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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

古田史学へのアプローチ

義本満

 あれは四、五年前からでしょうか。邪馬台国ブームがマスコミをさわがせ始めたのは。
 当時私は、印刷業の経営に多忙な毎日を送る一方、体のアチコチが老化現象でガタガタになり“こんな調子では長生き出来ないワイ”というところから、良き後継者があれば後をまかせて身を引く決心をした時分でした。(私には残念ながら子がありません)そこで一番心配しましたのは、今後の生きがいは一体何んだろうか、ということだったのです。
 こんな時に歴史好きの甥が一冊の本を私に“読んでミロ”といって渡してくれました。それが宮崎康平氏の“まぼろしの邪思台国”だったのです。昔から乱読癖のあった私は、その本を読み終えると早速アレもコレもと古代史書を買い込んで片っぱしから読みあさるうちに、古出武彦氏の、『「邪馬台国」はなかった』にブツかった訳です。私はこの本と、それに続く古田氏の一連の著作によって完全に古代史のトリコになり、同時に今後の私の生きがいの一端を見出した様な喜びを感じました。恐らく古田氏の本を読まなかったら単に通り一辺の古代史書を読んだというだけの事で終っただろうと思います。
 氏の著作はなぜこうも私を魅了するのか?。それは「コロンブスの卵」とも言われる着想の斬新さは勿論ですが、しかしそれ生み出す為の精緻極わまる論証の確かさにあります。ピラミッドの頂点がその高さを永遠に保つ為には、その底辺が広く且つ強固で言ればならない様に、古田氏は一個一個の石を徹底的に吟味し、それを根気よく積み重ねることによって邪馬壹国の所在をつきとめ、九州王朝説を確立しました。
 宮本武蔵の画に“八方睨みの達磨”というのがあるのを存知ですか? その画の前に立つと確かにどこを睨んでいるか判らない気がします。ということは逆に言うと、八方に心を配っている訳です。武蔵が四方から敵に囲まれた時の心の配りがよく表れています。
 古田氏の論定は、正に宮本武蔵の画の様に徹底した論証によって突け入る隙がありません。
 仮説の上に仮説を積み重ね、十分証明されないまま結論が導き出されている論の多い古代史学界において、執念ともいうべき古田氏の論証論定はまことに見事です。
 第二の魅力は古田氏の誠実な飾らない人柄にあります。過日(五月十二日〜十六日)古田氏を講師として東京で計画された“北九州古代史の旅”に大阪から只一人無理にお願いして参加させて頂きました。旅行中はバスの中で一人で説明のしつづけで、さぞお疲れだろうと思いましたが、素人の我々愚問にもその都度丁寧に答えられ、中にはどうかと思われるような質問にも帰ってからの調査を約束されていました。帰りは大阪空港まで一行とは別便で古田氏と水いらずでご高説を拝聴出来た事は望外の幸せでした。
 旅行記は東京からご参加の諸君がいろいろ発表されるでしょうが、ただ一つ残念だった事は天候に恵まれず“沖の島”への渡海が実現出来なかった事でした。しかし私には数々の収獲があって、特にその中で印象に残るものを二、三挙げますと次の様な事です。

一、宮地嶽古墳より出土した骨壼について。
 火葬の始めは定説によれば道昭(七〇〇)持統帝(七〇二)と言われているが、宮地嶽古墳の年代からみて火葬の年代、ひいては仏教伝来の年代にも影響があるのではないか、との説。なお、その他出士した金銅製頭推大刀・金銅製壼鐙(何れも模造品)の大きさと立派さに一驚しました。

二、立岩遺跡出土の漢鏡について。
 鏡面の文字に欠字が多く舶載鏡であるとの定説が疑問であるとの説。
 なお、カメ棺の中に寝ている若い武人ーー 多分戦死者 ーーよく保存されて生前の凛々しい若武者振りが想像されます。

三、早水台遺跡で聞いた“野性号”失敗の原因について。
 大分県日出町では手遭ぎで旅順・大連まで出漁していた漁師が未だ二名程度生存しているとのこと。そして潮流の向きと風向きを無視すれば絶対成功出来ないということ。野性号失敗の真因はここにあると言われ、古代の倭人は自然に逆わないという知恵によって航行が行われていたらしいこと。

 その他、始めて見る装飾壁画、これの保存状態等書くべきことも多いのですが、今はこれを一先ずおき、誰でもが感じていると思われる古代史学界についての素朴な疑問と、もどかしさを訴えたいと思います。
 それは古代史学界には余りにも対話と議論が無さ過ぎるということです。
 近畿天皇家に先住し、七世紀前後まで続いたという九州圧朝説は今では古代史を語る場合避けて通れない処まで、既に来ていると思われます。これに対し真摯な議論が発表されないのは何故でしょうか?
 従来の定説論者としては、読者も納得する十分な論証のもとに、その当らざることを論ずるのが学者としての義務と責務ではないでしょうか?この沈黙は何を意味するのでしょうか?なぜ避けるのでしょうか?このもどかしさは私一人だけでしょうか?
 しかし、私は失望してはいません。水は必ず高い処から低い処へ落ちるものです。絶対にその逆ではありません。真実は一つです。十年後か?二十年後か?。古田史学が、堂々と定説となり、学校の教材にも採用される日の来る事を私は疑いません。ただ私の元気なうちにその時期の訪れることを願って止みません。
(印刷業五十九歳)


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