古賀達也の洛中洛外日記
第328話 2011/07/30

「ウィキペディア」の史料批判(2)

 第326話では犯罪捜査を例にして「史料批判」について説明しましたが、ウィキペディアの「九州王朝説」の説明には次のようなことが記されています。
 「古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。日本古代史学界の研究成果に合わない。」
 わたしはこの一文を読んで思わず吹き出してしまいました。既に説明しましたように、古田史学・多元史観は、大和朝廷が自らの為に自らが造った『古事記』『日本書紀』を史料批判抜きで採用して造られた大和朝廷一元史観に対して、史料批判ができていないと批判しているのであり、従ってそれら日本古代史学界の結論(研究成果)とと合わないのは当たり前のことなのです。
 ウィキペディアの解説は巧みに「中立」を装いながら、「自分達の説と異なるから間違っている」と言っているのと同じで、こうした反論や批判は非学問的です。もし古田説が通説の研究成果と異なるというのであれば、どちらが正しい史料批判を行っているのかを解説するべきでしょう。あるいは史料批判の方法論について両論併記するべきです。
 恐らく、ウィキペディアの「九州王朝説」の編集者達には学問の方法や史料批判という言葉の意味が理解できていないようです。ウィキペディア編集の匿名性・密室性・多数決性(賛成者と反対者の編集合戦)がこのような無責任編集を結果として許しているのですが、これは利用する側の「見る目」の問題でもある と思います。学問は多数決ではないのですから。
 たとえば、コペルニクスやガリレオの時代にウィキペディアのような「事典」があったとしたら、次のような表現になるのではないでしょうか。
 「コペルニクスやガリレオの地動説は、天体観測という基礎手続きを尊重していない。ローマ法王庁公認の天文学界の研究成果である天動説と合わない。」
 これと同じくらい、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説はいかがわしいものなのです。
 他にもいかがわしい表現があります。「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」「この直接的記録がないことが、九州王朝否定論の根拠の一つ」とい う部分です。これを読むと、いかにも九州王朝の存在を示す証拠は無いかのように受け取られるのですが、これも事実無根の虚偽情報です。
 わたしはこれまでに九州年号の存在を示す金石文や木簡を提示し続けてきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡もその一つです。『日本書紀』 孝徳紀の白雉三年壬子ではなく、『二中歴』などの多くの九州年号史料に記された白雉元年壬子の方が真実であったことを、この「元壬子年」木簡は示してお り、いわば九州年号木簡そのものなのです。しかし、九州王朝説否定派はこの木簡について一切口を閉ざしたままで、ダンマリを決め込んでいます。もちろん、 ウィキペデイアの「九州王朝説」の解説でも取り上げられていません。たいへん卑怯な編集・情報操作の一例と言えるでしょう。
 もっとも、ウィキペディアの史料性格上、将来的には違った表記・評価に変化するかもしれませんが、恐らくそれは古田史学が世に受け入れられた時のことと思います。その日が訪れるまで、わたしたち古田学派は一切ぶれることなく、「日本古代史」村の一元史観と戦い続けなければなりません。こうした名誉ある運命と歴史的使命を持っているのです。(つづく)

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