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「九州王朝の末裔たち」 古賀達也(『市民の古代』十二集)へ


『市民の古代』第13集 1991年 市民の古代研究会編
 ●研究論文

空海は九州王朝を知っていた

多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ

古賀達也

 1 千年の論争、弘法も筆の誤りか

 京都に住む私にとって、毎月目にする光景がある。月々の二十一日、「弘法さん」とよばれる催しだ。各地から善男善女が東寺(教王護国寺)に集まり、境内はおろか道にまで溢れた出店でにぎわう。この日だけは通勤バスが渋滞で遅れるのもあきらめなければならないが、弘法大師空海の命日にちなんだ、この「弘法さん」も三月が「本番」だ。
 さて、今を去ること千百余年、承和二年(八三五)三月二十一日、高野山にて入滅した空海は、その六日前の三月十五日に弟子たちへの教戒として『御遺告』とよばれる文書を残している。
 この『御遺告』は現在高野山に十四本あるといわれ (1)、内四本は空海真筆とされてきたが、近年の研究によればそれらはすべて後代の偽作とする説が有力視されている。その代表的な例として、上山春平氏が著書『空海』(朝日評伝選)にて、偽作説を展開している。また、真言宗宗門内部においても豊山派の守山聖真氏が『真言密教の研究』において偽作説を著わしている。
 そもそも、『御遺告』は真言宗内部において宗祖空海の遺言として信仰の対象であり、疑うこと自体がタブーとされてきた。にもかかわらず、古来偽作の疑いを持たれ続けてきたことも否定できない事実のようだ。
 『御遺告』の注釈・研究書の類は数多く書かれており、古いものでは『御遺告鈔』仁海(九五一 ー 一〇四六年)著 (2)、『御遺告秘決』実運(一一〇五 ー 一一六〇年)著などがあるが、中でも済暹(一〇二五 ー 一一一五年)著『弘法大師御入定勘決記』などは問答形式で偽作説に反駁を試みており、この時代すでに偽作説が存在していたことと、それに反論しなければならないほどの問題となっていたことがうかがえる。
 かくして、『御遺告』の真贋論争は現在にまで至っているが、総じて述べるならば信仰の対象として主観的なまでに真作説を主張する論者と、その文体の稚拙さや内容の矛盾点などを根拠に偽作説を唱える論者、そして第三の立場として空海の言葉を門人が筆記したという門人筆記説が存在している。
 これら各説の論点は多岐にわたり、それらを一つ一つ吟味検証することはもとより私の力の及ぶところではない。本稿において私がなそうとしたことは、従来、偽作説の根拠の一つとされてきた、あるいは真作説側からは「弘法も筆の誤り」として処理されてきた、空海の唐よりの帰国年の一年誤差問題について、多元史観の立場から再検討を加えることであった。そしてその結論として、『御遺告』には空海でなければ述べられない「真実」が含まれており後代の偽作とは考えにくいこと、さらには「空海は九州王朝を知っていた」という表記のテーマに遭遇したのであった。
 千年の永きにわたって続けられた『御遺告』真贋論争への多元史観的アプローチとして、本稿が一つの「回答」と成り得たかどうか、諸賢の御批判を請う。

 2 『御遺告』の空海帰国年

『御遺告』には大別して四種類あり、高野山を中心として書かれたもの、あるいは東寺の立場から書かれたものといくらかの相違はあるものの、内容的にはいずれも大差はない。中でも最も詳しく記されているのが、『御遺告二十五箇条』と呼ばれるもので、通称『大御遺告』とも呼ばれている。四種の『御遺告』とそれに記されている日付は次の通りである。

(1).『太政官符案并遺告』 承和元年十一月十五日(八三四)
(2).『御遺告二十五箇条』 承和二年 三月十五日(八三五)
(3).『遺告真然大徳等』  承和二年 三月十五日(八三五)
(4).『遺告諸弟子等』   承和二年 三月十五日(八三五)

 これら『御遺告』には共通してその前半部分に空海の生涯が略載されているが、本稿の課題である唐からの帰国を記した部分を『御遺告二十五箇条』より見てみよう。

 少僧、大同二年を以て我が本国に帰る。この間、海中の人々のいはく、日本天皇崩ずと云々。聞いて是の言を諌めて本口の言を尋ぬるに、船内の諸人、首尾を論じ争ふこと都て一定せず。着岸に注繋して、或る人の言に告げらく、天皇、某の日時崩じたまへりと。少僧、悲を懐き素服を給はる。
    (『弘法大師空海全集』第八巻より・遠藤裕純訳)

