2007年 8月15日

古田史学会報

81号

寛政原本と古田史学
 古田武彦

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「寛政原本」の出現について 古田武彦(『なかった --真実の歴史学』第6号


古田史学会報81号 2007年 8月15日

寛政原本と古田史学

古田武彦

      一

 「あった、あった、あったよ。」
 「何があった。」
 「寛政原本だよ、寛政原本。」
 「そうか、見せてくれ。」
 「うん、また連絡する。」
 和田喜八郎さんとわたしの会話だった。だが数ヵ月後、和田さんは逝った。その後の経過は知らない。ともあれ、彼は病み、天へと永遠に旅立ったのである。わたしは疑わなかった。長いつき合いの中で彼の言い方をそれぞれのケースにより、知悉していた。だから少なくとも、彼に「寛政原本」と見えたもの、それを彼は見た。それをわたしに告げたのである。

      二

 今回、それが裏づけられた。寛政原本が出現したのである。発端は、昨年(平成十八年)の十一月十日(金曜日)東京・八王子の大学セミナーにおける「発見」だった。弘前市の竹田侑子さんから送られてきた古文書(明治写本)の中に、一冊、それが含まれていたのである。早速、わたしが竹田さんにそれを報告すると、次々に(わたしの家に)送られてきた。
それらの中にも存在したのである。それらを左に記そう。

 第一(十一月十日)
「寛政五年七月、東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑和田長三郎」
 第二(十一月中旬)
「東日流内三郡誌 安倍小太郎康季、秋田孝季編」
 第三(同 右)
「付書第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」
 第四(同 右)
「建保元年七月安東七(「十」か)郎貞季殿之軍諜図、東日流外三郡大図、文政五年六月、和田長三郎源吉次(花押)(カラー版)」
 第五(今年二月上旬)
「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人秋田孝季(第一巻と合冊)」
 第六(今年六月二十二日)
「(表)水墨画、秋田孝季(裏)視鏡像自筆、千季(花押)」(三枚は薬草の漢方)
 第七(今年六月二十四日)
「第五百巻之廿三〜廿七、石塔山荒覇吐神社秘伝(白山神、三輪山神、荒覇吐神、天竺神、仏陀、紅毛国神、アブラハム)」

 以上について簡明に解説しよう。これらはいずれも、竹田侑子さんが実兄の藤本光幸氏より“うけついだ”文書類である。
 その一は、第一、二、三、四、六、七の六種類。藤本氏が生前から所持されていたものである。おそらく早い段階で、和田喜八郎氏より藤本氏へ“ゆずられた”ものと思われる(竹田侑子さんによる)。(第六、七は検討中。)
 その二は、第五。これこそ、和田喜八郎氏がわたしに告げたところ。その一端である。
喜八郎氏亡きあと、長男(孝)と長女(章子)のお二方より、藤本光幸・竹田侑子・藤本長伸(光幸氏の長男)の三人へと「使用権」を“ゆずられた”ものである(石塔山において)。これが、光幸氏亡きあと、竹田侑子氏へ“ゆずられた”のである。(和田孝氏も没)。
 右が、竹田侑子さんよりわたしへと送られてきた古文書中に存在した「寛政原本」の来歴であった。

