古田史学会報
2002年12月 3日 No.53
古田史学会報五十三号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
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福岡市 力石 巌
一 まえがき
万葉集の第八番歌、周知の額田王の歌、「熟田津に船乗りせむと……」のあの「にぎたづ」の地が発見されたと聞いてからもう四年ほどになる。最初の発見者は立川市の福永伸子氏で、発表は夫の晋三氏であったと下山昌孝氏が書いている(注1)。福永氏の「にぎたづ」の比定地は、福岡県鞍手町新北。これに対して下山氏は反論し、佐賀県諸富町の旧新北村が「にぎたづ」であるとした。
多数の反論、賛成論が出されたが、その後、下山氏は諸富町に現地調査を決行し自説を一層深化伸展せしめた(注2)。この結果、「にぎたづ」論は下山説に落ち着いたものと思っていた。ところが、今夏、福永晋三氏は「倭国易姓革命」の考証に伴って「鞍手町新北」説を補強し自説の復活を果たした(注3)。
本稿では、これまでの先学の「にぎたづ」論を参考にしながら、浅学を惧れず初心者の目から見た「にぎたづ」を検討考察する。
二 額田王の歌
万葉集には額田王の作とされる歌十三首ある。長歌三首、短歌十首である。全十首の短歌は次の通り。
《額田王の歌》資料1
i 綜麻かたの林の前のさ野榛の衣に付く なす目に付くわが背 (集十九)
ii あかねさす紫野行き標野行き野守は見 ずや君が袖振る (集二十)
iii 古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや 鳴きし我がおもへるごと(集一一二)
iv み吉野の玉松が枝は愛しきかも君がみ 言を持ちて通はく (集一一三)
v かからむとかねて知りせば大御船泊て し泊りに標結はましを (集一五一)
vi 君待つと我が恋いをれば我がやどの 簾動かし秋の風吹く (集四八八)
vii 三輪山を然も隠すか雲だにも心あらな も隠そうべしや (集十八)
viii 熟田津に船乗りせと月待てば潮もか なひぬ今は漕ぎ出でな (集八)
ix 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の みやこの仮盧し思ほゆ (集七)
x 莫囂円隣之大相七兄爪謁気わが背子が い立たせりけむ厳橿が本 (集九)
額田王は天武天皇の妃であり、後に天智天皇に召されたとの説もある。十首の歌は歌風の異同によって三区分することができる。 i 〜 vi が額田姫王の作で、vii〜
x は姫王の作でない。これが結論である。理由は以下の通り。
i は「男心をくすぐる天性のコケティッシズム」と古田武彦先生に評された歌。ii,iii,iv も同様、個性的、情熱的で誰が評しても「疑問の無い」額田姫王の歌である。
v,vi はやや身構えた歌だが天智帝に関する歌であり姫王の歌と考える他別の解釈はない。vii 〜x は、先の歌に比べその歌風が歴然として異なること、加えて歌の趣旨、歌の左注、姫王の立場から考えて、姫王の歌では有り得ないと判断される。以上、あえて額田王の全短歌を挙げて「八番歌」が姫王の作でないことを確認した。
実際、vii は井戸王の作であると解明されているし(注4)、また、福永晋三氏によれば viii は、神功皇后の三韓征伐の船出の歌であり、x は従来、訓読さえも解明されていなかったが、氏は初めてこれを解読し、やはり神功皇后の歌とした(訓は福永氏による)。
iv は考察中とのことである。いずれにしても vii〜x の作者は額田姫王とは別人の額田王と名のる人物と考えられる。
三 御船西征
