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稲荷山鉄剣銘文の新展開について―「関東磯城宮」拓出と全面調査― 解説として

『市民の古代』第11集 吉野ケ里遺跡の証言 1989年


『市民の古代・古田武彦とともに』 第二集 1984年 古田武彦を囲む会編
『古代の霧の中から』(徳間書店)第二章 卑弥呼の宮殿の所在
  古代史講演会記録

 古田武彦氏の著書や論文は数多いが、講演録は今まで少なかった。囲む会主催で講演会を開くといつも会場が満員で、かつ熱心にメモをされている状況ですが、遠方や病気等で出席されなかった方へ、更に解りやすく独特のリズムを味わっでもらおうと、今回講演録を紹介します。特に労苦を惜しまれなかった三木カヨ子さんに感謝します。なお文責は編集部にあります

卑弥呼の宮殿の所在と稲荷山鉄剣問題

古田武彦

倭人伝の事物は検討に値するか

 古田でございます。今日は連休を控えましたお忙しい時によくおいでいただきました。いつもわたしは話したい事が沢山あると早口になってしまうんですが、今日はとりわけ欲張りましてこの二時間ぐらいの時間に、前半後半で二つのテーマについてお話しするという事で非常に盛り沢山なわけであります。それだけに要点、ポイントをついてですね、はっきり申しあげる。そして枝葉といいますか、そういう問題はまたご質問の中でお答えするというふうな行き方をしてみたいと思います。
 さて今日の第一のテーマは、いわゆる卑弥呼の宮殿の所在という題でございます。で、これはちょっと一見非常にポピュラーな題目なんですけれども、実は内容的には非常に考古学上、或いは古代史上と言ってもいいかと思いますが、重要な編年の問題、つまり年代決定の問題を扱っているわけです。
 「歴史と人物」の一九八〇年六月号にもその問題の特集がありますけれども、これは今、考古学界でいわれているものが特集されているわけですが、ここではわたしが考古学界の編年に対して、果してこれでいいかという問題を提起したいと、こう思うわけです。
 これは実はこの前の会だったと思いますが、その時最後の御質問で出まして、「それは今度またお答えします。非常に面白い時間のかかる問題だから」と申し上げた、実はその御質問に対する解答という意味合いを持つものでございます。幸にこの問題は材料的にはもうこの大阪の囲む会の講演会ではズーと申し上げてまいりました。従ってその累積にたってお話しすればいいので、前半でこれをお話ししょうと思ったわけです。もっともそう言いましても、今日初めておいでの方もございますので、簡単にその論旨を箇条的に要約させていただくつもりでございます。
 といいますのは、わたしが『「邪馬台国」はなかった』という本でやりましたのは文献による分析、つまり史料批判と申しますか、そういう文字にかかれたもの、特に倭人伝が中心ですが、その分析であったわけです。
 それに対して今回の場合はそうではなくて、いわゆる物、つまり考古学的な出土物だけをといってもいいのですが、それを主に扱って分析するという方法であります。それが果して文献の分析と一致するか、しないかということを確認するという作業でございます。
 で、この問題を考えます前にと言いますか、先んじまして、この『『三国志』』の倭人伝に書かれている物、つまり考古学的に出土しうるような物です。事物ですね、それは果して真面目に検討するに値いするかという問題を、どうしても吟味しておかなくてはなりません。といいますのは、邪馬台国に関するいろんな本が相次いでおります。その中でかなりいわれていることが、「あんな倭人伝なんてものは、あてにならん。適当な操作というか、空想を交えて書いたものであるから、あんなものを真面目に扱うのが馬鹿だ」と、こういうような口調・論旨を漏らされる、あるいはその立場から色々倭入伝を解釈する人がいることは、皆さんご存知と思います。もしそういうものであれば、倭人伝に出てくる事物を真面目に検討する必要がない、検討してもナンセンスだということになってまいります。
 ところがズバり言いまして、わたしはそうでない。つまり倭人伝に出てくる事物は検討に値すると思うわけです。なぜといいますと、問題のポイントは魏の使い、これは帯方郡から直接きておりますから、郡使というべきだという人もおりますが、しかし中国の魏の天子の詔勅を持って来ておりますから、わたしは魏の使いと呼んで差し支えないと思うんですが、その魏の使いが倭国の都に到着しているという命題・結論といいますか、事実がキーポイントになると思うのです。
 この事は別にわたしの説ではありません。明白にそう書いてあるわけですね、倭人伝をご覧になれば。この魏の使いが倭王に会って拝仮して、そして詔書を渡したとこう書いてあるわけです。
 ここにかかれた倭王というのは当然、卑弥呼である。これも、そうでないという人も一部にはありますが、それは無理だと思います。なぜだと言いますと、そこに書かれてある詔書に「親魏倭王卑弥呼」とそう書いてありますから。魏の側で倭王と認識しているのは卑弥呼唯一人であること明らかであります。倭王に会って詔書を渡したということは、卑弥呼に会って詔書を渡したということに、もう問違いはないわけです。
  ところが、にもかかわらず実はそうじゃあないんだ、いわゆる魏の使いは倭国の都に入っていないんだというふうな説をなす人がかなりいるわけですね、江戸時代以来。これは何かというと、その理由ははっきりしておりまして要するに行程の記事が帯方郡治(ソウル付近だといわれますが)からやってきた道筋の書き方が、不弥国までは里数で書いてある。ところがそこから先と考えたんですが、そこから先は日数で書いてある ーー例の水行十日、陸行一月とかですねーー というわけです。つまり簡単にいうとこの前半は里程、後半は日程で書いてあると、こういうふうに江戸時代以来、はっきり言いますとわたしの『「邪馬台国」はなかった』が出るまでは、すべての論者がそう考えてきたわけです。
 そうしますと当然、なんでそんな変てこな書き方になっているんだろうかという問いが、必然的にといっていいでしょうか、生れてくるわけですね。その答は、結局実は里数で書いてある所までしか行かなかったんだ。そこから先、日数のところは倭人から聞いて書いたんだという、その解釈を生んできたわけです。これはそうはっきり書いている人もありますが、はっきり書いていない人でも、恐らく内心はそう思っている人は多いんじゃあないか、論者の中には。そう考えないと、どうも話が上手く合わない。
 そこでですね、今のように途中でストップした、倭国の都、つまり最終地点までは行ってない、という考え方が非常に多くなってきたわけです。書いている人も多いし、書かないでもそう思っている人を加えると非常に多いと思いますね。で、その場合どこでストップしたかというのが論理的にピシッといけば、不弥国でストップしたという事になるわけです。


魏の使いは卑弥呼に会っていた

 不弥国というのは殆んどの人が博多湾岸、今の博多というふうに考えているわけですが、そこでストップしたと、こうなるんですけれど、どうもそれにしては不弥国というのはあんまり特徴がない国である。だからもう一つ前の伊都国、これはいろんな、かなりいろんな事が書いてある。ご存知だと思いますが一大率とか何んとか書いてある。従ってその伊都国でストップしたんだろう。伊都国から不弥国までは近いから散歩でちょっと行ったぐらいだろうと、そんなことは書いてありませんけれど、恐らくそういう解釈なんでしょうね。伊都国ストップ説というのが、かなり多くの人に信じられているわけです。
 しかしわたしはこの考え方は非常に間違いであると。なぜかなれば、片方の卑弥呼に会って詔書を渡したという記事は解釈の如何(いかん)じゃなくて、誰れが読んでもそう書いてあるわけです。で、それに対してですね、片方の行程の理解の仕方は“解釈”なわけです。その証拠に、わたしはそれとは違う解釈をしたわけです。これはまあどっちの解釈がいいかは別にしましても、とにかく、解釈が少なくとも二通りあるということ。それに対して今の卑弥呼に会った、そして詔書を渡したというのは解釈じゃあなくて、ちゃんと書いてある。事実そのものなのです。
 そうしますとですね、わたしの考えでは、両方が矛盾する場合には事実そのものを基準にして、事実そのものに合わない解釈を退けるのが正当な方法だと考えたのです。それに対して解釈を生かして、そして事実の方をこれは嘘を書いたんだ、実際は行ってないのに行ってると書いてありますね。卑弥呼に会ってないのに会ったと書いたんだと。こういう解釈を、つまり著者が嘘をついている、或いは魏の使いが嘘をついたという解釈をするってことは、わたしはやはり一言でいってフェアでないと思うわけです。
 で、第一に、倭人伝の中で一番重要な記事はこの記事だと思うんです。つまり倭王に会って詔書を渡したというのは他のいろいろ、風俗、産物、・・・いろいろなことがありますわね、倭人伝の中の記事には。しかしどんな記事だってそれは枝葉末節です。中国側の朝廷から見れば。
 問題は魏の国の天子がそんな夷蛮の、遠いはるかかなたの夷蛮の地に詔書をもたらしたと、倭国の王に詔書を渡したということが倭人伝の肝心要めのキーポイント、これ以上のキーポイントは無いと思うんです。それを支える表れは、詔書を、あれだけ長文をかかげてあるのが、その表れであるわけです。
 だからその一番肝心な所を、これは嘘をついているんだというんだったら、わたしは倭人伝について語ることはやめた方がよろしいと思んです。そんな一番肝心の事に嘘をつくような、魏の使いが嘘をついたか、陳寿が嘘をついたか知りませんが、或いは天子が嘘をつけと命じたか知りませんが、なんせ肝心要(かなめ)の事で嘘をついたような資料を、枝葉末節のことを、自分の気に入った箇所を気に入った解釈で使うなんてことは、自分の趣味勝手でするのは結構ですけれど、学問としては成り立つ姿勢ではない。こうわたしは思うわけです。
 従ってこの点からも、実は魏の使いが行ったのは不弥国までであり、そしてその時そこに於て倭国の都に入ったんだ。つまり「不弥国が邪馬一国の玄関だ」というテーマが当然でてくるわけですね。しかし今日はそういう行程解読が主目的ではありませんので、今日の問題は魏の使いが倭国の都に入って卑弥呼に会っているということ、これは倭人伝の根本の事実だという一点を確認したい。
 この点は、実は前の講演会でお話した卑弥呼の年令の問題にも関連するんです。なんか今日お聞きしましたら、かわいい一才のヒミコちゃんて方がおいでになっているそうですけれど、卑弥呼の年令がいくつかという問題をこの前お話しました。今日お渡ししていただいた資料にも新聞の記事が載っているようですが、要するに「年すでに長大」とこう書いある。ところがこれをもって従来、わたしも含めまして卑弥呼は非常なおばあちゃん、こういうふうに考えていたんだが、それは間違いだった。
 『三国志』の中の長大という用例を全部抜きだしていきますと、その中に明白に年代を示す例がある。それは三十才半ばを示すという点において、どの例においても異論がなかった。つまり明確にそれを示す例が何例かみつかりました。という事は何を意味するかといいますと、これは魏の使いが卑弥呼に会って見た感じを書いていると考えなければいけない。もしこれが倭人に聞いたのなら、例の二倍年暦という、これは『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方はご存知ですが、この問題がひっかかってきまして、三十五歳なら倭人は七十歳と表現すると、そうすると年すでに長大ではなくて、年すでに老ゆというふうな表現か、その他の表現にならなければいけない、という問題があります。
 だからこの問題からも、実は魏の使いは卑弥呼に会っているというテーマが出てくるわけです。そしてなおかつ魏の使いは卑弥呼に詔書を渡しただけではありません。卑弥呼からの手紙を預って帰っているわけです。つまり上表文をたてまつって卑弥呼が答謝した、と書いてあるわけです。これはやはりわたしは嘘ではないと思う、なぜかなれば卑弥呼の宮廷には魏の詔書を読める官僚がいた、つまり文字官僚がいた。これは三人だっても五人だってもいいのです。また渡来人であっても、その弟子の倭国の青年であってもいいんですが、とにかく文字官僚がいたと、こう考えなければならない。
 そうすると彼らは当然簡単な感謝の文章くらいかける。渡来人なら当然書けますし、その渡来人から習った倭国の青年だったにしても、短い下手な文章だったかもしれないが感謝の手紙ぐらい当然書けるわけです。そうしますと、そこに書いてあるその記事をも疑うことは出来ない。そうなってきますと当然詔書を渡して上表を貰うまで一週間なり二週間なりの日数がいるわけですね。今日詔書を貰って、さあ晩の内に徹夜して書いて、すぐ翌朝渡すとか、そんなことはとても出来ることじゃあないんです。内容をよく検討しなければ、文章的にも、政治的にも検討しなければいけません。だから当然何日間かの日数が経過しているんだと思うんです。
 ということはその間に、魏の使いは倭国の都に滞留しているわけです。当然その間において倭国の都を観察してまわっている、こう考えなければならない。案内されて回ったかも知れませんがね。としますと、倭人伝に書いてある倭国の事物は、正に倭国の都に滞留している期間に見聞した、実際に自分の目で見た事物を中心にして書いてあると、こういうふうに考えなければならんわけです。こういうことになりますとね、倭人伝に書いてある事物、物の記載は、これは実地の見聞報告譚に基いているから、これは資料として検証に値すると、こう考えなければいけないのです。


