教科書の聖域

古田史学会報
2001年 8月 1日 No.45


教科書の聖域

─「新しい歴史教科書批判」─

古田武彦

     一

  近来「新しい歴史教科書」をめぐって内外の論議が盛んである。もしこれが、「歴史」というものについて、政治家や学者や一般 人が深く考える契機となる、そういう方向へことが発展するならば、わたしはこれを歓迎しよう。当然のことだ。
 だが、果たしてそうか。論議はそのような方向へ進んでいるか。率直に今、これに対するわたしの判断をのべてみよう。


     二

 この教科書の第一印象は、残念ながらその“ずさんさ”である。例をあげよう。
 神武天皇が九州を発進したのは「四十五歳*1」だ、とする。確かに日本書紀の神武紀には、そのように書かれている。けれども、この紀の末尾には、その没年を「一二七歳」としている。この一連の年令記載の中の後者を隠し、前者だけ書く。これはアンフェアーだ。だから、戦前の教科書さえ、このような「神武の年令」など書かなかった。生徒に“憶え”させようとはしなかったのである。戦前の「皇国史観」以上の“律儀さ”なのだ。
次は、倭人伝だ。「魏の使者は倭国の都へ行かなかった。」と“主張”する。しかしこれはこの教科書執筆者の「独断」にすぎない。白鳥庫吉や内藤湖南以来の「邪馬台国」論家の多くは、そのような見地はとらなかった。なぜなら、一国(魏朝)の使者が他国(倭国)におもむくとき、その首都に至るのが当然だ。まして、「天子の詔勅を持参する使者」である。この執筆者は、自分の苦肉の一案を、万人の通 説と錯覚している。“ずさん”だ。


     三

 以上は、サンプルにすぎない。より本格的な問題に論をすすめよう。
 第一は「日本人の目線」だ。
この執筆者の「目線」は、欧米の、ここ数世紀の「侵略バブル」の延長線上にある。彼等欧米の先進国が自家の侵略に対して、何等「謝罪」していない。それなのに、それに“習うた”我が国だけが、昭和二十年以前の行為に関し、なぜ「謝罪」せねばならぬ のか。そういう方向へと筆致が向っているようだ。
だが、このような筆致は、いわゆる「先進の欧米」に対しては、一応の“言い訳”となったとしても、肝心の日本に「侵略」されたアジアの国々(中国等)にとっては、何の弁明にもなりえないであろう。近来の「外」(中国・韓国)からの疑難の根源はこの一点にあろう。
 わたしは思う。日本は「侵略バブル」の後追いだった。その「猿真似」だったのである。その「猿真似」を醜しとし、その立場を一擲すべきである。
 戦争中、出征してゆく先輩や同僚と夜を徹して議論した。酒杯の酒はやがて水となった。その中で青年たちは「侵略バブル」に浮かれた、多くの軍人たちの傲慢を非とし、真実のアジア解放、対等の東亜を求め、そのために「死ぬ 」ことを望んでいたのである。それは見事に裏切られた。彼等の「傲慢な目線」を復活させてはならぬ 。それでは、死んだ人々は、決して死に切れないであろう。
 わたしたちは、たとえ彼等(中国・韓国やアジア人たち)が一切これを「求めず」とも、断乎として全人類の面 前で「謝罪」しなければならぬ。これこそが「日本人の目線」だ。


     四

 この教科書の根本的な錯認、それは「日本と天皇の混同」だ。旧石器・縄文以来、日本列島は悠久なる歴史をもつ。世界最古の土器文明の誕生地だ。当然その人々にも神々が存在した。
 これに対し、天皇家の「起源」は新しい。古く見ても、弥生期の「倭国」の分流、厳密には八世紀以後だ。当然ながら「上限」をもつ。すなわち悠久なる日本列島の未来には、その「下限」もありえよう。
 けれども、この執筆者は天皇の讃美に没頭している。たとえば、昭和天皇。二ページ全部を使って賞讃する。英国的君主をモデルとし、終生二回(二・二六、終戦)の決断をされた、と。それは、よい。しかし、天皇に「ミス」はなかったか。たとえば、関東軍の越権、たとえば、対米開戦の時。緒論はあろう。しかし、「ミス」がないのは「神」であって、「人」ではない。邪教の教祖や独裁者への頌徳碑にすぎないであろう。
 わたしは昭和天皇を「恩師」とする。なぜなら、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」の一言(敗戦の詔勅)によって、この五十五年の戦後を生きてきたからである。
 この一言が、「敗戦の一瞬」ではなく、たとえば「戦前の欧米の包囲網」に対して発せられていたとしたら。──日本とアジアの人々の「生命と運命」は一変していたかもしれない。
 マッカーサーの面前でのべられたという「たとえこの一身がどうなろうとも、」の一言が、昭和二〜四年の山東出兵(三次)のさいにのべられていたら。── 歴史に「if」は禁物であるかもしれないが、その一瞬における、自己の決定的な「ミス」を、もっともよく知る人、それは昭和天皇自身に他ならないのではあるまいか。
「無限定なる、権力者乃至権威者に対する讃美ほど、醜いものは、この世には存在しない。」
 これが人間のルールだ。