「斉明紀」によれば、百済救援のため斉明率いる船団は、斉明七年一月六日、摂津の難波京を出発、一月八日、備前大伯海(おほくのうみ)に到る。一月十四日、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる(出発から八日たっている)。そして、二ヶ月余りたった三月二十五日、「御船、還りて娜大津に至る」とある。熟田津から娜大津までの距離は難波から熟田津までと比べて短いのに日数は逆に八倍以上もかかっている。湯治が目的でない故、これは長すぎる。「八番歌」の出港の際のあの緊迫感をどう説明するか、考えられない悠長さである。歌の趣旨と斉明の行動目的との間の「著しい齟齬」、これは「八番歌」が斉明天皇の歌でないことの明白な証左と考えられる。
岩波文庫の『日本書紀』斉明七年の項の注には、「還りて」の説明として、「熟田津は寄り道。本来の航路に戻っての意。」とある。しかし地図を見れば分かるように、難波津から娜大津までの瀬戸内海航路では熟田津が主航路から大きく離れている訳ではない。ほぼ主航路の上にあるといって良いくらいである。熟田津に立寄って行くのに、普通、「還りて」とはいえない。では、「還りて」とは何か。又、斉明船団は二ヶ月余、何処で何をしていたのであろうか。
備中国風土記の邇磨郷の記事に、「斉明天皇西征の時、従行した皇太子(中大兄)が或る郷に下船したところ村人の意気軒昂なる様を見て天皇に申し上げた。天皇は詔を下し、試みに此の郷で軍士を徴したところ、たちどころに勝兵二万人を得て大いに悦んだ。しかし後に、天皇は朝倉宮で崩じたので終に此の軍を遣はさなかった。」とある(注5)。
この記事は「斉明紀」とも対応しており、これを考えれば、斉明船団は熟田津に長期碇泊していた訳ではないことが分かる。二万人もの徴兵を動員するには軍組織の編成、軍船軍器の調達等々かなりの手間ひまがかかる。船団を備中まで差し戻して軍の再編を行った後、船首を再び西に向け、還りて航行して娜大津に入港した。このように考えれば、「三ヶ月の空白」の謎に納得がいく。
四 「八番歌」の解釈
「この歌の解釈は諸説多岐詳細にわたり、難問山積す」(注6)、といわれている通り解釈には多くの先蹤がある。
1)熟田津とは何処か
下山氏によれば、肥前国新北、和泉国和田、磐城国仁木田、伊予国熟田津、鞍手郡新分郷を「熟田津」の関連地としている。人麻呂も「和田津(にぎたつ)」を歌っている(集一三一、一三八)。伊予には「にきた」の地名がないので、多元史観の中では、鞍手郡新北(福永説)、諸富町新北(下山説)の二択問題となっているのである。
福永説は歴史的事件、事跡との関連が実によく対応している。氏の説は、奇想にみえるが豊かな知的発想と論拠に支えられているため、反論は容易でない。私は、「熟田津」は鞍手郡新北ではないと考える。二択問題の中では下山説を採る。諸富町新北が古くからの良港であったことは下山論考に尽きているので省略し、ここでは地理的観点から鞍手郡新北がなぜ不適当であるかを述べる。
まず第一、縄文時代の末期には遠賀潟は縮退し鞍手郡新北は陸化していた(資料2)。虫生津、古月、新延、猪倉、小牧、光田、天神橋は新北から2キロメートル以上離れた水際の地であった。貝塚は標高5メートルの等高線上に分布している。弥生時代以後の鞍手郡新北は三方山に囲まれた低地となり西川が流れていた。新北を取りまいている多数(八〇以上)の弥生以降の遺跡が発掘されている。
第二、潮の干満の話がある(注2)。
「遠賀川は蘆屋浦より潮差し入り垣生中間に至る二里半とぞ云々」
とあり、従って新北にも西川から潮が差し入ったのではないか(注2・3)、という問題を考える。
