『天皇陵を発掘せよ』 第二章 天皇陵の史料批判 古田武彦
古代史再発見 第1回卑弥呼(ひみか)と黒塚方法 
「三角縁神獣鏡の盲点」 へ

真実の近畿 三世紀以前 古田武彦 へ


古田武彦講演 2000年 5月28日(日)大阪府堺市泉北考古資料館

真実の近畿 三世紀以後

古田武彦

 

1 前回の補足  「青蓋」は、呉の官工房を意味する

 古田でございます。お暑いなか足を運んでいただいて、たいへん恐縮でございます。この「真実の近畿」というテーマでは二回、それで今日は終わるわけです。それで、この前の話の追加というか訂正をもうしあげます。。
 大阪府柏原市茶臼山古墳から出てきたと云われる国分神社に収蔵されている重要文化財の三面の鏡について、簡単に追加させていただきます。これは三角縁神獣鏡の代表というか、模範生というか、舶載鏡の右代表といわれる鏡です。このうち二面が三角縁神獣鏡で、一面が海東鏡といわれ、もう一面は徐州洛陽鏡と言われるものです。もう一面は盤竜鏡で三角縁神獣鏡ではありません。
 この盤竜鏡の銘文の中に「青蓋」という言葉がありますが、これについて普通に考えたらと申しましたが、それは姓名つまり「古田武彦」と同じで姓が「青」、名が「蓋」と考え、青蓋という人がこの鏡を作ったと申しました。いちおうそのように読める。しかしながらもう一つ考え方があると申しましたが、時間がなかったので申しませんでした。
銘文は(四十二文字、右回)、
「青蓋作竟、四夷服、多賀国家、人民息、胡虜殄滅、天下復、風雨時節、五穀熟、長保二親、得天力、傳告后世、楽毋極」

 しかし、このほうが本命の考えですが「青蓋作」は、公の官工房を意味するのではないか。そういう考え方があります。普通一般には公の官工房は、「尚方作」というものが、一般に用いられている。これは洛陽とその周辺を指していると考えられています。洛陽周辺に遺跡もあるようですから洛陽を中心とする概念である。そうしますと、わたしの考え方では、この「青蓋」は、呉の官工房を指すのではないか。このように考えています。
 それで、ここに持ってきました報告書は中国湖南省出土の発掘報告書ですが、後漢(東漢)の鏡が出てきています。まったく同じような銘文が彫られています。これが一九五三年に「長沙月洞山二十八号墓」から出ました。長沙というと、とうぜん呉の領域です。
 そうしますと国分神社に収蔵されている重要文化財の三面の鏡について、わたしの理解では中国製はこの「青蓋作竟・・・」と書いた盤竜鏡のみ。しかも呉から持ってきた。それで自分たちは、身元の正しいものである。呉のおおやけの工房で鏡を作っていました。そのような今でいう身分証明書ではないか。この鏡は十二・三センチぐらいで中国の普通の鏡です。三角縁神獣鏡のように大きくはない。ある意味ではとうぜんである。部屋の中で女の人が鈕にひもを付けて、櫛で髪をとく。手に持ってお化粧する。中国では実用品です。二十二・三センチある三角縁神獣鏡とは、大きさも重さもぜんぜん違う。後の二面の三角縁神獣鏡は、その呉の工人が日本・近畿に来て作った。国産である。そのように理解しています。
 それとこの前、画像の専門家である谷本茂氏にこれらの写真を撮っていただいた。ですが今お見せするのは、わたしが撮った素人の写真ですが、ご覧になればみにくい潰れている鈕の部分がよくわかると思います。樋口隆康さんから、何回もうかがいました三角縁神獣鏡の優等生の鏡といわれる海東鏡と徐州洛陽鏡の鈕の部分の写真です。素人なりのこの写真の一番良いところは、このみぐるしい見てはおれないような鈕の部分がよく分かるとおもいます。今お回しします。


二、おしてるや 難波の崎よ・・・淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あじまさ)の島も見ゆ

 さて難波の問題に移らさせていただきます。大阪に難波(なんば なにわ)がございますが、この地名はどこから来たか。地元近畿の歌か。そういう問題です。
 それで問題になっていますのは、『古事記』仁徳記のところです。仁徳というのは大変女好きに描かれていまして、奥さんを悩ましてばかりいます。吉備の黒姫が美しいということを聞いて、それで会いたいと思った。それで本妻のほうを騙して淡路島を見たいと言って出かけて行った。確かに淡路島に来たのだけれども、狙いは吉備にある。そこで、こういう歌を歌ったということです。

  岩波古典文学大系に準拠 『古事記』仁徳記
 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が國見れば
 淡島 自凝おのごろ島 檳榔あじまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ

