2008年 4月 8日

古田史学会報

85号

アガメムノン批判
冨川さんの反論に答えて
 古田武彦

2松本からの報告
古田武彦講演
学問の独立と
信州教育の未来

 松本郁子

常色の宗教改革
 正木裕

4インターネット異次元へ
「新・古代学の扉」を
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 横田幸男

5 伊倉4
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

前期難波宮は
九州王朝の副都
 古賀達也

 

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松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて 松本郁子(会報84号)
松本からの報告--古田武彦講演 学問の独立と信州教育の未来 松本郁子(会報85号)
祭りの後「古田史学」長野講座 松本郁子(会報87号)

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松本からの報告ーー古田武彦講演

「学問の独立と信州教育の未来」

京都市 松本郁子

   (一)

 三月二日(日)、松本市安原地区公民館で古田武彦先生の講演会が行われた。古田史学の会・まつもとでの古田先生の講演会は八年前に始まり、「倭人伝から日本を考える」のシリーズで毎年三月に行われていたが、今回の講演で最後となる。演題は「学問の独立と信州教育の未来」。古田先生は講演の冒頭に、この演題の趣旨について、次のように述べられた。
 「学問とは、『人間が真実を認識すること』です。しかし現代の学問は独立していない。宗教や国家の支配下にある。宗教は自らに都合のよい宗教観や哲学を、国家は自らに都合のよい歴史観を作り上げ、それと相容れないものは弾圧する。学問の真の意味での独立がなければ、人類の未来はありません。私が青年時代を過ごした松本という地において、真実の学問と、真実の教育が勃興することを期待して、この演題をつけさせていただきました」と。
 ほんの二週間前に水頭症の大手術を受けたばかりとはとても思えぬ、いつもと変わらぬ古田先生の熱弁に、会場は沸き立った。

   (二)

 講演のテーマは、古田史学の会の新年会(1) でも扱われた、「大化の改新」問題であった。同様の問題が、今回は十五の項目に分けて論じられた。会場で配られた、古田先生作成のレジュメを引用する形で講演の内容を紹介しよう(詳しくは、五月刊行予定の『なかった』第五号参照)。
【十五の論証ーー「大化改新」批判】
第一 「三一論証」 ーー七〇一
(1)評の木簡 (2)九州年号 (3)評督と都督
 ーーいずれも七〇一を接点に合致。これこそ九州王朝の実在の根本証明となっている。

第二 日本書紀の「事典」的性格 ーー安閑紀の屯倉群と孝徳紀の詔勅群(大化元・二年で十六個)。いずれもまとめて各項に挿入。いわゆる(年次ごとの)歴史記述ではない。

第三 「東国」問題 ーー(一)(八)(九)の三項。「畿内」を中心とすれば、「西国」なし。本来「九州」を中心とした場合、諸国万国はすべて「東国」となる。九州王朝の史書の原典の姿である(かつて共同研究会で提案あり。高田かつ子さんが世話役)。

第四 日本書紀の基本構造 ーー九州王朝の史書からの全面転用(盗用)。人名・官職名・術語等のみ、「近畿天皇家、中心」の形に“入れ換え”ている。いわば「原産地、偽造」である。

第五 「山沢亡命の“禁書”」問題 ーー元明・元正朝(「百日の間」)。
この直後古事記(七一二)の廃棄、日本書紀の発表(七二〇)。《八年間弱の成立期間》
早急に「日本書紀」の形に“とり換え”、“とりまとめ”た。

第六 「墓の大小」と九州王朝の核心証明
(1) 近畿の古墳に全く適合せず(伊東義彰氏の資料による)。
(2) 九州の古墳の状況には合致(軍事的対立下)。
(3) 「冠位十二階」(隋書と推古紀)との関係(本来形は九州)を証明する、重要なテーマ。

第七 「吉野紀行」問題(「新庄智恵子命題」)の重要性
(1) 持統紀、九年内に三〇回の(各月ともの)通年的「行事」は不自然。
(2)太宰府から吉野ヶ里(有明海岸)への(九州王朝の天子の)軍船・軍団視察としては最適(軍用道路遺跡)。
(3) 干支の矛盾も解消(『壬申大乱』参照)。
日本書紀の編成方針は「大胆にして露骨、そして不器用」である。

