2009年 6月15日

古田史学会報

92号

1,「大長」末の騒乱
  と九州王朝の消滅
   正木裕

2,熟田津の石湯の実態
  と其の真実(其の一)
   今井久

3,『続日本紀』
「始めて藤原宮の地を定む。」
  の意味
   正木裕

4,淡路島考(その一)
   野田利郎

5,孔子の二倍年暦に
 ついての小異見
   棟上寅七

6,「梁書」における
倭王武の進号問題について
   菅野 拓
    なし

7,法隆寺移築考
   古賀達也
(付 事務局だより)

 

古田史学会報一覧

熟田津の石湯の実態と其の真実(其の二) へ 未だです。

「温湯碑」建立の地はいずこに 合田洋一(会報90号)
「娜大津の長津宮考」 -- 斉明紀・天智紀の長津宮は、宇摩国津根・長津の村山神社だった 合田洋一(会報94号)

越智国に紫宸(震)殿が存在した! 今井久(会報98号)

熟田津の石湯の実態と其の真実(其の一)  今井久(会報92号)../kaihou92/kai09202.html


 

熟田津の石湯の実態と其の真実(其の一)

西条市 今井久

 西条市洲の内鎮座の橘新宮神社の神像の内側に文字があり、そこに「熟田津村橘」の文字が書かれている。その熟田津村の由来は「神功皇后はこの里を見給ひて、水田の熟れて稲の生地(できる)なりと宣ひ、その故を以て熟田津村と申すなり」と「旧故口伝略記」に記す。往古の熟田津は現在の安知生の地に有って、斎明天皇伝承と石湯八幡宮が祀られていた。現在は橘新宮神社に合祀されている。その旧跡が今も安知生の地に残っている。此の石湯八幡宮の「石湯」とは何かについてここで述べてみたい。
 橘新宮神社所蔵の「旧故口伝略記」によれば、今の洲之内村にあり(石湯)、俗に誤り手湯の元と申す、古代より冷湯、俗説に温かきならざること堅き石の如し、
と言い習わす。
 西条誌によれば、洲之内村の字、山崎の内に湯之谷と称する処あり、霊泉湧出、窟の広さ三尺ばかり、深さは二間竿を下に硫黄の花ともいふべき白き物垢見ゆ、この霊泉を汲み取りて浴するに病気、腰痛、仙気、小倉に出る甘といふものに効く。
 昔は鉱泉(冷泉)を以って石湯とした祝湯、神の湯である。「伊予の高根」真鍋充親著。種々論じられているが、「熟田津は果たしてどこか。副題(安知生説私見)」、明比学「西条談第十五号」によれば石湯は石風呂のことである。と論証している。
 論拠として、舒明、斎明天皇時代の日本書紀には温泉は温湯・湯と記していて、石湯とはっきり書き分けて、熟田津の場合のみ石湯としている。又、湯ノ谷の湧出は天平十七年、西暦七四五年で斎明天皇の熟田津行宮泊は西暦六六一年であるから斎明天皇の熟田津の石湯はその八十四年前である。従って湯ノ谷の鉱泉を石湯に宛てる事はできないとして、石湯八幡宮跡と伝承されてきた安知生の地の石湯は石風呂のことと論証している。私もこの説を支持するものである。
 「伊予二名洲大監」」に大地震のことが掲載されている。その部分を摘記すると、
 天平十七年乙酉五月二日、天下の地大地震、月を経て止まず、当国諸所泉湯湧き出す。
 神野郡安知生
 周敷郡湯谷口
 桑村郡得能湯座
 口郡河内口山金山
 越智郡丹生杣川
 久味郡高野戸
 (他、五ケ所は略す)
 幾年ならずして止む。
とある(前出、明比学氏論文より)。