 つまり難波の先から出て行って自分の国を見下ろして見ると、淡島も見える。オノゴロ島も見える。檳榔(あじまさ ビンロウ)の島も見える。それ以外の島も見える。
 こういう歌です。それでこの歌をめぐって、たいへんな議論がされていました。どこで議論されていたかと言いますと、わたしの本の読者の会の方です。関西や関東などの出されている会誌などで、繰り返し議論がされていました。
 これも時間の関係で、はっきりキーポイントの問題だけを申しますと、檳榔(あじまさ ビンロウ)の植生の問題です。幸いなことに現在はたいへん恵まれた時代で、江戸時代の研究者と違って植物の植生がわかっている。江戸時代には植物図鑑があるわけではない。現在は檳榔(あじまさ)は百科事典にも載っています。これが今どう書いてあるかと言いますと熱帯の植物です。そして日本列島のどこに生えているか書いてある。これが生えているのは南九州。これは問題なし。九州西岸部も、だいたい生えている。これも合格。そして九州の北の玄界灘。われわれは玄界灘というと荒れて寒い海のように思いますが、結構暖かいようです。言うまでもなく黒潮という暖流の別れである対馬海流のお陰です。
 (これも一言言いますと、青森県に行ったときに勘違いしまして日本海の方が寒い。太平洋のほうが暖かい。そう思っていましたが、実はぜんぜん逆でした。日本海の方が暖かい。太平洋のほうが寒い。頭と現実は逆でした。聞いてみればなんのことはない。対馬海流は青森の西に行っても暖流です。それで津軽側が暖かい。他方太平洋岸はオホーツク海流という親潮・寒流が下って来ている。それで当然のことながら太平洋岸は寒い。だから青森県の人には日本海側は暖かい。太平洋側は寒い。それ以外どう考えられるかという感じです。)
 それで対馬海流は暖流です。それで地図にあるように壱岐島の東にある小呂島(おろのしま)がまさにアジマサの島である。もう一つは有名な沖の島です。宗像(むなかた)神社の神聖な島である沖の島です。あの島にも生えている。この沖の島が植生のアジマサの北限です。それで朝鮮半島側には生えていない。それで東の方は、九州の東岸部も生えていない。この歌の議論は九州の東岸部であるというところから、読者の会で議論は始まったのですが、アジマサの植生を見ていくとそうは言えない。どうも大分県では無理です。いわんや瀬戸内海も生えていない。とても淡路島近辺では、ぜんぜん無理です。だから、この歌は淡路島では作れない。そういうことが植物学の植生から分かってきた。これは主観的な鑑賞の問題ではない。昔はそうでないと頑張る人もいるが、それだったら昔アジマサが生えていた証拠を挙げなさいとなる。考古学的な植生の証拠が必要となるし、それも出てこない。また仁徳天皇は五世紀である。二十世紀と五世紀というのは植生というレベルでは同時代である。簡単に変わるわけではない。我々は仁徳天皇を大昔と思っているが。植生のレベルでは同時代。そうすると、この歌は仁徳天皇が歌った歌ではありえない。
 もう一つ問題は「オノゴロ島」。変わった島名ですが、この島も淡路島近辺にはない。本居宣長が、この島がなくて苦労しています。この島でもない。この島でもないと江戸時代に議論している。ないのだが、しかし仁徳天皇がこの歌を作っている以上、淡路島近辺にオノゴロ島があったのに違いない。こんなことなら迷わない方が良かったと思うくらい迷っている。それで振出しにもどって淡島を淡路島だと結論づけている。しかし私の三番目の著書『盗まれた神話』(朝日文庫)を読まれた方はご存じのように、冒頭で出したテーマがあります。神話として天の沼矛(ぬぼこ)を海に突き刺して引き揚げてコロコロと滴したたり落ちて島を作ったとある。これを扱いまして「天の沼矛」を権力のシンボルと展開された神話であることは間違いない。ところが矛の分布領域は現在では分かっている。銅鐸の分布は近畿が中心になります。ところが矛の分布は圧倒的に博多湾岸が中心。鋳型から言っても博多湾岸が中心で、実物はさらにその周辺に分布している。ですから私が考えましたのは、このような「矛が全てで始まった。」という神話は、矛の分布の中心点で創られていなければおかしい。これは本居宣長の段階では考古学などはないので文献だけで理解する。また説明がいろいろいりますが結論から言えば、「オノゴロ島」は、博多湾にある「能古島のこのしま」という島である。これは変わった名前の島ですが、「御 オ」は接頭語の意味、「ロ」は船を漕ぐオールの櫨(ろ)の意味、語幹部分は「ノコ」である。「オノゴロ島」は能古島である。能古島が原点になって、あの神話が作られた。くわしい証明は『盗まれた神話』をご覧下さい。そういうことを読者の会の方は知っておられたので、これは博多湾で作られた歌ではないか。そのように読者の方が考えられた。
 博多湾ならば「オノコロ島」も見える。「アジマサの見える島」も当然見える。両方見える。以上のことは、少しづつ読者の会の中で論争されて前進していった。本来は関係した方々のお名前を全部あげるべきであると思いますが省略します。それでわたしがバトンタッチを受けた。しかし、なおかつ困っておられたのは「淡島」がない。
 バトンタッチする前に、昨年の八月博多で「古田武彦と古代史を研究する会」の事務局長の高木さんに、「時間があれば、私と一緒に少し来てください。」と言われ、車に乗せていただいて住宅地の間を通り、かなりの広さのよどんだ池に連れて行かれた。これは何ですかと聞きますと、実はこれは難波(なにわ)池だった。今は難波(なんば)池と地元の人は呼んでいます。『明治前期全国小字調査書』(内務省地理局編纂、ユマニ書房刊、第二次世界大戦の空襲で、ほとんど消失、北部九州と青森が残る)では難波(なにわ)と書いてある。現在では住宅建設で段々埋められてしまった。もともとは海につながっていた海岸部です。現在残っている池もやがては住宅建設で埋められて、やがて池も姿を消すだろうと言われている。そのうち埋められてしまえば何も残りませんので、お連れしましたと言われた。入り口のところに難波屋という雑貨屋さんがありますが、その地名はあの雑貨屋さんの名前ぐらいしか残らない。そこであらためて、この問題に関心を持ちはじめました。
 それで一つ抜けている「淡島」はどこだろう。しかし「淡島」という地名をどこを探してもない。ですが、わたしには「淡島」に見覚えがあった。何だろう。三月の終わりになって神社だと気付いた。淡島神社だ。末社・摂社は幾らでもある。それを思い出した。近くに淡島神社があるのではないか。それで『福岡県神社誌』を見るとあった。宗像(むなかた)神社の近いところ福岡県福間町に淡島神社があった。
 それで私の理解では、この歌をどこで作ったかと言えば、博多湾を出て、玄界灘に出て、しばらくしたところ。北へ少し行ったところだ。そんなに離れていない。そのあたりだ。振り返れば目の前に「オノコロ島 能古島」、前の方に左手のはアジマサの島(小呂島)。それから東を見れば「淡島」が見える。(淡島神社が見える。)
 それでこの歌の理解には、データはぜんぶ揃った。
 そこから先は、私はあらためてこの歌をそうだと思った。別の理解から、再度考えてみた。淡島神社は各地にある。和歌山県は加太にもある。大分県にもある。末社・摂社は幾らでもたくさんある。いくらあっても淡島神社の御祭神は、ぜんぶ決まっている。それは少名彦名(すくなひこな)命である。
 少名彦名(すくなひこな)は大国主と出雲の国を共同経営し、出来上がったとたんに、私はもうやめた出雲には興味がない。それで常世の国に行くと言って去って行った。非常にかっこいい神様である。神話でも他の神様とタイプが違います。変なことを言いますが、ゲバラとカストロはキューバ革命では革命に勝利した。それからゲバラは南米へ行って亡くなったようですが。完成し出来上がったものに興味はない。同じようなタイプの印象に残る神様です。
(追加で申しますが加茂岩倉遺跡から銅剣などがたくさん出ました。その遺跡の近く、すぐ上の山に上がられたら大きな岩がある。そこから出雲が見下ろせる。その伝承に曰く。その岩の上に大国主と少名彦名が腰をかけて国見をなさった。そういう話になっていますと、現地の人が言われる。これも、私から見ればけしからん話で、なぜかというとその岩は旧石器・縄文における神聖なる岩倉・磐の神様のはずである。それを弥生戦国に出てきた武将である大国主と少名彦名の二人が、旧石器・縄文以来の出雲の神聖な石神の上に、二人が腰掛けて喜んでいた。二人の教養のなさが分かる。余計なことを言うようですが、そういう印象を受けた。こういう考えにいたる理由は、今は省略しますが。)
 そういう出雲(王朝)の共同経営者の一人が少名彦名(すくなひこな)である。この伝説が嘘ではなかったのは、荒神谷遺跡で、銅剣がおびただしく出てきた。これをわたしは銅剣ではありません。銅矛だと考えます。この問題は大正時代の有名な考古学者である高橋健自さんが、接合部の突き出したほうを「剣」という仮の名をつけ、接合部の引っ込んだほうを「矛」と仮の名をつけた。ところがそう言ったのが、後に断定的になってしまった。しかしそんなことが、わたしから見ると言えるはずがない。接着方法が、木のほうを凸にして金属器が凹にすれば「剣」である。そんなことがいえるはずがない。剣と矛の違いは分かり切っている。柄が長い方が矛です。柄が長い剣はない。柄が短いような、そんな矛はない。剣と矛の違いは柄の長さによる。接着方法では呼ばない。木の柄のほうを突き出すか、銅器のほうを突き出すかは、どこにもそのようなことは書かれていない。高橋健自さんが考古学者らしく、大正時代に一応わたしはそう呼ぶと仮に定義した。間違っているかも知れない。そのようにきちんと書いてある。それをその後高橋大先生が言われたと、考古学者が絶対化してしまった。それが、わたしは今回のこの発掘で覆(くつが)えってしまったと考える。なぜかというと大国主のことを何と呼ぶか。『出雲風土記』では「八千矛の神」と呼んでいる。「八千剣の神」とは、どこにも書いていない。たくさん矛を持っている人物。このように言われている。だから荒神谷遺跡に矛がたくさん出てきた。だから剣が出てきたのではない。これが一つ。
 もう一つ忘れてならないのは筑紫矛の問題です。これは出雲矛(剣)とは接着方法が違いますが。高橋健自さんの命名でも、筑紫矛と呼んでいました。これは福岡県で圧倒的に出てくるスタイルの矛が一八本出てきた。
 ですから大部分はわたしが呼ぶ出雲矛、そしてそれに加えて一・二割の筑紫矛。それがセットで出て来ています。まさに大国主と少名彦名(すくなひこな)の共同経営という出雲王朝の実体を示している。
 それでは少名彦名(スクナヒコナ)がなぜ筑紫かと言いますと、スクナヒコナ、○○ナ○○ナとだぶって入っている名称のダブリ言語という古い表現である。「ナ」は那ノ津の「ナ」、これは港かも知れません。「ヒコ」は長官。「ヒコナ」は港の長官の意味。「スク」はわたしの理解では、福岡県春日市須玖岡本(すくおかもと)遺跡の須玖(すく)と考えています。須玖(すく)の中にある岡本(おかもと)。現在のところ中国の絹が出てきた唯一の弥生の遺跡。
 ということで、わたしは少名彦名(すくなひこな)は博多湾岸、その博多のベッドタウンである春日市の須玖岡本の須玖すく、その須玖(すく)にいる王者であったと、以前から理解していた。
(このダブリ言語の例はアシナズチテナズチです。スサノオの神話でヤマタノオロチの話の広島県版。普通は島根県の話ですが、一つだけ広島県が舞台になっている例が『日本書紀』の一書にあります。この中で、○○ナズ○ナズとダブって出てきます。これらは古い表現の方法のようですが。)
 この歌を作った本来の主人公は少名彦名(すくなひこな)である。こう考えてきた。それで、この歌では少名彦名は、博多湾岸を出ていく時とうぜん振り返った。「我が國」というのは須玖(すく)の王者ですから少名彦名(すくなひこな)にとって、博多湾岸はとうぜん我が国です。わが国の一部分という言い方ではない。振り返ればとうぜん私の国だ。そういう言いかたをしている。少名彦名(すくなひこな)には、まことによく当てはまる。博多湾岸に淡島と言っている少名彦名を祀っている神社がある。そこを「淡島」と呼ぶのを少名彦名(すくなひこな)が歌うのがまことにふさわしい。
 一番ふさわしいのは、これから彼はどこへ行こうとしているのか。少名彦名(すくなひこな)は常世の国に行こうとして、わが国を出発しようとしている。「檳榔(あじまさ)の島も見ゆ」と言っているのは、ただ小呂島にただ檳榔が生えていて見えていたから言っただけという話ではない。つまり檳榔(あじまさ)が見えるということは、檳榔(あじまさ)の本家本元である常世の国・熱帯地方に行こうとした。そこへ行く少名彦名物語の終わりに近い一節だと、わたしは理解した。また『古事記』の中で大国主の話はほかと違っている。大国主は良い意味で浮き上がっている。つまり大国主は女好きで歌好き。『古事記』全部があの無邪気さ、奔放さだけであれば、『古事記』はどんなに面白いだろう。しかし大国主のところだけ、独特の色っぽく雅(みやび)で天衣無縫に物語が展開しています。これは『盗まれた神話』(朝日文庫)で、すでに『大国古事記』というものが、『古事記』よりずっと以前に成立していると考えた。それを『古事記』が利用してはめ込んで『古事記』を造った。だから他のところと文脈・イメージが違っている。あそこだけ『古事記』が孤立している。他と違っている。考えてみると実は成立していたのは『大国古事記』だけでなく、少なくともこのような『少名彦名古事記』があったのではないか。その『少名彦名古事記』の最後のほうには、少名彦名(すくなひこな)は常世の国に行こうとして旅立っている。この話は終りのほうであるが、まだ後の話があったのではないか。
(この少名彦名(すくなひこな)の出発の時間帯は「天孫降臨」の前です。ですから「天孫降臨」は、少名彦名の留守をねらって筑紫を襲った。大国主に国を譲れという言いかたをして、大国主が留守預りであった板付という日本最大の縄文水田の地帯を襲った。これは留守狙いだ。)
 と言いますのは、わたしが古代史に入ったのは三国志の『魏志倭人伝』の解読からです。一番怖かったのは倭国から東南方向に一年行けば国がある。裸国・黒歯国がある。この問題です。
 『魏志倭人伝』部分
  又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地

