2005年6月1日

古田史学会報

68号

「伊予風土記」新考
 古賀達也

削偽定実の真相
古事記序文の史料批判
 西村秀己

船越
 古川清久

4連載小説『彩神』
第十一話 杉神 3
  深津栄美

大宝律令の
中の九州王朝
 泥憲和

鶴峯戊申
不信論の検討
『臼杵小鑑』を捜す旅
 冨川ケイ子

ミケランジェロ作
「最後の審判」の謎
 木村賢司

高田かつ子さんを悼む

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マリアの史料批判 西村秀己(会報62号)

削偽定実の真相 -- 古事記序文の史料批判 西村秀己(会報68号)


 

削偽定実の真相

古事記序文の史料批判

向日市 西村秀己

 「古事記及び日本書紀は天武天皇の発案によって、後八世紀になって作られた」簡単に言えばこれが古事記及び日本書紀の成立に関する(一元史観であれ多元史観であれ)定説である。この定説の唯一の史料根拠は言うまでも無く古事記序文の

是に天皇詔りたまひしく、「朕聞く、諸家の齎る帝紀及び本辞、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に當りて、其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故惟れ、帝紀を撰録し、舊辞を討覈して、偽りを削り實を定めて、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。

である。これに従えば、天武治世の何れかの時、天武が稗田阿禮に命じて天皇家の歴史を暗誦させ、後、元明天皇が和銅四年九月十八日に太安萬侶に撰録を命じ、和銅五年正月廿八日に献上されたのが「古事記」ということになる。そして日本書紀は古事記の瑕疵を補うべく、天武の遺志を全うする為に、古事記に遅れること八年で完成した史書ということだ。
 だが、ここに不審がある。天武が稗田阿禮に詔勅を下したのが天武の最晩年である朱鳥元年(西暦六八六年)であったとしても、この時から元明が執筆命令を発動した和銅四年(西暦七一一年)まで二十五年もあることである。一元史観の学者は知らず我々多元史観の朋輩は知っている。西暦七〇一年に日本列島を代表する王者が交代したことを。(これは古田武彦氏が三十年以上に亘り主張し続けていることである)であるならば、何故、文武は「即位」後執筆を命じなかったのか。さらに、不審は続く。稗田阿禮は天武の詔勅の時廿八歳と古事記序文に明記されている。であるならば、太安萬侶が稗田阿禮のもとを訪のうた時、阿禮は若くとも五十三歳なのである。これは、当時いつ死んでもおかしくない年齢ではあるまいか。もし、阿禮が死んでしまっていれば、天武の遺志は砂上の楼閣となってしまう。天武の死後二十五年を閲して偶然元明がその遺志を思い出し、その時たまたま阿禮が生きていて何と二十五年以上前に記憶したことを、たまたま正確に覚えていた!今までの「定説」はこれを信じろというのである。勿論、有り得ることではある。これが絶対に有り得ないのか?と、質問されれば、あったかもしれないという他はない。しかしながら、大方の理性はこれを疑わざるを得ないであろう。
 第二に、序文は天地開闢から説き起こし、天之御中主・タカミムスビ・カミムスビ・イザナギ・イザナミ・天照・スサノオ・ニニギを挙げたあと、歴代の天皇に触れる。神倭天皇として神武・賢后として崇神・聖帝として仁徳、さらに成務や允恭の事跡を記しながら、飛鳥清原大宮御大八洲天皇として天武を登場させ最大限に顕彰する。さて、安萬侶は何故継体に触れていないのだろうか。近畿天皇家の歴史を前後四〇〇年の漢に置き換えるならば、神武が高祖劉邦、そして継体は光武帝劉秀に相当する。また、継体は八世紀の天皇家にしてみれば直接の先祖である。ところが、傍系の仁徳を聖帝と称揚するにもかかわらず、継体が登場しないのである。