鏡・矛の大量出土が示すもの

 これが大前提で、そしてじゃあその内容はどうか、これは先程から申しましたように今まで何回かにわたって申し上げてきましたので今要約しますと、例えば有名な鏡、「銅鏡百枚」という文句が詔書の中に出ている、そうすると、倭国の都からは銅の鏡が大量に出土しなけりゃあならん。ということは、それに相当する鏡というのは恐らく二種類しかない。
 一つは弥生期の遺跡から出土する物として漢鏡と考古学者が呼んでいるもの。前漢鏡・後漢鏡とこうまた名前をつけておりますが、これは圧倒的に博多の近辺を中心に出土している。前漢鏡の九割がこの福岡県に集中し、その福岡県のまた九割が筑前中域とわたしが名を付けました今の糸島郡、博多湾岸、朝倉郡も含めまして、この筑前の中心域に集中しているわけです。つまり全体の八割が実にこの地帯に集中している。だからもしこの漢鏡と呼ばれるものが問題の鏡であれば、もう博多湾岸に決っているわけです。
 もう一つの可能性。それはいわゆる三角縁(えん)神獣鏡、三角ぶちともいいますが、有名な三角縁神獣鏡、この場合も銅の鏡です。これは近畿を圧倒的に中心としている。つまり大塚山、京都府の南、ここに一番多いんですが、それが東西に分布している。これは弥生遺跡からは全く出てこなくて古墳の時代、つまり古墳からだけ出てくる。四世紀からほぼ六世紀までの古墳から出てくるんですね。もしこれであるとすれば、これはもう近畿に決っているわけですね。倭国の都は。
 ところがこの場合、わたしが大事だと思う一つの方法、簡単な方法ですが、あるんです。倭人伝の中の事物の一つだけとらえたら、今の鏡の例もそうですが、どっちも可能性がある。今のそれ以外は可能性ないですね、はっきりいいまして。文献を解釈していろいろ理屈をつけることは出来るかも知れませんが、物と対応してなければならない。これは空想の世界でなく歴史事実の世界だから。
 とすると、もう可能性のあるのは博多湾岸か、この近畿大和近辺しかないということが言えるわけです。そして両方言えるんだけど、もう一つ事物を組合せて考える。つまり二つ或いは三つの事物を共有する地域は何処か、こう考えていくと、一つなら点ですが二つだったら線、三つだったら面になりますから解釈がいろいろ動かしにくくなってくるわけです。
 じゃあ次に何があるかと言いますと、これは矛ですね。この倭人伝に卑弥呼の宮室・楼閣がおごそかにあって、そこに人がいて兵を持って守衛している、とこう書いている。この兵というのは何かという説明がありまして、矛・楯・木弓がそうだと書いてある。そうしますと、その中で考古学的に我々がはっきり認識出来る物は矛である。楯が木であれば腐蝕しますからね、矛はまず銅である。鉄・石の矛も若千ありますが銅の矛の出土地帯と矛盾しませんから、まず代表的には銅矛で考えたらよろしい。

銅矛と銅弋出土図 古代の霧の中から 古田武彦

 矛の出土はその矛と戈(か)の地図にも出ておりますが、圧倒的に筑紫が中心である。そして何よりも鋳型が、細剣もそうですが、中広矛・広矛、こういう矛の鋳型が一〇〇パーセント博多湾岸に、今の春日市を中心にする、春日市・福岡市の博多湾岸に集中しているわけです。ですから矛だけから言っても、地帯の限定性がある。これは近畿にありませんから。しかし古墳の中から多少は矛が出てくるという話もあるかも知れませんが、今の問題は鏡と矛、両方を結び合せまして、その出土する地域は・・・、となると、もうこれは博多湾岸しかないのです。近畿ではそういう大量の矛の出土というわけにはいきませんね。
 しかも矛に宮殿が守られているという記述は、さっき言ったように魏の使いが実際に入って行って卑弥呼に会っているんですから。その時、矛を一杯持った倭人の兵士達に囲まれて、間を通って、あるいは自分自身も護衛されてその宮殿に行ったはずなんです。その記事ですから、倭人ではいろいろ武器めいた物はあるけれど、中でも矛が非常に目立ったんだという記述は無視出来ないのです。そうしますと矛と鏡という二点、線になりますが、とらえても、もう博多湾岸しかないわけです。
 もう一つは冢(ちょう)、卑弥呼の墓ですね、「大いに冢を作る」と。この冢の議論もこの前やりましたが、簡単に復習いたしますと、要するに『三国志』の中では冢と墳と二つの言葉が区別してある。諸葛孔明伝にあるんですが、自分が死んだら墳は作ってくれるな、定軍山という山を墳に見たてて欲しい、その一角に冢を作って欲しい、それも棺が入る程度の冢でよろしい。この遺言に従って葬ったと書いてある。いわゆる我々が知っている仁徳陵古墳・応神陵古墳を、古墳と呼んでいるものはまさに墳である。ところが冢というのはこんな大きなものではなくて、若干盛土をしたものである。事実、倭人は人が死んだら「土を封じて冢となす」というのが一般の習俗に書いてある。その程度のものなんです。弥生時代の古墳はないんです。若干の盛土をしている程度なのです。そう書いてある。そこに「径百余歩」と。
 この議論は時間がかかりますのでやめますが、要するに里数を漢代の里数に基いて考えますと、百余歩というのは二百米弱位の長さになる。ところがそれに対して『三国志』の短里とわたしが呼びました、それは漢代の六分の一の単位である。だからこの歩も六分の一になりまして、それで計算すると百余歩というのは三十メートルないし三十五メートルになる。どっちかというと、それを決めるのはさっきのように冢と書いてある点です。もし二百メートルのものとして読者にうけとって欲しいと陳寿が思ったら、「墳を作る」と書かなければいけない。ところがそう書いてない。三十メートルや三十五メートルのものなら、これは棺が入る程度よりは大きいですね。だから「大いに冢を作る」 ーーピシャと合うわけですね。


