏等)、肝心の「行路解読」には“ふれずじまい”なのだ。

 なかんずく、わたしが『「邪馬台国」はなかった』において提起した

「部分里程の総和は総里程である。」

 という、至極至理の命題に対しても、各論者とも、「イエス」も「ノー」も放棄し、いたずらに「近畿」か「九州」か、その他かといった“結末”にのみかかずらわってきた。これが不毛の根本原因ではないだろうか。
 その点、藤田氏はわたしの説をふくむ各論者の行路解読を紹介し、その当否の判断を読者にゆだねている。フェアーだ。
 さらに考古学的出土物との対応も、親切に各項目、各単語の下に注記されている。よき導きの道標となろう。

     七
 一つ、苦言がある。敗戦後、関西学院大学の講師だった土井たか子さんから、三木清が獄中に死んだ、その生き方を聞き、「日本は何て貧しい国なんだろう。」とのべる一節がある。わたしも、当時、それを知り、暗然とした思い出がある。黒沢明の名画「わが青春に悔いなし」を見るために映画館に連日通 いつめていた時期だ。
 だが、今ふりかえると、それは残念ながら、日本だけではなかった。アメリカの黒人運動家、また中国の文化大革命当時の悲劇、もちろんナチス下のドイツやスターリン時代のソ連など、地球上いたるところにわたしたちは、人類の愚行を見出さざるをえないのである。
 この点、「何て貧しい」のが日本だけの特質であるかのように、若い読者(中・高校生)がうけとるとすれば、当然「認識の錯誤」である。用心してほしい。これがわたしの願いである。
 先日(今年の七月)、わたしは小・中・高の教科書を展示会で見て一驚し、三嘆した。「世界史」の教科書でも、その終末は「日本軍の侵略・虐殺」と「従軍慰安婦」問題で“しめくくられ”ている。それ以前のヨーロッパからのアフリカ大陸や新大陸征服には「侵略」の一字は全く使われない。スペイン人(旧教徒)の原住民殺戮やソ連軍の性的凌辱にも一切ふれない。ふれるのは、アジアと日本のケースだけ。これを「侵略」と「虐殺」の文字で記入する。そして日本の子供たちに覚えさせようとする。
 ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は「女性」や「原住民」に対する不法の圧迫に謝罪したけれども、日本の教科書は「魔女裁判」にも、グァム・サイパン島の凌辱にも一切“ほほかむり”をしたまま、日本の子供には教えない。――まさに「亡国の教科書」である。
 これらは、わたしにとって、決して「イデオロギー」の問題ではない。確たる事実の問題であり、健全な精神のバランスの問題である。
 本書がこの点、さらに深き淵に歩み入るとき、「日本」を原点として「人類の愚行」に挑戦する、二十一世紀への道標として万人愛読の書となることができよう。少なくとも、左手に西尾氏の大冊をもつ人は、必ず右手にこの小冊を深くにぎりしめなければならぬ 。そのときがやがて来よう。わたしはそう信ずる。

インターネット事務局備考(2000.11.25)
      [イ妥*]はタイを表します。タイ国です。


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