 それまで邪馬台国問題を論じる人はいましたが、誰一人として裸国・黒歯国のことをまじめに論じた人はいなかった。私はくそ真面目に扱った。「二倍年暦」、現在の年期で半年のことを、一年と呼んでいた。そう考えて「二倍年暦」を提唱した。この一年は、一年の半分・半年。それによれば倭国から東南方向に半年で黒潮に乗れば行けるところは何処だろう。幸いに当時ヨットで乗り出す青年がいた。今はよいお年ですが。彼らによればアメリカは西海岸・サンフランシスコまで三ヶ月止まり。後三カ月で何処まで行くかというと西海岸のペルー・エクアドル止まり。チリやアルゼンチンまで行かない。足らない。そのように書きました。(米田氏の件は略)現在ではこれは幸いにもほぼ認められてきた。先日来もある人から、明治大学考古学教授である考古学会の会長さんも、どうも南米に日本人が行っていたようだと言っていましたよと聞かされました。今まで反対の人でしたが、そのような話を聞きました。他にも南米のミイラの寄生虫の件や、ウィルスの件など次々自然科学の証明も出ました。それで今まで拒否反応を示して、古田は勝手なことを言っていると言っていた人も、いなくなってきた。
 その問題はわたしにとっては昔の話ですが、今のわたしの残された問題は、陳寿が『魏志倭人伝』で記録したのは、裸国・黒歯国の話を中国人が倭の使いから聞いた。それ以外にはないですね。そうすると倭人の中でそういう話が伝承されていたはずである。そうすると、どの話かとなる。『古事記』『日本書紀』『風土記』どれを見ても、常世の国の話しかない。常世の国の話は何回か出てくる。田島守の話もある。その常世の国は赤道界隈の国としか思えない。ですから倭人は使者に常世の国の話を語った。このようなところに考えは到着していた。しかし今はもっと厳しく考えると浦島太郎は駄目。なぜかというと雄略天皇のところと書いてある。雄略天皇は三世紀より後。浦島太郎の話を魏の使いが聞いた可能性はゼロ。そういう時間帯。また田島守の話も三世紀より後。だから田島守の話を聞いた可能性はゼロ。じゃあ何が残るか。

 「少名彦名(すくなひこな)が常世の国に行こうとしている。」

 この話なら、三世紀の『魏志倭人伝』より前。また天孫降臨の前。この少名彦名(すくなひこな)の話なら本来は弥生前期の終わり頃。今までの編年で言うとBC一百年以前。年輪年代測定法では一〇〇年遡らせねばならないと言っているから、それで言うとBC二百年以前(天孫降臨の前)。その前夜ですからBC二百五十年ぐらい前。そのときに、もう出雲や筑紫には興味を失った。常世の国へ行こう。少名彦名(すくなひこな)がそう言った。この話なら、魏の使いが聞いた可能性がある。
 これはわたしの仮説なのですが、主語は少名彦名(すくなひこな)であると理解すれば、この歌は後ぜんぶ合う。大阪湾仁徳だったらぜんぜん駄目であるけれども、少名彦名が博多湾なら完全に合う。私が勝手におとぎ話を作って合わせているわけではない。そうすると続きがあったのではないか。ここはただ檳榔(あじまさ)が見える、常世の国の入り口であるという話だけではない。ほかの話もあったのではないか。それを魏の使いに語った。魏の使いももう少し詳しく書いてくれれば良かったが、要点を捕らえて東南方向へ「二倍年暦」で船航一年。二倍年暦で一年、ほんとうは半年。しかも大事なことは、そこは熱帯である。裸国・黒歯国ですから。はだかの国、くろい歯の国ですから。これもありそうで、かなりポイントはつかんで書いてある。今のわたしの理解では『少名彦名古事記』の一説を、魏の使いに語ったのではないか。今のところは想像にすぎませんが。
 もう一つある、常世の国の出てくるケースは。神武の三番目の兄さんの問題。一番目五瀬命と四番目弟神武は博多湾岸糸島から出て、大阪湾に突入して兄は紀伊の国で亡くなった。ところが二番目・三番目はほかへ行って、いなくなった。二番目は海原に行った。三番目は常世の国に行った。そこだけしか書いていない。そういう二番目・三番目の話は、魏の使いに語った可能性はある。
 以上、この歌の理解は永年の懸案のひとつに決着がついた。『古事記』そのものの問題からすると、『古事記』本来は大変リアリティがある史料を使っている本なのですが、どうもここのところは非常に残念というか、場所も違う時代も違うものを持ってきて、はめ込んでいる。
 私はこれには驚かない。なぜかというとヤマトタケルの説話は軒並みそのようである。名古屋や関東などいたる所で、現地の神話を持ってきて主語をヤマトタケルに切り替えて作っている。そういうことが厭になるほど次々わかってきました。それは驚かなかったのですが仁徳記もそうだったとは、たいへんガッカリしました。しかもこの点は重大な意味を持ちます。なぜかと言いますと、本居宣長の『古事記伝』の基礎は仁徳記のこの歌にあります。それを最近本居宣長の『古事記伝』を読みなおして発見した。なぜならば「オノゴロ島」が『古事記』の先頭の神話として出てきます。国生み神話に出てくる「オノゴロ島」がどこだという話で、決め手を仁徳紀のこの歌に比定している。「オノゴロ島」が淡路島の近くにあったのは間違いがない。だからこの神話は淡路島で展開した。本居宣長の『古事記伝』の基礎が、仁徳紀のこの「オノゴロ島」が淡路島でつくられたという事実と宣長は考えた。それを原点に展開している。これは『古事記』の中の一つのエピソードという問題でなく、宣長がえがいた『古事記』神話の全体像が、それが大津波で崩れゆく状況であることを、さいきんわたしは改めて認識いたしました。