卑弥呼の墓は円かった

 もう一つ新しい論証を加えますと、当時の『三国志』が出来たと同じ時期に作られた数学書があるのです。これは『九章算術』。算術というのは、昔わたしなんか小学校時代、算術の時間というのがありましたが、あの算術はそこからきているのです。そこを見ますと何里何歩と、歩という字は里の下部単位として書かれている。三百分の一だと注がついている、これを適当に歩いた幅だろうというので解釈している学者もありますが、これは駄目なんです。洛陽の読者はそうは受けとらないわけです。mに対するcmのように里の三百分の一と受けとるわけです。
 これが第一。同じくこの『九章算術』と同じ時期に、もう一つ『海島算経』という本も『三国志』の時期に作られた数学書なのです。『九章算術』はそれまでの数学書をまとめたものですが、『海島算経』はまさに三世紀に作られた数学書なんです。それらを見ますと、いずれにも径という言葉が出てくる。ところが径というのは全部例外無しに円の、今でいう直径のそれを表すのに径と書いてある。全く例外が無い。また円周率やいろいろ見事な数学術がそこで示されているんですよ。ピタゴラスの定理みたいな図があって、わたしもびっくりしましたけれど、三角法も非常に発達しているんです。今の『海島算経』では三角法に基いて島の形姿を計る方法を新しくみつけた。確定した、ということで作られたのが『海島算経』なんです。それで壱岐・対馬の面積というものが初めて、『三国志』で表れてくるんです。
 中国の歴史によればそれまでの島の面積というのは殆んどないんですね。一つの例外として海南島が出て来ますが、武帝のところで、これは現在と比べて全く当ってないんです。面積が。つまりまだ島の形姿を計る方法が無かったんです。ところが島の面積をれっきとして出したのが『三国志』倭人伝なのです。それが『海島算経』という、島の形姿を計る方法がみつかった、こういう一冊の本ができたその時期にできた『三国志』の倭人伝に、始めて島の面積が書かれた。それが今わたしのいう六分の一の里数としますと、ちゃんと合うわけです。
 このピシャッと合うというのも、言いだすといろいろありますが、今日はそれを省略しますが、要するに大幅についてピシャッと合うわけです、その径というのは洛陽の読者がみたら完全に円の直径としか見られない概念なのです。
 そうすると卑弥呼の墓が径百余歩とあります。「ああ卑弥呼という女王の墓はまるいんだ」とこう洛陽の読者は受けとるわけです。それを今のように漢代の二百メートルとしといて、前方後円の長径、さしわたしだというような解釈は、日本の前方後円墳を知り過ぎた考古学者や古代史家がそれに合せて原文をひっぱってきて解釈しているだけで、洛陽の読者とは全然違うわけですね。わたしはやはり洛陽の読者がどう読めたか、それで見なければいけない、と思うんです。
 卑弥呼の墓は円い、しかもたかだか直径三十メートルないし三十五メートルである、こうなってくるんです。そうなってきますとですね、問題はその冢には鏡が大量に入っているはずだ。銅鏡百枚ですからね。そうしますと前から申しましたのでくわしくは申しませんが、日本列島の弥生と古墳時代の特徴は、中国本土はもちろん、囲りの彼らが夷蛮と呼んだ地域になくて、日本列島にだけある特徴は、墓の中に鏡が沢山入っていることなんですね。それは弥生時代もそうだし古墳時代もそうなんですね。わたしはそれを多鏡墓文明・・・、鏡が多い墓の文明とこう呼んでいいと思うんです。何でそうかという理由はこの前申しましたので省略します。
 多鏡墓文明は二つの時期に分れる。つまり多鏡冢の文明、弥生時代というのは今のように甕棺等が畑の中から掘ってるとボコッと出てくる、そこに鏡が三〇〜四〇入ってる。これはもちろん、今畑の下から出てくるだけで当時から畑の下ではないんですね。当時はそれだけ貴重な絶大な宝物を入れた墓ですから、上には当然盛り土があったはずです。ところがそれは大した古墳のような盛り土ではなく、単なる盛り土に過ぎないくらいのものですから、均(な)らされてしまう。
 大きさが小さいということが一つ。もっと重大な理由はその神聖な権力がその後断絶した。ズーと現在まで子孫が権力を持ちつづけておれば、あるいは天皇家のように、これは畑の下になったりしないわけです。ところがそれが何時の時代かに断絶した。祀(まつ)らなくなった。ということで畑にならされてしまうようになってる。だから現在は畑の下だけど当時は当然盛り土を持っていたと、こう考えるのが常識というものだと思います。こういう弥生時代の墓というものが冢である。これをわたしは多鏡冢の時代とこう呼んでいいだろうと思います。
 それに対して今度は古墳時代、これは近畿を中心に三角縁神獣鏡、その他画文帯神獣鏡というものを含んでいる。これは皆古墳ですから「墳」なわけです。だからこれは多鏡墳の時代と呼んでいいだろうと思うんです。多鏡墓文明は二つの時期に分かれ、多鏡冢期と多鏡墳期に分かれる。こう考えるんです。としますと、倭人伝に書かれているのは、どっちかと言うと、鏡を沢山倭国の権力者はもらった。そして冢に、 ーー卑弥呼のような女王ですら、たかだか三十メートルないし三十五メートル、その他の連中はもっと小さいわけです。ーー そういう冢に葬むられた。するとこれは多鏡冢の内容を持っている。倭人伝は多鏡墳ではないわけですが、そうすると今のように鏡だけなら二種類、どっちにでも言えたけれど鏡と冢、この二つの点を結ぶ、つまり線にしますと、もう博多湾岸を中心とする地帯しか倭国の都の可能性はない、とこうなってくるわけです。


倭国の都は博多湾岸に

 次に鉄器の問題ですね。これだけを詳しくしゃべっていると一時問以上かかりますので、結論を申しますと、お配りした表の左側に日本列島弥生遺跡出土の全鉄器表というのが出ていますね。それをみますと九州が三百四十二、それに対して近畿が七十六、だから鉄器において圧倒的に九州がまさっている。これは話の順序が逆になりましたが、倭人伝の中に木弓を用いというところの次に、矢は骨の鏃(やじり)もしくは鉄の鏃を使っていると、こう書いてあります。骨の鏃は縄文文明からありますね。ところが新しく弥生に入ってから登場するのは鉄の鏃。鉄の鏃は武力として、恐るべき威力を発揮したに相違ないんです。骨の鏃等に比べましたらね。従って卑弥呼の国の武力の背景には鉄がある。そう思います。

日本列島弥生遺跡全鉄器表 古代の霧の中から 古田武彦

 もう一つ資料がありまして、五尺刀というのをやはり魏の天子が卑弥呼にくれてるわけです。これも鉄の刀とみられる。この分布図もこの前示しましたので今日は省略します。
 さらに大事な事は魏志韓伝、というところに、注目すべき記事がある。それは韓地の中から鉄が出土する。その鉄を韓、穢*(ワイ)、倭の人々が従いてこれを取る。市場で物を売り買いする時に鉄で売買する習わしになっている。これは中国で銭を用いるのと同じことだと、こう書いてある。これは鉄を貨幣として、貨幣替りに使っているという意味である。わたしはこれに対して一つの名前を、鉄本位制という名前を与えました。国際間取引で鉄が基準になっている、基準通貨の役目をしている。倭国は鉄本位制下の国、鉄本位制下の女王となってくる。そう考えますと、鉄は邪馬一国をとく鍵として、わたしはどんなに重視しても、重視し過ぎることはない。むしろ経済史からはこういう目から邪馬一国問題になぜ取組まなかったか、わたしは不思議とするところです。

穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA

 こういう目で取組みますと答は明析でありまして、当然近畿ではなくて九州、そして九州の中でも他の県に比べまして福岡が抜群の量を誇っております。百六ですね。福岡の中でも筑前・筑後に分けますと筑前が圧倒的であります。これは極端な差を持って、圧倒的に格差がございます。
 ということからみますと、鉄本位制下の倭国の富の中心はやはり筑前にしかありえない。筑後、山門(やまと)はどうしたって無理なわけです。筑前の中でも当然ながら糸島、博多湾岸が中心であります。そしてこの場合、先程の甕棺と呼ばれる冢の中から鉄器が随分出てまいります。従って鉄だけでも決定力を持つんですが、鉄と冢、さらに鏡さらに矛、矛も甕棺の中からも出てきますね。細矛なんかその中からも出てまいります。中広矛、広矛。こういう物を三つか四つ合せましたら完全に面ですが、これからみまして博多湾岸しか都の候補地はない、とこうなってくるわけであります。
 最後に、興味深い問題として、この前ふれました錦の問題を復習として付け加えさせてもらいます。卑弥呼は魏の使いから貰ったものの中に、おびただしい錦類があることが詔書に書いてある。龍の模様がついた紺地や赤い地等の錦を沢山下賜されているわけです。これに対して倭国の女王卑弥呼の方も錦を献上している。倭国の錦、倭錦や異文雑錦を献上している、というところからみると錦の出土する地帯でなければならない。
 前に申しましたように、弥生遺跡の中で錦が出てくるのは九ヶ所に限られる。その中の九ヶ所は博多湾岸、そして三ヶ所が立岩、そして一ヶ所が島原こうなっている。しかもそれが顕微鏡による自然科学的な研究によって、中国の絹と日本列島産の絹とが判別出来る。これは「立岩遺蹟」という非常にすぐれた研究報告の本があるんですが、その中で布目(ぬのめ)順朗さんが書かれている論文です。その中で特に博多湾岸には明白に中国の絹と認定できる物がでてきている。甕棺の中から。それはしかも房になっている。そして現物をナイフで切ってみると、まっさおな色が表れた。つまり紺で染められていた錦である。絹の房である。錦というのは房を、繻子(しゅす)を伴った色どり模様の絹が錦ですから。紺地の錦を与えたと書いてある。それにピタリ合うわけです。
 また倭国側で錦を献上している。献上する物が出てくるのは、日本列島全弥生期を調べましても、この九つしか無いんですね。九つの中の一つ除いてあとは筑前のものですね。どっちか判別できないもの。これが立岩と博多湾岸に一つずつあります。そしてはっきり倭国の絹と理解できるものが博多湾岸に三つ、立岩に二つあるわけです。同じ倭国の錦でも非常に質の劣ったものが一つ、島原で出てきておるということですね。
 以上が弥生絹のすべてです。だからこの点からも実は倭国の都は決定できる。しかもこれは甕棺から出てきますから、冢と錦という結びつき。しかもさっきの紺の、中国製のであることがはっきり認定できた錦というのは、どうも鏡を包んであるもののようである。だから鏡と冢と錦という、それに細矛が加わりますから、やはり完全に面になって倭国の都はこの地帯だと決定力を持つんだ、ということを申し上げたわけです。


土と石と木の分明に逆戻り?