第八 「難波の長柄の豊碕」宮問題
(1) 大阪の地名と不一致。
(2) 博多は一致(「豊碕宮」は宮殿名。博多湾岸の豊浜は岸塊高く突出)。十六個の詔勅群も、博多で出されたものである。

第九 「入鹿斬殺」の年次と場所 ーー白村江前後。博多近くの可能性大(九州の小郡市の飛鳥近辺 ーー後記)。
「乙巳」(六四五)は則天武后の崩年(七〇五)を一巡(六〇年)さかのぼらせた可能性あり。
「舒明三年、義慈王入質」問題から「十数年さかのぼらせ」は確実(『失われた九州王朝』)。
すなわち、「入鹿斬殺」は白村江の敗戦(六六三あるいは六六二)の頃となる。

第十 「公地公民」制(「大化改新」の核心)は七〇一以後の制度の合理化
 (1) 私地私民 ーー九州王朝の制度
 (2) 公地公民 ーー近畿天皇家下の豪族支配(藤原氏等)。
日本書紀のモデルとなった「魏書」(北魏)は、西晋朝以前の支配を「私」とし、自己(鮮卑)の支配を「公」とした(「馬の所有」が中心。騎馬民族)。

第十一 「施行」問題 ーー七〇一以降の制度は、「中大兄・天武・鎌足等の意思を施行した」ものとする?大義名分?を樹立。これが日本書紀作成の大目的である(天智十年正月)。

第十二 「大化改新」の淵源 ーー九州年号の最末「大化七年」(七〇一)を五十五年くり上げた(七〇一の正当化)。三年号(大化・白雉・朱鳥)も同じ。九州年号の否定を、日本書紀の著作の第一目標とする。すなわち、九州王朝の抹殺。

第十三 「継体」の問題 ーー「南朝の体を継ぐ」(九州王朝の年号開始の理由)
「南朝消し」を目標とする(「継體の君」継体紀。二十四年の詔)。

第十四 「二つの暦」問題 ーー元嘉暦(南朝)と儀鳳暦(北朝)(持統四年)。

第十五 「原文改ざん」主義 ーー「大和朝廷以前に朝廷あるを許さず」という固陋な「大義名分論」に従って、たとえば風土記の「出雲朝廷」などの史料が次々と「改ざん」「改釈」されてきた。敗戦後の学者もまた、今日まで皆、これに従ってきた。いわばイデオロギー第一の「天皇教」である。
 しかし、虚偽の歴史を押しつける国家とこれに盲従する国民とは、必ず衰亡し、滅び去る。わたしたちは愛する日本にこの不幸を許さない。これが人間の真実を求める「学問」の立場である。

 未来への大目標
「尊真(真実を尊び)愛日(日本を愛し)教育を第一とする」
 ーー宗教・国家に支配されず、人間の支配する学問を

   (三)

 講演会の三日前の二月二十八日(木)、松本市民タイムスに「信州人に問う (2)」 という題の古田先生の短文が掲載された。
 これによると、敗戦直後、占領軍の軍政部リー教育部長(女性)が松本深志高校を視察に来た。戦勝国の教育部長として居丈高な態度をとるリー女史に対し、当時深志の教頭を務めていた岡田甫先生は、われわれはヨーロッパの教育理念とアメリカのプラグマティックな技術とを背景に、日本の国土国民に最適な新教育を作ってみせる、と宣言した。これを聞いたリー女史の居丈高な態度は、学校を去る時には一変していたという。
 しかし何よりも印象的なのは、アメリカ軍の教育官(男性)と岡田先生との対決である。彼は「日本軍人は残酷だ」と言った。それに対して岡田先生は、「それはその通りで、我々も残念で恥ずかしく思っている。だが、米国も残酷なことをした」と。
 この対話の通訳をしていたのは、松峯隆三先生といって、アメリカへの留学経験があり、英語が堪能な先生であった。松峯先生は、この言葉を聞いて、思わず岡田先生の顔を見た。「この通り訳してもいいのか?」という意味である。岡田先生は頷いた。「そのまま訳してくれ」というサインだった。松峯先生は、岡田先生の言葉通りに訳した。
 するとアメリカ軍の教育官は岡田先生を睨みつけて言った。「何が残酷か?」と。先生も彼を凝視しつつ、答えた。
 「戦争は戦闘員間でのみなさるべきものである。しかるに“ヒロシマ”では米軍が、全く非戦闘員であることを承知の上で、市民らを最も強烈な無差別爆撃の的とした。これはbarbarous(野蛮)な行為じゃないのか!?」
 アメリカの教育官と岡田先生は無言のまま睨みあっていたが、やがて教育官は話題を転じ、去っていった。
 このような緊迫した対決が、ピストルを携帯したアメリカ軍人と、一切の武器を持たない岡田先生との間で交わされたのである。松本深志高校の屋上で、日本アルプスを背景として。古田先生は、職員会議でいつも隣の席に座っておられた松峯先生から、何度もこの時の光景とその対決の様を聞いておられたそうである。