 次に、我々多元論者にとって最大級の謎に言及する。序文を定説通り解釈する以上、「史実」上の「初代」天皇たる文武がまったく登場しないことである。そもそも古事記や日本書紀は何の為に書かれたのか。それは八世紀以降の近畿天皇家の正統性を主張するためである。いや、極言すれば文武即位の正統性を主張するためだ。何故なら、文武が正統であるなら彼に続く歴代は全て正統となるからである。(しかも、文武はこの序文の第一読者である元明の息子なのだ)すなわち、古事記・日本書紀はただ文武一人のために書かれたとしても過言ではない。にもかかわらず、その古事記の序文が文武に一行も触れようとしないとは。有り得ることではない。言うならば、この序文の定説的解釈は九州王朝の概念とは「倶に天を戴かざる」関係なのである。
 では、ここですべきこと。それは当該定説の唯一の史料根拠である「古事記序文」の再検証である。
 まず、古事記序文の史料性格を確認したい。今、便宜上「古事記序文」と呼んでいるものの、これは正しくは安萬侶から元明に宛てた上表文である。上表文である以上、安萬侶が彼と同じ共通認識を持つ元明に宛てた文書であるということになる。ここでは、安萬侶は元明に嘘偽りを書くことは出来ない。古事記本文が如何に嘘偽りに満ちていようとも、だ。従って、古事記序文と古事記本文が、或いは日本書紀の記述が矛盾した場合、信ずべきは古事記序文とならざるを得ない。勿論、先に安萬侶と元明の共通認識と書いた。その共通認識上という意味である。つまり、当該共通認識があったとしても忽ち史実となるとは限らないということだ。(例えば、神武の事跡など)
 ではその安萬侶と元明の共通認識とはどういうものであったのか。それは、次の一点である。
 安萬侶と元明の所属する近畿王朝は大宝元年(西暦七〇一年)に九州王朝とその主客を交代した。従って、近畿王朝における初代天皇は元明の愛息であった文武であり、天武ではなかった。
 以上である。これは、我々多元史観論者から言うならば、既に常識の範疇にあるのだが、一元史観の方々は次の古田武彦氏の主張を再認識して戴きたい。
1). 漢書から旧唐書に及ぶ一連の中国史書は、日本列島における主権者が近畿王朝に先在して九州にいたことを、主張している。
2). 日本における考古学的出土状況も右記を支持している。
3). 九州には既に独自の年号があり、これは七〇〇年まで続き、近畿王朝の年号は大宝元年(七〇一年)から途切れなく続く。
4). 「評」と「郡」の交代時期は大宝元年である。
5). 文武の和風諡号は「天真宗豊祖父天皇」であり、見るからに王朝始祖の体裁を持っているが、天武のそれは「アメノヌナハラオキノ真人天皇」であり、彼自身が制定したといわれている八色の姓の筆頭である「真人」に過ぎない。等等。
 さて、これらの「史実」をもって古事記序文を再検証してみよう。
 序文には「稗田阿禮に命じて天皇家の歴史を暗誦させ」た天皇は、「昇りて天位に即きたまひき。」天皇であると、書かれている。これはどう読んでも「初代」天皇のことである。ところが、安萬侶と元明の共通認識は「初代」天皇を天武ではなく文武とする。であるならば、「削偽定実」の詔勅を出した天皇は文武とならざるを得ない。これが文武であるならば、文武元年(六九七年)から文武四年(七〇〇年)のどこかで詔勅は出され(この時期が大宝元年以降でないことは明白である。七〇一年以降であるならば直ちに文書化させればよいのであって、暗誦させる必要はない)文武死後完成されたものを、その喪の明けた和銅四年に元明が文書化させたことになり、先述した「二十五年」の矛盾は解消する。しかもこのとき阿禮は最長四十二歳であり男盛りの年齢と言えよう。また、序文はこの「削偽定実」の詔勅を出した天皇を

