2004年6月1日

古田史学会報

62号

1、別府・鶴見岳を
天ノ香具山とする文献
 水野孝夫

2、ホトノヂは
大戸日別国の祖神
 西井健一郎

3、ヤハタの神と
 宇佐八幡宮
 斉藤里喜代

4、連載小説
彩神(カリスマ)
第十話 深津栄美

<5> 5、マリアの史料批判
 西村秀己

6、続・「九州年号」
真偽論の系譜
 古賀達也>

7、市民タイムス
太田覚眠と
信州の偉人たち
 松本郁子

本物の歴史に出会えた喜び
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「九州年号」真偽論の系譜 -- 新井白石の理解をめぐって 古賀達也(会報60号)


 

続・「九州年号」真偽論の系譜

貝原益軒の理解をめぐって

京都市 古賀達也

はじめに─九州年号真作論の系譜─

 古代より史料に現れた九州年号はその実在を前提として記されている。たとえば『続日本紀』の聖武天皇の詔報に見える「白鳳」「朱雀」などは著名な例である(注1.)

 「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 この詔報は、時の聖武天皇による九州年号実在を前提とした発言であるのみならず、『続日本紀』成立時点の延暦十六年(七九七)において、編纂に携わった歴史官僚たちもまた九州年号実在説に立っていたことをも意味する。もし、そうでなければ「白鳳」「朱雀」の年号を削除したであろうし、それは彼らにとってたやすいことだったのではあるまいか。
 時代が下がって鎌倉初期に成立した『二中歴』においても、その中に収録された「人代歴」には年号が継体天皇の時代に始まったこと、「年代歴」には「継体」から「大化」までの三十一個の九州年号を列記し、次のようにその実在を主張している。

 「已上百八十四年、年号三十一代、〔不〕記年号。只人有りて伝え、『大寶より始めて年号を立てる』と言うのみ。」『二中歴』「年代歴」古賀訳(注2.)

 この「年代歴」部分の成立は平安後期十二世紀頃には成立していることから、その時代においても九州年号実在の立場で編纂されていたことがわかる。同時に、年号は大寶から始まるとする見解が存在していたことも記されている。ただしこの場合、九州年号や『日本書紀』に見える「大化」「白雉」「朱鳥」の年号をどのように解していたかは、『二中歴』の文からは明らかでない。
 さらに時代は下がって、江戸初期において宇佐八幡宮の神祇卜部兼従による『八幡宇佐宮繋三』(一六一七年成立)では九州年号実在を前提とした表記が見え、新井白石も真作の立場に立っていた事は既に紹介してきた通りである(注3.)
 このように古代から近世に到るまで、九州年号を真作とする立場が連綿と続いてる一方で、明治以後平成に到るまで歴史学界の様相は一変し、九州年号を偽作視する立場が主流というよりも総流となったことは誠に不可解な現象である。こうした一大転換がどのような学問的論拠や思想的背景に基づいてなされたのか、その一端を明らかにするために本稿は草されたのである。

 

貝原益軒・好古の偽年号論

 江戸時代、筑前黒田藩の儒者貝原益軒(一六三〇〜一七一四)はその著書『和漢名数』『続和漢名数』において、わが国における年号の始まりについて論じている。次の通りだ。

 「本朝年号 【孝徳】大化〔五年〕白雉〔五年○白雉之後。斉明。天智朝竝無年号。凡十七年。〕【天武】白鳳〔十四〕朱鳥〔一年。朱鳥之後。持統天皇亦無年号十年。【文武】大寶〔三年。文武帝自元年。至四年。亦無年号。五年始立年号。爲大寶。自是以後。年号相続不絶。○俗間伝云。前此有善記僧聴等之年号。然其事虚妄。不可信。〕(以下略)」『和漢名数』(益軒全集巻之二)
 ※〔 〕内は細注。以下同じ。

 「日本偽年号 (中略。善記から大長まで三十個の九州年号が列記)此偽年号浮屠所妄作。而出干麗気記私抄及海東諸国記。且伊予温泉銘。亦有取用於此号。則古代間亦有稱之者可知而已矣。非唯施之本邦。施及外国。海東諸国記悉挙此年号。以爲實有此号。可嘆哉。」『続和漢名数』(益軒全集巻之二)