 なお「難波(なにわ)」という言葉、これに関して大阪湾と博多湾、どちらが古いかという問題ですが、これも考えていくと比較的簡単に答が出てきました。なぜならば博多湾は「那ノ津 なのつ」と言います。そして「難波 なにわ」とも言います。いずれも語幹が「な」で共通している。「那ノ津 なのつ」は港の意味です。「にわ」はお庭の「庭」ですが、これも単なる「にわ」でなく「(神聖な)祭りの場」を意味する言葉だと言われています。いずれも「な」が元で、できた言葉です。ところが大阪の場合は、「なにわ」しか無い。「なのつ」とは言いません。つまり甲乙セットがある中で、乙だけが来ています。この場合はわたしの言語学的な理解から言いますと、セットになっている方が元で、セットでないほうが分派である。このように考えるのがいちばん自然な理解である。逆の場合は絶無とは言えないですが、ほとんどない。逆なら逆であるという別の証明がいると考えます。普通に考えればセットになったほうが自然で、セットになっていないほうが、そこから出てきた。
 これと似た問題を一つ述べますと、金達寿(キム タルス)さんという方が、日本語をみな韓国・朝鮮語から説明できると言われた。そういうことを言われて二・三十年前ですがひじょうにショックを与えました。現在でもそれに従っている人もいますし影響を与えている。わたしは非常に興味深い試みであったと思う。言語にたいするわたしどもの関心を揺り動かす有効な一つのショック療法であった。しかし金達寿さんが言われていることが本当であるかと言いますと疑問が多い。かなり本当ではない。変な日本語ですが、本当でないことがたくさんある。
 例をあげますと「ウリナラ」。これは韓国語で「我が祖国」という意味である。奈良県で「ナラ」と、言っているがあれは韓国語である。日本人が知らないだけだ。朝鮮から来た帰化人が奈良県である大和に造った証拠である。最初の頃言われて、その後何回も言われている。しかしわたしの理解では、これは残念ながらペケである。なぜかというと日本語の方では「ナラ」という地名はやたらにある。字地名などではいたるところに出てくる。このあたりでは奈良県のナラだけではなく、有名な銅鐸の出土した東奈良遺跡のナラもある。福岡県でも小銅鐸が出てきたところは奈良遺跡。日本中ナラだらけ。なぜかと言うと簡単な話で、「均す ナラス」という動詞がある。日本ではだいたい山地が多く、初めから平野である所はほとんどない。だから住もうと思えば山地を平らにして均さないと住めない。均した所を「ナラ」と言う。つまり動詞と名詞がセットに成っている。ところが韓国語では「ナラ」という名詞はあるけれども、「ナラス」という動詞は韓国語にはない。ところが日本では均したところを、「ナラ」と言っているように、動詞と名詞がセットに成っている。私は動詞と名詞がセットに成っているほうが主で、成っていないほうが従であると考える。つまり韓国語で言っている「ウリナラ」の「ナラ」というのは日本語である。こう言うと怒る方がおられるが、いくら怒っても仕方がない。学問にナショナリズムを持ち込むのは間違い。
 これも言い出すと、面白すぎて問題は色々ありますが、時間の関係で途中の論証を省いて述べますと『山海経せんがいきょう』という中国周の時代の末期に当たる戦国時代の本があります。日本で言えば縄文晩期に当たります。その中に今の平壌(ピョンアン)あたりに蓋国(ガイコク)という国があった。その南方は倭である。こういうことが書いてある。つまり倭人がいた。
 『山海経、海内北経』 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。

(日本では縄文時代晩期に当たる。事実韓国の光州の博物館には、日本の縄文土器とそっくりの土器が展示してある。韓国の学芸員に確認したが、九州の轟(とどろき)・曽畑式土器であるとはっきり答えた。この土器がどっちからどっちに行ったかは別にして、韓国光州と九州熊本付近に同じ土器が存在することは疑いがない。)
 このことは別の方からも言える。韓国側の史料『三国史記』に書いてありますが、高句麗の建国の英雄、中国式には朱蒙という人物が居ました。その高句麗の初代王の第二夫人が第一夫人にいじめられて長男・次男を連れてソウルあたりに来て、そこで百済という国を造ったと書いてある。ありがたいことに年代が書いてある。紀元前一世紀です。それまでに居た人間を征服し支配して救ってやったのだ。そういう言い方をしている。初め「十済」と名乗る。「十姓済民」、十の姓を持つ民を救ったから「十済」と呼んだ。それが後に百の姓を持つ民を救ってやったから「百済」と呼んだ。「救ってやったのだ。」というのは、要するに征服支配した。それを征服者側から「救ってやったのだ。」と言っている。日本人が百済をヒャクサイという言い方をしないで、クダラと言うのは「百済くだら」は日本語だと考えています。「ら」で終わる日本語は多い。羅(ら)は村(むら)・空(そら)の「ら」である。「くだ」は、果物の「くだ」。豊かなという意味だと思う。「くだら」は実り多き豊かな土地という意味だと考える。「くだらん」はそれの否定語。とにかく倭人が居たところにBC一世紀に騎馬民族が侵入して百済が出来た。倭人が居たら倭語が使われていなければおかしい。つまり「ナラ」というのは倭語である。
 わたしは「ウリナラ」の「ウリ」は、間違いなく騎馬民族語であると考える。なぜかというと「ウリ」は「私の」という第一人称の所有格。これを征服者が被征服者の言葉で自分のことを言う馬鹿はいない。絶対に自分の言葉で言う。「ウリ」は本来の騎馬民族語である。もし「ナラ」という言葉が騎馬民族語の「ナラ」なら中央アジアを指して、そう呼ばなければならない。しかし「ウリナラ」は必ず現在の朝鮮半島を指している。つまり「ナラ」のほうは倭人の言葉である。
 ですからわたしが言いたかったのは、「ナラ」「ナラス」とセットに成っているほうと、成っていないほうがある。こういう場合は、セットに成っているほうから、セットに成っていないほうに伝播したのである。こう考えるべきである。
 朝鮮から日本に伝播したものもあっても、一向にかまわない。だいたい海峡は隔てていても近いのから、あちらからこちらに影響しても当たり前であるし、逆にこちらからあちらに影響しても当たり前で、何の不思議もない。当たり前だ。その当たり前の話をしているだけである。この当たり前を、戦前はもちろん戦後もやらずに来た。この研究を今から行わなければならない時期に入っている。
 それで大きく元に戻り、私が言いたかったのは、「那ノ津」・「難波」とセットに成っているほうが原産地で、「難波」だけでセットになっていないほうが伝播である。神武が九州から近畿に来た。それを原点にしないと、近畿の歴史はすべて分からなくなる。これもそのひとつです。
 それで、もう一つ面白い問題を追加して申し上げます。「難波」という字面ですが、「難」は「難むつかし かたし」という意味で助動詞である。それで「波」は、名詞の「なみ」という意味と、「波立つ」という動詞の意味が、漢和辞典を引くと判りますように両方出てきます。この場合どちらの用法かと言えば、当然動詞です。なぜかと言いますと、助動詞が続くのは名詞でなくて動詞です。この「難波」という字面は、「波難し なみだち がたし」という意味で出来ている字面です。「なにわ」という発音に似た字はいろいろあります。
「浪速」という漢字も使えますし、たとえば「那庭」というような字も使えます。その中で「波難し なみだち がたし」という意味をこめて「難波」と表記しています。なかなかのやり手です、この字をあてた人は。
 ところが博多湾の場合は外は玄界灘。有名な荒波の世界です。ところが博多湾に来ると袋の海。特に志賀島と能古島があるから、それに波がさえぎられて、ほとんど波が立たない。いわんや、そこからもう一つ入り込んでいた難波(なにわ)津は、ほんとに波が立たない池のような海だった。だから「波難し なみだち がたし」。大阪湾の場合は目の前は瀬戸内海です。私は呉で育ちました。少年時代は瀬戸内海人間ですが、 瀬戸内海は狂乱怒涛の海とは言えない。それをバックにして特に大阪湾だけ「波難し なみだち がたし」とはピントがずれている。そんなことは言えない。
 それで皆さんはいつも使っているから疑問を持たないだけで、この字面は考えてみますと、大阪にはふさわしくない。博多湾岸ならドンピシャリ。そういう問題も付け加えておきます。

