2007年 2月10日

古田史学会報

78号

武烈天皇紀に
おける 「倭君」
 冨川ケイ子

万葉集二十二歌
 水野孝夫

カメ犬は噛め犬
 斉藤里喜代

朝倉史跡研修記
 阿部誠一

朱鳥元年の僧尼
 献上記事批判
三十四年遡上問題
 正木 裕

夫婦岩の起源は
邪馬台国にあった
 角田彰雄

続・最後の九州年号
消された隼人征討記事
 古賀達也

洛中洛外日記より転載
九州王朝の「官」制

年頭のご挨拶
ますますの前身を
 水野孝夫

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夫婦岩の起源は邪馬台国にあった

北葛飾郡わしみや町 角田彰雄

はじめに

 夫婦岩と言えば、伊勢・志摩の二見ヶ浦にある夫婦岩が有名である。海岸の二つの岩の間に昇る朝日を拝むと縁起がよいとされ、夫婦円満、・縁結びの象徴としても知られ、多くの人々が訪れる。夫婦岩をみて疑問を持つ人はどれだけいるだろうか。絵になり写真になり正月のカレンダーなどにされている。私もそれで何の疑問も持たなかった。
 ところが古田武彦先生のお話を聞いて「邪馬台国五文字の謎」の小説を書くため北部九州を調べて驚いた。糸島にも二見ヶ浦の夫婦岩があり、伊勢湾のものより大きく立派な上に、二見ヶ浦地名だけでなく、近くに志摩(町)地名もあるではないか。そこで改めてその由来を調べてみて、夫婦岩は天孫降臨の証拠であり、邪馬台国九州起源を物語るものであることに気づいた。以下、どのように推理したか述べてみたい。

 

一、伊勢湾の夫婦岩の由来の謎

 三重県伊勢湾の二見ヶ浦の夫婦岩を調べると大小二つの岩に綱が渡してある。高さ、左岩十一メーター、右岩四メーター。この近くにある二見興玉神社(創建八世紀初)の伝承によると、双岩は海の鳥居であり二千年前に祭られ、その間からみえる沖合の海面下にある聖なる神石を拝むためのものであるという。その謂われは神代、ここに天孫降臨の道案内、猿田彦の神や常世の神が現れたからと言う。「夫婦岩」は、元々、沖の神石を拝するものだった。
 朝日を拝する習慣や、夫婦岩の呼び名の成立は、後世のものであろう。おそらく夫婦岩の呼び名は、伊勢参りが流行した江戸時代頃に広まったのではないだろうか。現代は海岸だけでなく、山や川、神社の境内などにも夫婦岩が祭られているが、その元は海岸の夫婦岩であろう。こうして双岩祭祀の起源は、その年代や神名からして邪馬台国や天孫降臨と関係あるといえる。

 

二、海中の神石を拝むとは?

 夫婦岩の起源の謎を解く鍵はその参拝対象の神石である。沖合はるかの神石とは何を意味していたのか。しかし、双岩が初めて祭られた時、古代人がこのような説明で納得し拝むだろうか。何しろ海中の神石は見えないのだから。本来、物事の始まりは具体的で何らかの必然性に基づくのが普通である。夫婦岩を通してみた沖合はるかに具体的に何があったのか。それが推理できれば夫婦岩の謎は解ける。

 

三、夫婦岩の起源を探る視点

 ここから、古田史学の視点で夫婦岩の謎を解いてみる。
 天孫降臨は九州が舞台であり、対馬・壱岐の漁師・交易民である倭人が、紀元前に北部九州の糸島・博多に上陸・進攻して倭国・邪馬壱国を建てた歴史的事件を神話化したものである。この視点で伊勢湾の夫婦岩を調べてみる。
 はるか沖合を拝するというこの双岩祭祀は二千年前の伊勢神宮の創建の頃に始まったとされる。しかし、伊勢神宮の起源は謎が多く、古事記に記載がなく式年遷宮の最古の記録も六九〇年とされ、日本書紀に書かれた紀元前の成立は疑問である。
 従って伊勢神宮の成立は七世紀末か八世紀初めであろう。伊勢湾の二見浦の双岩祭祀も起源は、その頃ではないだろうか。するとそれ以前の「夫婦岩」祭祀はどこで行われていたのか。
 そこで思い当たるのは、九州・糸島半島の夫婦岩である。天孫降臨は九州のことである。糸島の夫婦岩はまさにそれにぴったりの所にある。糸島半島の夫婦岩が本来の起源ではないだろうか。

 

四、糸島の夫婦岩と岩戸岩窟

 福岡県・糸島半島・志摩町に二見ヶ浦があり夫婦岩がある。高さ、左岩十六メーター、右岩十一メーターで、沖合百五十メーターにあり堂々としている。起源は、古来よりとされているだけであり、未詳である。
 しかし、近くの岩窟には、神直日神など三神が祀られ「岩戸宮」と呼ばれている。(この神々については、不明なことが多い) この神域にある桜井神社(創建、寛永二年・一六二五年)は藩主、黒田忠之によって造営された筑前国の守護神で、与止妃大明神を祭っている。
 この神社の創建の謂われは、慶長十五年(一六一〇年)の六月一日より二日暁にかけて雷鳴轟く大豪雨が降り、岩戸神窟が初めて開いたという。おそらく、豪雨で岩が崩れて岩窟の入り口が開いたのだろう。それで感じるものがあり、やがて藩主が社を建てたという。

 

五、双岩は竜宮への入り口?