      三

 当然ながら、検証は十全を期した。わたしは親鸞研究以来、筆跡研究を基本テーマとしてきた。蓮如の年代別筆跡の基本研究は、いわゆる「蓮如切断」(歎異抄蓮如本)の報告となった。(史学雑誌75編 3号、昭41)。
 親鸞の教行信証坂東本の筆跡研究、また料紙の顕微鏡写真撮影による検証はわたしの研究史の中枢となった。さらに法華義疏の筆跡異動の研究、また料紙の電子顕微鏡撮影は斯界未曾有の収穫となった。
 今回も、生涯の研究経験をこの「寛政原本」の検証という一点にかたむけた。国際日本文化研究センター(日文研)による電子顕微鏡撮影(右の第一から第五まで)によっても、いっさい「問題なし」の結果だった。近世古文書として“合格”だったのである。 
 これは元・東京学芸大学教授・西村俊一氏によっても裏付けられた。氏は近世思想史の分野で古文書渉猟の研究経験を早くから積んでこられた方である。
 さらに、日文研の笠谷和比古教授は京都大学において近世古文書の演習をうけもたれる、斯界の専門家として著名な方であるが、これらの古文書(第一から第五まで)について「専門家なら、これを近世文書と認めない人はいません。」と断言されたのである。 また、元・秋田大学学長の新野直吉氏は、このような近世古文書(右の第一から第六まで)を学界が早くから知っていたら、従来のような「偽書説」は生じなかったであろう。少なくとも論争のレベルは全く変わっていたはずだ、と率直に述懐されたのである。 
 秋田県の秋田市中央図書館の学芸員の方々も、同意見であった。

      四

 ここで視点を転じ、この「寛政原本」問題に対する学問上の「姿勢」について吟味してみよう。
(一)「寛政原本」問題の出発点
 わたしは青森市における講演において、講演終了後、控室において一人の中年紳士の訪問を受けた。
 「東日流外三郡誌の研究をしていただきたいのです。」
 「しかし、わたしは活字本ではなく、原本を見ないと、研究できません。」
 「原本をお見せいたします。」
 これが、藤本光幸氏との、最初の会話だったのである。 今、考えてみると、この会話は「示唆的」だった。
 今から思うと、それらの中にはすでに今回の「寛政原本」がふくまれていた可能性がある(右の第五以外)けれど、その区別は藤本氏の頭にはなく、「活字でないもの」「紙に筆で書かれているもの」それを「原本」と呼んでおられたのである。
 「兄には、筆跡の新古などには“目”がなかった、と思います。」 これが竹田侑子さんの証言である。

      五

(二)「寛政原本」問題の確認
 わたしがこの「寛政原本」の存在を“確信”せざるをえなかったのは、「原漢文」問題だった。 たとえば、「市浦村史資料編、下巻、東日流外三郡誌」(市浦村)の冒頭に「安倍安国之事」という一篇が掲載されている。それは次のようだ。
「安倍安国北陸北羽に一族の勢伏(せいふく)掌握し、住処平泉及厨川置きて千兵万馬の征く処皆彼の前途に降りぬ。(中略) 安国の武威は関東豪族に侵領を赦さず亦朝庭にも征夷に軍を挙動を抑(おさ)えたり。(中略)(原漢書)
(註、略)
元禄十年八月吉日     藤井伊予」
 右を一読すれば、すぐ感じるように、「に」や「を」の語法などが不自然である。けれども、これは(原漢書)とあるように、原文は漢文であり、これを「読み下し」しているのである。それは誰か。  
 右の文面からは、「藤井伊予」ともうけとれるけれど、この(原漢書)形式は藤井伊予の文面に限られてはいないから、やはり、この活字本の元(もと)」をなした「明治写本」の書き手、すなわち明治を中心として大正・昭和(のはじめ)に及んだ書写者、和田末吉(及びその子、長作)による「読み下し」である。わたしはそう考えた。そして右には「元禄十年(一六九七)八月吉日」とあるけれど、これを秋田孝季が書写した。その年代は、たとえば「右海満寺法明坊話より 寛政五年十月 孝季」(三一一ページ)とあるように寛政年間を中心とする秋田孝季の書写したもの、これが「原本」である。この寛政年間の原本(「寛政原本」)を、主として明治以降において、和田末吉・長作の親子が書写したもの、これが「明治写本」である。わたしはそのように考えた。 そのさい、「寛政原本」の「原漢文」に対し、末吉・長作が「読み下し」を行った。そのさいに生じた「読みあやまり」、それが先述の「に」「を」の用法などの、“まずい語法”となった。
 わたしはそう判断したのだった。