 『御遺告』の諸本はすべて空海の帰国年を大同二年(八〇七)としているが、その前年の大同元年(八〇六)三月十七日に桓武天皇が崩じている。
 さて通説では空海は延暦二十三年(八〇四)に入唐しており、この点『御遺告』も同様に記してあり異論はない。帰国年については大同元年(八〇六)の十月に九州に帰っており、唐より持ち帰った品々の目録『新請来経等目録』を高階遠成に託して天皇に上表している。空海自身はそのまま筑紫に留まっていることから、その理由や筑紫での動向が不明なため、後世様々な憶測や伝説を生むこととなった。
 『新請来経等目録』には大同元年十月二十二日の日付があり、本文にも「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す」とあり、この年に帰国したことは疑えない。したがって通説では空海の帰国年は大同元年とされている。しかるに、『御遺告』ではすべて大同二年に帰国したと記されていることから、偽作説の根拠の一つとされたようである。
 この矛盾は古来から真作説論者を悩ませたようで、実に様々な弁明がなされている。もっともオーソドックスな説明としては大同元年に帰国して、大同二年に入京したことを『御遺告』では「大同二年帰我本国」と記した、というものがある。しかしこの解釈に対しては偽作説側はもとより、真作説側からも批判がなされていて興味深い。その批判というのは真偽説どちらも、入京は入京であって帰国ではない、都をして「我が本国」とは言わないというものである。
 たとえば前節で紹介した済暹の『弘法大師御入定勘決記』では、おおむね次のような説明を行なっている。
 (1). 大同二年の「二」は「元」の字の下二点が書き忘れられたもので、帰国年は大同元年である。
 (2). これは空海の「文筆の誤り」で、御本意は大同元年であり『御遺告』そのものは真作に間違いない。
 (3). 空海がこのような誤りをおかしたのは「和光同塵」のたとえの通りであり、意図的なもの、言わば方便である。

 真言宗仁和寺の僧侶である済暹にしてみれば、このように説明するしかなかったのだろうが、何とも苦しい弁明と言わざるを得ない。しかし、その一方で次のような指摘もしている。
 「大同二年に我が本国に帰る。この間〜」とあるのは、筑紫から京都までの間のことではないのかという設問に対し、それを厳しく否定し、その理由として、もしそうであれば筑紫は日本国ではなくなってしまう。どうして王城(京都)のみを指して我が本国と言ったりするものかと反論している。
 このように真作説論者済暹にしても「大同二年帰国=入京」説を認めていないのは重要であろう。結局の所、この「大同二年帰国」問題は『御遺告』偽作説に有利な材料として今日まで指摘されているのである。真偽不明の『御遺告』に比べて、大同元年帰国説の根拠とされる『新請来経等目録』は同時代の人物、最澄による写本が東寺に現存しているが、第一級の史料価値を持つ同写本の存在は偽作説にとって大きな支えとなっている。

 3 隠された帰国年、『続日本後紀』空海崩伝

 空海の生涯、なかでも前半牛は謎が多い。帰国年問題もその一つであるが、数ある「空海伝」にはどのように記されているだろうか。比較的成立年代が古い「空海伝」には次の三つがある。
 『空海僧都伝』  真済著
        承和二年十月二日(八三五)成立
 『続日本後紀』空海崩伝
        貞観十一年   (八六九)成立
 『贈大僧正空海和上伝記』貞観寺座主著
        寛平七年三月十日(八九五)成立

 これら三つの「空海伝」の中で、最も史料的価値が高いとされるのが、六国史の一つ『続日本後紀』承和二年条に記された「空海伝」で、通称「空海崩伝」と呼ばれるものだ。官撰の正史であることから、豊富な情報と官僚機構を動員して編纂されたものであること、宗門内部の事情とは一応離れた客観的な記述が期待できることから、この「空海崩伝」の内容は検討に値する。それでは問題の帰国記事部分について見てみよう。

 (前略)
 延暦二十三年、入唐、留学し、青龍寺の恵果和尚に遇いて、真言を稟け学び、その宗旨、義味、該通せざることなし。
 遂に法宝を懐いて、本朝に帰来し、秘密の門を啓き、大日の化を弘む。
 天長元年、少僧都に任じ、七年、大僧都に転ず。
 (後略)
  (『弘法大師空海全集』第八巻より・真保龍敝訳)