西川と遠賀川は平行して流れており河川縦断勾配は両者ほぼ同様と考えられる。資料3は遠賀川の感潮域が中間(なかま)市垣生に達している状態を概念図で示している。河口(芦屋港)の干満差は約2メートル、高水位の標高は1メートル20センチメートル前後である(芦屋漁協調べ、九月)。河川の流れが定常流(流量、流相が不変の流れ)であれば、感潮区間の干満差は、河口で最大、上流点(垣生)で零となる。上流点では水面勾配の変化に伴い水位が若干増位する(緩和水頭)。河川の水は絶え間なく流下して来るが高水域に入れば潮水と混じり流速を失う。しかし流量が変わらないため水位が上がる(ベルヌーイの定理)。新北に潮差し入ったとすれば、新北の水位は、図の中間(垣生)と同じ状態になる。即ち干満差ほぼ零(5メートル以下)となる。以上によって、弥生時代以後の新北は陸地であり、西川に潮が入って来ても干満差は生じないことが解る。従って、鞍手郡新北は熟田津ではないと判断される。
2)船乗りせむと
これには、「出航」と「船遊び」の二説がある。「にぎたづ」の歌の緊迫した語気から考えれば「出航」が妥当する。遠くへ遠征するからこそ出航のかけ声に決意がみなぎるのであって、近辺の川、潮沼での「遊覧」や「神遊」びならなんでこんなに気迫のこもった言葉で「船出」を宣する必要があろうか。「遊覧」や「神遊」びなら小船でよく、「船出」よりも、むしろ「遊興」や「儀式」に力点が置かれるのではないだろうか。なお、潮待ちするほどの大型(5屯以上)の回遊船の出現は中近世以降と思われる。
3)月待てば
月の出(明り)を待つ、月の渡り(位置)を待つ、満月を待つ(神霊的慣習)の3案が考えられる。私は、出航に際して潮位の上がるのを待っているのだと考える。天空での月の位置は補助目盛(キャリブレイタ)である。特定の山や木等の真上に月が渡り到ったとき、満潮となる。その時を待っているのである。船出に月明りや満月は必ずしも必要でない。星や山影、島影が見えればよい。船乗りには、濃霧、暴風雨、外洋での航行不能(停止)が一番恐ろしい。
4)潮もかなひぬ
この潮を「潮位」ではなく「潮流」とみなす説がある。月を見て、「潮流」が期待通りの方向と流速になったとき出航すると考える説である。海峡部なら考えられなくもない。しかし熟田津の近くに潮待ちするほどの海峡はない。やはり、「潮位」とみるのが自然で意味の通り具合もよい。
5)今は漕ぎ出でな
とも綱を放て、さあ漕ぎ出すぞ! 気迫のこもったかけ声。魚釣りでも遊覧でもない。命運をかけた出港だ。目指すは韓半島。「天智紀」等によれば、船兵二万七千、軍船一千艘等とあり、とても一軍港に収容できる船数ではない。遠賀潟、洞海湾、伊万里湾、有明海等の沿岸に軍港が散在していたはずである。ちょうど戦前の神戸や呉、長崎や佐世保のように。
諸富町新北(寺井津)の場合、干満差5メートル以上、故に敵襲に対して不利ではないかとの意見がある。これは干潮時、船が干潟に座州することを措定していると思うが、その時敵船も又同じく動けないことを忘れてはいないだろうか。仮に敵船が航行可能で来襲して来るとしても、島原の早崎瀬戸を通過して九〇キロメートルも北にある寺井津に達するには、ほぼ一日を要する。防人(崎守)がこれを見逃すはずはない。寺井津は、筑後川河口の湾曲した分流部(早津江川)を港としているため洪水時、本流の衝撃を受けず、澪も深く広い。初めて寺井津を訪れた時、倭船にとっては自然の良港であることを直感した。
韓国の仁川港( インチョン 干満差9メートル)では、五十屯級の船が干潟の泥砂の上に座っていたのを思い出す。無料の乾船渠(ドック)なのだろう。
五 あとがき
ここまで書いていて、ふと書棚に目をやると『万葉集の向こう側』が置いてあった。今夏、「磐井の乱シンポジウム」の時の売れ残りの一冊を買ったのだった。書棚に突込んだまま忘れていた。鉛筆を指に挟んだままペラペラめくるうち、あっと手を止めた。「熟田津」が出ている。息を凝らして「東朝と熟田津の歌」という一説を読んだ。そこには、「斉明天皇は豊前難波津を発し伊予の石湯の行宮に行く。そこで朝鮮遠征の議論を十分固めた上で熟田津を出港したのではないか」と幻視する趣旨が書いてある。全くの新説、発想は違うが出港地は伊予の熟田津であり従来説の復活である。