   (四)

 古田先生は、「大化改新」問題を論じた後、小林清彦氏による日本書紀の暦日研究に話の焦点を移した。
 小川氏は物理学校を卒業後、東京天文台に勤めた人物である。少年時代の中耳炎がこじれ、一切の聴力を失っていた。けれども彼は戦争中、日本書紀の暦の計算に没頭し、目覚しい成果を挙げた。日本書紀の大部分は五世紀初めから七世紀末までは南朝暦(元嘉暦)、神武天皇から五世紀初めまでは北朝暦(儀鳳暦)で書かれていることを、数値の上から確認したのである。
 日本書紀の成立の時代である八世紀は、北朝の儀鳳暦の時代であるから、その時著述された日本書紀の大部分が南朝暦であるということは、一見不可解である。小川氏はこれ以上の立ち入った歴史的分析をすることはなかったが、この一見不可解な「ずれ」は、古田先生の歴年の主張である、近畿天皇家が九州王朝の歴史書を入手し(山沢亡命の“禁書”問題)、これを材料として日本書紀を作ったという説を裏付けるものである。五世紀はじめ以前は、北魏の時代であるから、それに基づく暦をプラスしたのである。小川氏は一九四六年(昭和二十一)に「日本書紀の暦日に就て (3)」として、これを発表したが、一九五〇年(昭和二十五)に没したので、同時代において小川氏の研究に対する歴史的意義が把握されることはなかった。しかし彼の研究は、日本書紀の成立の謎を解く重要な鍵を自然科学の立場から提示していたのである。
 今回の「大化改新」問題の分析からも、日本書紀の描いた歴史像は根本的に九州王朝の歴史からの「移転」、より正確に言えば、盗作、盗用の著作であったことが証明された。すなわち、津田左右吉、井上光貞氏らの前提とした天皇中心主義の歴史の心棒は、雲散霧消することとなったのである。すなわち、明治維新以後、戦後を通して教科書を支配してきた歴史認識は、根本において崩壊したと言えよう。
 歴史観の変動は、政治的変動に従属していると思っている人も少なくない。しかし、実際はそうではない。江戸時代の学問は将軍への忠君を目的とする朱子学をさしていた。それにかわって、明治以後は天皇を中心とする歴史を学ぶことが学問の中心となった。敗戦後は天皇を象徴としたけれど、近畿天皇家中心の歴史という点においては、何の変わりもなかった。要するに、各時代の学問とは、それぞれの体制への従順をすすめるものに他ならなかったのである。
 これらを廃し、体制のためではなく、真実のみを目的とする学問が今、求められている。戦前、戦後を通じたゆがんだ歴史教育を一掃し、正しい歴史認識を拓くこと、それを今後の信州教育に期待したい。たとえば、教育立国独立研究所の設置などもその一案である、と提案し、古田先生は講演を締めくくられた。啓蟄を三日後にひかえた春まだ寒き信州の地で、日本の、そして世界の人々の眠りを覚ます一大提案がなされたのだった。
 古田先生は、その命ある限り、真実を書き、若い人に伝え、その生涯を終えられるだろう。

(注)
(1) 古田武彦「九州王朝論の独創と孤立について」国労大阪会館大会議室、二〇〇八年一月十九日。
(2) 古田武彦「信州人に問う」(『市民タイムス』二〇〇八年二月二十八日。
(3) 内田正男編『日本書紀暦日原典』雄山閣出版株式会社、昭和五十三年一月。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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