 

三、なにはづに さくやこのはな 冬ごもり いまは はるべと さくや この花

 もう一つ後も問題がありますので、簡単に付け加えておきます。
古今集仮名序に、こういう歌があります。
 なにはづに さくやこのはな 冬ごもり いまは はるべと さくや この花

 この歌が、以前から気になっていた。四国のほうから木簡が出てきたことがありまして、余計に関心を持っていた。ざっくばらんに言いますと、大阪市此花(このはな)区があります。これが気になっていました。あれは「コノハナ」という地名があった証拠ではないか。調べてみなければと思っていました。思いたって大阪市此花区役所に電話しましたら簡単にわかりました。ようするに大正十四年此花区が北区から分区するとき、古今集のこの歌にちなんで此花区と名付けましたと解答がありました。(その時の責任者、市長さんと区長さんの名も教えていただきました。)それで別に「コノハナ」という町の名や字地名があったわけではない。古典に基づいて名付けたなかなか奥ゆかしい命名である。この歌を大阪と結びつける「此花このはな」という地名が、大阪にあった証拠となるわけではない。
 ついでながら枚方市に、この歌を刻んだ石碑があるというお話をお聞きした。それで枚方市役所に電話してお聞きしますと、百済のほうから来た王仁(わに)という人が枚方市で死んだという伝承になっている。このお墓のところにある石碑に、この歌が刻んであるそうです。行ってみたいが、まだ行っておりませんが。なぜ王仁が出てくるかといいますと、古今集仮名序の中に小さく二段に分けた注釈があります。
「おほさゝぎのみかど、なにはづにて、みことをきこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁という人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける哥也。この花はむめの花をいふなるべし。」

 とかいてあります。「おほさゝぎのみかど」とは仁徳天皇のことです。だからこの歌は王仁が奉った。しかし考えてみるとおかしい。まぎれもなく日本語の歌です。王仁は中国人でなければ百済人ですから、このような日本語の歌を作れるはずがない。これは、いったい何か。この問題も、わたしは以前から疑問をもっていました。この場合は「コノハナ」は大阪市此花区とはいちおう関係なし、別と考えて良いということがわかってきました。
 そうするとこの「難波津なにわず」も九州博多湾と考えても良いのではないか。そのように考えてきました。そういう視点から見ると簡単に答えが出て来ました。
 それで次に、私は「神武実在」ばかりでなく「天孫降臨」も歴史事実であると考えなければ、歴史は全く分からない。そのように繰り返し言っている。それらを歴史事実と考えない戦後の右翼はぜんぶ腰が抜けている。そのように見える。この「天孫降臨」も歴史事実と考えなければ考古学的出土物の説明がぜんぶ不可能になる。福岡県の弥生の前期末・中期初(前末中初)に出土物が、がらっと一変する。弥生中期以後から「三種の神器」が出始める。吉武高木遺跡から平原遺跡まで。これは福岡県の学芸員・考古学者の間ではみんな常識である。「前末中初」、福岡県でこの言葉を知らなければ学芸員は勤まらない。ガラッと変わるのはみんな常識なのですが、なぜ変わるのかは考古学だけでは失語症になって説明は付かない。わたしから言えばかんたんな話で『古事記』『日本書紀』であれだけ苦労して言っていること、神代の巻で「天孫降臨」を抜きにしたら『日本書紀』・『古事記』を作る意味がないではないか。ですから、その「天孫降臨」は歴史事実です。ですが、わたしが歴史事実だと言ってみてもガラッと変わっていなければ、ただわたしが言っているだけです。ところが現実にガラッと変わっているから、やはり「天孫降臨」は歴史事実である。三種の神器を神宝としてシンボルにする勢力が支配者として筑紫にやって来た。
 「三種の神器」は先ほどの韓国側の倭地にもある。光州などには、みごとな三種の神器があります。「三種の神器」は、ほんとうは藤田友治さんが言うように三種の宝物が正しい。しかし後世で言う「三種の神器」であると考えます。その「三種の神器」は朝鮮半島南端部に出てきます。
 元にもどり「天孫降臨」は歴史事実だと考えますが、この天孫降臨を行ったのは誰か。それは天照大神(あまてるおおかみ)の孫に当たる邇邇藝命(ににぎのみこと)が博多湾岸に侵攻した。なぜ博多湾岸かの証明は『盗まれた神話』(朝日文庫)をごらん下さい。
 『古事記』に書いてあるように「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多氣(くしふるたけ)」に降りた。筑紫の日向(ひなた)、吉武高木遺跡があるところが日向(ひなた)です。すぐ西側にある山が高祖(たかす)山連峰の日向(ひなた)山、日向(ひなた)峠。そこから博多側に流れ出している川が日向(ひなた)川。日向川が室見川に合流するところにわが国最古の三種の宝物が出ました先ほどの吉武高木遺跡。

 そこでニニギノミコト、わたしが言う九州王朝の初代。そのニニギが海岸を歩いていたとき博多湾岸だと思いますが、出会ったのが木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)。そうしますと、この歌はコノハナサクヤヒメが対象になった歌であるとわたしは考えます。

