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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

ある中学校の職員室から

丸山晋司

 稲荷山古墳から出土された鉄剣に金文字が発見されたと新聞発表(夕刊)のあった次の日の朝は大変だった。その夕方から、明日の朝が楽しみだということだったらしいが、(それというのも、新聞記事が余りにも倭王武を雄略天皇と固定視していたので、倭の五王を九州王朝の王とする説を、かねてから紹介していたぼくが、この記事によって大打撃を受けるだろうと・・・)しかもこの朝、少し遅れていったので「丸山はショックで寝込んだの違うか」と冗談の出るほど、ぽくの出勤は一部教員の楽しみとするところであったようである。
 しかし学説が拡がるというのはこんな時だろうか、と思えるほど「鉄剣に関する誤まった報道」のおかげでじっくりと九州王朝説を紹介することが出来たし、ファイトが沸いて来た。あの大本営発表的な新聞報道に、『?』の気持を持つ人が、古田説を知るチャンスが画期的に増えて来ている。ぽくにはそう思える。
 A『冷静に科学的に物事をえたいと思う人にとって、古田説は何の抵抗もなく受入れられる、』自分自身、古田説にのめりこみすぎていて、自分が本当に冷静な判断をしているのか判らなくなる時があるのだけれど、他のどの人の文章が次々と起ってくる『?』の気持を納得いくまで解決してくれたろうか・・・。そのことだけでも、Aのように言っても言いすぎではないと思えるのだ。
 職員室は、八世紀までの王権の論議で一週間以上もにぎやかだった。教科書史観(体系としては矛盾だらけだが・・・)を打破るのはなかなかむずかしい。特に社会科の教師こそ身につけた知識が多いだけに難敵となっている。しかも自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試にさせない運動」は、我々古田学派にこそ必要ではないかと思ったりもする。そうでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求家にしか望めない。教師はそうであってはならないけれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。
 職員室談義で気のついたこと。「大和朝廷」への信仰はかなり根強い。古田説だけでなく、色んな王朝交代説とか有力と思える説もどこ吹く風、ひたすら教科書が「定説」なのだ。ぼくなどもはや「定説」はないと思うのだが、「定説だから教科書にのせられているのだろう」という甘い信頼が物すごく幅をきかせている。そこに安住している限り探求などしなくても「教え」ていけるわけなのだが(そしてその方が受験体制下の学校・父母・生徒にとって安全なのだけれど)ひきかえにぽくらは、真理を見失っているとさえ思われる。一体、どのえらい学者が、「日出る処の天子」を聖徳太子であると証明できるのか。それなのに教科書には平気でそう書かれている。『教科書こそ、特に古代史の部分では異説・邪説の集大成である』と主張して来たけれど、それを世間の通念とするためには、やはり古代史の勉強以外に何かをせねばならぬようである。

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著者より
1979年時点の考えと、2006年時点の考えは同一ではありません。考えは変わっています。

以上


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