 これは今まで申しあげた事の要約でございます、ところが今日の問題は、なぜそんなにはっきりしていることを今まで考古学者は言わなかったんだ、という問いなわけです。
 これに対してどういう答が出てくるかといいますと、わたしが今述べました物について、ほぼ考古学者は弥生中期の事物として考古学の本に載せているわけです。また展覧会でもそういう解説がついているわけです。
 ところが弥生中期というのは一体いつの時期かと考古学者が言っているかといいますと、大体一世紀の後半ですね。弥生中期は前一世紀と後一世紀の二百年間をほぼ呼んでいるんですが、そんな中で特に今の問題の物が出てくるのは弥生中期後半、つまり一世紀ですね。イエスが活躍していた時期を含むわけですね、特にイエスが死んだ時くらいから沢山出てくる。つまり一世紀の後半くらいに沢山出てくると、こういうふうに考古学者は言っている。そして後漢鏡というものになりますと二世紀の初めくらいにかかるんだ、こんなふうにいっているわけです。
 いいかえますと、わたしが『「邪馬台国」はなかった』に取組みました時に、非常に不審に思えたことがあったんです。三世紀と考古学者が認定している事物を集めていきますと、いってみると日本列島中どこにもろくな物がないんです。今の九州北岸にもないんですね。今の中広矛・広矛、そういう類の物だけはあるんですが、これはのっぺりした質の悪いものである。今の一時代前とされている弥生中期にあった、細矛といわれる非常にすぐれた鋳上りをもった矛や剣が一切なくなってしまう。
 まだしかし、九州北岸は中広矛・広矛というのっぺりした鋳上りの悪いでっかい矛や文が出てくるからいいのです。今の近畿の大和になりますと、この弥生後期というのはひどいもので、ひどいものって変ですが要するに金属が全く出てこない。銅も出てこない。鉄も出てこない。銅と例外的に銅の矢鏃が二十本か三十本くらい出てくるだけで、あと何も金属が出てこないわけです。土と石と木の文明に、ーー 縄文期と一緒ですが ーー逆もどりしているわけです。だから他のどこを取っても弥生後期には大した物が出てこない。特に弥生後期後半というのを考古学者は三世記にあてているわけです。
 それでわたしは、なんでこんなことになったんだろうかということで、当時九州の考古学者の所を歴訪いたしました。そしてある考古学者に会ってみると、その考古学者は「いや川で流れたんですよ。」こう言うんですね。つまり三世紀の遺跡は丁度、川の土砂に流れて現在、玄界灘に眠っている、とこういうわけです。
 しかしわたしはこれを聞いて、議論をしに行ったわけでないので、そこで議論はしませんでしたけれど、帰りがけに思ったのは、これはちょっと無理じゃなかろうか。なぜかというと、仮に九州北岸、たいていは三世紀の遺跡が、遺物が出てくる。ところが例えば博多に流れている那珂(なか)川或いは御笠川でもいいですが、そこの個所だけ一ケ所、三世紀の物が欠けているという場合ならこれも玄界灘の底をさらわなければ分らないけれども、川の土砂で流れたんだろうという仮説をたてても、仮説としてうなづけるんですよ。ところが九州北岸全部出てこない。皆、川に流れたんだろうというのはちょっと仮説としても、わたしは仮説のたてすぎというんですか、ちょっとたてうる仮説ではないように思われたんです。で、大和でも三世紀に川で流れたんでしょうか、大和川もありますけれど。これもちょっと無理じゃないかと思ったんです。大和のことまでは、その時聞きませんでしたけれどね。
 次に原田大六さんのところにまいりました。これも第一回の訪問はそれを聞くのが目的だったんですね。『盗まれた神話』にちょっと書きましたけれど、その訪問の目的はそれだったんです。その時に答はだいたい予想されていたんです。わたしは書かれていたものを見ていましたから。その通りだったんです。と言うのは、要するに神武東征が理由です。こうおっしゃるわけです。
 原田さんの考えによると糸島郡が代々の天皇家の住地、都だった、最後の王者が神武であると。それが大和へ遠征しようと考えて、そして大和へ行ってしまった。だからその後大した物が出てこないんだと。これも前後をめぐる面白い話があるんですが、この中山平次郎という原田さんの先生をめぐる話があるんですが、今日は省略しまして、要するにそういう答である。
 これに対しても、わたしはどうもこれは無理じゃないかと帰りがけに考えたんです。神武が糸島を出発したというのは、これは反対で『古事記』、『『日本書紀』』を分析する限りはやはり神武については、日向、宮崎県から出発したと考えなければならない。
 文献を厳密に処理する限りは、こう思うんですが、そのことは抜きにしましても、仮に糸島から神武が大和に行ったとしましても、行ったから後、人間がいなくなるわけじゃあない。また豪族がいなくなるわけじゃない。だからいきなり大した物が出ない地帯になってしまうというのは説明にならないのじゃないか。またもう一つ同じ時期の大和から、問題の漢鏡・後漢鏡だかそういう物がパパッと出てくればいいのですが、さっき言ったように、なんにも出てこないわけです。だからどちらから言ってもこれは無理じゃないかと。こう考えたわけです。
 まして倭人伝をみるかぎり、倭国の都がどこにあるかは別にしましても、九州北岸が三世紀頃栄えていたことはもう殆んどの人が疑っていないですよ。そこに三世紀に三世紀に何も大した物が出てこないというんじゃあ、やっぱりおかしいと思ったんです。だからわたしは今だからはっきりいいますが、『「邪馬台国」はなかった』で考古学のことを除いておいた。最後にちょろっと触れておいた所がありますが、まず除けておいたのはそういういきさつがあったからです。
 今の考古学はちょっとおかしいぞ、これを簡単に使ったらエライ目にあうぞと、正直にいうとそういう感じを持ったわけです。だから文献だけに徹底した。史料処理の原則からいって、それがいいと思ったんですが、もう一つ脇の事情としては、そういう問題があったわけです。そこで一体どうかといいますと、ズバリいいまして、これは考古学の編年がどっか狂っているんではないか、もう一歩立ち入ってはっきりいえば、基準が狂っているんじゃあるまいかと、こう考えたわけです。


日本の考古学の“宿命”

 ご承知のように、日本の考古学といいますのは因業な宿命を荷なっているというと変な言い方になりますが、要するに絶対年代がないんですよね。つまり、ある出土物に関して、これは何年、何年と書いてあればいいんですが、この間の太安麻侶の墓なんていうのは驚異の大発見でしたけれど、まあ通例、殆んど年代が分らない。だから一言でいいますと、絶対年代から見放されている、こう言ってもいいでしょう。
 これに対して相対年代と呼ぶものだけが頼りになってくる。いいますのは、例えば壷なら壷をとらえましても、Aの壷、Bの壷どっちが先か、Bの壷 Cの壷、どっちが先か後かという、その前後関係を細密につけていくんです。わたしはよく知らなくて言うんで無責任かも知れませんが、恐らくそういう前後関係を微細につけるという点では、日本の考古学者は世界の考古学者の中でも抜群の力量を持っているんではないでしょうか。少なくとも抜群の努力をはらってきたと言えると思います。今の置かれている状況、運命からしましてね。
 だからある考古学者によっては、「今や考古学の年代は十年と狂わない。いや実際は五年と、狂わないと実際は思うんですけれどね、大まけにまけて十年とは狂いませんよ」と非常に自信に満ちた言葉を、現在中堅を率いる考古学のリーダー株の学者から聞いたことがあります。そういう自信を生みだす程精密に前後関係をつけているわけです。
 問題は、前後関係はつけてみるんだけれど、それが絶対年代ーー 西暦も絶対年代。中国の年号も絶対年代です ーーそのどれにあたるかとなりますと分らないわけですよね。そこが泣き所です。その泣き所を支える二つの点があるわけなのです。一つは先に申しました漢鏡と呼ばれるものなんです。もう一つは、今日もちょっと触れるかもしれませんが、天皇陵古墳の問題なんです。
 天皇陵古墳の方を簡単にいえば、倭の五王という中国の宋書という五世紀の本に出てくるそれと日本の応神・仁徳から雄略に至る天皇がイコールだという仮説にたって結びつけるわけです。これが古墳時代における一つの定点・支点、つまりささえる点になるわけです。
 今度は弥生時代で支える点、これが今の漢鏡なのです。
 この漢鏡につきましてはこの研究をやった学者がいる。それは大正年間、富岡謙蔵という京大にいた学者です。皆さんご承知の富岡鉄斎という絵かき、有名な画家の息子さんになるわけです。この人が非常に綿密な研究をやりまして、それまでは漢鏡というから、漠然と漢のものだろうと思った人もあるかもしれませんが、むしろ学界なんかでは普通、中国の鏡で漢鏡といったって、実際は東晋・南北朝以後だと、漢代はもちろん三国時代のものだってないんだというふうな常識が成立しておったこともあるわけです、明治から大正にかけての学界で。
 それに対して富岡謙蔵氏が、違うんだ、実は博多湾岸中心に出土する甕棺の中から出土する鏡の中には後漢の鏡がある。後漢の時期とおぼしき鏡があるんだ。さらに中国から出てくる鏡でも新(これは前漢と後漢の間ですが)鏡という文字が現われている鏡があるんだという研究を出して、最後に前漢の文字を持った鏡が今の博多湾岸、糸島郡から出てくるんだ。糸島郡の場合は今の三雲遺跡がそれです。そして博多湾岸では須玖(すぐ)岡本の遺跡から出てくる。やはり一つの甕棺からいくつも、三十面・四十面も出てくるんです。その鏡がそれです。それは前漢の文字を持っているんだという研究を発表したわけです。
 これは非常に大きなショックを与えまして、東京の高橋健自という、東京の国立博物館の課長をしてた人なんですが、これを非常にほめるというか賛同しまして、京都・東京合せて、一致した見解になった。もっともそれに対して高橋健自の方は前漢鏡・後漢鏡とこうみなしていいんだというふうな論文を書いて、他にもそういうことを言った人があるようなんです。
 ところがその後、富岡謙蔵が非常に重要な論文を書いていることを、わたしは見たわけです。富岡謙蔵が、「わたしが前に発表した論文についてこれを前漢の鏡、後漢の鏡というふうに扱うむきがあったけれど、これは非常に迷惑だ。わたしは唯それが、書体が前漢に始まる、後漢に始まると言っただけで、その書体は後にまでずーと使われたかも知れないから、そういうふうに決めてもらうのは非常に因る。わたしの論文を誤解するものだ。」と、こういう事を書いているわけです。にもかかわらず、その後富岡謙蔵はそれからまもなく死んでしまったということもあったでしょうが、富岡の死後、これは専ら前漢鏡・後漢鏡として考古学界で扱われていくわけです。
 しかも前漢鏡と呼ばれる鏡の出てくる甕棺は前漢が終って、まあ一〇〇年、後漢鏡の方は後漢が終って五〇年。これもわたしのような全く素人の考古学にうとい人間から見ると、読んでいて非常に奇妙に感じました。いいますのは、片方の鏡が前漢が終って一〇〇年ぐらいと考えるのなら、こちらの後漢鏡といわれてる方も後漢が終って一〇〇年くらいとなる、ーー となると三国時代を通り過ぎますけれど、 ーーと見ていいじゃあないかなどと思いますが、そういういい方はしないで、前漢鏡の場合は前漢が終って一〇〇年位、後漢の場合は引き続いて五〇年位と、こういう目見当を与えたわけですね。
 この点杉原壮介さんという考古学者がおられますが、この人の場合ちゃんと表を作られた。この人は大体今の弥生時代についても、今の弥生期というのは紀元前三〇〇年から紀元後三〇〇年、合せて六〇〇年を弥生期と考え、その初めの二〇〇年を弥生前期、次の二〇〇年、さっき言いました前一世紀・後一世紀、この二〇〇年を弥生中期、今度は二世紀・三世紀を弥生後期。だから三世紀は弥生後期の後半になりますね。そういう表を作られたんですね。それに従って多少ーー たとえば九州の考古学者は五〇年位いさかのぼらした方がいいだろうといって ーー微修正を加えながら使って今に到っている。だから考古学者の論文にしましても、また皆さんが御覧になる展覧会の解説にしましても、みんなその流儀で書かれているわけです。
 わたしはここで思うわけです。確かに日本のように絶対年代から見放されている場合ですね、一つの仮説を立てる必要はあるだろう。つまりこれがここに当たるんじゃあないかと、一応見なしてみる、という仮説を立てなければ科学というのは進みませんからね。それは非常に結構だし必要なことだと思うんです。ところが問題は、その仮説に立っていろいろ現象を整理してゆきますと、その結果が非常にうまく皆合う、現象に合うということであれば、現象を説明出来るのであれば、その仮説は正しかった、つまり定理といいますか、そういうものに昇格出来るんだと思うんです。ところがそうではなくて、どうもおかしい、非常な矛盾が出てくるという場合には、始め立てた仮説が間違っているんじゃないかと、仮説の再検討を行わなければならないと、こう思うんです。これが科字と実験といいますか、実証という場合の、わたしは、根本の方法論だと思います。ところがですね、今問題は一言でいいますと、三世紀の空白という問題なんですね。