 糸島の「夫婦岩」は、宇良宮(浦の宮)とも呼ばれ「竜宮の入り口」との伝承があり、古代より祭られ、当地、汐斎浜の御神体である。近くの岩戸岩窟(奥宮)は前述のように桜井神社創建以前のはるか昔からあったと考えられる。今では、これらは桜井神社の摂社であるが、摂社の方が古い神様を祭っている。
 毎年五月の初めに「夫婦岩大注連縄掛祭」が斎行される。重さ一トンの大注連縄を数十人の氏子が磯伝いに持ち渡り、双岩の間に差し渡し三十米の注連縄を張る。ここの二つの岩はイザナギとイザナミを象徴しているとの伝承があり、ここが夫婦岩の元祖ではないか。ところがここは西を向いているので朝日でなく夕日を拝む。つまり夫婦岩で共通するのはとにかく海上の太陽を拝むことである。太陽を拝むということはアマテル神(天照大神)を拝むことに通じる。
 そこでもしやと思って地図を見ると、糸島の夫婦岩から沖合を拝めば、その方向の海上はるかには、ちょうど対馬があることに気付いた。アマテル神は、対馬起源の神である。(小船越にアマテル神社がある)さらに対馬には竜宮伝説・磯良伝承があり、磯良石と真名井の井戸がある。
 対馬は竜の島でもある。鳴滝は龍神信仰の地。対馬の北島は竜の頭に似ている。また、対馬二島は横にしてみれば、二匹の竜が口を開けて対峙している形(浅茅湾)なのも興味深い。こうして夫婦岩の謎を解く糸口が見えた。

六、夫婦岩は対馬を象徴していた

 夫婦岩の沖合はるかの神石とは、すなわち対馬を意味していたのである。対馬は、倭人の源郷である。
 古代対馬の倭人はまず、壱岐へ広がり一大国を建てた。一大国王は、おそらく壱岐から先祖の島、対馬島を望んで拝礼していただろう。(晴の日は壱岐から対馬がよく見える)その後、大陸との交易を通じて鉄器などを手に入れ壱岐・対馬は日本列島随一の先進地となり、島々の勢力を結集して博多へ進攻し倭国を建てた。これが神話の天孫降臨である。
 やがて九州の王となった一大国王=倭王は、今度は、糸島海岸に立って先祖の地、対馬島の方向をはるかに望んで拝礼したことであろう。だが、糸島から対馬は直接見えない。そこで倭王は海岸の双岩を対馬に見立て拝礼するようになった。これが夫婦岩の起源であると推理できる。二つの岩の本来は、対馬の二島を象徴し、それを拝んだと考えられる。対馬はアマテル神と、倭王の先祖の島だから。「夫婦岩」は、こうして倭王の一族が拝んだのが始まりだろう。
 ここで面白いのは三重県の伊勢・志摩は九州・糸島の伊勢・志摩地名を移したと思えることである。糸島には古くから伊勢も志摩も地名としてあった。さらにこの伊勢地名も元々は対馬ゆかりの地名と考えられる。
 司馬遼太郎が書いているが九州にある地名はたいてい対馬にある。豊・佐賀など。対馬にある地名が九州に来ている。そして九州にある地名が本州に来ているようである。だから伊豆半島の伊豆の源も対馬。対馬に厳原があるが、厳というのはあて字で、本来はその地にあった「伊豆ヶ原」という神聖な場所である。そこから伊豆の地名がきた。
 伊勢も本来は「伊(豆)の瀬」で、勢は、好字の当て字であろう。伊勢は伊豆と関係ある神聖な地名と考えられる。夫婦岩祭祀の歴史的背景には、天孫降臨という、対馬・壱岐から倭人が北部九州に上陸して倭国を建てた歴史的大事件があったと考えられる。糸島の夫婦岩の存在からもこれがうかがえる。
 天孫降臨の中心勢力は壱岐であるが、壱岐の倭人の祖先の地は対馬島である。倭王一族が夫婦岩を拝すれば、当然、臣下も敬い、次第に倭人達が拝む習慣が出来たと考えられる。その後、倭王の系統は長く続いたが、白村江の敗戦後、混乱の中で近畿に移る際に、政変や直系の断絶などがあり、先祖の霊地が不明になり、やがて忘れ去られたと考えられる。

 

七、夫婦岩の綱渡しの意味

 夫婦岩は、初め倭王によって対馬を拝するものとして祭られたが、その後、歴史の変転の中で倭国の都は近畿へ移り、諸神社も夫婦岩も東へ祭られるようになった。ところが伊勢湾の夫婦岩の拝礼方角に対馬島はないため、代わりに海中の神石を拝すると替えられたと考える。その証拠に傍らの興玉神社には対馬の神「わたつみの神」が祭られている。
 夫婦岩に太綱を渡すのは、細長い地峡でつながった対馬二島の姿を意味しているだけでなく、古代、二島が協力して偉業を成しとげた島民の絆を象徴していると考える。太い綱は夫婦の絆以上に深い意味があったのである。

 

終わりに

 対馬は漁師と神々の島、漁には晴天が大切。太陽・アマテル神を祭るのは対馬発祥の祭祀古俗である。従って日本人が夫婦岩から太陽を拝むのは順当であろう。しかし、願わくば、その起源や本来の意味に思いを馳せて拝してほしいものである。
 主な参考図書
『古代史をひらく』古田武彦著 原書房
「古田史学会報」第四十八号
『海神と天神』永留久恵著 白水社
ウイキペデア電子百科事典


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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