      六

 今回の「寛政原本」の出現で、わたしの判断が“裏づけ”られた。
 先ず、第五。
 最初に「東日流内三郡誌 次第序巻 土崎之住人 秋田孝季」とあり、その末尾に「安東船小泊丸之事」の一章があり、「寛政五年十二月日 供養主秋田孝季」と記されている。まさに「寛政原本」の原文であることを示している。
 次に、第二。
「東日流内三郡誌 安倍小太郎康季、秋田孝季編」とあり、その第一枚目は「東日流抄傳」と題され、以下すべて漢文だ。その末尾に「元禄十年八月 藤井太夫伊予」とある。すなわち、先にあげた市浦村版の「安倍安国之事」の場合が「元禄十年八月吉日 藤井伊予」とあったのと同一年時・同一筆者の文章が、ここでは「原漢書」そのままの形でしめされている。わたしの予想した姿、その判断が“裏づけ”られていたのである。
 なお、右の第五や第二は「内三郡誌」だったが、第一の場合は、同じ「外三郡誌」となっている。
 要するに、活字本の東日流外三郡誌の“原形”に「寛政原本」が存したこと、それは今やここに確定的となったのである。

      七

(三)「寛政原本」の証明力。
 以上の実証に対して、次のように言う論者があるかもしれない。
 「今回、古田によって提示された部分は一応、『寛政原本』と認めよう。しかし、それ以外のもの、すなわち現存活字本の東日流外三郡誌に関してはやはり“ノー”だ。『寛政原本』にもとづく証拠はない。」と。
 このように一見“厳密”に見える論法は、果して学問として妥当性をもつものだろうか。検証してみよう。
 この点、興味深い対照例を最近見出した。これを先ず報告しよう。
 著名なギリシャの古典『ソクラテスの弁明』(久保勉訳、岩波文庫)を改めて熟読したところ、次の一点を確認した。この弁明においてソクラテスは、あのホメロスの『イリヤッド(イリアス)』の存在を前提として語っているのである。たとえば次のようだ。
「友よ、君のいうところは正しくない。君がもし、少しでも何かの役に立つほどの人は生命の危険をこそ考慮に入れるべきであって、何を為すにあたっても、その行為がはたして正であるか邪であるか、また善人の所為であるか悪人の所為であるか、をのみ顧慮すべきではないというのならば。けだし君の説に従えば、トロイヤ城外に斃れた一切の半神達は、なかんずくテティスの子の如きさえ、皆賤しむべき者となるからである。(下略)」(34〜35ページ)
 以下、トロヤ戦争におけるヘクトルをめぐる逸話が紹介されている。すなわち、テティスの子・アキレウスが友人のパトロクロスの仇討ちのために、みずからの死を恐れず戦ったことを述べ、平時における自分の「真理のための戦い」も、これと同じ意義をもっている、というのである。

 もちろん、トロヤ戦争というのは、ソクラテスにとっては、ギリシャにおける“近い”歴史上の事件だ。数百年前の戦争である。たとえば現代において関ケ原の戦いや大阪夏の陣を語るようなものだ。だから、必ずしも「イリヤッド」を待つまでもない、とも言いえよう。しかしながら、この弁明の最後に、ソクラテスは死後、冥府(ハデス)に至ったとき、「その一生を正しく送った半神達」に会うという“楽しみ”をのべているが、そこに「オルフェウスやムサイオスやヘシオドスやホメロスなど」の名をあげている。すなわち、一番最近の“尊ぶべき先人”として、当のホメロスの名があげられている。従って先の「トロヤ戦争」への言及もまた、このホメロスの名篇『イリヤッド』に拠っていること、おそらく疑いなきところなのではなかろうか。
 わたしはそう考えた。

