2003年8月8日

古田史学会報

57号

1、九州王朝の絶対年代を探る
 和田高明

2、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」
 斎田幸雄

3、わたしひとりの八咫烏
 林俊彦

4、可美葦牙彦舅尊の正体
記紀の神々の出自を探るii
  西井健一郎

5、連載小説「彩神」第十話
 真 珠 (3)
 深津栄美

6、桜谷神社の
古計牟須姫命

 平谷照子

7、「古田史学いろは歌留多」
安徳台遺跡は倭王の居城か
会員総会・事務局だより

 

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九州王朝の絶対年代を探る

岩見沢市 和田高明

    一

 『漢書』地理志燕地条に、有名な一節があります。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百餘国を為す、歳時を以て来り献見すと云う」

 その直前の記事には、箕子が中国から朝鮮に行き、現地の民を教化したという内容に続いて、こうあります、
「貴む可き哉(かな)、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異る。故に孔子、道の行われざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以有也(ゆえあるか)夫」

 東夷だけは三方(北狄・南蛮・西戎)と異り、箕子の教化を受けている(仁賢の化)国であると述べています。そして、これは『論語』公冶長第五の「道行われずば、桴に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由か」という一節を受けているのですが、孔子の言う、桴に乗って向かう東夷(九夷)とは、山東半島の対岸の朝鮮半島ではなく、島に住む東夷の国という認識です。大陸人である中国の民にとって、陸行できる地へ、わざわざ“桴(いかだ)”に乗って行くというのは、よほど特殊なことなので、桴や舟でなければいけない土地と考えることが、自然な解釈なのです。つまり、倭人の国なのです。
 それでは、どうして東夷(倭人の国)が礼節の国と言えるのでしょうか。それは、殷朝末、紂王の悪政に絶望した箕子が朝鮮に行き、その地の民を教化していたとき、その南隣にいた倭人も共にその影響を受け、遂には周王朝に貢献するに到ったという事実があったからです。朝鮮半島南部の、楽浪から陸続きの地のみならず、その本拠が、島であったからこそ、桴に乗っていくと孔子が語ったのです。

 王充の『論衡』に、次のくだりがあります。
 「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人を鬯艸(ちょうそう)を貢す」(巻八、儒増篇)
 「成王の時、越常白雉(えっしょうはくち)を献じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢す」(巻十九、恢国篇)

 『漢書』を著した班固と『論衡』を残した王充は同年代にして、王充が五歳年長です。そして、太学に学んだ二人は共に、光武帝が倭人に金印を授けたときの、同時代目撃者でもあるのです。従って、同時代の王充と班固が、共通の読者に対して記す倭人とは、同一の倭人でなくてなんとしましょう。
 さて、周の武王に礼をもって楽浪に封ぜられた箕子が拝謁したのは、周の第二代天子成王と、その補佐役として政治を司っていた周公旦でした。孔子が敬愛してやまなかった周公と成王の国、その周に初めて貢献した夷人が、箕子の“教化”を受けた倭人であったのです。このとき実に紀元前千百年前後。
 班固は、「楽浪海中倭人有、分かれて百餘国を為す、歳時を以て来り献見すと云う」と記した中の“云う”というのは、不確実な伝聞ではありません。何せ「国史」なのですから、旧記に照合し、吟味検討の結果、信用可能な旧聞を確信した上での記載なのです。孔子の話の裏づけになるだけの確実性と説得力をもたなければ、皇帝をはじめとする支配層やインテリ連中に承認される道理がないからです。そして、孔子の話をわざわざ持ち出した上で述べていることによって、孔子以前の歴史的事実を表しているということになります。更にこの認識を受け継ぐ形で、陳寿は『三国志』で、
「古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す」

と記しています。“古(いにしえ)”とは、漢や秦ではなく周以前を表し、“大夫”とは、周を以て断絶した「卿・大夫・士」という統治階級の三分法の一つであり、周時代に中国の教化を受けて、それを“律儀に”守っていたことの証しとなっているのです。
 そこで、周以来中国に朝貢してきた倭人の国、『論衡』に云うところの倭人の国と、『漢書』『三国志』に云うところの倭人の国が、果たしてどの王朝かということが本論のテーマです。