興味深い新説だ。しかもこの説だと「還りて娜大津に至る」のは何の他奇もない、自然だ。「幻想史学」の威力と思う。著者、室伏志畔氏の「八番歌」の解釈はこうだ。倭国の分王朝(東王朝)が朝鮮遠征に条件を付け、本朝(月がシンボル)からの返使をしびれを切らして待っていた。月からの使者がようやく到着し、「諾」と伝えたので「潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」となった。とのことである(注7)。なるほど、そういう解釈もあるのか、このぶんだと「にぎたづ」論もまだまだ続きそうだ。そう思うと疲れがどっと出てきた。
実証史学であれ幻想史学であれ、真実を把んでいれば結果は同じだ。同じ結論に向かう。しかし、いずれにしても「証明」がなければ、「仮説」や「予想」あるいは「通説」のままで残り「定説」にはならない。「フェルマーの定理」が三五〇年余りの長期にわたり「予想」であり続けたように。
〔了〕
(注)
(注1)下山昌孝「にぎたづ考」、『多元』三六号、「多元的古代」研究会・関東編。
(注2)下山昌孝「にぎたづ考」その2、『多元』三八号、「多元的古代」研究会・関東編。
(注3)福永晋三「万葉の軌跡?」、『新・古代学』六集、二〇〇二年七月、新泉社。
(注4)古田武彦「額田王と井戸王」、『人麻呂の運命』一九九四年、原書房。
(注5)古田武彦「狂心の天皇」、『多元』三八号。岩波・日本古典文学大系四八六〜七頁。
(注6)新日本古典文学大系1『万葉集一』一九九九年五月、岩波書店。
(注7)室伏志畔『万葉集の向こう側』二〇〇二年七月、五月書房。 ○その他
前略
十月の例会にまた参加させていただきありがとうございました。皆様の研究発表を楽しくうかがいました。私の勉強はなかなかはかどらないのですが、細々とでも続けていく元気が出ました。十一月は都合で出席できないので、いくつか気がついた点を書かせていただきます。
まず、二倍年暦は世界中の古典に痕跡が残されているはずだ、とのことですが、筑摩世界文學系1『古代オリエント集』(訳者代表・杉勇、昭和五三年、筑摩書房刊)の中に、百十歳は「古代エジプト人の理想の年齢だった」との記述を見つけました(五一七頁注)。同書からいくつかのテキストを挙げます。
一、「ウェストカー・パピルスの物語」(屋形禎亮訳。解説によると、ベルリン博物館蔵、パピルスに書写されたのはヒクソス時代の末〔前千六百年前後〕、物語は少なくとも第十二王朝〔前二十世紀〕、祖形の口承は第五王朝〔前二五世紀〕に遡るという。)同書四一九〜四二〇頁。王子デデフホルがクフ王に魔法使いジェディの人となりを紹介する段。
「平民の男で、名前はジェディという、ジェド・スネフルに住んでおります。百十歳になる平民の男で、今でもまだ(日に)五百個のパンと肉、そして牡牛の肩肉(前半分)をたいらげ、百本のビールをのみます。・・・」
二、「宰相プタハヘテプの教訓」(屋形禎亮訳。解説によると、第五王朝末(前二千四百年頃)の作という。)同書五一七頁。最初に述べた、注のある部分です。
「われは至福の座に(いたる)まで王のため正義を行ないたるが故に、先祖たちにもまさる寵愛をえて、王の与え給いし百十年の生命を達成せり。」
三、「オンク・シェションクイの教訓」(杉勇訳。解説によると、エジプト後期の教訓文学の一つ。)同書五六八頁
「若いうちに息子が得られるよう、二十歳になったら妻を娶るがよい。」
この部分は二倍年暦とは言えないかもしれません。
四、「「後期エジプト選文集」より」(杉勇訳。解説によると、後期エジプトでは学習のための模範文例がパピルス紙やオストラコン〔陶片〕に多数残されており、当時の世相を知る資料になっているという。)同書六三九頁