なぜ“三世紀”は空白なのか

 最近、『産報(さんぽう)99』とかいう本の中で、考古学者が三人ばかり集って対談をしておられる。これは近畿や九州の各地の代表的な中堅の考古学者が集っているわけです。そういう意味で非常に信頼出来る内容なんですけれど、どういう題目かといいますと、現在言われている邪馬台国を全部検討してみよう、考古学的な出土物からというので、ずーと逐一やっていくわけなんです。やっていくとどこも、皆邪馬台国に当らないわけですよ。最後に結局、全部駄目だった、「やっぱり有りませんでしたね、ハハハ」という形で、その座談会は終っているわけです。
 これは考古学者にとっては、もう座談会の初めから分っていることなんですね。妥当するものがないということは。三世紀の空白ってことは、いわば常識になってるわけです。今の三角縁神獣鏡だって、全部古墳時代から出るものを引き上げて解釈するんですからね。三角縁神獣鏡だけを引きさげたって、他の物は全然無いんですからね。金属が全く無いところに鏡だけ引きさげたって、しょうがないですわね。「やつぱり何処も資格がありませんでしたね、ハハハ」とこうなって終ってるんです。これはこの人達にとっては、予期した結論だったわけです。
 しかしわたしからみますと、この日本列島中どこを探しても邪馬台国に当るものがないという結論は、結論じゃなくて、出発点だと思うんですね。つまりどうみてもそうなるということは、どこがおかしいのかという探求を出発させる場所でなきゃならない。
 結局、今のように弥生後期後半という名前を付けて、そこを三世紀と当てた ーーこれは富岡氏自身は反対しているんだけれど、それにもかかわらずといいますか、その後の考古学界が前漢鏡・後漢鏡として処理し、前漢鏡は後漢鏡の前一〇〇年、後漢鏡はその後五〇年位という目見当ですね。大体、弥生時代自身をあんな六〇〇年、西歴に分けるということじしんが目見当以外の何ものでもないわけですね。要するに日本の出土物がイエスに御遠慮申し上げるわけないですからね。だからそれも目見当。
 と言っても目見当が悪いといっているんじゃあないんですがね。仮説なんです。だからその上に立って今の前漢鏡・後漢鏡をこの時期に、絶対年代に当てはめるのも仮説なんです。その仮説という支点を設けた為に、「三世紀」が無くなってしまった。とすると今のように、「倭人伝」あんなもの当てになりませんというムードが古代史界にあるから、考古学者も「何処にもありませんでしたね、ハハ」で済しておられる。
 しかし最初にわたしがいいましたように、あの倭人伝は魏の使いが卑弥呼に会って何日問か滞在した、その実地見聞譚である、その報告である。だから史料として信憑(しんぴょう)し得る性格の史料である。こういう基本認定に立ちますと、笑って済ませる問題じゃあないわけです。そうすると今の三世紀の空白を生んだ、その説明は川で流れたと言ってみたけれど、これはどうも駄目、神武東征で説明しようとしたけれどこれもやはり、わたしには納得出来ない。皆さんもそういう方、いらっしやると思いますが、どの方法でも駄目だとなってくると、やはり元をなすホックの支点を留めた留金を、もう一回留めなおしてみなきゃならないではないか、そういうテーマが必然的にせまられてくる。こういうことなんですね。
 でも考えてみますとね、大体、邪馬台国問題なんて今まで解けないのが、おかしいんですよ。文献解釈はいろいろ人が考えて、いろいろやれますわね。いってみれば。しかし文献をどう言ってみたって、考古学のぶつ、物からいえば、もう都はここしかないと考古学者はそれを言える立楊にあるはずなんですね。ところがその立揚から見てどこにも無い。これが、わたしは邪馬台国論争百花繚乱の真の原因といいますか、真犯人じゃあないかと、変な言葉を使いますが、そんな感じさえ持ちました。
 とすると、一回留め金をはずしてみて、新しい支点は何かというと、これは他でもありません、さっき言いましたように、倭人伝の物を、点で、線で、面で検討していったら倭人伝の内容にあまりにもピタリと合うのは、考古字者が弥生中期と呼んでいるこの時代の北九州以外の何者でもない。九州北岸、とくに博多湾岸以外の何者でもない。
 そうしますとそれを新しい、やり直しの再起第一回の支点にし直して、理解し直さなければいけないのではないか。つまり弥生中期といわれてる時期ですね。今の須玖、三雲といった前漢鏡がおびただしく出てくるという時期ですね。その時期の出土物とされていた物を、三世紀だけとはいいませんが、三世紀を含んだ時期の物として、支点を置き直して考えてみる、というのが新しい道ではないかと、こうわたしは考えたわけなんです。これが時間をだいぶ取りましたけれど、この前のご質問に対するお答、今日の前半のテーマであったわけです。
(拍手)
以上、『古代の霧の中から』(徳間書店)第二章 卑弥呼の宮殿の所在により校正。
ーー休憩

稲荷山鉄剣問題

 この稲荷山の鉄剣問題が去年おこりまして、わたしは久し振りといいますか、初めといいますか、非常に深求の喜びを存分に味わわせてもらいました。この三ヶ月余りですね。といいますのは、こういう古代文字の実物が出現するという、それもかなりの量の文字が出現し、しかもそこに歴史事実を示すその文字がならんでいるということは本当に初めてのことでありまして、これに没頭するということは、わたしにとりまして何物にもかえがたい喜びでありました。いわゆるエーゲ海のクレタ文明とかミケーネ文明なんかの線文字AとBの解読を試みた本を見て非常にうらやましく感じておったのでありますが、まあ今回はたっぷり味わせてもらった、という感じでありました。
 もっとも最初この出土物がわたしの「九州王朝論」というものを否定する効果をもつものだという風なとらえ方をした学者、ジャーナリストの方があったようです。しかしこれはわたしには、最初から実は問題にならない事であったわけです。といいますのは、五月の終り実際は六月の初めになると思いますが、朝日新聞杜から出す本があるのですが(『ここに古代王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』)それで今の考古学的な問題の追求をやっておりまして、いわゆる「九州王朝」というものを考古学的にどうとらえるかということをかなり、少なくとも背骨はがっちり押えたつもりでありまして、それを大体書き終った直後にうまく出てくれましたので、わたしとしてはそういうことは全く心配するに当らなかった訳です。ことに今日は詳しくは触れられませんが、熊本の江田船山の古墳から出てきました銘文については「失われた九州王朝」という第二回の本ではっきり論じていたわけです。というのはこれをタジヒノミズハワケ、つまり反正天皇に当てるのが従来のいわゆる定説であった。しかし大体それは字の読み方自身が無理だ、タジヒとあれを読むのは無理で、むしろ読むならば獲得の獲であるということをわたしは指摘しました。
 そして何よりも大事な方法論上の問題を提起したわけです。それは字が欠けている、あそこには二字ないし三字欠けているわけですが、字が欠けている場合はそれを読めないと考えるべきだ。当り前のことですね、考えるも考えないも読めないのです。それに対して学者はこの字はこれではなかろうかという、仮説を出すのは勝手だと思うのです。しかしそれは出来れば枝葉末節の問題、或いは問題自身が枝葉であるか、或いは自分の論証にとって枝葉の部分として、これはこの字じゃあるまいかと言ってみるのはよいと思うんです。ただそうでなくて自分で補っておいてそれを論証の根本に使うこと、これは駄目だ。これはやっぱり仮説なら何んでもいいと言いましても、やはり学間としての慎重さを欠くだろうということを述べたんです。だからこの場合、天皇家が九州まで支配力を及ぼしていたかどうかというような問題を判定する重要な問題に、自分で字を補っておいて証拠に使うのはルール違反だと論じたわけです。そこはやはり、男らしく、人間らしく、これは分らないと、分らないものを分らないと言うことは学者にとってなんの恥辱でなく、むしろいかに自分が良心的といいますか、事実に対して潔癖であるかを示すもの以外の何者でもないんだという意味のことを、わたしは『失われた九州王朝』で述べたわけです。
 ところが今度はそれに対して反正はどうも駄目だ、今度はワカタケルなら合うという判断を下して、だから雄略は九州まで支配していたと、これはさきのわたしの信ずる方法論からしても駄目なんです。第一、仮にそれがワカタケルであったとしても、このワカタケルとその熊本の豪族か王者か知りませんが、その両者の関係はまた別問題、つまり賜与、上から下へ賜与したものか、或いは両地域の権力者同志がプレゼントとした物か、こんな事は全然分らないわけです。それにあの文の中に「これを与える」なんて句はないんですからね。そういうことも分らない。なおあれは大王のところばかりでなく、あっちこっち虫喰って読めない所があるわけですから、それをいちいち自分で補って議論をしていたんでは、こちらがそれに応接するのがもったいないというか、話にならないわけです。各自が自分の好きなものを補って、証拠に使いだしたら、もう何んとでも言えてくるわけです。そういうことですので、江田船山の問題は無理ですヨ、と申しました。なおもう一言申しますと、ワカタケルといわれた最後のルも関東のと江田船山のとはちょっと時代が違っているようです。これも今は時間がありませんので立ち入って論じませんけれど。
 さて問題を返してまいりましょう。普通に読まれていますのはプリント(資料参照)でお渡しした上の方の文章がそれです。これについての解釈は去年散々新聞等でご覧になったでしょうからとりたてていたしません。今日はわたしがこれに対して、いわゆる通説といいますが、定説だと書いている新聞もありましたが、それに対してもっている疑問点ですね、それにポイントを当て、ついていきたいと思います。