     二

 王充は、中国に遣いを送って来た始まりを記しており、班固は、定期的に遣いを送ってきている倭人の国を記していますが、両者は同じ王朝なのでしょうか。班固は、いかなるものを送ってきていたのかは記しておりません。暢草のほか、委に「にんべん」のついた「倭」の字を用いていることから、後漢書にあるように、「生口」(奴隷)を送った可能性が考えられるだけです。中国書を読む限りにおいては、断定的なことは言えないのです。
 天照のクーデター、出雲王朝から九州王朝への政権移譲は、支配者たる部族の入れ替わりですから、国家としては継続しております。ですから、『論衡』の倭人国と『漢書』『三国志』の倭人国は、同じ国と考えるべきです。しかし、その中身が問題なのです。
 箕子の教化を受けた頃の倭人国は、出雲王朝と考えます。「国引き神話」といい、黒曜石の分布といい、素盞鳴尊の各種の伝承といい、朝鮮半島をも活動範囲としていた金属器以前であることが明白だからです。
 それに対して、孔子が半ば冗談にしても、自ら赴き教化したいと語った倭人国は、中国にさほど引けを取らないほどの文明の域に達していたと考えて良いでしょう。義を説きながら諸国を経巡っていた孔子にとって、いくら礼節の国とはいえ、余りにも“未開”の国ならば、教化する気持ちも起きないのではないかと考えるからです。
 百餘国を束ね、後に大漢帝国に遣いを送るほどの統率力を持った統一王朝が孔子の時代には既にあり、その国が「金印」を授かったということですから、所謂「九州王朝」の成立は、それ以前であったということになるのではないでしょうか。これにより「成王」と「孔子」の時代の間に、九州王朝が成立したと考えます。(孔子はBC五五二〜四七九の人と伝えられている。)
 出雲王朝に反旗を翻して成立した九州王朝のスタートが、弥生時代の「前末中初」の辺りであったと思い込んでいたのは、実は誤りであったのです。
 その実年代を探り出す手掛りが『古事記』にあります。上巻の末尾に「日子穂々手見命は、高千穂の宮に五百八拾歳坐しき」となっています。筆者はこれまで、二倍年暦に従って、二九〇年の経過とみなしてきましたが、これは、一倍で書かれていたのではないかと考えるに到りました。瓊々杵命の子である火遠理命(山幸彦とも。「日子穂々手見」というのは官職を表すので、代々その職を受け継いできたということ。)から[盧鳥][茲/鳥]草葺不合命の父親の代までが五百八拾年であったとするならば、天照から所謂「神武」までの時間経過は、七百年前後ということになります。
 このことの裏づけになりそうな記事が『新唐書』日本伝にあります。
 「其の王、姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主、天御中主と号す、彦瀲(ひこなぎさ)に至る、凡(およ)そ三十二世。皆、尊を以て号と為し、筑紫城に居す。彦瀲の子、神武立ち、更に以て天皇を以て号となす。徙(うつ)りて大和州に治す」

 記紀の系譜によると、初代の天之御中主から伊弉諾尊・伊弉冊尊の子ということになっている天照までが十三世、そして彦波瀲建(ひこなぎさたけ)[盧鳥][茲/鳥]草(うがや)葺不合(ふきあえず)尊が三十二世です。図示すると次のようになります。
 13 天照大神ー 14 忍穂耳尊ー 15 瓊々杵命ー 16 火遠理命(彦火々出見尊)……彦波瀲建[盧鳥][茲/鳥]草葺不合尊ー神武
 古事記に従うと、第十六世から三十一世までの十六代が五百八十年、一代平均三六・二五年。これを天照から彦波瀲建[盧鳥][茲/鳥]草葺不合尊の間に当てはめると七百二十五年の経過ということになるのです。
 いやはや、かつて「神武天皇」の即位が、縄文時代である紀元前六六〇年など、笑止千万と言われてきました。筆者もまた同じ思いでいたのです。しかし、「神武天皇の即位」は矢張り笑止千万ではありますが、「即位」年を、六六〇年に持っていったことに、多少なりとも“理由”があったのです。紀元前六六〇年にしたのは、辛酉の年に合わせるためであることは、先ず間違いのないところでしょうが、実際の“或る大きな”歴史的事実が其の頃にあったことにより、辛酉の年にしたのではないかということです。
     [盧鳥]は、盧編に鳥。JIS第三水準 ユニコード9E15
     [茲/鳥]は、茲の下に鳥。


