2009年10月10日

古田史学会報

94号

1,韓国・扶余出土
 木簡の衝撃
  正木裕

2,観世音寺出土の
 川原寺式軒丸瓦
 伊藤義彰

3,娜大津の長津宮考
  合田洋一

4,防人について
 今井敏圀

5,天武九年の
「病したまふ天皇」
 正木裕

6,淡路島考(その2)
 国生み神話の「淡路州」
 は九州にあった
 野田利郎

7,弔辞
力石 巌さんの
御逝去を悼む
 古賀達也

平仮名と片仮名
 西村

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「よみがえる倭京 -- 観世音寺の考古学」 古賀達也


観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦

生駒市 伊藤義彰

 太宰府観世音寺跡からは多くの瓦が出土しています。そのうち老司 I 式と称される瓦が、その出土数の多さと、他の瓦に対する出土率の高さ(約六五・八%)から観世音寺創建時の瓦として生産されたことは間違いないとされています。従って、この老司 I式と称される瓦の生産時期がわかれば、観世音寺の創建時期も自ずから判明するのですが。
 大宰府政庁跡からもよく似た瓦が出土しています。これを老司II式と呼んで観世音寺創建瓦とされている老司 I 式と区別していますが、この二種類の瓦は素人目にはほとんど見分けがつかないほどよく似ています(瓦当文様中房の蓮子、外区の珠文・鋸歯文数が一つずつ異なる)。老司 I式瓦は政庁跡からは出土していないのに、老司II式瓦は観世音寺跡から数点出土しているそうで、このことからも老司 I 式瓦が老司II式瓦に先行して生産されたことがわかります。
 老司 I・II式瓦の瓦当文様構成を、文様構成全体としてとらえた場合にこの範疇に入る瓦をまとめて老司式瓦と呼んでおり(森郁夫氏)、その分布は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・薩摩などの九州地方の他、畿内の藤原宮、本薬師寺、檜隈寺などにも見られます。
 森郁夫氏はその論文「老司式軒瓦」(『太宰府古文化論叢』所収)で、観世音寺の草創について述べながら「寺域内出土瓦に大和川原寺との同笵品が見られる」と記されており、高倉洋彰氏もその論文「観世音寺史考」(『太宰府古文化論叢』所収)の中で「小子房推定地での調査で観世音寺と関係の深い大和川原寺の創建軒丸瓦が検出された」と述べ「仮にこの創建瓦が老司 I式瓦の祖形であれば、藤原宮式瓦とは先後関係ではなく兄弟関係にとらえうる可能性も生じ、製作時期をさらに遡らせ得る要素として注目される」と論じておられました。
 川原寺は天智天皇ゆかりの寺とされ、朱鳥元年(六八六)の日本書紀の記事から観世音寺ともゆかりのあったことがわかります。また、和銅二年(七〇九)の続日本紀の記事などから観世音寺も天智天皇と関係のあったことがわかります。
 川原寺の創建は明確ではありませんが、天智天皇ゆかりの寺であることから考えて七世紀後半頃に建立されたのではないかと推測されており、これをもとに観世音寺の創建時期を探れるのではないかと考えました。有力な手がかりが瓦であることはいうまでもありません。
 観世音寺小子房推定地から出土したとされる川原寺創建瓦と同笵の瓦が観世音寺の甍を飾っていたとしたら、それは観世音寺創建瓦である老司 I式軒丸瓦と同じ型の瓦だということになります。ということは、両寺はその屋根に同じ型の瓦を葺いていたことになりますから、川原寺と観世音寺の創建時期はほぼ同じ頃になるのではないか、つまり、川原寺と観世音寺が同じ型の瓦(同笵)を葺いているということは、両寺の創建時期に大きな差はないことになり、ともに七世紀後半頃の創建と言えるのではないか、と考えられるわけです。
 しかし、この考えは、川原寺創建時の瓦と同笵の瓦が観世音寺から出土したということに基づいた推論による仮説のようなものですから、この考えが成立するためには、川原寺の創建瓦と、老司 I式といわれる観世音寺の創建瓦とが、同じ型の瓦(同笵)でなければならないのはいうまでもありません。少なくとも、川原寺の創建瓦も老司式瓦の一種であり、それと同笵の瓦が老司 I式瓦や鴻臚館式瓦に混じって観世音寺の甍を飾っていなければなりません。
 川原寺の瓦を確認するため、奈良文化財研究所の飛鳥藤原宮跡発掘調査部へ水野代表を誘って出かけました。
