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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

磯城の地名

今井久順

 稲荷山鉄剣の銘文に書かれています問題の「斯鬼宮」のシキと云う地名ですが、この地名は、九州では、福岡県、熊本県、近畿では大阪府、奈良県、関東では埼玉県、東北では宮城県に集中して見られます。
 九州では、福岡県の大野城、水城など、キは、城の意味に使われていますが、シキと云った場合は、城とは関係が無いようです。
 例えば、熊本県富岡町の志岐川、志岐村など。砂州で、城とは全然縁が無さそうです。近畿のシキは、志紀、磯城と書かれ、信貴山のシギは、故鏡味先生は、シギは「茂る」だ、と書かれていますが、古代に於て、信貴山だけが、特に木が茂っていたのでしょうか。これは疑問です。これは、やはりシキで、濁りのないのが古形です。
 関東のシキも城とは無関係のようです。東北のシキは、不勉強でわかりませんが、同じでは無いのでしょうか。
 シキの地名の意味は、故鏡味先生も云っておられます様に「一定の区画地、川底、砂礫地」と云って、おられますのは正しいと思います。
 即ち、シキとは今日、吾々が使っています敷地、屋敷、河川敷のシキの事なのです。皆様「なーんだ」と云ってはいけません。シキの語源が重大なのです。なぞときを致しますと、シキのシは、志那都比古神(シナツヒコ)(記)[糸乃]長津彦神(紀)と云われる風神のシなのです。ヒガシ、ニシ、アラシ、コガラン、滋賀県のシカのシ、金印で有名な鹿島、長野県の古名、シナノノ国、等のシは風神を意昧しているのです。
 シキのキは、古代では、単なる敷地では無く、風神の住むと云う山、場所を、又、風神を祀る場所を云うのです。
 弥生人は、風神を最高神と考えたのです。
 中国の長沙で発見された馬王堆、漢墓の副葬品に、幡(ばん)があります。この幡の最上中央に風神のシンボル、竜が絵かれ、右に鴉の入った太陽が絵かれ、左に蛙の入った月が絵かれています。風神は、太陽神、月神を司さどる神であったのです。
 元旦には、吾々は円松を立て、凧を揚げ、羽根をつきます。松には木綿(ユフ)を付けて、ヒラヒラすることに風神の来臨を知り、凧(古代には、髭篭 ひげこ を高い木から吊した)が、或いは高く、或いは低く跳ることに豊穣を約束され、羽根をつくことによって、颱風が早く来るとか、晩そく来るとか、風神のシワザを伺ったのです。
 神に仕かえる人を神巫(かんなぎ)と云われます。神は風で、風を凪ぐ、人を神巫と云うのです。神巫は風を凪(な)ぐのに呪具を用いました。呪具は麗わしの女性の姿を写す鏡です。鏡は古代に於て、中国では確かに姿見です。馬王堆、漢墓からは一面、それも十糎余のものです。日本の古墳からの様に多いのは三十数面も出土いたします。と云うことは、他にも用途があったからです。
 『記』「ここに日本武尊、上総より転りて、陸奥の国に入りたまう。時に大いなる鏡を王船に懸けて、海路より葦の浦に廻り・・・」と書かれています。橘姫の入水したあと、風神を恐れて、鏡を懸けたのでしょうか。
 時代は降りますが『土佐日記』に、泉州、石津を出航してから嵐になり幣を捧げ、たけれとも嵐はやまず、鏡を海に投げ、たら海は鏡の如く静かになった、と書かれています。ヒミコの貰った百面の鏡も姿を映すだけのものでは無さそうです。
 話が横道に入りましたので、もどします。神巫は風を凪(な)ぐことが仕事です。では一体、祭主は誰なのでしょう。古代、中国の殷の国王は、元日に、四方の風に祈りを捧げます(甲骨文第一期)で、明らかに武丁王は風神に祈りを捧げて豊穣を祈っています。吾国でも始めは村々の長が風神を祭ったものでしょうが、村々が統合されて国になり、国々に大王なる者が現れて来ますと、大王が風神の祭主になります。そして風神の住むと云う雅かな山の下に大方はシキの地を定めます。大和であれば、三輪山の下、磯城郡であり、河内であれば、信貴山の西方の地、志紀町、現在の八尾市です。関東であれば男体山が有名です。風神を祭ったのち行われた歌垣の風習が後々の世まで残ったからですが、風神を祭った大王は国々にいたのです。


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