     三

 しかしながら、そのことが果たして検証できるのでしょうか。何せ“縄文時代”なのですから。ところがそれができるのです。記紀共に記している『天の石屋戸』の話です。素盞鳴尊の暴挙に立腹した天照大神が洞窟に籠ったために、天地の光が失われ闇に閉ざされたという、「記紀神話」中でも、最もドラマチックなくだりで、映画『日本誕生』で、原節子扮する天照大神を思い出す年配者もおいでのはずです。素盞鳴尊については、海人族の政略により作り出された話で、時代も異なります。今問題なのは、この話は、実際にあった現象が下敷きになっているであろうということです。
 では実際に何があったのか。それは日食です。天安河原に諸神が集合したようですから、重要な会議がもたれたのでしょう。それは一体なんであったのか。推測するところ、クーデタ計画ではなかったかと思われます。その証拠は、天照大神が石屋戸から顔を出した刹那、鏡で天照の顔を写したところ、天照が不審に思ったというのです。偉大なる神(=指導者)が新たに現れましたよ。ほら、この方がそうです、と云って天照の顔を鏡に映したという話になっております。つまり、銅鏡が倭国に渡来したばかりで、彼女はまだ鏡というものを知らなかったのではないでしょうか。この時に、金属器の武器も入ってきていたとしたらどうでしょう。天照配下の幹部連中が、金属器の独占を目論んでクーデタを企み、“親分”である天照を担ぎ出したと考えることは、空想に過ぎるでしょうか。新たな指導者(=支配者)は天照様、あなたなのです。あなたが決断すれば、謀(はかりごと)は成就しますよ。さあ、どうですか。といった、クーデタ謀議の事実がこの話に反映しているのではないでしょうか。
 そこで、日食現象について調べてみました。紀元前を遡ること八百年までの八百年間の現象です。「皆既日食」と「金環食」、「部分日食」の中で最大食分が〇・九一以上のものを表にします。時刻は、[食開始〜食終了]を表し、[食終了]の後の数字は日食の総合時間を、「皆既」と「金環食」に関しては、その持続時間を記しています。 観測地は、壹岐の原ノ辻ですが、対馬・糸島も大差ありません。これを基にする限り、7.BC六二六年が最も可能性があります。昼下がりに食が開始して、三時間以上に亘る日食現象が見られます。記紀の記述を読む限りにおいて、かなり長い現象時間ではなかったかと思われるのです。日輪の子の象徴としての天照が日の“輪”を見たとしたら、これによって自らの時代を嘉したとすれば、金環食があってもおかしくありませんが、文学的過ぎるでしょうか。日本書紀には、「昼と夜の区別もできないほどの闇」という表現をしているので、真昼間ではないかとも思われます。日子穂々手見命の五百八拾年が二倍年暦だとすると、 16.BC二七四年が該当しそうですが、朝のことでもあり、二時間余りの時間で、少し短いように思われますがいかがでしょう。
 最近、国立天文台研究者が、新たな手法で天文現象を計算し直したところ、「日本書紀」や「隋書」に記された現象が(今までは間違いといわれていたものが)実は正しかったという報告が為されました。(朝日新聞、二〇〇三年五月三十一日付夕刊)今までの計算とは異なる結果となったのです。従って、修正する必要が出てきたということです。表中の食分の小さな日食でも皆既食の可能性が出てき、又逆に、皆既となっているものでも部分食であったかもしれません。紀元前、八世紀の事件である可能性も否定できません。再精査による新たなデータを得てから再検討しなければなりませんが、ここでは、論理と可能性について述べることが目的です。

     四

 九州王朝に関して絶対年代が出てくるなら、日本古代史にとって飛躍的な進歩が望めます。この突拍子もない説が、真実を探り当てる試金石となるならば、どれほど嬉しいことでしょう。
 古田氏は、早くから、「縄文ー弥生ー古墳時代」といった時代区分の非合理さを指摘しておりますが、折しも、国立民俗博物館が、弥生時代を五百年ほど繰り上げる発表をしたところです。(二〇〇三年五月二〇日付朝日新聞)「倭人暢草を貢す」の頃に弥生時代が始まった計算となります。頑迷固陋な学会にも、真実の風が少しは吹き始めたのでしょうか。
 尚、本小論のテキストは、古田武彦著「邪馬一国への道標」(講談社)で、データは「ステラナビゲーター5」のものです。
     (二〇〇三年六月二十八日)

 西暦年(BC) 月 日       時  刻            食  分
  1. 七五五   七・一六   一三・〇六〜一六・〇八(三・〇二)    〇・九八
  2. 七四二   四・二六    六・二九〜 八・五五(二・二六)    〇・九四
  3. 七二九   三・ 三    七・五五〜一〇・一三(二・一八)    〇・九六
  4. 六六四   八・二八   一六・〇〇〜一八・〇三(二・〇三)    〇・九四
  5. 六五五   八・一九   一五・二〇〜一七・二五(二・〇五)    〇・九六
  6. 六五三   二・ 二    七・四七〜一〇・五〇(三・〇三)    〇・九二
  7. 六二六   二・ 三   一三・〇二〜一六・一一(三・〇九)   金環食(一四・四一〜四五)
  8. 五七五   五・ 九   一四・一四〜一七・一三(二・二九)    〇・九五
  9. 五四九   六・一九   一四・一三〜一六・三八(二・二五)   皆既食(一五・二八〜三一)
 10.四九八   九・二二  一一・二一〜一四・五二(三・三一)   金環食(一三・〇九〜一二)
 11.四八一   四・一九  一二・五五〜一五・三六(二・四一)   皆既食(一四・一七〜二〇)
 12.四六六  一二・二六  一六・〇五〜一七・一六(日没)    〇・九五
 13.四五七  一二・一六  一四・三八〜一七・〇一(二・二三)    〇・九八
 14.三六六   二・ 九   八・三六〜一一・〇五(二・二九)    〇・九一
 15.三一四  一〇・二八   六・五六〜 九・二七(二・三一)    〇・九三
 16.二七四   九・ 六   六・四九〜 八・五七(二・〇八)   皆既食(七・四九〜五一)
 17.二〇八   三・ 三  (食中日出)六・五九〜 八・一二    〇・九三
 18.二〇六   七・ 七   六・〇五〜 八・一六(二・一一)    〇・九一
 19.一九八   八・ 七   九・二六〜一三・〇一(三・三五)    〇・九四
 20.一三四   八・一九  一四・一二〜一六・三六(二・二四)    〇・九七


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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