      八

 わたしが今、一見“場ちがい”とも見える、この弁明の叙述をことさら紹介したのは、なぜか。それはシュリーマンと『イリヤッド』とのかかわりを想起したからである。周知のように、シュリーマン以前、ヨーロッパの古典学においての常識では、『イリヤッド』の叙述はしょせん「偉大なる文学作品」に過ぎず、歴史事実に非ずーーー。これが定説だった。
 これに抗して、アマチュアにして独力のドイツ人・シュリーマンが現地におもむき、発掘に挑戦し、見事、実在のトロヤの旧趾を「発見」した。全ヨーロッパの全大学共通の、「プロの定説」をくつがえしたのである。この事実の意味するところは、何か。列記してみよう。
 (一)ヨーロッパの古典学者たちは『ソクラテスの弁明』を知っていた。
 (二)彼等はソクラテスを実在の人物と見なしていた。
 (三)従ってそのソクラテスの語る「トロヤ戦争」やそれを語ったホメロスの叙事詩(『イリヤッド』)についても、それ自体の実在は認めていた。
 (四)にもかかわらず(それらの「部分」とは別個に)『イリヤッド』の語る「全体」については、「歴史事実に非ず」とし、「一個の文学的架構物」と判定していたのであった。
 (五)彼等、古典学者(の連合)は、それを“厳密な立場”であり“学問的良心”に従うもの、と信じていたのである。
 (六)しかしながら、大学で古典学を学ばず、一アマチュアのシュリーマンが彼等の「基本認識」をくつがえしたのであった。

 右の研究史上の経験は何を意味するか。
 「『部分』の証拠を、そこだけの立証価値にとどめ、『全体』に及ぼさぬ手法、それは決して学問的ではない。逆に、『部分』の立証は『全体』のリアリティ(真実性)の証明である。」
 これが、本来の「学問の方法」だった。この認識の根本原理において、ヨーロッパの古典学の立場は基本的にあやまっていたのである。

      九

 そのさい、若干の注釈を加えよう。
 右の「ソクラテスによる論証経験」は、決して文字通り『イリヤッド』の一字一句のリアリティ(史実性)をしめすものではない。
 たとえば、あの「パリスのリンゴの話」が史実でないことは、もちろんだ。三人の女神がトロヤの王子・パリスの夢枕に現われ、「自分たちの中で一番美しいと思う女神にこのリンゴを渡してほしい。」と言い、パリスがアフロディテにリンゴを渡したため、他の女神の怒りを買い、そのためトロヤ戦争が起された、という有名な話だ。このような神話の「非・史実性」そして「文学的神話性」を押しひろげて「全イリヤッド」の「架空性」を主張したもの、それが「シュリーマン以前」のヨーロッパ古典学だったのである。
 他にも、『イリアッド』の中で「これこれは史実とちがっている。」という事件はあったかもしれない。それはそれとして、個々に証明すればいい。もし、成立するものならばO・Kだ。
 しかし、それと右のような「全体としての史実性」はやはり「シュリーマンの証明」がしめした通りだったのである。
 以上で、わたしの強調するテーマは次のようだ。
 「第一から第七までの『寛政原本』が出現した今、依然として東日流外三郡誌の『全体』としてのリアリティ(「非・偽作性」)を疑うのは「否(ノー)」だ。」と。これに尽きるのである。

      十

 和田家文書(竹田侑子さん蔵)の中で「秋田孝季・自筆」と見られるものを、次にあげてみよう。
 第八、詩集『瀛奎律髄・下』「道中慰讀書 孝季」
 文化(一八〇四〜一八一八)年間に、江戸から京・難波に至る各書肆の刊行。ここに記された「孝季」の署名は、第二の「秋田孝季」の署名と同一筆跡である。
 笠谷和比古氏はこの「孝季」署名を、第二の「秋田孝季」署名と同一筆跡と認められた。
 第九、「護国女太平記巻之十」「孝季記」
 冒頭から末尾まで同一筆跡。全文が秋田孝季の「書写」の形である。これによると、孝季はこのような書物(高貴な女性による注文か)に対する「書写」のアルバイト(筆耕)をしていた時期の筆跡と見られる。
 このような事例は、今後、他にも「発見」される可能性が期待される。
 第十、「荒木武藝帳 秋田孝季」「安永乙未年月日 秋田孝季(花押)」これが秋田孝季による「所有のサイン」であることは、疑いない。あるいは自然の理解である。
 けれども、この本文そのものが孝季の書写であるか否か、これは今後の課題である。ただここに「安永乙未年(四年、一七七五)という年時がしめされていることが貴重である。
 やがて、各年時の孝季の筆跡の出現によって、「秋田孝季筆跡の年代別異同」の成立するときを待望している。
 なおこの他に、和田家には「秋田孝季の借金乃至借物証文」が孝季の自筆として“伝承”されている。これは“壮年期の孝季の筆跡”と見られるけれども、確証は今のところ存在しない。これも今後「孝季の年時別筆跡」が逐次見出されれば、その真否がやがて明らかとなろう。