道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合を聰*(す)べ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二氣の正しきに乗り、五行の序を齊へ、神理を設けて俗を奨め、英風を敷きて國を広めたまひき。重加、智海は浩汗として、潭く上古を探り心鏡は [火韋]煌として、明らかに先代を覩たまひき。

聰*は、耳編の代わりに手編。JIS第三水準、ユニコード6460
[火韋]は、火偏に韋。JIS第三水準、ユニコード7152

と褒めちぎる。ここでもこの天皇が初代であることが朗々と謳われているのだが、これがもし天武のことであった場合、元明にとって果たして心楽しいことであったであろうか。元明にとって天武は叔父であり舅であり姉の夫であったと同時に兄の仇でもあった。しかも先述したように、この序文には本来の「初代」天皇であり元明にとって愛すべき息子であった文武に一行も触れていないことになるのである。元明の心境を考える場合、この序文を書いた安萬侶は「万死に値する」とは大げさにしても、処罰対象には為り得るのではあるまいか。ところが、この項が文武の顕彰であったとすれば、これらの矛盾は解消するのである。
 実はこれで本稿の論証は完了する。だが、諸兄は声高らかに反論するであろう。「削偽定実」の詔勅を出した天皇は「歳大梁に次り、月夾鐘に踵り、清原の大宮にして、」即位した天皇ではないのか。大梁は酉年、夾鐘は二月を意味することは明白であり、酉年二月に清原の大宮で即位した天皇は天武でしか有り得ない、と。その通りである。だが筆者は先に書いた。
 古事記序文と古事記本文が、或いは日本書紀の記述が矛盾した場合、信ずべきは古事記序文とならざるを得ない、と。ここで、こうばっさりと切り捨てることも勿論可能なのだが、それでは諸兄が納得されるとは到底思えないので、一応の説明を以下に試みる。
 まず、「清原の大宮」である。文武の即位は藤原宮で行われたことは定説となっている。藤原京遷都は持統八年(六九四年)であり文武即位は六九七年なのだから、定説から言えば文武は藤原宮で即位したことは明白である。だが、果たして本当なのだろうか。この時、倭王の所在は何処か。既定事実となっていたであろう九州王朝から近畿王朝への禅譲まであと七年。倭王が遠く大宰府にいたとは到底考えられない。禅譲を目論む持統たちは必ずや倭王を手元に置いていたであろうこと、想像に難くない。とするならば、六九四年の藤原京遷都は倭王のためのものではなかっただろうか。ここに、ひとつの史料根拠がある。

 「始めて藤原宮の地を定む。」《続日本紀慶雲元年(七〇四年)十一月二十日条》

 この条に通説学者たちは大いに悩んだらしく、新日本古典文学大系の当該条脚注には、
 「遷都後一〇年を経て宮の地を定むとするのは、不審。」とあり、またその補注には、

 「つまり、天武朝もしくは持統朝に横大路・山田路および中ツ道・下ツ道に囲まれた地域を藤原京として設定したが、京内の整備は完了しておらず、慶雲元年にいたって最終的な整備に着手したのが本条の記事であると解することも、不可能ではないように思われる。」と、苦しい解説を加える。だが、「と解することも、不可能ではないように思われる」などは既に学問上の言語ではない。本条が文武の藤原京遷都記事であるならば、答は明快であり古事記序文と矛盾しない。すなわち文武は藤原宮ではなく「清原の大宮」で即位したのである。
 次に、「歳大梁に次り」を解決しよう。これが酉年を意味すること明白であり、逃げようが無い。さて、日本書紀によれば酉年即位の天皇は次の四人である。(誤解のないように申し添えるならば、即位年であり元年ではない)神武辛酉・仁徳癸酉・天武癸酉・文武乙酉。そして序文には神武・仁徳・天武は全て登場している。特定的扱いをされている天皇のうち、酉年即位でないのは崇神(甲申であり乙酉と一年違い)だけなのである。(もしかすれば崇神もこの序文時点では酉年即位とされていたのかもしれない)これが中興の祖ともいうべき継体(丁亥年即位)を除いて、直系でない仁徳を加えた理由であろう。すなわち、文武の酉年即位を強調するために、過去の酉年即位の天皇をすべて列挙した、これが「歳大梁に次り」ではあるまいか。
 最後に、「月夾鐘に踵り」である。夾鐘は二月の別称であり、文武の即位は八月である。だが、考えてみよう。実は文武の即位は二回ある。一回目は持統から受け継いだ近畿王家家長継承の時、これが先の「歳大梁に次」る時である。そして二回目は九州王朝の倭王から禅譲を受けた時、これが「月夾鐘に踵り」にあたるのではあるまいか。大宝建元は七〇一年三月である。建元があって後即位とは考えられないし、禅譲が七〇一年に行われたことも明白である。とするならば、禅譲はこの年の一月から三月の間に行われたことになる。さらに、突っ込んで考えるならば、古事記序文によって文武の禅譲による正式な即位を七〇一年二月に特定出来る、とさえ言えるのでる。
 以上、古事記序文によって「削偽定実」の詔勅を出した天皇が天武天皇ではなく文武天皇であったことを論証した。これによって、従来の文武に対し我々の抱く、すなわち、影の薄い、目立たない、天武持統のお膳立ての上に即位し夭折した、等のイメージも変わらざるを得ない。また、定説の場合、持統五年八月十三日条の十八氏からその先祖の墓記を上進させたという記事が、スムーズには理解出来ないが、筆者の論証を信じる限りこれが「諸家の齎る帝紀及び本辞」の全部ではないにしても、その一部であること、自明なのである。
 尚、本稿は古田史学の会三月度関西例会における畏友古賀達也氏の「『古事記』序文の壬申大乱」を聴講することで生まれた。末尾ながら、古賀氏に改めて謝意を申し上げる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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