2006年 8月 8日

古田史学会報

75号

大野城
太宰府口出土木材に就いて
 飯田満麿

泰澄と法連
 水野孝夫

巣山古墳(第5次調査)
 出土木製品
 伊東義彰

「和田家文書」に依る
『天皇記』『国記』 及び
日本の古代史に
ついての考察4
 藤本光幸

彦島物語III外伝
伊都々比古(前編)
垂仁紀に発見、穴門の国王
 西井健一郎

「元壬子年」木簡の論理
 古賀達也

7 『 彩神 』第十一話
 杉神6
 深津栄美

多賀城碑の西
 菅野 拓
 「粛慎の矢」
 太田齊二郎

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多賀城碑の西 菅野 拓  「粛慎の矢」 太田齊二郎


多賀城碑の西

柏原市 菅野 拓

 以下は、文字どおり雑談である。本誌にも、かかる昧文があっても良かろうと前々からの疑問を書いてみた。
 いきなりだが、多賀城碑は道標ではないのか。例の「西」字は、碑の立っている地点から西に多賀城がある、という意味である。「西のかた多賀城」と読むのではないか。西の字が特大なのも、道標ならば頷ける。これが私の疑問である。
 もうずいぶん前のことだ。たまたま三重県の亀山城趾を訪ねた時、城の来歴を記す案内板にこんなことが書かれていた。
 一六六九年、石川総慶が備中松山(現岡山県高梁市)から伊勢国亀山へ国替えとなった。ただし、その時、備中松山に十三ケ村一万国の飛地領が残された。石川氏は、この飛地領支配のために備中中津井村(現岡山県上房郡北房町)に陣屋を置いたが、今も同地には領界を示す「従是東北伊勢国亀山領」という当時の石碑が残ってる、と。
 これを読んで、多賀城の碑の「西」の字を思い出したのだ。
 もし備中中津井村の碑が、権力交替の折りに引っこ抜かれて別の地に埋められ、そして領主の国替えに関する一切の史料が焼失してしまっていたとしたら、後世、この碑を発見した人たちは解釈に苦しんだだろう。こんな所に伊勢国亀山領とは、不可解なりと。幸いにこの碑は原状のまま残り、また対応する史料もあって解釈に争いはない。
 ところが、多賀城の碑は原状を誰も知らない。地中に埋められる前は、何処にどのように立っていたのか、或いは立てられるはずだったのか全く不明なのだ。だから、研究者たちは大書された「西」の字の扱いに困ったのではないだろうか。もしも、多賀城の碑が原状のまま残り、そしてその西に多賀城があれば誰も疑問など呈しなかったに違いない。
 備中にあるという伊勢国亀山領の石碑の話を前に、私はこんなことを考えていた。近畿天皇家の軍船が入る港に、将軍の武功譚とともに西を指して立っている多賀城碑。そんな絵も良かろうという雑談である。


「粛慎の矢」

奈良市 太田齊二郎

 古田先生の責任編集による歴史学書『なかった』が創刊されました。『通史』で始まっていますが、そこに「粛慎の弓矢」がご紹介されていました。粛慎人が齎らした弓矢は、古代人の生活環境を大きく向上させましたが、その喜びが流鏑馬などの神事に残っている、というものです。
 ところで、私は真澄と一緒に「東北王朝」を尋ねようと思い、『菅江真澄全集全十二巻』を読み直していますが、この江戸時代のマルチ人間は、弓矢の伝来と粛慎との関係を知っていたようです。彼は、武器などについての解説書『四季草(伊勢貞丈・江戸中期)』を書写していますが、その中に、矢の一種「しきりはぎ」についての記述があり、作り方などの説明に続いて、「・・・左は鷲羽、右は粛慎羽是を新調す、烏と鷺との羽を以って、三府に切り続たりとあり。是は古代粛慎と云国より出し羽と云、其羽なきによりて、烏と鷺の羽を以って、三府にしきり羽にこしらへて粛慎の羽に似せたるなり。・・・『夫木抄(騎射一本騎射の歌)』に、〈しきり羽のやさしき物はあやめくさけふひきそむるまゆみなりけり〉。古代五月五日の騎射なとにもしきり羽の矢を用いし事もあればこそ右の歌にもよみつらめ(『全集』第十二巻・四二九頁)」とありました。
 「しきり羽」というのは、白羽と黒羽を交互に矧いだ矢のことですが、国産の烏や鷺の羽を使用していながら「粛慎羽」という呼称は、遠い先祖の恩にあやかったからではないでしょうか。(七月十一日)


 これは会報の公開です。

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