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連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡

第五回

古田武彦

  一
 最終回に近くなりました。今回はどうしても忘れられぬ、松本さんにまつわる思い出を記します。
 おそらく、深くご記憶のことと思います。執筆に、司会に、対談にと、八面六臂の活躍をされていた頃、「邪馬台国シンポジウム」の司会をされましたね。その第一回と第二回が、朝日新聞社主催・全日空後援で、博多で行われました。
 各出席者(講師)の講述のあと、質問の時間となって、聴講者の中から手があがり、

 「今回は、なぜ、古田武彦さんは講師として呼ばれなかったのですか。」

と。一見、唐突にも聞こえるかもしれませんが、考えてもみれば当然のことです。なぜなら、当の主催者、朝日新聞社からわたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』が出版され、毎年というより毎月版を重ねていたのは、数年前。当時もなお版が重ねられていました(その後、角川文庫、朝日文庫としても、続刊)。
 しかも、その出発は、昭和四十四年(一九六九)の「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ーー 九)にあり、その学界内の余波は京大の『史林』(昭和四十七〜八年・一九七二〜三(1) )にも再批判として掲載されました。
 しかも、わたしの立場は「博多湾岸とその周辺」を「邪馬壹国」としています。この問題を中心テーマとするシンポジウムが行われるのに、なぜ当の古田を呼び、他の学者との応答に加えないのか。いうなれば、当然といえば当然すぎる質問だったわけです。

  二
 これに対して、司会の松本さんは悪びれずに答えられました。
 「よく分りました。この次には、必ず古田さんをお呼びいたします。しかし、今回はおいでにはなっていませんので、代って井上光貞さんに古田説の概要を御説明いただくこととしたいと思います。井上さん、お願いします。」
 そこで、井上さんがその「代役」をつとめられたのです。しかしそれは、まことに“矯小化された古田説”ともいうべきもので、本人たるわたしから見れば、“聞くに耐えない”レベルのものでした。それも、もっともです。わずか数分か、十数分の間に「古田説の要約」を述べさせられたのですから。とても十分にできるはずも、ありませんでした。
 ともかく、このようにして「空前の盛況」を呈したこのシンポジウムは“成功裡”に終結し、その「成果」を背景に、第二回も同じ場所、博多で行われました。司会者も、もちろん同じ松本さんでした(第一回は一九七七年一月十五・十六日。第二回は、一九七八年の同じく一月十五・十六日)。

  三
 この両度(第一回と第二回)のシンポジウムに対し、わたしはいわば「不可解」な実経験をもっていたのです。おそらく、松本さんは、今は十二分に御承知と思いますが。
 まず、第一回。いち早く、朝日新聞社(九州総局、北九州市)の企画担当者から、電話がかかってきました。
 「このシンポジウムに御出席いただけませんか。」
 「はい、まちがいなく、まいります。」
 この応答があったあと、詳細な御連絡を待っていたのですが、その後、一切の連絡なく、当の第一回が開始されたのです。
 何とも、奇妙な思いの中で過ごすうち、右にあげたような、会場内の質問者と松本さんとの応答を知りました。もちろん、出席した、当の方々から直後にお聞きしたのです。
 やがて、第二回のとき。ふたたび、朝日新聞社(九州総局、北九州市)の企画担当者から電話がかかってきました。前と同じ方です。
 「今回のシンポジウムに御出席願えませんか。」
 「わかりました。喜んで。」
 そのとき、前回の「非礼」を問い質そうという気持はもちろんありましたけれど、先方の気持、おそらく止むをえなかった事情を汲み、クレームの一切を飲み込んで、
 「喜んで。」
の一言を加えたのです。
 けれども、今回もまた、前回と同じ、その後の「連絡」は一切ナシ。第二回が“粛々と”実行されたのです。
 おそらく、主催者の朝日新聞社と後援者の全日空は、これらの事情を知悉した上でのことだったのでしょう。
 そしておそらく、松本さんご自身もまた。

  四
 事実は小説よりも奇なり、とのたとえ通り、今回の二つの「不可解」のナゾは、サラリと解けたのです。松本さんの苦心されてきた、推理小説のナゾなどとの比ではありません。朝日新聞社の旧知の方、Tさんがそれをもたらしてくださったのです。
 Tさんは、わたしに対する「知己」というべき方でした。『朝日ジャーナル』の副編集長時代、わたしによる「通史」の掲載を企画され、周到なプランを提示してくださった方でした。このときの「通史」問題の変遷は改めて述べることとします。
 今は、Tさんが九州総局に赴任され、懸案だった「鉛活字から電子化へ」の改変をなしとげられ、再び東京の本社へ帰任されるその途次、京都のわたしの家へ「用」をもって寄られたのです。
 その「用」とは、九州総局の企画担当者からの御依頼でした。
 その方は、あの二回の「邪馬台国シンポジウム」の企画担当者でしたが、表面上の「企画成功」にも似ず、心裡にくいこむ痛恨の念をお持ちでした。
 その経緯は次のようでした。
 第一回のシンポジウムが企画され、講師のメンバーも決まり、「発表直前」のとき、講師の中の若手の一人がやってきて言ったそうです。
 「古田さんが出るなら、わたしは出ません。」
と。その企画担当者は、
 「何て、ケチなことを言う男だ。そんな男に出てもらわなくてもいい。」
という毅然たる態度で対応したそうですが、実はその「一人」は“言わされ役”で、そのあと、“言わした方”の学者から、
 「わたしたちは、みんな出ない。」
という“圧力”がかけられた、というのです。
 その「絶妙な(クレームの)タイミング」から、とても“講師の再編成は不可能”。ために、泣く泣く、「古田抜き」の実施に応じたのだそうです。
 しかしわたしに対する「申しわけ」の言葉がなく、“だまって”当日の開催となった。 ーーそれが真相だったのです。