 延暦二十三年(八〇四)に入唐した記事の後に帰国記事があり、次いでいきなり天長元年(八二四)の少僧都着任記事へと続いている。そこには、空海の最大の業績の一つである、日本国への真言密教の伝来年次が記されていないのだ。朝廷側は空海の帰国年を知らなかったのだろうか。否。前述した通り、空海は大同元年十月に筑紫へ帰着し、その地から『新請来経等目録』を天皇に上表している。こうした事実を同時代の中央官僚たちが知らぬはずはない。そして何よりも、帰国後の空海は新進気鋭の宗教家であり、唐より持ち帰った真言密教は都人の注目を集め、空海は時代の寵児として天皇からも崇敬されたのである。その影響力たるや一足先に帰国した最澄をして、空海を師と仰いだほどだ。しかるにその帰国年次を欠くこと、正史にあるまじき不可解な対応と言わざるを得ない。
 次に『贈大僧正空海和上伝記』を見てみよう。空海没後六十年に成立した同伝記は、著者の貞観寺座主について異論があるが、その成立時期については疑義はないようだ。そこに記された帰国記事部分は次の通り。

 (前略)其の年(延暦二十四年・八〇五)、十二月十五日、恵果和上入滅す。
 大同元年(八〇六)十月廿二目、請来した法の文状を、判官正六位上行大宰大監高階真人遠成に附す。
 〔此の下に恐らく脱文有り〕
 和上十一月廿日に上表す。(後略)
       (『群書類従』巻第二百六より)
     *( )内は古賀注。〔〕内は『群書類従』の行間注。

 なんと『贈大僧正空海和上伝記』には、『新請来経等目録』の大同元年上表記事のみで、いつ帰国したかが記されていない。しかも上表記事の部分に脱文有りと細注がなされているなど、これも不可解だ。上表時、何があったのか。そして、なぜその部分が抜けているのか。偶然の脱落なのか、それとも故意なのか。不審である。
 このように、「空海三古伝」の内、『続日本後紀』空海崩伝には帰国年も『新請来経等目録』上表記事も記されておらず、また『贈大僧正空海和上伝記』には大同元年の『新請来経等目録』上表記事のみで帰国記事そのものがないという体裁であった。
 こうなると、空海の帰国年は意図的に消された、あるいは、記すことができない事情が存在していたのではないか。そのようにさえ思えてくる。

 4 直弟子の証言、『空海僧都伝』

 それでは、最も成立が早い『空海僧都伝』を検討してみよう。空海没年の十月二日に書かれた『空海僧都伝』は、空海の高弟真済(八○○〜八六〇)の記と伝えられているが、これには古来より異論が多い。しかし、成立そのものは空海没後二十年頃までで、その内容は『御遣告』」よりも素朴であって、より古い時代の成立とされている。(3)
 しかも「空海三古伝」中、同書のみに帰国年が記されている。次の通りだ。

 (前略)天、至情を感じて、去んじ延暦の末年、命を銜んで渡海す。(中略)
 大同二年をもって、我が上国に帰る。茲より已降、帝、四朝を経て、国家の奉為に檀を建て、法を修すること五十一度、風を息め、雨を降らし、霊験その数あり、上、一人より、下、四民に至るまで、灌頂を授けらるる者、数万人なり。灌頂の嵐、我が師より始まり、真言の教え、この時にして立ちぬ。(後略)
      (『弘法大師空海全集』第八巻より・真保龍敝訳)

 このように、大同二年に帰国し、それより以降、真言の教えが立ったことを記している。文章の内容も『御遺告』の当該部分と酷似しており、同系列のものと考えられる。
 ただ、『御遺告』では「我が本国」とあるのが、同書では「我が上国」となっている。この「上国」という表現は、『偏照発揮性霊集』(空海の著作・手紙などを、弟子真済が編集したもの)の真済による序文中に次の使用例がある。

 (前略)真言加持の道、此の日来漸し、曼陀灌頂の風、是の時より彌布せり。これ我が上国、聖、聖運より出て大化兼ね撤せるを以て、印度の新教をして若のごとき人に授けて来者を安むぜしむとなり。(後略)
 (『三教指帰・性霊集』日本古典文学大系71)