〔プリント資料〕
  当初の解読
辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ、其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカシシのワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテイ、其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。ワカタケル大王の寺(役所のこと)、斯鬼宮(しきのみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、此の百練の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□なり。
ーー埼玉県教育委員会発表ーー
(狩野久、田中稔、岸俊男氏ら)

 まず第一に地理的な問題。といいますのは、この銘文の中で明白な地名がでてまいります。地名を含む固有名詞が出てまいります、これは「斯鬼宮」と読まれる字ですね、まあシマと読む人も若干ある様ですが、まずシキと読むことにおいてさほど異論がないようです。わたしもそう思います。
 ところが問題はこの磯城、をもっていわいる大和の磯城とみていいのかという問題です、まずこれを見て感じましたのはこれが大和の斯鬼だったら、やはり「大和の斯鬼宮」と書いて欲しいと思ったわけです。なぜかといいますと、関西の古墳から出てきた、近畿の古墳から出てきたのなら別なんですが、関東の古墳から出てきている。もう一つ気にかかったことは関東にもシキという所がある。それも同じ埼玉県の南40キロメータの所に志木という所がございます。これが何時頃迄地名が逆のぼるかということを吟味すると面白いんですが今は省略します。ともかく『シキ』という所が近くにあるとすれば、その現地でここじゃあない大和のシキ、シキ宮と書くのが当り前だ。まあ文章の心理としましてね。その点そう書いてなくて、いきなりシキ宮、これを知らない者は、もぐりだという風な書き方をしているのをみると現地のシキである可能性を排除してはならない。がその点が第一、むしろ常道から言えば文句なくシキというんだから、その近所にシキがあるというのが第一です。それに対して現地のシキでない大和のシキならば、なぜ大和のシキと書かなかったのだろうかという疑問があるわけです。その点でうっかりこの話にのれないぞと、わたしは感じたんです。実はちよっと時間の順序が逆になりますが、最初九州の場合と違って関東の五世紀の頃であればですね。ここに近畿の天皇の名が何らかの意味ででてきても不思議はないと思っていたんです。まあ先入感といいますかね、銘文を見るまでは。新聞社から話をいろいろ聞きました段階では。
 ところが実際に銘文をみてみますと、これはちょっとあわてちゃあいけないぞ、慎重になるべきだと、こう思ったわけです。もう一つ理由があるわけですね、大和のシキにしてもおかしい。といいますのは雄略は長谷の朝倉宮と『古事記』・『日本書紀』に一致して書いてある。それに対して崇神・垂仁、今の雄略よりだいぶ前ですが崇神・垂仁のところでは師木の水垣の宮、師木の玉垣の宮という宮殿名がそれぞれ天皇の居た宮殿として、行政の中心といったらいいでしょうか、そんなものとして書かれているわけです。つまり『古事記』・『日本書紀』の表記に従うかぎりは、師木と長谷は違うわけです。現在の地理でいいますと桜井の駅から北側が師木の水垣・玉垣の宮、箸墓の方角ですね。
 あっちへ行った方が師木の水垣の宮、玉垣の宮のあったといわれる地帯です。これに対して桜井から東へ行きますと朝倉駅があり、また向うに長谷駅がございますね、あの長谷駅の近辺が長谷の朝倉の宮跡といわれている所です。つまり近くではあるけれど、やはり長谷と師木は違うわけであります。だからそれを近いからいいじゃないかとか、同じ磯城郡とみても、いいからよいじゃないかと、こういう類の論議は非常にあぶないと思うんですよ。
 卑近なたとえでおそれ入りますが、例えばわたしが住んでおります京都の近郊、桂川を渡りまして向日市、向日町といったところですね、そこで長岡京が、今の長岡京市と向日市にまたがってあるんです。中心部、大極殿の有る所は向日市、わたしの住んでいます向日市になっています。ところでですね、そのすぐ北、わたしの家のすぐ京都寄りのそばは、桂離宮なんてございます。ところでですが、これを近いんだから、まあ長岡京も桂離宮とよんでいいんではないか、桂離宮の方を長岡の宮とよんでもいいのではないか、そんなことはとても言えた話ではないのです。とにかくそれは近くてもちゃんと区別しているわけです。
 こんなことは言うまでもないことですが、これは現在区別しているというだけでなく、問題は、『古事記』・『日本書紀』のワカタケルに当てようというんですから。『古事記』・『日本書紀』でワカタケルという者は、どの宮に居ると書いてあるかという、その『古事記』・『日本書紀』のルールが問題なのです。ところでわたしは『古事記』・『日本書紀』の表記のルールを、かなりずーと追跡したことがあります。これは『盗まれた神話』という第三の本に書きました。最近もまた別の見地で追跡しておりましたので、ここのところでちょっと、これはおかしいなと、こう思ったわけです。だから雄略とするとこれは長谷の宮とか朝倉の宮とかね、書いて欲しい。だからその点もピシヤッと合わないわけです。合わない所が二重、疑問点が二重にかさなっている。そうするとこれはうっかり雄略の宮殿という風にみていいかどうか問題だぞとこう感じたわけです。これが第一番。
 第二番目にですね、銘文の中に二人の現在時点に当る、人物の名前が出てくることに異論がないですね。つまり一人は何とか大王という人物、これをワカタケル大王と読みましたね。わたしはカタシロ大王と読んだんですが、ともかく何とか大王とかいう人物が居ることはまず異論を持つ人はいないと思うんです。もう一方はオノワケノ臣と他の人が読んだ。わたしはコノカキノ臣と読んだんですが、なにせ、あの銘文を、鉄剣なるものを作った、作らしめたらしき人物が出てくることにおいても、まず異論はないですね。
 ここのAB二人の現在時点の人物がかかれている。これがまず基本の事実。次に大事なことは、その二人の関係を示す、政治的関係を示す文章、語句があるわけです、文脈があるわけです。それは「左治天下」、「左」はひだり、「治」は統治の治、あめした天下。「左治天下」という文句であるわけです。ところで「左治」という言葉は、明確に中国の古典にでてくる用語であります。どういう意味か確かめられるわけですね。調べてみますと、古いところでは周代。周の第一代は武王、殷朝を亡ぼした、討伐した武王ですね。ところが武王は殷を討伐してまもなく死んだわけです。その後に残されたのが成王という幼い子供、それが天子になったわけです。これが倭人が暢草を献じた王のことです。ところが成王が小さいから、天子にはなったが実際の政治は出来ない、従って親族、おじさん格にあたる、周公が実際上の政治をみておったわけです。
 これは有名な孔子が周公ファンでありまして、「おとろえたるかな、夢に周公をみず」わたしもおいぼれたなあ、なぜだといったら、あんなにしょっちゅう、周公の夢をみて、夢の中で周公に激励されたんだが、最近はさっぱり周公の夢をみなくなった。これじゃあ俺も駄目だと、ヘンな論理ですが、本人にしか通用しない倫理ですが、本人には主観的真実なんでしょうね、それくらい周公ファンだったんです。で彼は周代の政治の基盤をすえたわけです。天子ではなかったが、実際上周王朝を行政面で治めた人物、武王は武力で討伐しただけですからね、というわけなんです。
 日本で言えば聖徳太子的人気のある人です。そのところに左治天下とか左相ですね、左相天下とか国とかいう表現が出てくるんです。つまり今の幼い成王と年配の周公との関係が、「左治」とか「左相」とか「左助」とかいうかたちで表現されるものであった、ということがまず分るわけです。ほかには、太宰。太宰府の太宰について、天子を「左治」するものだという表現が、『礼記』で出てくるところがあります。これも臣下の、天子を除いてNo.1の地位にある役職なわけです。まあ総理大臣級といっていいでしょうか。
 次に、皆さんがよくご存知の例としましては、倭人伝に出てまいります。これは中国の文献であると共に倭国に関係した文献であります。ここでは「卑弥呼を男弟が佐治している」と、これもはっきり「佐治」と同じ字を使っております。左に、にんべんはついておりますが、意味は同じですね。「佐治国」とこう書いてあります。この場合もさっき言いましたように、倭王は卑弥呼に違いありませんが、卑弥呼は宗教的な巫女の様な、神秘な能力を持った女性というわけです。実際の行政をいちいち卑弥呼がやっていたわけではないのです。行政の方はおそらくその男弟とよばれる人物がやっていた、とこうみていいんでしょう。これもそれ程異論はないと思います。その男弟に関して「佐治」という表現が使われている。ここで重要だと思うのは稲荷山の鉄剣を書いた人物はどんな文献を読んでいたか、漢文を書く人ですから中国の文献を読んでいたと思うんですが、倭人伝なんかは読んでいた可能性は非常に大きいでしょうね、と言うのは、中国の文献であると同時に日本列島の倭国の事を書いた文献ですからね。これを読んでいる可能性は非常に高いわけです。これを読まずに中国の他のむつかしいのばかり読んでいたというのはむしろ、考えにくいくらいのものなのです。だから「左治」の意味を考えると倭人伝の用例は非常に重要になってくるわけです。それは『三国志』の一部分ですから、それ以前の中国の古典の用法と一致している。
 もう一つ、例はいくつもありますが時問の関係で、性質の違う別の文献をあげます。『日本書紀』にでてまいります。持統紀の最初の方に出てまいりますが、これは「左治」ではなく「佐定」が書いてございます。誰を助けて定めるというと彼女の夫である天武を助けたわけです。いつ助けたかというと壬申の乱ですね。あの時に夫の天武を、「佐(たす)けて、天下を定む」という表現がでてまいります。これは皇后だから助けるのは当り前だともいえますが、他の皇后のところではそんな表現は出ておりませんので、この持統の場合は後に自分自身が天皇になったことでも分りますように、単なる皇后ではなくて、かなり実力派皇后だったというわけなんでしょう、特に壬申の乱の時、かなり天武としては心千々に乱れたと思いますよ。肉親の兄の子を討つわけですからね。それを力になってささえた、「あなたそんなグズグズせんで、決断する時はしなさいヨ」といって、尻をひっぱたいたかどうか知りませんが、とにかく普通の皇后にはない実力を発揮して天武の右腕だか左腕になったんでしょうね。だからそこに「佐けて天下を定む」という表現がでてくる。事実、天武持統合葬陵として、両者は同じ陵墓の中に葬むられていた。