「おお、王の右にあって扇を持つ者、神ゲブの広間の皇太子、「永劫の地平」にある神社の司祭、王の真の書記官、王に愛されたる人、あなたのご境遇が百万回も生を受けた人のようでありますように。「二つの邦」の創始の神、神々を創りたもうたアメン・ラーがあなたのためにお力をふるわれますように。また、あなたの御口はすこやかにて、いかなるきずもあなたには見し得ませぬによって、この神が王の恩寵をあなたに授けたまいますように。時の王、正義を愛する神ホルスのご愛顧を受けられますように。この世で百十の齢をまっとうされますように。・・・」
百十歳というのが二倍年暦の、実際にありうる年齢だったのか、注にあるように単なる願望、理想だったのか、もう一つはっきりしないように思いますが、ご参考までに。
次に、研究会の時に言いかけてそのままにした兄ウカシ、弟ウカシは男性か女性か、という問題について、なお補足させていただきます。
歴史書と名のつく書物に女性が登場することはめったにありません。たまに出てきても添え物、よくて彩り程度です。人口の半分は女性のはずなのに、寂しい限りでございます。このことは、日本書紀の神武天皇紀を少しずつ読んでいて気がつきました。まず弟ウカシについてですが、敵地を怪しまれずに通行するために老嫗に変装したことが書かれています。始め、新参者の忠誠心を試すために女装させたのだろう、などと憤慨していたのですが、神武天皇の元からの家臣として名前の出る(二人のうちの)一人、道臣命(日臣命から改名、大伴氏の先祖)に「嚴媛」という別名が授与されて、女性だとわかった時に、それなら弟ウカシも本来が女性だから老嫗に変装したと考えた方が自然だ、と思いなおしたのです。同じ時、椎根津彦は「老父」に変装しています。男性だからでしょう。
では、兄ウカシは? この人物は、「機」を使って神武勢力に対抗しようとしています。国史大系版(吉川弘文館)の日本書紀では「機」に「オシ」の振りがなが当ててありますが、古事記に「押機」とある影響ではないでしょうか。岩波書店刊行の日本思想大系版の古事記では、「紀は単に「機」に作り、下文に「蹈機而圧死」とあるので、踏むと大石が落下してきて圧死する仕掛けがしてあったものか。」(一二三頁の注)と恐ろしげな仕掛けのような解釈がされています。
日本書紀巻第一の「是後素戔鳴尊之爲行也甚無状」で始まる節の第一「一書」では、
「一書曰、是後稚日女尊坐于齋服殿、而織神之御服也、素戔鳴尊見之、則逆剥斑駒投入之殿内、稚日女尊乃驚而墮〔機〕以所持梭傷體而神退矣」(国史体系)
とあり、「機」には「ハタ」「ハタモノ」の振りがながほどこされ、前後の文章を合わせれば、明らかに機織り道具であります。同じ日本書紀の中で、「機」の文字を一方で「ハタモノ」と読み、一方で「オシ」と読むのでは、ダブルスタンダードになりましょう。仕掛けが何も無かったとは思いませんが、「ハタ」は、どう改造しようと、基本的に「ハタ」では? 兄ウカシはおそらく、最先端のハイテク「ハタ」をお見せしましょう、と相手を釣り出すつもりだったのでしょう。
日本書紀の神代の巻上では、素戔鳴尊が投げ入れた斑駒に驚いて怪我をし、「神退」ることになった稚日女尊は、「尊」の尊称で呼ばれる女神でした。後の律令の時代には、糸や布を差し出すのが女性一般の租税の一種となりましたが、機織りが女神や女王のお仕事だった時代がきっとあったのです。機織り機でいわば労災死を遂げた稚日女尊が女性であるように、機織り機で敵をおびき寄せようとした兄ウカシもまた、女性であったはずです。その上、兄ウカシが「機」にかけようとした相手方の首長もまた、本来は(神武天皇ではなく)女性だったことが想定できます。
機織り機を種に敵をおびき寄せるというのは、男性の発想ではありますまい。ウカシの文字がけものへんに骨(猾)であることから、兄ウカシ弟ウカシは獣の骨で占いをする巫女の女王たちだったことでしょう。