  五
 ところが、第一回の質問の時間、奇しくも、聴講者からの質問があり、松本清張さんがその公開の場で、満座の皆さんに対して、

 「次回は、必ず古田さんをお呼びします。」

と約束された。
 そこで安心して、再び、わたしに「講師」を依頼された、というわけです。古田さんは「ゴチャゴチャ」言わず、快く引き受けてくれた、と安心したそうです。
 しかし、それは「甘かった」のです。第二回も、同じような「絶妙のタイミング」でクレームの「申し入れ」があった、というのです。
 そのため、再びそれに屈し、わたしへの「申しわけ」が立たず、「非礼」のまま、第二回も開催されてしまった、というのです。
 以来、その方は、飲むたびに、その「思い出」をグチる。それが時には“習癖”のようになっていた。
 そう言われるのです。そして今回、Tさんが九州総局をはなれ、東京へ帰任するとき、
 「自分に代って、古田さんにあやまってほしい。」と、切に頼まれた、というのです。
 「いや、それは自分であやまったらいい。古田さんは、そんなことでゴタゴタ言う人ではないよ。」
と言われたそうですが、
 「イヤ、自分にはどうしても出来ない。頼む。」
と切願されて、やむをえず、やってきた、と率直に語られたのです。
 二つの「不可解」のナゾの真相は、ここに全くアッケナイ終末を見せたのです。

  六
 第一回の「邪馬台国シンポジウム」は、やがて平凡社から刊行されました。一九八〇年三月二十五日(初版第一刷)です。
 そこでは、右のような経緯、聴講者からの質問などは「カット」され、代って井上光貞氏の「古田批判」が掲載されています。
 それは次のようです。

松本 あと十二時までのお休みまで十分残っております。ここで、文字はいくらでも書き間違えたりする可能性があるという発言に関連いたしますが、古田武彦さんが、邪馬壹国はあったけれども邪馬臺国はなかったといっておられる。それは原文には『邪馬壹』とあって、壱(壹)のほうが本当なんだ、自分は紹興本、紹煕本を検索してみたけれども、壱と台の混用はまったくなされていない、邪馬壱国を邪馬台国の間違いだといまの学界では簡単にいってきたけれども、そのへんの史料の検索がなされてなかった、のんびりと邪馬壹国は邪馬台国の誤りであるといわれてきたけれども、邪馬壱国が本当であるということをいわれて話題になっていることはご承知の通りであります。では、邪馬壱国が本当なのか、邪馬台国が本当なのか、古田説をめぐって井上さんにあと十分少々の間でご説明願いたいと思います。」

 松本さんのうながしによって、井上さんの「批判」がはじめられています。

 「井上 ぼくは結論的には、古田さんの思い過ごしであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りによめというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ現物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」(一七五〜一七六頁)
 
 正直に言うと、わたしはこれを読んだ途端、ガッカリしました。井上さんには失礼ながら、偽らざる感想です。
 いかにも、「古田は、原文・原文と言いつのっているが、それは“素人”だ。厳格な学問的処理の方法を知らない。」といった口振りです。知らない人にはあるいは「なるほど」と思わせるかもしれません。
 けれども、ことは逆です。わたしは歴年、親鸞研究の研究者でした。『史学雑誌』にも、何回か論文が掲載されています。たとえば「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕 ーー『流罪目安』の信憑性について」(『史学雑誌』七八 ーー 八、昭和四十年)、「蓮如筆跡の年代別研究 ーー各種真蹟写本を中心として」(『真宗研究』11、昭和四十一年)等の各種では、一貫して、