 以上からみますと、「左治」という表現は左治される方はもちろん、政治権力圏の中心人物、天子もしくは大王という中心人物に間違いはないですね。ところが左治する方の人物はどういう人物かというと、これは天子を除けば全部臣下という立場からみればNo.1の臣下。さらに場合によると周公の場合でも卑弥呼の男弟の場合でも、実際は佐治する方の人物の方が行政の実権はにぎっている。そして佐治される方の人物は、年が若いとか女である、そういう風な理由で要するにシンボル的存在であるという時に使われているわけです。「佐定」の場合はちょっと違いまして、持統の場合は天武が子供だったりしたわけではないんですから、そこは「左治」と書いていない。壬申の乱の時、実力を発揮して天武を激励してひっぱたいたといいますか、おしりを押したということを「佐定」とかいてあるわけです。ですから「左治」とまでは書いてないわけです。だから今の持統くらいまでは「佐定」とかけても、「左治」とまでは言えない感じなわけです。
 今の様に、どの文献をみてもその論理は変るところがないわけです。そうしますと倭人伝を銘文の作者がみたか見ないかは別にしましても、どれをとっても、用法が違わないわけです。だからこの用例にしたがって、この銘文も理解する。わたしはこれは当り前だと思うんです。これは、わたしが『三国志』の倭人伝を解読した『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方は、よくおわかりだと思うんです。倭人伝だけを取り出して自分の好き勝手な方へ色々解釈する、また『古事記』・『日本書紀』に色々くっ付けて解釈するという。これで従来百花繚乱だったわけです。
 わたしの方法はそうではないわけで、倭人伝は『三国志』の一部分だから倭人伝で間題になる用語があったら、これを『三国志』全体の用例によって倭人伝を理解する。それで近畿説に有利になろうと、九州説に不利になろうと、それはかまわない。結果は、わたしの関知する所にあらず。とにかく今いった方法だけを、わたしはとります。これが『「邪馬台国」はなかった』全体を貫く方法を、ひと言でいってそうなのです。今度の場合も同じ方法をとるしかないのです。「左治」という言葉は中国語であって中国にかなり用例がある。日本の文献にもあるわけです。その用法が皆一致しているわけです。その一致した用法によってこの銘文を解釈する外ないので、その結果が誰かにとってうまく天皇家だと、大王は天皇家だという結果になってもかまわない。また仮に九州王朝説全部を粉砕する効力を発揮したって、これは全然かまわない。そう論理が示していたら、いくら吹っ飛んだって当然のことです。わたしはそれを非常に喜んで迎えることしかできない。
 ところがどうも天皇を示しはしない、となっても、これは困るやっぱり天皇家にしないといけないという手加減を、わたしはしないんです。それはわたしの方法ではないのです。
 この立場でみますと今のAとB 二人の現在時点の関係はいま言った様な関係で、大王というのに対して、コノカキノ臣かオノワケノ臣という人物は要するに大王が何かの理由で、小さいか女か何か知りませんがそれを補佐した、実権はそれ以上にあったという可能性が充分ある。そして親戚であるか、親族である可能性もあります。何か知らないけれど、とにかくそういう実質上の権力を持っていたという風に理解する他ないのです。そうしますと、このコノカキノ臣に当る人物が今の関東の稲荷山の古墳に葬むられているとしますと、これを近畿の天皇に対してそういう関係にいたとは、わたしの頭ではどうも理解できないのです。こうしますと、ナントカ大王というのはやはり近畿の天皇家の一人物と考えるのは無理だ、これは関東における大王と自称しているのか、カキノ臣という人物が呼んでいただけか知りませんがね、関東の王者である。その関東の王者に対して、カキノ臣は非常に密接な関係にあって、おじさんだか何んだか知りませんが、実質権力を握っているくらいの、大王以上の人物であると、こう判断する他なかったわけです。これがわたしの左治問題に対する理解です。
 その後みていますと、この左治問題が各学者共通のウィークポイントになっている様ですね。井上光貞さん、大野晋さんなんかは、これは田舎者の大風呂敷である、嘘をついているんである、とこういう言い方をしているんですね。つまりオノワケノ臣という人物は関東の田舎者だ。だから田舎者という者は大体嘘をついたり大風呂敷をひろげるものだということでしょうかね。実際は近畿へ行って門番をさせられたにすぎない。これは井上光貞さん説でして関東の豪族は自分の二・三男を近畿につかわす、人質という意味を含んで遣わすんだ。それを天皇家は門番に使ったんだという説をずっと早くから発表しておられるんです。だからたかだか門番だったのを大風呂敷、あるいは大嘘をついて「左治天下」と言っているだけで、これをみてもいかに彼が田舎ッぺかが分ると言っておられるのです。大野晋さんもそうなんです。しかしわたしの目から、登場人物を田舎ッペだか嘘つきとして処理する。これも辺ぺんたる端っこの所でそういう感想をもらすなら許しますよ。田舎出身の方は差別だとおこるかもしれませんがね。それは別にして、まあまあいいですよ。
 しかし問題の根本をなすところ、さっきいいましたように、二人の人物しか出てこなくて、二人の関係を示す言葉はそれしかないのに、いわば肝心要(かなめ)のところですよ。銘文のそこをね、嘘をついているのだとか、大風呂敷だと言って消してしまう、他の自分の好きなところをとって言うのは空しいとわたしは思うのです。これは先程の倭人伝の事を対照してもらっても、分ると思うのです。これが一つ。
 次に今度は、これは銘文の作者がこれを間違えたのだとの説の人がありますネ。要するに実際は関東の豪族ぐらいだからたいした存在ではないと。しかし銘文の作者があまり用語を知らなくて、うっかり間違え「左治天下」と書いてしまったんだと言っている人もいる。しかし倭人伝と同じでした、原文が間違えたんだという言い方をしだすと人によって、あっちこっち好きな所を間違えさせることが出来るんですね。邪馬壹国の「壹」は「台」の間違いという伝ですね。まだあれは版本でした。だから現存最古が南宋本ということですから、陳寿の時代から大分たっている。ところが今度は金石文ですね。金石文まで、書く人間が間違えたなんて、これもやはり根本をなす問題については言うべきではない。根本をなさない問題でも、あまり言うべきでないとわたしは思います。
 もう一つ、今のオノワケノ臣という人物を大和の人物だと解釈する、田中卓さんといわれまして『古代天皇の秘密』といって新書版で書いておられる。新書版ですがなかなか面白い本です。井上光貞さんに対する批判なんか、歯切れよくやっておられますけれど。ところがこの場合、この人は大王は雄略でかわりがないんですが、今のオノワケノ臣という人物を大和の人物と考える。この点が違うわけです。大和の人物として何かの機会に関東に行ったんだ。何かの機会に関東に行ったんだというのは、ちょっとボヤーとしてくるんですが。ところがこの左治天下問題をどうしたかというと、このオノワケノ臣というのは『古事記』・『日本書紀』にでてくるこの人物だろう、というのは雄略が天皇の位についた時、クーデターをやったんですよね。兄弟で天皇の位争いをやりまして、その時雄略は負ける寸前だったんですが、逆転ホームランといいますか、逆転出来たのは大舎人、人名ではなくて役名ですが。人名は書いていない。それが普段から雄略に誼を持っていたのか雄略に通報した。雄略をやっつける動きがあることを。それで雄略が断固行動してクーデター。逆転に成功する、したという話が書いてあるのです。この大舎人がオワケノ臣だろう。このオワケノ臣は自分の通報によって逆転クーデターが成功した、そして天皇になったということを、大げさに佐(たす)けて天下を治すと書いたんだろう。これはわたしの夢であると最後にこう書いてあるんです。しかし他の所では用語等厳密に分析している方なんですが、そこに非常にもろい論証の輪がみえたと感じました。クーデターを通報するという事は大事なことかもしれません。しかし大事な事と、助けて天下を治すということは別ですよね。つまり先程の持統ですら、皇后時代の持統ですら「佐けて天下を治す」と書いてもらえなかった。「定む」とは言えても。それを通報したから「佐けて天下を治す」と書いたんだというのは、概念がかなり飛躍しているとわたしにはみえるんですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
 結局どの学者もこの「左治天下」には解明に失敗しているんですね。或いはある人は、これは関東の王者の自負を表す言葉とみたいと書いている人もあるんです。言葉とみると“自負を表す、”フーンそうかなと思うんですが、よく考えてみるとやっぱり大風呂敷、実際は「左治天下」といった用例のようではないんだけれど、関東の大物が大風呂敷をひろげて自負を表明した、結局同じことになるんです。だからどの人も、世間に説は一杯出ましたから皆さんご覧になっても、結局この「左治天下」を解明できない。
 最初からこの解説を手懸けられた岸俊男さん、非常に慎重な学者として有名なんですが、最近『歴史公論』ですが、稲荷山鉄剣特集号に新しい論文を書いておられる。この中でも最後のところで、この「左治天下」についは、うまく理解出来にくい点が多いので今後の保留としたいと書いておられる。まあ保留としたいということは、わたしは慎重をもって知られる岸さんらしく率直な表現だと思うんですが。しかしわたしになお立入って遠慮なく一言わせてもらえば、その保留部分が枝葉末節の保留ならそれはいいですよ。しかし今のように銘文の根本の、根本の関係を示す点を保留にしておいて雄略という結論、これは保留といっていない。これはちゃんと決っていると言っているのは、おかしいと思うんです。率直にいわせていただいて、岸さんも率直に言うことを望まれると思うので言いますが、そこを保留にするなら雄略のところも保留にしなければいけないのであります。だからその「左治」についてちゃんとした解釈、用例等がある。そこで雄略と決定するという筋のもので、「左治天下」は保留にして結論だけを出す、出しうるような部分ではないということなのです。結局どの人もこの「左治」には手を焼いている。あらゆる学界の学者が、また学者に対してジャーナリズムの人達が「左けて定説に定む」という感じですけれども、わたしはどの人に対してもこの点を、あなたはどう答えられますかと問うてゆきたい。これは弱点をチクチクつくんで、つかれる方はかなわんかもしれません。サジズムである、てなことを言われるかも知れませんが、わたしはここは一つのポイントだと思います。