 なにはづに さくやこのはな 冬ごもり いまは はるべと さくや この花

 この短い五・七・五の中に、二回も「このはな」という代名詞が出てくる。このように「このはな」が二回も出てくる歌は、普通はいやらしい話です。ところが木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)が歌われていると考えるなら良くわかる。
 コノハナサクヤヒメがニニギと結婚して、今で言う御成婚の時の歌。即位の式の歌。この時歌われたコノハナサクヤヒメ側の歌である。ニニギ側の歌もあったはずだ。それは今は伝わっていない。そのように理解してきました。
 そうしますと、この歌が解けてきます。王仁はまず百済から博多湾岸に来た。そこでこの歌を知った。それで次に大阪湾に来た。そうすると近畿の大阪湾で即位をめぐって兄弟で、もめていた。「やめなさい!」と王仁(わに)が、ニニギがコノハナサクヤヒメと結婚してうまく行ったという話があるではないか、そう思ってこの歌を持ってきた。外国人である自分が、直接そう言うのは生意気だから、この歌を書いたものを持ってきて彼らに進呈した。仲良くしなさいと示唆した。そう考えると疑問が解け、分かります。王仁が自分で、日本語のこの歌を作って差し出したと考えるとおかしい。話がめちゃめちゃになってしまう。それでわたしとしては、この歌のいちおうの理解ができたと考えております。

 

 三、古墳の解明

 それでは時間もありませんので次にいきます。藤田友治さんが、ひじょうによい本を作られました。『前方後円墳ーその起源を解明する』(ミネルヴァ書房)という本です。
 これについて、わたしとしてはこの本に対していくつか言いたいことがあるので述べてみたいと思います。
 まず「前方後円墳」という呼び方は間違っている。藤田さんも本の中で、ハッキリ言われています。ただこの呼び方は呼びやすいことと共著であるということ。それと本屋さんが、こういう名前を使いたいので使ったと思います。ですが内容をみると「前方後円墳」という呼び方は間違っているとハッキリ書いかれている。それは、その通りなのですが「前方後円墳」という呼び方は止めなければならない。ほんとうに韓国へ行って恥ずかしい思いをしました。韓国大邱(たいきゅう)の洛東江沿いにある大学のなかにある古墳の説明書きに書いてありました。
 「日本人、および日本の学者は前方後円墳と言っているけれも、これは全く無知のせいである。まったく間違っている。その証拠は洛東江にそういう古墳はたくさんあるけれども、みんな円の丸い方が川に向いている。角の方がみんな山地の方を向いている。だから言うならば逆であり、呼び方も逆である。前円後方墳なら分かるが、前方後円墳と彼らが言っているのは古墳を見ていない。彼らの知識不足の証拠である。」
 韓国語で書いてあり韓国の通訳の方に訳していただいたが、わたし共は全くいたたまれなかった。言ってみればその通りである。この名前を最初付けたのは、江戸時代の蒲生軍平が誤解してこの言葉を作った。それが、あんまり言葉の調子が良すぎるものだから、いまでも使われている。今の考古学者はこの言葉が良いとはだれも思っていない。みんな間違っていることは知っている。それを知りながら、この言葉を使っている。知っていながら今後使うことは止めるべきだ。使用禁止にすべきだ。「前方後円墳」と言葉を使いながら、この言葉では駄目だと言っているのは過渡的には仕方がない。しかし今後は「前方後円墳」という言葉はやめるべきだ。
 ではどう呼ぶか。以前に一案としてわたしは「従台主墳墓」という呼び方を提案した。しかし「前方後円墳」という呼び方は口調が良かった。それに習いますと、私の一案としては「主墳後台墓」という呼び方であれば実質を示している。あきらかに墳のほうが主であることは間違いない。台のほうがくっ付いている。だから墳を主とし台を従える。こういう表現で「主墳従台墓」という言葉を表記して、一応のわたしの案とさせていただきます。もっと良い案があれば、もちろん結構です。(インターネット事務局注記2010.1 古田武彦氏は現在、「前方後円墳」を方円墳と呼ぶことを提案しています。)