     五


 最後にのべよう。
 百論せずとも、上の地図を見てほしい。「神籠石の分布図」だ。それぞれ、山の中腹や上腹に張り回された「軍事的山城」だ。巨石が延々と並び、その上に二重の城柵があった。兵士のみか、住民をも待避させうる広さ、深さ、そして必須の水を装置していた。この軍事体制にとっての「仮想敵国」は誰か。
 築造の時期は、従来の考古学編年(土器を中心とする)では、六〜七世紀だ。近年の年輪測定や放射能測定では、「約百年以上」さかのぼる可能性が高い。五〜六世紀初め(以前)からとなろう。「下限」は無論、「白村江の戦」(六六二、或は三)だ。
 当然、「仮想敵国」は“高句麗・新羅”そして“唐”とならざるをえない。
 すなわち、「高句麗好太王碑の中の倭軍」(四〜五世紀)や「倭王武の上表文」(五世紀末)や「白村江の戦の当事者としての倭国」(七世紀後半)は、この「神籠石群につつまれた中枢地帯」(太宰府や筑後川流域)を権力拠点としていた「倭国」なのである。
 これは、当の敵対国であった中国(唐)の史書(旧唐書・新唐書)の語るところと完全に一致している。
 そして「新しい歴史教科書」の描いた「日本の古代史像」とは、見事に矛盾しているのだ。何の一致するところもない。
 実は、この重大事において、この教科書は他の教科書と双生児だ。それどころか、全篇を貫く天皇讃美によって、その矛盾と背理は「極大値」をしめしている、と言いえよう。
 「真実の史料を重んずる*2」云々が「食言」でないなら、この「神籠石矛盾」を回避せず、正面 からこれに答えねばならぬ。それができぬ教科書は日本国民の面前から退場する日、それはすでに遠い将来ではないであろう。
 わが国は明治維新以後、自国を以て「天皇家中心の歴史をもつ」と称してきた。すなわち、それに反する「事実」は一切これを排除してきた、教科書からも、学界からも。決して許さぬ ところ、聖域としてきたのである。
 しかし、いわゆる「日出ずる処の天子」の時代、七世紀前半は、すでに右の「神籠石分布図」のほぼ完成した時代だ。
 もしこれが推古天皇と聖徳太子の時代だったとしたら、この両者は「神籠石領域の外」の存在とならざるをえないであろう。実在の両者は必ず、「外から」この延々たる軍事防塞線の存在を知っていたはずだ。これに対し、「天皇は自分の領域(大和)を中心とせず、他(筑紫)を中心とする軍事防壁を営々と作らせ賜うた。」などと教えて、「日本の子供」は納得するであろうか。少なくとも、世界の子供も、大人も、すべてがこれを嘲笑うであろう。「否(ノー)」と言うであろう。
 薩長政権御用史学の聖域の崩壊、それを予告するものこそ、今回の騒動の本質なのである。

〈注〉
(1)「二倍年暦」による。『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)参照
(2)「史料で事実を徹底的に突き詰めること、それだけが歴史です。」小林よしのり。『SAPIO』6・27(2001)P.9

                  ──二〇〇一・七月十日、記──

【資料】『旧唐書』倭国伝・日本国伝
 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里。新羅の東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。東西は五月行、南北は三月行。世に中国と通 ず。其の国、居するに城郭無し。木を以て柵を為し、草を以て屋を為す。四面に小島、五十余国、皆焉れに附属す。
(下略)
 日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併す、と。
(下略)



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