 『和漢名数』(元禄二年、一六八九成立)において益軒は、俗間では大寶年号以前に「善記」や「僧聴」等の年号があったと言い伝えられているが、それらは虚妄であり信じることはできないと、九州年号偽作の見解を示している。ただし、その根拠や論証が記されていない。『続和漢名数』(元禄五年、一六九二成立)では、これらの偽年号は浮屠(仏教僧侶)が妄作したものとしていることから、九州年号に仏教色が強いことが偽作の理由とされているようである。
 なお益軒の甥、貝原好古(一六六四〜一七〇〇)は『大和事始』(天和三年、一六八三成立)にて、益軒よりも先に九州年号仏家偽作説を著している。ただし好古は益軒の下で学んでいるので、益軒の影響を色濃く受けており、偽作説がどちらの発案かは、今のところ判断できない。

 「年号 (中略)大化より年号始るといへども、其後或年号を立、或年号を不立。文武天皇五年に大寶の号を立、これより相続て年号たへず。故に正統記には、大寶を以て年号の始とせり。又大化より前、継体天皇の時より、年号ありしとて、拙き連字を用て、年号として相続けり。しかれ共、是佛氏の偽作なれば、信ずべからず。」『大和事始』(益軒全集巻之五)

 管見では、九州年号を仏家による偽作とする説はこの貝原好古と貝原益軒が最初のようであるが、基本的にはこの見解が現在の学界まで続いていると言っても過言ではない(注4.)。しかしこの仏家偽作説は学問的論証を経ていない。何故なら、九州年号に仏教色が強いから仏家の偽作というのは一作業仮説に過ぎず、論証そのものではないからだ。
 例えば仏教色の強い王朝が立てた年号なら仏教に関係する字を選ぶ可能性が高いであろうし、道教に影響を受けた王朝なら道教的な年号を立てるであろう。したがって、史料根拠をあげ、こうした可能性を実証的に否定し、やはり偽作であるという論証が成立して始めて九州年号偽作説が有効となる。しかし、この学問上の当然の論証手続きが益軒・好古から現在の偽作説学者に至るまでなされないまま、九州年号は学界から無視されているのが現状である。これを「深刻な学的退廃」と評すれば、はたして言い過ぎであろうか。

 

益軒・好古の学問の方法

 このように論証抜きで九州年号を仏家による偽作とした益軒の理解や学問の方法とはどのようなものであったのだろうか。そのことを示唆する興味深い事実が『和漢名数』『続和漢名数』に見える。それは九州年号の「白鳳」が「本朝年号」の項に記載され、「日本偽年号」の項には扱われていないことだ。『日本書紀』にない「白鳳」を大和朝廷の年号とした益軒の理解を解く鍵が、その著書『文訓』の次の記事にある。

 「和学は、まづ日本紀以下六国史を見、それより後の東鑑以下の野史、近世までの小録をも考へ見て、わが国歴代の事をしるべし。又律令格式などの本朝の古法を考へ知るべし。もろこしの伝記のみを見て、わが国の事にうときは、近きをすてゝ遠きをつとむるなり。緩急の次第を失へりと云べし。しかれば日の本に生まれたる人は、皆和学に通ずべし。」『文訓』(益軒全集巻之三)

 ここに益軒の依拠史料の優先順位が示されており、六国史を筆頭に東鑑等がこれに次ぎ、中国(もろこし)史書の順位は低いことがわかる。そして、甥の好古の著書『大和事始』「附録」の「国朝年号譜」に次の記事がある。

 「東鑑云、白鳳十五年、自大和国献赤雉。年号、爲朱鳥元年。」『大和事始』「附録」(益軒全集巻之一)