 なおその他にも色々ありますが、もう一つ、第二の点を申しますと、文章と単語とを対比しまして文章中心か単語中心かということなんです。つまりわたしは今のワカタケルのところをカタシロ大王と読んだ。別にこれはカタシロ大王と読まないといけないと主張しているのではないのです。ワカタケルでも別にかまわないんです。そうであるかもしれない。またオノワケノ臣と他の学者が読んでいるこの人名をコノカキノ臣と読んだけれど、それもコノカキノ臣と絶対に読むんだと別に固執しているんではないんで、オノワキノ臣かもしれないんです。大体単語については確定できないというのがわたしの基本の立場なのです。邪馬台国論争研究史を逆のぼってみた人なら先刻よくご存知のことです。
 邪馬台国問題で内藤湖南京大教授が近畿説を唱えたのは、あの二十一の国名を近畿を中心にして、東は関東まで及ぶ国に当てはめたわけですね。そしてピダッと合うではないか、一部分修正したりしながら合わすんですけれど。今の官名なんかも倭人伝にでてくる『古事記』・『日本書紀』に合わせるわけです。例えば奴佳[革堤]とあり何のことか分らないんですが、あれを中臣だろう、中臣がなまったんだろうという風に、これまたピタッと合うというわけです。そういう風に全部合わせていきましてこれだけ『古事記』・『日本書紀』の固有名詞にピタッと合うんだから、邪馬台国は近畿にきまっていると主張したわけです。
 これに対してえらい飛びますけれど、宮崎康平さんが『まぼろしの邪馬台国』で使用されましたのは、今の二十一の旧名を有明海の周辺の国にみなピタッと合う、これだけ見事に合う以上は有明海に邪馬台国は面しているはずだとして、島原半島説を唱えられたんです。その他大勢の人が皆ピタッと合う所をあちこちに発見されたわけです。結局、研究史上の結論はそういう固有名詞を合せたんでは答は出ない。そうわたしは受けとったんです。研究史を見たときにそれは置いといて、はっきりした論理関係を持つ物をさがし出して、それによって確定できないかを見る。それを『三国志』全体の用例によって見る。こういう立場をとったわけです。
 だから稲荷山鉄剣が発見されてからまだ一年は経ちませんが、学者がしてきたのをみると、正にこれは邪馬台国研究史をもう一回やり直している様な感じなんですね。近畿説が今優勢ですけれど、その近畿説も専ら官名等『古事記』、『日本書紀』に合わせてこれだけ合うとやるのですね。ところが、合わないところもあるんですが、さっきの様に、シキの宮一つとっても合わないんですが。これは手直しする。で「左治天下」も合わないのは田舎者の大風呂敷、或いは銘文の作者が問違えたといって合わせていっているわけです、だから同じ手法がここで行われているわけです。わたしも同じ方法でみてゆきますと、これはどうも近畿の天皇家では無理だ、やっぱり関東の王者とみなければならない。こういうことなんです。
 なお若干の点を補足しますと、一つは最初カミツオヤと読んだ箇所、「上祖。」。あれをわたしは、「祖をまつる」あるいは「祖をたっとぶ」という風に読むんですが、これは小さいですがやはり大きな問題を含んでいる。と言いますのは、「上祖」を「かみつ祖」という読み方は確かにあるんですが、用例はいくつもあるんですが、それで読んでいくと論理は矛盾するんです。といいますのはオワケノ臣からのかみつ祖となりましてその子その子と続いて、最後にまたオワケノ臣が出てくる。そうすると論理的には所有格でずーと結んでいるわけです。何々の何々の何々のと。一番先頭と一番最後が同一人物になる。すると本人の所有格がかかるところが本人になるわけです。わたしはこれはありうることではないと思うんです。この辺も論理関係を中心に考えず、単語中心に考える人は、本人が下手な文章を書いたんだろうという風にやるわけです。わたしはこれは「祖をまつる、祖をたっとぶ」という動詞に読む、そうしますとコノカキノ臣は主格で、あと目的語になる人物を継いでいって、自分に至っている、と、こうなるんですから全然矛盾は無い。それは目的語の説明になってくる。これが一つ。
 もう一つは杖刀人首、これを今の定説者的な人達は「タチハキノオサ」と読むわけです。そしてこれこそ近畿天皇家に行って、門番をさせられた証拠だと理解する。この場合問題がありますのは世々杖刀人首たり、こうありますのでこの文章を率直に読む限りは、最初のオオヒコ、わたしはイフヒキ、読みは別にかまわんのですが、そのオオヒコと現在の自分までが杖刀人首だと書いてある。世々杖刀の人首たり、だからオオヒコも杖刀人首なんですよ、この文面そのまま読んだら、そうとしか理解出来ない文章なんです。だからもし杖刀人首がたちはき、門番ならオオヒコも門番なんです。そう読まなければならないんです。ところがそう読まないんですよ、わたし以外の人達は。だから二・三代前ぐらいから門番だろうと読むわけです。しかし二・三代前というのはこちらの都合に合わせた見当でいっているだけで、文面自身を読んだら、あれだけの短い文章で八代書いてあって、世々杖刀人首、オオヒコから自分までが杖刀人首としか読めない論理的な性格をもっている。この点もオオヒコを実在とみるにしても、そうでないとみるにしてもヒッかかるところですね。
 それからもう一つ、実体は門番だが大風呂敷を広げて「左治天下」といっているんだというんですが、門番とするタチハキの方は世々杖刀人首なんです。ところが「左治天下」は今なんです。時間帯が違うんです。だから実体は門番なんだが、それを大風呂敷で「左治天下」と言ったというなら、「世々左治天下す」と書かないとおかしいわけです。たがらその点も時間帯が矛盾しているんです。これも客観的には矛盾しているんですが、結論を先に決めてかかっているから、文章を書く人間がちょっと下手だったのだろうとしか処理出来ないわけです。
 それからもう一つ、井上光貞さんは次男・三男を派遣したという説を昔発表した、それが裏付けられたということを言っておられたのですが、これも非常に単純な矛盾があるわけです。次男・三男同志は親子ではないわけです。これは当り前ですね、考えてみたら。ところが、その八代は親子で皆書いてある。だからこれは次男・三男派遣事実には全然合っていないわけです。本当にこんな子供でも気が付くようなところが今までの議論では出てないんです。わたしなんかこれは非常に不思議である。単語の一つの意味を優先させ、結論を決めてから文脈・論理関係の矛盾は書く人間が下手だとか、間違ったとかいう処理を施すやり方に入ってしまったら、単純な矛盾すら目にはいらなくなるという風にわたしは思うわけです。
 なお終りに、大事な問題を一つ申し添えますと、重大なことは古墳の事実です。稲荷山古墳には棺が二つ有った、有るわけです。そして粘土槨が、いわば中心的位置に置かれている。そして鉄剣が出てきた礫槨、もしくは礫床といわれているものは粘土槨の横にすこし斜めに棺が置かれていたわけです。つまりこの古墳の中心の位置にある物を中心的存在とみるのが普通ですが、そうしますとこの鉄剣の主は中心人物ではないということになってきますね。そしてむしろ粘土槨の人物の方が中心ではなかろうか。もし空白にもう一つ棺があるとすれば、その人物か知れませんがね。とにかく鉄剣の出てきた人物は、この古墳の中ですら中心的位置にないということです。
 だからこれを副をなす人物ではないか、という問題がでてくる。また出土物に銀環が出てきています。ところが関東平野の主たる古墳では、殆んど金環が出てくるんです。だから長をなすものは金環を持っている、と言っていいくらいおびただしく金環を持っている。それに対して銀環を持っているのが若干あるんです。その点からもこれは副をなす人物だといえる。残念ながら粘土槨が盗堀されて大半の実態が分らないですから、そっちと比べての比較は副葬品ではできにくいんですが。礫槨の方は全然盗掘されておりませんので、そこから見ると副官としての要素を持っている。これはわたしのいう「左治天下」の姿から見ると極めてふさわしいわけです。「左定天下」と書かれた持統が天武の横に葬られていたということも思い併されます。
 最後の一言ですが、この稲荷山古墳の東北20kmの地点、そこに磯城宮と呼ばれる場所があったことが見いだされました。これは今日も来ていらっしゃる今井久順さんがわたしにお知らせ下さって、わたしもびっくりしたんですが、栃木藤岡町20km、さっきの志木、これは南に40kmその半分の近さですね。東北20kmの所に磯城宮という所があったんですね。大前神社というのは延喜式にものっている古い地名なんですが、その延喜式以前の古い段階で磯城宮と呼ばれていたということなんです。わたしが現地に行ってみたところ、正に石碑が神杜の境内にこざいました。明治十二年に建てられた石碑なんです。「囲む会」の中心になってやっていただいている中谷さんに、その後現地へ行って拓本をとってきていただきました。後で、こ覧下さい。(講演会々場に展示された。)横に書いてありますのはわたしが最初に行きました時判読したものです。まさしく磯城宮というのが延喜式以前という古い段階においてすでに存在したことがはっきりしてきたわけです。そうしますと現地、すぐそばの磯城宮をさておいて、大和の師木宮を言う場合ならどうしても大和のが要(い)る。それがなければまずそばの磯城宮と考えてみるのが筋だと思うんです。そばの磯城宮がこういう理由で駄目だとの論証をやってから大和にゆくならいいですが。この磯城宮は、わたしもそうでしたが、岸さんの他皆、こ存知なかったわけです。ないままで大和の師木宮、長谷を師木でもいいだろうというような形でずらして雄略にされたわけです。
 この点からも、やはりわたしはいかに定説のように今言われていようと、この雄略説、近畿天皇家説にはまず未来は無い、と生意気な言い方ですが、わたしには感じられているわけです。しかし考えてみますと、まだ出て一年足らずですね。邪馬台国論争自身があれだけ長い年月をかけてきたことを思いますと、一年足らずの間ですから、定説なんて言うのが実際にはおかしいのでしょうね。以上です。わたしは今後大きく、鉄剣銘文問題の視点がぬりかえられてくると思うものです。(拍手)
  ー講演後、質疑応答、次いで囲む会、熱心に討論行なわれる。


 これは講演記録です。史料批判は、それぞれの著書でお願いいたします。著書の例は、以下のとおり。
『ここに古代王朝ありき ー邪馬一国の考古学−』(朝日新聞社、絶版)
『関東に大王あり −稲荷山鉄剣の密室−』(新泉社、再販)
『多元的古代の成立「上」−邪馬壹国の方法−』(駿々堂、絶版)
『多元的古代の成立「下」−邪馬壹国の展開−』(駿々堂、絶版)


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稲荷山鉄剣銘文の新展開について―「関東磯城宮」拓出と全面調査― 解説として

講演記録 古代史再発見第1回『卑弥呼(ひみか)と黒塚』 三種の神器と『倭人伝』(電子書籍) 解説として

『市民の古代』第11集 吉野ケ里遺跡の証言 1989年

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