 ここでの「上国」とは日本国を指すこと文脈より明らかであるが、『空海僧都伝』中の「我が上国に帰る」も「入唐」に対応して使用されていることから、同様に日本国を指すこと、これを疑えない。
 したがって、日本国のことを「上国」と記す例か、ほかならぬ真済の文書に現われていることから、従来、疑問視されてきた『空海僧都伝』」の著者は、言い伝え通り真済と考えるべきではなかろうか。
 いずれにしても、『御遺告』と最も古い、しかも直弟子による『空海僧都伝』の双方が、大同二年帰国と記していることは重大である。これら二例は、どちらも「我が本国(上国)に帰る」と空海自らの発言を引用した部分であり、その史料価値は高く、従来、世の論者をして偽作と退けてきたのはあまりに「安直」ではなかったか。

 5 空海の証言、帰国と着岸

 こうして、空海の帰国年はよってたつ史料に統一性がなく、混乱した様相を呈している。何よりも正史『続日本後紀』の沈黙が事態の複雑さを反映しているとも思えるが、果たしてそうか。
 今一度、すべての先入観を排して各史料を厳密に精査してみよう。
 まず、『御遺告』には大同二年に我が本国に帰るとあり、その間、すなわち大同二年より以前に着岸したと記している。着岸の場所については触れられていないが、その後、太宰府観世音寺に留まっていることが大同二年四月二十九日付の大宰府牒等により明らかである。そうすると、着岸したのは筑紫の地であり、その後、大同二年に本国へ帰国したと『御遣告』は主張していると考えられる。
 次に『新請来経等目録』ではどうだろうか。この上表文中で空海は筑紫に着いたことを「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す。これすなわち聖力のよくするところなり」と表現しているのみで、「帰国」という表現は一切使用していない。大同元年十月二十二日付の上表文であることから、空海の認識では筑紫に着くことは「聖境に達する」ことであり、「帰国」ではないこととなろう。
 さらに、空海の私信などを編集した『高野雑筆集』中の藤原冬嗣宛の文面に次の内容がある。

 (前略)延暦の末年、大唐に入ることを得、幸いに慈悲の大師に遇いたてまつって、既に本願を遂ぐ。
 (中略)
 大同の初年、乃ち岸に着くことを得て、即ち将来するところの経及び仏像等、使高判官に附して、表を修って奉進し訖んぬ。(後略)
      (『弘法大師の書簡』高木[言申]元著)

高木[言申]元氏の[言申]は、言編に申。JIS第3水準、ユニコード8A37

 この書簡は宛名も年月日も欠いているが、弘仁十二年(八二一)十一月に藤原冬嗣に宛てたものとされている。したがって、空海五十歳頃の手紙となる。
 ここでも、大同初年(元年)に着岸したと記されており、「帰国」という表現はない。
 管見では、空海自らが唐よりの帰国年に直接言及しているのは、これぐらいである。そしてそのいずれもが、大同元年に筑紫に着いたことを「帰国」とは表現しておらず、「着岸」「聖境に達す」と記していることが明らかとなった。
 「帰国」という表現は『御遺告』と直弟子真済記とされる『空海僧都伝』のみに使用され、いずれも大同二年のこととしている。このように空海は大同元年「着岸」と大同二年「帰国」とを明確に使い分けている。これが「史料事実」だ。こうした「史料事実」を無理なく説明できる仮説が一つだけある。古田武彦氏が提唱された多元史観、これである。

 6 空海は九州王朝を知っていた

 古田武彦氏の九州王朝説によれば、七世紀末まで日本列島を代表した王朝は九州王朝であり、同時に大和朝廷や関東王朝も併存していたとされる。そして七世紀末の白村江の敗北を機に、九州王朝は近畿なる大和朝廷に滅ぼされ、列島の代表者の地位を失うこととなった。
 隣国史料の『旧唐書』によれば列島の代表者の交替を次のように記している。

 日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名を雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は、云う日本はもと小国、倭国の地を併せたりと。
    (『旧唐書倭国日本伝』岩波文庫)