 天平十七年(七四五)の大地震で泉湯が湧きだしたという。その中に神野郡安知生(後の新居郡安知生村)の地が記されていることから、その八十四年前の六六一年の斎明天皇熟田津石湯行宮泊当時にはこの熟田津村(安知生)の地には湯の気は無かったことになる。
石湯の石風呂説には、早くから故久門正雄氏著「言葉の自然林」や西条市誌著久門範政氏も指摘しているが、「湯」という普通の気持ちから熟田津石湯を道後温泉
に擬することに警鐘を鳴らされている(明比学氏)。
 旧朝倉村の「無量寺由来」末寺、聖帝山由来事の舒明天皇(六四〇年)行幸記事にも舒明天皇は鈍川楠窪の湯、国山の湯(現本谷温泉)道後温泉(当時道後の名称はなく奈良時代以後)に行かれたが、「湯に浴す」とのみ記す。斎明天皇(六六一年)も「国山の湯に浴し」と記し、「国山の石湯に浴す」とは記していない。熟田津は石湯、国山の湯は「湯」と書き分けているのである。石湯と温湯、湯(温泉)とは実態が違うと考えざるを得ない。
 ここで注目すべきは、前出の橘新宮神社の「旧故口伝略記」の中に「橘天王御船大江湊(加茂川、中山川尻の津)に入り、にぎ立里の石湯岡の木元に着給ふ」云々として、「これより天王石湯造り、御殿御居坐給ふ」とある。
 石湯は「造る」、造っていると、そういう湯であると考えざるを得ない。では「造る」湯とは何なのか。それは前記したように石風呂である。斎明天皇石湯泊当時にはこの地には温泉(冷泉、鉱泉)は未だ湧出していなかったと「伊予二名大監」に記すところであり、遥か周敷((現周桑郡)の山麓の地と越智の国鈍川、朝倉の地には古くより温泉が湧いていた。反面、越智、周敷の海岸には「桜井、河原津」石風呂が、熟田津の東には、船屋、磯浦の石風呂が有った。その熟田津も「石風呂の湯」地帯なのである。
 古代の人たちの生きる知恵とも言うべき体を守る「健康法、治療方法」が生まれていた。それは温泉の体に良いことを知るにつけ、地元に無いことの故に考えだされた知恵ではなかろうか。当時此の地帯の民衆の間にこの「石風呂湯治療法」が既に行われていたからこそ「天王石湯造り」それに浴したのではなかろうか。それはどのようなものであったか検証してみたい。
 一例。海に近い旧東予市今在家鎮座の傍らを流れる川水を利用して、川縁に「石風呂様施設」を造り、今様「サウナ」で湯治していたと、古老の話である。現地へ行ってみると、海に近いこの川には汐が満ちてくると汐水が溯上してくる。その辺りに今も「石風呂」を造るのに使用してと思われる角のない丸みを帯びた礫石が川底の岸辺に一面に転がっているのを見ることができる。川辺の地面に礫石を敷く穴を堀り、礫石を敷き詰め、羊歯や柴木をその上で燃やし、熱く焼けたところで、溯上してきたその汐水引き入れ、濡れ筵を礫石の上に敷き、蒸気を発生させて、小屋状態にした蒸気に満ちたその中に入り、現代の「サウナ」よろしく湯治していた、と。
 二例。現在の周桑平野の奥まった高縄山地に近い旧丹原町今井の福岡八幡宮の近くに、ぽつんとした小山がお碗を伏せたようにある。その麓を洗うように小川が流れている。その川水を利用して、小山の川岸に人のはいれるような穴を穿ち地面に礫石を敷き詰め、羊歯や柴木を燃やし、熱く焼けたところで側の川水を引き入れ濡れ筵を敷き蒸気を発生させ、入り口に筵を垂らし、その熱い中にはいり大汗をかいたところで、傍らの川水で体を冷やし「湯治」していたと。まさに、その実態は「石風呂」である。
この「石風呂」記事を書くにあたり、真鍋達夫様より、このお話を聞きそれを基に記すことができたこと、厚く感謝する次第であります。