      十一

 学問とは何か。虚偽を排し、真実に至る道だ。その認識のための人間の方法である。
 アウグスト・ベエクは言った。「フイロロギイとは、認識せられたものの認識である。」と。
 彼の学問の主たる対象は、ギリシャだった。ギリシャという存在を、文献や建築、芸術、宗教、政治等の各痕跡を通して、その存在を再認識しようとしたのである。
 たとえば、ソクラテス。その存在はもっぱら、あるいはほとんどプラトンの著述によって後世に伝えられている。ソクラテス自身による「自筆本」など、残念ながら一切存在していない。いないからこそ、アウグスト・ベエクは「プラトンの描いたソクラテスの言葉」を「再現」する、フイロロギイの道を開いたのである。そこにみずから「哲学を創造する」道、すなわちフィロソフィとは別個、いわば対立する概念が樹立されたのであった。
 わたしの尊師・村岡典嗣さんは、そのフイロロギイの学問を継承し、日本思想史の学問を開かれた。その学問をわたしは継承したのである。
 今、「古田史学」という“名”が用いられている。その名の会や会誌も存在する。しかし、思うに、右の学問の道以外に、特別な「古田史学」なるもののあること、否、ありうることをわたしは信じない。
 ギリシャのソクラテス以来、またアウグスト・ベエクのフイロロギイ以来、人間の歴史の中でつちかわれてきた認識の王道、それ以外に立つ学問などは、およそわたしの存知せぬところである。
 今、幸せにも、八十歳の寿命の中で、秋田孝季の自筆本、寛政原本の数々に接しえた。
 自筆本なきソクラテスに関しては望みえなかった幸運である。
 久しく親鸞の自筆本探究の道にたずさわり、己が学問の道を辿りきたったわたしが、秋田孝季に関して、再び同じ探究の道を歩むに至ったのである。
 いわゆる「偽書説」の輩は、なお悪口・雑言を止めぬであろう。そしてその人々に「色目」を使う論者もなお跡を絶たないことであろう。しかし、それはそれだけのことだ。わたしにはなんら関知するところではない。
 わたしはただ幸いとする。
「論理のしめすところへ行こうではないか。たとえそれがいかなるところへ至ろうとも。」 (ソクラテス。岡田甫(はじめ)先生の取意)
 わたしは八十年の生涯をただこれに従いつづけ、今、この「寛政原本」の発見に立ち至ったのであるから。

<補>
 この「寛政原本」はミネルヴァ書房『なかった 真実の歴史学』第三号、今年五月末・刊に収載。(口絵、カラー)
 なお「全コロタイプ版」(第一〜五)は「オン・ブック社」より七月以降(おそらく九月以降か)に刊行予定。

 二〇〇七・七月十三日稿了

参考

親鸞真筆本(教行信証坂東本)の筆跡研究、また料紙の顕微鏡写真撮影による検証は、『古田武彦著作集2』(親鸞思想)

伝聖徳太子真筆本法華義疏の筆跡異動の研究、また料紙の電子顕微鏡撮影は、「法華義疏の史料批判」(『古代は沈黙せず』)へ

シュリーマンと『イリヤッド』については、
古田武彦著作集第一巻 『神の運命』13宗教の壁と人間の未来(序説)解説へ

和田家文書については、闘論和田家文書(東日流外三郡誌)


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