同じ神武紀に登場する兄磯城と弟磯城については、性別を考える材料が見当たらないため、断定はできません。ただ、どちらも弟の方が裏切っているのが示唆的です。外部からの強い圧力がかかった時、先行きの不透明な情勢が出現した時のナンバーツーの行動として、うなずけるものがあります。神武自身にしたところが、長兄は戦死、ほかの兄たちは、父は天神、母は海神なのに、どうしてこんな苦労をするのか、と不平を言って、行動を別にした(海に入った、あるいは常世の国へ行った)ように描かれています。
神武もまた、兄たちを裏切ったのかもしれません。
研究会の時、ウカシは地名で、神社も存在する、ということを教えていただきました。手元の漢和辞典(長岡規矩也編『携帯新漢和辞典』昭和四四年、三省堂)によれば、「猾」は漢音カ(クワ)ツ、呉音カ(クワ)チ、
1) ワルガシコい、 2) ミダす、とあり、ウカシの読みはありません。獣骨による占いを根拠とした自称なのか、ワルガシコさや秩序をミダす点に着目した敵側からの命名なのか、わかりません。地名だとすると落ち着きます。ここではあくまでも神武紀の記述のみでの推論です。同じ記事の中に天香山が登場しますが、それは奈良の天香具山なのか、古田先生がご著書『古代史の十字路』でおっしゃるように、豊後の国の鶴見岳なのか。老父にばけた椎根津彦と老嫗にばけた弟ウカシの採取してきた天香山の頂の土で、平[分/瓦]、天手抉、嚴[分/瓦]を作り、水なしに飴を作り、戦勝祈願のために、嚴[分/瓦](中身はなんでしょう?)を口を下にして川に沈め、魚を「浮流」(この文字面は古賀さんの論文〔「古田史学会報」No.
四九〕で拝見しましたが、関係があるのでしょうか?)させ、水面にあっぷあっぷさせた、とあります。毒物を流したのでなければいいのですが、もし鶴見岳の土なら火山性でしょうから、そういう成分が含まれていても不思議ではないかもしれません。
[分/瓦] は分の下に瓦です。
神武紀に登場するもう一人の女王、菟狹(うさ)津媛にも触れておこうと思います。彼女と菟狹津彦は、治める領地もない神武兄弟に一柱騰宮を作って提供したばかりか、神武の家来・天種子命と菟狹津姫は結婚します。神武紀の中で、命の尊称で呼ばれるのは、神武の一族(兄弟父子と妃)を除けば、道臣命とこの天種子命の二人だけです。「天」のカンムリがつく点に注目すれば、天種子命は、天神の子孫と名乗る神武一族よりも格が上なのではないか、とも考えられます。ちなみに、天種子命は、「日本書紀索引」(吉川弘文館)によると、ここ神武紀にだけ登場する人物です。一国一城のあるじである菟狹津姫が、領地も家もない一党の、しかも家来ふぜい(「侍臣」と書かれています)と結婚するのは、バランスが悪い(昔はつりあいを大切にしたはずです)ように思うのですが、根拠としてはいささか薄弱なので、違和感がある、とだけ述べておきます。
女装して敵を殺害した有名な人物に日本武尊がいます。景行紀によれば、殺された熊襲の魁帥である川上梟帥には取石鹿文(とりしかや)という別名がありました。同じ景行紀には熊襲梟帥(たける)の二人の娘として市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の名が出ています。鹿文(かや)が女性に対する敬称の類だとしたら、日本武尊にその名(日本武皇子)を授けた取石鹿文こと川上梟帥(たける)は女性だったことになります。かの卑弥呼が婢千人に囲まれてめったに人前に出ることもなかったように、日本武尊は川上梟帥に接近しようとしたら女装するほか手段がなかったのでしょう。神武紀には、弟ウカシが、倭国の磯城邑には磯城八十梟帥、高尾張邑には赤銅八十梟帥がいて、天皇に敵対している、と訴える場面があります。この梟帥たちも女性だったのでしょうか。
思いつくまま綴るうちにずいぶん長くなってしまいました。十二月の会合を楽しみにいたします。
草々
二〇〇二年十月二三日
〈エジプト年暦のみ闘論に掲載)
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