 熟田津の石湯の真実

 「旧故口伝略記」によれば(以下口伝記と記す)「天王石湯を造る」(造る湯である)場所が石湯八幡宮の地であること。また「口伝記」には「後にこの石湯又社号を(八幡宮)定む、故に時俗恐れ敬って処を「切石」と改名す。現在(口伝記作成当時)安知生村の小字と成りたりと口伝仕り候也」と、「石湯の地が切石の地」であると記している。
では切石とは何か。切石が石のことであるなら、現在の我々の間では俗に花崗岩を割った石を石垣などに積むのを「切石を積む」と言い習わして来た。他の石は割って使用しても「切石」とは言わない。その語源を私は知らないが、「切石」の名称が出ているのに関心を持たざるを得ない(花崗岩の切石のことではないか)。
 石湯を石風呂と仮定すれば、当然石風呂様の石を積み上げた石室を造った筈である。造ったのが橘天王とあるから権力者である。そこらの民衆が造っていたような粗末なものではあり得ない。それは花崗岩の切石で立派にに加工され磨き上げたもので、堂々と美しく立派に王者の威信にかけてそれは造られた。
 また、真鍋充親著「伊予の高根」には「切石と称する屋号が今もこの石湯八幡宮の祠地に近いこの古い琵琶湖の跡と思われる万頃寺の前にみつけられたことは、おもいがけぬ収穫であった。又、この近く土居内に、八幡船が着いたとおもわれる地にビシャ丸という屋号の家もみつかった」と。
橘天王は海の向こうから来航した王者である。海も支配していたことである。橘天王は、昔から「瀬戸の大島の石」に代表される花崗岩の石の名産地であるその石を割だし運び込み、立派に磨いて加工したその石を積み上げ、地面にも敷き詰めて石湯(石風呂の石室)を造り、また、暖まった体を冷やす為の汐水を満たした「濠」も用意した「石風呂施設」を造った。それは九州倭国の神籠石よろしく、きっちりと目を詰めた立派なもので大王の使用にふさわしいものであったに違いない。又、民衆にとっては、今まで見たこともない美しく堂々とした造形物に目を見張り、畏敬の念を以てこの地帯の民衆の評判となったに違いない。
その石湯が造られた処は現在の石湯八幡宮跡の地である。この地を見れば、後世、干拓された田地との地面の高さは殆どない低湿地であること一目瞭然で、この低い地面であることに意味があると。何故なら石湯に必要な汐水を引き入れること、石室を熱して蒸気を発生させる為の汐水を利用する海に近く、汐水の利用しやすい場所が必須条件である。
大江の中洲(塾田津)の湊に船を着けたと伝わる現在の毘沙丸屋号の家辺り、船着き場跡といわれる角淵の岸辺り、丸淵の跡の地面はどう見ても石湯八幡宮跡より五十センチメートル位は高くなっている。お宮を祠る場所としてはちょっとどうかと思うが、石湯(石風呂)の地としては当然と思われる。(建長の大地震の大洪水で地形は変わって、原地形とは変わっているのを考慮しなければならないが)。
「石湯は切石の地」との伝承は、今も八幡宮跡の江川を隔てた南側に「切石」の地名とその屋号の家があることにも、それは実証されるのではないか。その切石の地名の地面も八幡宮跡より高い位置にある。
「口伝記」に「後、この石湯又社号(八幡宮)と定め故に時俗恐れ敬ひて処を切石と改名す」とした真の原因は、前記した桜井石風呂の祠る「風呂大明神」(現在は志嶋ケ原天満神社に祭祀)や河原津石風呂にも神を祠っている祠がある。このように初めは「石湯の神」(石風呂)の神を民衆が祠っていた。
 大王の石湯湯治(石風呂)を機に石湯の神(石風呂の神)の名を八幡宮神を祠る名前にしては恐れ多いという事で、大王が石湯(石風呂)を造った熟田津の象徴的な石湯(石風呂)の切石を地名としたのではないか。
 大王が来航して石湯を造り使用したことを以て八幡宮として、仲哀・神功皇后・応神天皇(九州の王系の神)を祠った。高良大明神も祠っていた(高良の地名も残存)。大王も九州倭国王ではなかったか。
石湯は石風呂(いわ風呂)である。石湯(八幡宮)の地は切石とも呼ぶ地であった。熟田津には、大王の来航、上陸と「御殿御居坐給ふ」との伝承記事のそれがあり、古代瀬と戸内海に面した、伊予「越智の国」の要衝の地、良い湊を擁する地であった。
     二00八年十二月二十二日

 

参考文献資料

「伊予の高根」真鍋充親著。昭和四十四年八月三十一日初版発行、立春短歌会発行。
「熟田津は果たしてどこか」明比学著。「西条史談」誌第十五号論文、昭和六十三年九月、発行人、西条史談会。会長明比学氏。
「西条の歴史探訪」明比学著。昭和六十四年四月、西条の歴史探訪刊行会編。
「東予史談会、現地研修資料」真鍋達夫氏論稿。二〇〇七年十月。
「両足山安養院無量寺由来」旧朝倉村無量寺所蔵。住職龍田有仁師。
「西条市誌」平成三年十二月。西条市。
「有馬皇子謀反と斎明ムロ温湯の行幸の真実」二〇〇八年八月。正木裕。
「熟田津西条説」正木裕氏、二〇〇八年八月、古田史学関西例会発表。
「盗まれた神話」古田武彦著。昭和五十四年六月二十日、初版発行、昭和五十四年九月二十日再販発行。
「失われた九州王朝」古田武彦著。昭和五十四年三月三十日初版発行、昭和五十四年八月三十日、再販発行。
「日本書紀」(下)原本現代訳41。山田宗睦氏、訳。
「謡曲のなかの九州王朝」新庄知恵子著。
二〇〇四年五月十五日、第一刷り発行、二〇〇七年五月十五日、第二刷発行。
「河野家譜、築山本」(河野系図)予章記。景浦勉編。昭和五十年三月十五日発行、発行所、伊予史料集成刊行会。
「壬申大乱」古田武彦著。二〇〇一年十月二十五日第一刷発行。二〇〇二年四月二十三日第三刷発行。
「熟田津論考」昭和五十七年九月三十日、初版第一刷発行。昭和六十年三月三十一日、第二刷発行。発行者、平田陽一郎。
「朝倉村誌」上、下。昭和六十一年五月二十日発行。朝倉村誌編纂委員会。
「愛媛の歴史散歩」一九九一年三月十日一刷一版発行、愛媛県高等学校教育研究会社会部「新伊予の古代」合田洋一著。創風社出版、二〇〇〇年十一月一日発行。
「九州王朝の論理」古田武彦、福永普三、古賀達也、共著。初版第一刷、発行、二〇〇〇年五月二十日、初版第二刷発行、二〇〇二年五月三十一日。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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