 こういう呼び方の問題では苦い思い出がありまして、上田正昭さんが『大和朝廷』という本を角川選書で書いておられる。私が早い時期に書いた共著の本の中に「上田さんが言っておられる大和朝廷は、・・・」と書きました。そうするとさっそく上田さんから電話がかかってきて、「古田さん、あの話は違いますよ。私はあの本の中では、大和朝廷と言うべきではないと書いてある。私は河内王朝という言葉を使っています。私が大和朝廷と言ったように書かれては困ります。」と言われた。上田さんとは過去に高等学校の教師として同僚であった時代がありましたが、そのことは上田さんの言われた通りだった。それから今度はわたしが「近畿天皇家」という変な言い方を考えた。わたしにとってはその理由の一つが、実はこの電話です。大和も河内もまとめて呼ぶとなると近畿。それで「近畿天皇家」という呼び方を考えた。
 それで次は、この本の問題点として、藤田さんは「台の上で儀式は行われなかった。なぜならば台の下に墓があるからだ。」と書いておられる。この意見にわたしは、どうかなと思う。まず台の上で祭る。この場合祭りの主催者・台の上にいる者とその参列者・周辺にいる人々を、いちおう区別して考えるべきだと考える。それを一緒にして、ひと括りにして祭る人と考えると、問題が現実ではなくなる。
 それと前方(従台)にも墓がある古墳は、あることはある。しかしこれは例外的なケース、あとで後台部に造られた。まず主墳の墓より後に造られた。すべてと言ってもよいが、先に造られているケースはまず無いと考えます。時代という意味では同時代でしょうが。土器の時代区分で分ければ、たとえば古墳前期という意味では同時期ですが。しかし細かく見ればやはり主墳の死者を含めてその後、主人のお側に葬られたい。そういう人たちが葬られた。その時間の前後関係。時間のズレ。たとえ五年なり一〇年なりでも、時間のズレがある。そういう問題も計算に入れなければならないのではないか。
 つまり古墳の本質論を考える場合は、例外的に注意すべき問題を持ってきて論じられているのはどうかなと感じました。
 二番目の問題としては、古墳と他の古墳との噛み合いの問題について、説明がどうであろうかなと感じました。納得できないと思います。
 宮崎県の有名な西都原(さいとばる)古墳群の女狭穂(めさほ)塚と男狭穂(おさほ)塚の古墳が、かみ合っている問題です。藤田さんは女狭穂(めさほ)塚が、男狭穂(おさほ)塚に近接して古墳が作られている。それで噛み合っているように見えるが、実はそうではない。古墳の祭られる部分である後円部が残っている。祭っているのは主墳と後台墳の間で祭っている。それで男狭穂(おさほ)塚も祭られている。べつに共存しているのだから衝突はしているわけではない。それを一つの発見として書いておられ、現地に立って観察された結果であるとしています。
 その見方に対してわたしの方から言いますと、それならもう少し離して造れば良いではないか。男狭穂(おさほ)塚は円部だけが墓ではなく、その周辺も神聖な領域に入っている。その周辺の領域を侵している。今のように土地がない時代ではない。権力者ですから土地はいくらでも離して使えるはずだ。やはりそうすると、この墓は明らかに前の墓の一部を破壊して作られている。そういう姿を示している。それでわたしも現地に行ったのですが、おもしろいのは前の墓である男狭穂(おさほ)塚の墓は土塀に囲まれている。このような墓は全く近畿にはありません。最初からこのようなスタイルで作られた墓は男狭穂(おさほ)塚の墓だけではなく宮崎の各所にある。女狭穂(めさほ)塚古墳はそうではない。これは明らかに「前方後円墳」。私が言う主墳従台墓のスタイルであり土塀などに囲まれていない。新しい別の時代の墓として作られた。その場合男狭穂(おさほ)塚の墓の一角を冒して、女狭穂(めさほ)塚の古墳は作られている。それで男狭穂(おさほ)塚の墓という前の時代の古墳を百パーセント尊重し保存するという立場ではないと、わたしは考えています。古い勢力と新しい勢力の矛盾というか関係が表現されていると考える。それが非常におもしろいところです。
 さらに同じく奈良県ホケノ山古墳。これも藤田さんの御本から借りたものですが、この図はこの本を作成する段階の図です。ですがこれも後に、発掘調査報告会に参加されたかたはお分かりのように、木棺の痕跡のある大きな穴・石室が見つかっています。
 これもやはり同じく、同じところに古墳を作る必要はないと思います。もう少し離して古墳を作っても、なにも悪くない。権力者ですから、われわれ現代人のようにそんなしみったれた土地の使い方をする必要はまったくない。これもやはり前の古墳に対して十分敬意を表していない。そう言わざるをえない。
 そこから先は言いにくいことですが、やはり言いにくいことも言わねばならないと思います。ホケノ山古墳の、前の古墳も盗掘されていたでしょう。誰が盗掘したのでしょう。普通は盗掘というと泥棒のように悪いヤツに決まっているから誰かわからない。しかし、この古墳は不思議だ。あれは不思議なことに、あそこから出て来たものは大神(おおみわ)神社の御神体になっている。これはあの古墳から出てきたものですと宮司さんが見せておられた。現代ではありがたいことにビデオがあるので、繰り返し確認できる。ですから盗掘された鏡は、大神(おおみわ)神社の御神宝になっている。それからまた同型鏡の中に、今國學院大学(東京都渋谷区)にある鏡が博物館に常設で展示されている。この鏡は大分悪い鏡というか、この鏡はあった実物を元に模作した鏡のようです。これも言い出すと、おもしろいことがありますが今回は省略します。同じくもう一つ箸墓出土と伝えられている鏡が國學院大学にあって、その鏡は確かに古墳から出てきたもののようです。しかしこの鏡は古墳に入れるときに、何回も踏み返し踏み返しされた後作られているもののようです。今回出土した画文帯神獣鏡とは似ても似つかない。それに箸墓と言っても近辺のどこの古墳から出たかは明確には分かりません。
 とにかく、そのようなかたちで似たようなものが、あちらこちらに姿を現している。ですが普通盗掘されたものは姿が現れない。好事家(こうずか)が密かに夜取り出してニタニタと眺めて楽しんでいるというのが普通だ。あまり姿を現さないが、ここでは現れている。しかも大神神社の御神宝になって姿を現われているというのは大変なことです。今言ったことは事実ですが、そこから先は私の推察です。あの鏡を掘り出した人が大神(おおみわ)神社に奉納したのではないか。とても夜密かに墓を掘ったというものではない。誰かと考えますと後で古墳を造った人です。ホケノ山古墳は、かなり前の古墳にぶつかって造っている。その時は壊している。それなら、ついでに墓の中に入り鏡を初め取り出してもふしぎではない。自分の手元に置いていたけれども、墓から取り出したものを身辺に置いておくのは気色が悪い。日本人の感覚には、神社に奉納すれば罪が免れる。そういう感覚があるので神社に奉納した。それで大神(おおみわ)神社に入った。
以上はわたしの想像ですが、とにかく確かなことは、この六・七世紀に作られたあの古墳の主は、かなり前の古墳を馬鹿にしている。つまり同じ子孫ではない。同じ近畿の中でも対立した勢力が出てきて、この古墳を六・七世紀に造っている。そういう古墳の成り立ちが、古墳のかみあいの中からよく分かる。
 次に古墳のかみあいについて、わたしの説明をもう少し一般化した形で説明いたします。
 わたしが名付けたTR型というか、征服者型について申し上げます。前代の墳墓もしくは神聖な場所を完全消滅させて、後に新しい古墳を築く。
 そういう方法に、それらしく見えるものが一つあります。ある意味では貴重な例がありまして、奈良県のイトクの森の問題です。
「考古学上より見たる邪馬臺国」(『考古学雑誌』第十二巻第五号 大正十一年一月五日、考古学会の講演 高橋健自)
 これの中の一節に、大和の畝傍山の東側に「イトクノモリ」という小字があります。そこに前方後円墳があって、その前方部の一角が壊されて、そこに民家が出来ていました。その民家を立ち退かせると、その下から土器が出てきた。墓も出てきた。それは金属器ではなくて土器と石器、石の鏃やじり・石の鑓やり・漁具の材料ともいうべき石三個が出てきた。それから、なんと黒曜石の鏃が出てきた。さきほどの石の鏃と言っているのは黒曜石の鏃のことである。
 その講演で、高橋健自さんは何を言っているかというと、円部の方は発掘されていないので分からないが、おそらく金属器が中に入っているだろう。これそのものは想像ですが、たいへん可能性はあります。ところがその方部の下から出てきたのは石器や鏃や弥生式土器、そういうものです。ところがこれに対して、金石併用期と言葉を使いまして石器時代から古墳時代にまたがっている。しかも一般の人たちはまだ石器時代である。だから天皇家は、近畿ですでに石器時代から崇められていた存在であることがわかる。だから邪馬台国は近畿である。面白い証明ですね。つまり言ってみれば、方部の下から出てきた墳墓を陪塚のような形でとらえる。その陪塚は黒曜石を含む石器時代的な性格を示している。だからここに葬られている人々は、石器時代から天皇家に服属の歴史があった。だから天皇家は近畿でこれだけ古いのである。だから邪馬台国は近畿である。
 しかしこの考え方は大正十年の考え方である。現代ではそんな考え方をすることは全く不可能である。なぜかというと陪塚(ばいちょう)というものは主たる古墳の横にある。どれくらい離れているのが陪塚であるのかは議論があるが、陪塚(ばいちょう)は横にある。真下にある陪塚(ばいちょう)はない。これは明らかに下から出てきたものは、縄文までは行かなくとも、明らかに弥生時代前期の土器ならば前期の墓である。その弥生時代前期の墓の上に、バーンと古墳時代に主墳従台墓を造ったことを示している。これは何か。高橋健自や津田左右吉の理解とは逆になる。近畿天皇家が近畿での自然発生なら、このような墓のあり方はあり得ない。そこは除けて横に造る。それをバーンと前の時代の墓を隠してしまった。もし弥生前期ならその墓を、一般民衆から隠してしまった。そうすれば、もちろん祭祀も出来ない。新しい自分たちの権力の時代であることを民衆に知らせる。二つの意味を兼ねている。一石二鳥。これは明らかに「前方後円墳」、わたしのいう主墳従台墓を造った人たちは、よそから来た人たちであることを示している。それを『古事記』・『日本書紀』は、あれだけ一生懸命言っている。我々の先祖は九州から来た、九州から来た。そう言っているのに、それが嘘とはおかしい。事実として、よそから来たものだから前からあったものを、バーンと覆った。