 このように「東鑑」の記事などを根拠に「白鳳」を大和朝廷の年号と理解したようである。同じく『大和事始正誤』には次のように史料に対する姿勢が記されている。

 「調役
 一 崇神天皇十二年云云。〔日本紀。〕注曰、海東諸国記には、成務天皇五年、諸州始貢稲とあり。
 按、海東諸国記に引けり。此書は朝鮮国の人、申叔舟が作れる書也。用ゆるに足らず。我国の国史に諸州始貢稲の事見えず。神武天皇より以来、天子の位に即き給へば、諸国より貢物を献ぜしは勿論なるべし。其始をたづぬるに及ばず。外国より貢物を奉りしことは、応神天皇より始るなり。」『大和事始正誤』(益軒全集巻之一)

 我が国における「調役」の始まりについて論じたものだが、それを成務天皇五年とした『海東諸国紀』を朝鮮の書ゆえに「用ゆるに足らず」と切り捨て、国史に見えないにもかかわらず 「神武天皇より以来、天子の位に即き給へば、諸国より貢物を献ぜしは勿論なるべし。」として、「其始をたづぬるに及ばず」と論断している。すなわち、国外史料を無視し、国史に根拠がない場合はイデオロギーで論断するという方法であり、学問的手法ではない。これは益軒以上の皇国史観と言うべきものである。前稿(注5.)

益軒以後の偽作論

 益軒や好古以後も九州年号偽作論が散見されるが、それらは益軒と同様に仏家による偽作とし、やはり必要にして十分な論証はなされていない。以下、それらを紹介する。

 「海東諸国記継ニ軆天皇ノ十六年壬寅ヲ善化元年ト記シタルヨリ白鳳ニ至ルマデ挙タルハ我國ノ人ノ年號ノナキヲツタナキコトヽオモヒシヨリツクリマウケテ韓人ニ傳ヘケルモノナルベシ中古ハ出家ノ人ノ國ヘユキヽノオホクアリシヨリ小賢シキ僧ノ造リ出タルナラム其言ツタナクシテ多クハ佛家ノ文字ヲ用タリ其外神社寺院ノ縁起文或ハ佛像ニエリ付タルイツレモ浮屠氏ノ為ス所ナルヘシ」穂積保「異年号考」文化元年(一八〇四)。『史学協会雑誌』第二二号所収(明治十八年)

 「大化以前奇僻ノ年号往々史伝ニ散見ス…(略)…蓋当時僧徒ノ随意ニ名タルモノニテ天下ノ知ル所ナラザレバ略シテ録セズ」清宮秀堅『新撰年表』嘉永元年(一八四八)

 「多くは中古以来僧徒の、人の国へゆききおほくありし頃より、皇国の古へに、紀号なきを厭ぬ事に思ひて造出たるならん、其の文字づかひもいと拙く、仏家の語を用ひたるにて知るべし、神社寺院の縁起、仏像などに彫付けたるも、大かた同じ心ばえなり、然るを韓人の海東諸国記にかけるは、もとより正しき紀号と心得て記せるにや。」栗田寛「逸年号考」明治十七年(一八八四)

 以上のように、益軒以後の偽作論も必要にして十分な論証を経ずに、九州年号仏家偽作説を延々と続けて今日に至っているのである。こうして見ると、九州年号偽作論の学問的基礎の脆弱さに驚かざるを得ない。九州年号真偽論争の学問的発展が望まれる所以である。そして、本稿がその一助となれば幸いである。
                       (二〇〇四年四月二五日記)

(注)
1. 古田武彦『失われた九州王朝』にて、九州王朝実在の史料根拠として紹介された。

2. 『二中歴』古写本(尊経閣文庫)は〔 〕内が虫食いによる欠字であるが、「不」であることを拙稿「『二中歴』の史料批判─人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(古田史学会報 No.三〇)にて論じた。また、「年代歴」部分は平安後期の成立であることも論じた。

3. 古賀達也「『宇佐八幡宮文書』の九州年号」古田史学会報 No.五九。
 同「『九州年号』真偽論の系譜─新井白石の理解をめぐって─」古田史学会報 No.六〇。

4. 所功『年号の歴史』(雄山閣、一九八八)では、九州年号の創作者を「おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係の深い人物」(二七頁)と推測されている。

5. 古賀達也「『九州年号』真偽論の系譜─新井白石の理解をめぐって─」古田史学会報 No.六〇。


 これは会報の公開です。

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