 自筆原本 ーー (直弟の)再写本 ーー 後代写本

といった系列が調査の対象となっています。眼前の「現存写本」が、それらのいずれの段階に相当するか、また「現存写本」から自筆原本に至るための方法論、その緻密な検証です。その累積された研究に立つとき、従来における古代史研究の「古写本研究」の無造作なあり方に「?」を感じた。これがわたしの「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ーー 九、昭和四十四年)という論文執筆の出発点だったのです。
 井上さんの、「たまたまあった版本」を「原文」と勘違いをしている、といった言辞には、あきれました。失礼ながら「幼稚」という他ありません。もし井上さんが、一連のわたしの親鸞の写本研究を見ておられたら、およそ“出しうる”言葉ではないのです。
 井上さんは「これだけいえばもう私はほとんど何もいう必要はない」と言いながら、そのあとさらに「長広舌」を述べられます。そして「逸文」の存在や後代(十世紀の末)の太平御覧についてふれられるのですが、それらはわたしのそれこそ「百も承知」の写本類です。それらへの「目配り」もなしに、三国志の倭人伝研究について述べる。それはわたしにとっては“途方もない”ことです。
 もしわたしが、このシンポジウムに「出席」できていれば、当然、この当然すぎる反論を申させていただいたはずです。
 おそらく井上さんは、『史学雑誌』に載った、右の長篇論文など、御存知だったのでしょう。さらに、「歎異抄蓮如本の原本状況 ーー『流罪目安』切断をめくって」(『史学雑誌』七五 ーー 三、昭和四十一年)において、歎異抄蓮如本の「自筆本」に直面して検証し、前人未到の「蓮如切断」という帰結に至ったこと、もしかすると、百も御承知だったのかもしれません。井上さんにとって「浄土教研究」は専門分野の一つですし、『史学雑誌』はそれこそ“お膝元”の学術雑誌ですから。この論文は、現存の「蓮如本」から、原初の「蓮如本」へとさかのぼるための、執拗な探究だったのです。
 こう考えてくると、井上さんたちが、わたしの「シンポジウム出席」を“アウトサイド(除外)”させようとした、その真相が垣間見えてくるようです。
 やはり、気の毒だったのは、わざわざ全日空に乗ってまで、博多の「邪馬台国シンポジウム」に出席された方々だったのではないでしょうか。

  七
 すでに過ぎ去ったことを、語り過ぎるのはやめましょう。
 けれども、この二回のシンポジウム経緯を思い出しているうちに、はじめて気づいたことがあります。それは次の件です。
 松本さんの晩年ですが、朝日新聞社の、もう一人の方(Nさん)が、わたしの家へ来られました。
 その要件は次のようです。
 「九州で原田大六さんのお宅へ寄っていたのですが、その原田さんから依頼をうけたのです。原田さんが言われるには、自分には是非話し合いたい人間が二人いる。それは古田武彦と松本清張だ。そこで三人で徹底的に討論したい。」
 そこから先が、いかにも原田大六風でした。
 「番茶とにぎり飯をそばに置いて、二晩でも三晩でも、徹夜してでも語り合いたい。」
と。その旨、二人に告げてくれないか。そういう依頼だったのです。
 わたしは即座に賛成しました。そういう“やりかた”は大好きだったからです。
 けれども、そのあとの音沙汰はありませんでした。その方は東京へ帰られたのですから(本社で著名な方でした)、すぐ松本さんにお話になったはずですが、御返事がありませんでした。
 そのあと、東京で会合(出版社関係だったと思います)に行ったとき、その方にお会いしましたので、
 「先日は、どうも。ご苦労さまでした。」
と御挨拶をしたのですが、例の件(三人の討論)については、何も言われません。
 「松本さんがお忙しいせいだろうな。」と“察し”はしたものの、何らかの「交渉経過」の話があってもいいのですが、それもないじまいでした。
 ところが、今回これを書いているうちに、「思い当たる」ことがあったのです。それは、例の二回にわたる「邪馬台国シンポジウム」の件です。関係者の、わたしに対する「非礼」は、当然司会者であった松本さんの耳にも入っていたことと思います。「アンフェア」なことの“嫌い”な松本さんの脳裏に深い矢として突き刺さっていたのではないでしょうか。
 しかも、第一回のシンポジウムでは、司会者として公然と、満座の聴講者の面前で、

 「次回は、必ず古田さんをお呼びします。」

と公約されながら、その第二回にも、見事に「松本公約」は“裏切られ”てしまったのですから。心の底の「澱おり」として消えていなかった。そのように想像しても、大きくはずれることはない。わたしはそう思います。
 とすると、例の「三人討論」に応ぜず、しかも「ハッキリ」した返答もされなかったのは、この「澱おり」があったためではないか。それに気付いたのです。
 二日も三日も徹夜討論で、「邪馬台国」を論すれば、当然、あの二回の「アンフェア事件」が話題にのぼること、必然。そうお考えになったでしょうから(わたしは今まで、そんなこと思ってもいませんでした)。
 そして話題になったとき、真相を語れば、名士(学者)に傷がつく。すでに「真率な推理作家」としてだけではなく、「司会役の大家」になっておられた松本さんにとって、それは“避けねばならぬ”機密だったかもしれません。
 もし、そうであれば、そのような心理的負担は、「いのちを縮めた」とまで言わなくても、心の奥底の「黒い影」となっていたのかもしれません。お気の毒です。
 もうわたしも、八十一歳。やがておそばに参りますから、そのときこそ、ことの真相をはばかりなくお語りください。楽しみにしています。

(以下次号)

注(1)「邪馬壹国の諸問題 ーー尾崎・牧氏に答う」(上)・(下)、55巻6号(昭和47年11月号)56巻1号(昭和48年1月号)。


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