 驚いたことに、「川原寺式軒丸瓦」と型式名がつけられている川原寺創建時の軒丸瓦が、老司 I式軒丸瓦、いわゆる老司式軒丸瓦とは同じ型ではないことに気づきました。部分的には似ているのですが、素人目にもその違いをはっきりと見分けることができます。外区鋸歯文の内側をめぐる珠文がないのです。軒平瓦にいたっては、似ても似つかぬ文様でした(観世音寺=偏向唐草文、川原寺=重弧文)。
 早速、同調査部で確認したところ、「川原寺式軒丸瓦」は老司式軒丸瓦とは異なった型で、もちろん同じ型とか同笵などと言えるものではないことがわかりました。そればかりでなく、さらに驚くべき事実を知らされました。観世音寺から出土した、川原寺式軒丸瓦と同笵の瓦は一点のみであると。屋根に葺かれていたとは思えない出土状況であることも教えてくれました。
 念のため、同研究所平城の図書資料室で『観世音寺』と題する全五巻の調査報告書のうち『遺物編1』を閲覧しました。
 「推定小子房跡の調査(七〇次)において、北側の落ち込み中位の、泥炭質土壌から伏せた状態で単品検出され、遺構に伴った出土状態ではない」
 「奈良弘福寺(川原寺)の創建瓦と同笵関係にあるとされ、観世音寺創建瓦(老司式)のモデルになった可能性がると指摘する研究者もいる(高倉一九八三)。この瓦は川原寺創建瓦がA〜D類に分類されているうちのC類 IIIに同笵の可能性があると考えられる」
 「この川原寺C類 IIIが老司式瓦のモデルになったかについては、推論の域を出ない」
 検出された川原寺式軒丸瓦と同笵とされる瓦については、以上のような調査報告がなされていました。
 小子房というのは『観世音寺資材帳』によれば、「大房、小子房、馬道屋、客僧房」という僧房(僧が生活する建物)の一つだそうで、従って川原寺創建瓦と同笵関係にあるとされるこの瓦は、観世音寺の主要伽藍(南大門、中門、金堂、塔、講堂、回廊など)からではなく、その北側にあったとされる小子房推定地跡から単品で出土したものだったのです。余談ですが、塔から帰国した空海がしばらく留まっていた大房も発掘調査でその遺構が検出されています。 
 大房のさらに北側にあると推定された小子房は中世・近世の遺構が錯綜していたため、古代の遺構の検出は困難を極め、その遺構を検出することができませんでしたが、墨書土器・硯・瓦などの出土遺物により、その存在が推定されています。
 以上述べてきたように、観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦C類 IIIと同笵とされる瓦は、
(1) 老司 I式軒丸瓦と同笵でもなければ同じ型でもなく、老司式の範疇にも入らない。
(2) 軒平瓦にいたっては似ても似つかぬ文様である。
(3) 一点のみの単品出土で、他の瓦と混じって出土したものではない。
(4) 遺構に伴って出土したものではなく、屋根に葺かれていたとは考えられない。
(5) 主要伽藍に葺かれていた瓦との関係も不明。
(6) いつ、誰が、何の目的で持ち込んだのかもわからない。
 などの理由により、観世音寺の創建時期を探る遺物資料としては不適当なものであることが判明しました。
 よく読み返してみると、森郁夫氏も高倉洋彰氏もその他の専門家も誰一人として、観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦同笵品を、老司式瓦と同型・同笵などとはいっていないのです。
 最初の意気込みはどこへやら。考古遺構や遺物から年代を探る難しさを改めてわからせてくれた一枚の瓦でした。
 老司式軒丸瓦に酷似した瓦が畿内の藤原宮や本薬師寺、檜隈寺からも出土しており、これらと観世音寺、大宰府政庁との関係も大いに気になるところです。

【参考文献】
*『太宰府古文化論叢』九州歴史資料館館長田村圓澄編・吉川弘文館・昭和五十八年。
 「老司式瓦」森郁夫、「観世音寺史考」高倉洋彰。
*『都府楼 第四十号』都府楼編集委員会編・財団法人古都太宰府保存協会・平成二十年
*『藤原宮と京』奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部編集発行。四版・2004年。
*『飛鳥・藤原京展図録』奈良文化財研究初編・朝日新聞社・二〇〇二年。
*『観世音寺』「遺物編1」九州歴史資料館編集発行・二〇〇七年。
*『観世音寺』「伽藍編」九州歴史資料館編集発行・二〇〇五年。
*『古代に真実を求めて 第十二集』古田史学の会編・明石書店・二〇〇九2009年。 「よみがえる倭京 -- 観世音寺の考古学」古賀達也。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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