 奈良県には広大な弥生の遺跡が広がっている。すごい面積だと言われている。ところが、その弥生遺跡の中心に古墳が造られている。ですからあのような古墳の下に神聖な墓がある可能性は十分ある。あの古墳の下は何もないところに神聖な古墳を造りました。そういうことは普通はないだろう。ですが事実は、今わかりません。なぜなら普通古墳の発掘と言っても、古墳の石室だけの発掘で終わっている。さらに石室の下を掘って欲しいが、考古学の習慣としてはそこで止める。しかしほんとうに歴史の断層を見るには、石室の下を掘って欲しい。その点これは偶然わかる例です。
 そのような例はいくらでもある。たとえば、わたしの住んでいる京都府向日市、長岡京市。そこで発掘された現地報告会にときどき参加し拝聴させていただいています。様子を聞いてみますと、弥生時代の方型周溝墓の上に古墳時代の住居が建てられている。そういう例はいくらでもある。それはどうしてですかと若い学芸員にお聞きしますと、墓をいつまでも大事にする時代ではなかったみたいです。そういう返事がありました。わたしは現場で若い人をいじめる趣味はないので、それ以上突っ込んで聞きませんでしたが、そんなことはないと思う。今の人は墓を大事にしなくなっているが、昔の人は墓をもっと大事にしたと思うし、ふだんの生活以上に大事にしたと考えて間違いはないと思う。それを現実に、弥生時代の墓の上に古墳時代の住居を建てているのは、やはり弥生時代の人々と古墳時代の人々とは断層がある。弥生時代にも墓を造ればそれで良いというものではない。やはり、後もそれを祀る。その祀っていた墓を、新しい勢力が入ってきて押しつぶし古墳の上に住居を建てた。墓はその下にある。それまでは祀られていた。そこに歴史の興味深い断層がある。それを現地の発掘調査員は他にもある。ここにもある、あそこにもある。あんまりありすぎるので、そういうことでショックを覚えなくなっている。これもひじょうに面白いところです。
 最後にこの問題で、もう一つ触れておかなければならないことがあります。それはNT型となづけましたが非衝突型。前代の墳墓および神聖な場所を破壊せず完全保存させて新しい古墳を作っている。
 これらしく見えるものが御所野(ごしょの)遺跡。岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にあります。
 それを見て非常にショックを受けました。『真実の東北王朝』(駿々堂絶版)の最後に、この問題を扱っております。とうぜん古墳時代の古墳なのですが、その古墳を造るときに縄文時代のストーンサークルが見つかりぶつかった。それで古墳を造った人たちがどうしたかと言いますと、そのダブっているところは古墳を削っている。古墳の円形の一部を削って築造している。こういうおもしろい古墳がある。なぜこのような変わった形の古墳になったかというと、縄文時代の祭りの場を冒す形になるから、そこを避けて変形古墳を作った。私はびっくりしました。今までそんな古墳は見たことがなかった。
 この古墳時代の人たちは、明らかにこのストーンサークルが前の時代の神聖な祭りの場であることを知っていた。知っていたら離せばよいのに、ここが昔からの神聖な場所であることを知っていたから、ここに墓を造ることに意味があったのでしょう。この神聖な場所に墓を造ることにより、民衆の支持を期待しているのだろうと思います。加えてここに古墳を造ることにたいして、以前の神聖な場所を潰すことはしない。だから、さらに民衆の評価が上がることを期待して凹まして古墳を造っている。それで古墳を作るさい、わざわざ一部を削ってストーンサークルの神聖な領域を侵さない形で変形古墳を作った。このようなおもしろい古墳もある。これは非衝突型。
 このように、いろいろな型の古墳をあげてみました。分ければもっとあるかも知れませんが、TR型及びNT型です。
 以上いろいろ文句を言わせていただきましたが、この藤田さんの本そのものは大変ありがたい本で、いろいろな説がきちんとまとめてあります。ぜひ机の側に一冊は揃えて置きたい本です。勉強されたら何かの役にたつ本です。またご自身の考えである壷形古墳という意見も強力に出されています。それがこの本に対する結論です。
 それから二番目は銅鏡の問題、景初三年鏡、繰り返し見て良かった。朝から晩まで繰り返し見ましたが、従来考えられていたこととはぜんぜん違ってきた。これも口で言うより写真が早いのですが、じつは今文化庁に写真を撮るよう願い書を出して申請しています。それが許可され写真が撮れた段階で、わたしが理解した全てをお話しさせていただきます。またホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡については、これも面白いですね。景初三年鏡もホケノ山古墳の画文帯神獣鏡も、画像と銘文が対応している。
(これらは古田武彦講演会 二〇〇〇年七月九日(日)「三角縁神獣鏡の盲点」を参照)
 三番目に古墳の発掘儀礼の問題。これは茨城県の那須国造碑の近くにある古墳の問題です。那須国造碑は有名ですが、その近くに上侍塚・下侍塚古墳がある。江戸時代に水戸光圀が那須国造碑と関係するものがありはしないかと考えて発掘した。しかし何も出なかった。何者かを示すものはなかった。それは残念ですがそのとき水戸光圀は、その発掘の前に「墓前祭」そして発掘した後に埋め戻したあと「墓後祭」を行っている。そこで儀式をおこなっている。その発掘した祈念の文章が残っているが非常に感動する文章です。この行為に対して、わたしはひじょうに感動している。教育委員会から送っていただいたものをあげておきます。
 ところが水戸光圀は儀式を行ったのに、明治以後はほとんどされていない。発掘の前に儀式をおこなっていますか。終わって儀式をおこなっていますか。どうもわたしは儀式はおこなっているように見えない。酷(ひど)いのは、掘ったら放ったらかし。掘ったら中のものは持ち出しますが、そうしますと中身は減る。減っても、そのあと放ったらかしの古墳は日本中たくさんある。酷(ひど)いのは、いっぱい泥水が溜まっている。あまり酷いと思って教育委員会に電話しました。そうしますと、あれがいいのです。乾けば痛みやすいので、いつも泥水があるほうがよい。そういう返事です。これは酷い話です。だいたい感覚的に人間のお墓が泥水でごっそり埋もれているというのは、死者に対する礼儀ではないと思う。やはり明治以後の人間は堕落している。死者に対する礼儀を失っている。水戸光圀にはずかしい。だから難しいことを言う必要はないので、サンプルを書いてみました。このように墓を掘らさせていただきます。やすらぎのお邪魔をしますが、よろしくお願いいたします。終わったら、このように発掘して終わりました。元の通りに戻させていただきましたので安らかにお眠りください。この元の通りに、ということが大事だ。最低限、元に戻す義務がある。あのように散乱させてほおっておく考古学者もひどいが、一般の人もひどい。同じく墓前祭・墓後祭をピラミッドの発掘でも、日本人がおこなって欲しい。別に日本語は分からなくとも、死者を大事にする精神は的確に伝わると思う。死者にも現地の人々にも。日本は神の国だ。そんなことを言うよりも実地で行うことが大事だ。死者を大事にする精神がエジプト人にも、また来ているフランス人・イギリス人にも伝わると思う。どこであろうとも何人であろうとも、死者に対する礼儀なしで発掘が可能であるという考えは、死者に対する現代人の驕り・堕落である。生意気ですが、そのように考えており皆さんのご意見をお願いします。
 最後にこの資料館にお願いがあります。この泉北考古資料館に、天皇陵に対する総合資料館を目指していただきたい。天皇陵の資料なら、泉北考古資料館に行けばあるよ。十年目にはかなり集まる。百年目にはほとんど集まる。千五百年目は世界中の資料が集まる。インターネットで検索すれば天皇陵の資料は泉北考古資料館に集まっている。そういう資料館を目指していただきたい。わたしも第一号として、国会の参議院での宮内庁長官と天皇陵に関するのやりとりの資料を取り寄せますので置いておきます。
 また古墳に対し大王陵と名付けたら良いという意見があり、藤田さんも森浩一さんのこの意見に賛成しておられます。ですが、わたしはこれに疑問があります。なぜなら神武(神倭磐余彦)天皇は大王ですか。私は神武天皇は大王でないと思う。まだ大王には至っていない分派です。どこから大王という問題がある。それから神武天皇陵を大王陵と名付けたら、岡山の造山・作山古墳、あれも大王陵と言わなければおかしい。そうしますと、造山・作山が大王陵であるなら、その前後は大王ではないのか。また先ほどの女狭穂(めさほ)塚・男狭穂(おさほ)塚は大王陵ではないのか。そのように一定しないという問題がある。大王陵という言葉を使うべきではないと言っているわけでない。やはり使う場合は定義をしっかりして使わなければならない。現在では「天皇陵」という言葉を使っていますので、日本で一つぐらい天皇陵総合資料館があるのが当然ではないか。発掘なしでも古墳に関する資料は宮内庁にたくさんある。宮内庁に行くのはたいへんですから、泉北考古資料館に来ればわかる。インターネットで連絡すれば資料が手に入る。そういう天皇陵総合資料館が日本に一つぐらい、ないのは恥ずかしい。
 以上、どうもありがとうございました。
      (終わり)

古田武彦講演 二〇〇〇年 五月二十八日(土)午後二時より四時
於:大阪府堺市 泉北考古資料館


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