 中国側の認識として、もと小国の日本国(大和朝廷)が倭国(九州王朝)の地を併合したことを記した部分だ。古田武彦氏の研究によれば七世紀末の九州は大和朝廷の占領地となっている。
 その約百年後(大同元年・八〇六)に空海が筑紫を経由して近畿へ帰ったのであるが、その時点でさえ空海は筑紫に帰着したことをもって「帰国」とはせず、「着岸」と表現している。なぜか。大変こわい帰結だが、七世紀初頭においてなお、空海にとって筑紫は「我が本国」すなわち日本国ではなかった、このように考えるしかないのではないか。
 そして翌大同二年(八〇七)に近畿へ、すなわち「我が本国」へ帰国したのではなかったか。
 傍証がある。『旧唐書』には「或は云う」として、日本国が倭国の地を併せたと記していることから、日本国側の情報を掲載していることがわかる。しかし、その併合がいつであったのか、倭国(九州王朝)が完全に滅亡したのはいつであったのかについては記していない。その後も日本国からの使者が遣唐使として、たびたび唐を訪れているが、ついに倭国滅亡年次を記すことをしていない。
 『旧唐書』には学問僧空海の名前も記されているが、こうした、倭国滅亡年次を記していない唐側の認識と、空海の筑紫「着岸」、近畿「帰国」の使いわけは、筑紫と日本国とは別国であるという、中国と日本側の共通認識の現われと言わざるを得ない。
 ここにおいて、より深刻な問題が生じてきている。本稿表題とした「空海は九州王朝を知っていた」は、正確には「空海の時代にも九州王朝は存続していた」とするべきであった。もっとも、列島の代表者としての地位は失い、大和朝廷からは鎮西府を置かれ、「従属国家」へと転落していたであろうが、志賀島の金印以来、東アジアの大国であった九州王朝は一夜にして滅亡したのではなかったのではあるまいか。そのような時代の九州王朝の地を経て、空海は入唐・帰国したのだ。
 自らの死期を予感した空海が、弟子らに残すべき遺戒を一つ一つ声をふり絞るように述べ、側近の弟子たちは師の言葉を一言も聞き漏らすまいとして病床の空海を囲み、書き留めたもの。『御遺告』の「原型」とはそのようにして成立したのではなかったか。
 後に、様々な脚色や「伝説」が弟子たちの思惑により書き加えられていった結果が、現存の『御遺告』の姿であったとしても、真言密教を求め、命を賭して遣唐使船に乗りこみ入唐、帰国した空海本人でなければ述べられない歴史の真実、すなわち「少僧、大同二年を以て我が本国に帰る」は『御遺告』偽作説を否定する性格を持つのである。
 すでに述べたことだが、済暹による『弘法大師御人定勘決記』には、筑紫は日本国であるから「大同二年を以て我が本国に帰る」は「大同元年」の誤りであると主張していることは、逆の面から問題の本質を提起したものであった。済暹の時代、十一〜十二世紀には九州王朝は跡形もなく滅び、誰もが九州は日本国の一部であることを疑ってはいない時代に入っていたのだ。したがって、『御遺告』が後世の偽作であれば「大同二年を以て我が本国に帰る」とは絶対に書けなかったはずである。
 ひとたび、こうした観点に立てば、『続日本後紀』空海崩伝に帰国年次が記されていないことにも説明がつこう。
 正史たる『続日本後紀』の編者であれば、九州も大義名分においては日本国なのであり、当然のこととして空海の帰国年は筑紫に着岸した大同元年とすべきものであった。しかし、『続日本後紀』よりも三十年以上早く成立した『御遺告』、あるいは『空海僧都伝』にある大同二年帰国説が動かしがたい既成「真実」として朝野に流布していたため、苦肉の策として帰国年未記載という不様な体裁を取らざるを得なかったのではなかろうか。
 同様の配慮が当の空海自身の上表文にも表われている。『新請来経等目録』にある「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す」という部分だ。天皇への上表文である以上、天皇家側の大義名分に立った表記とせざるを得ないこと当然だが、空海は筑紫に帰着したことを「帰国」とせず、「聖境に達す」という表現にしたのだった。
 筑紫は日本国ではないが、近畿天皇家の勢力範囲、すなわち聖なる力が及ぶ境の内側であった。そうした九世紀当時の日本列島の政治的状況を、空海ならではの正確な表現で著わしたもの、それがこの上表文の内実であったのである。

 7 大同四年入京説批判

 以上の論証が指し示すところ、空海の近畿への「帰国」年は大同二年ということになるのだが、これに対して高木[言申]元氏による強力な反対説が存在する。
 氏の説を要約すると次の通りである。

 大同元年の、遅くとも十月には帰朝されていた弘法大師が畿内にのぼられたのを、多くの伝記類は大同二年(八〇七)の秋とみなしている。この年の二月十一日には、鎮西府の次官田中氏が先妣の周忌を行なったことに関与して、斎を設ける願文を作っておられる。また、同じく大同二年四月二十九日には、入京の日まで暫く観世音寺に止住すべしとの大宰府牒が、この寺の三綱にくだされているから、弘法大師の入洛は、当然それ以前ではありえなくなる。しかし、古来言い仏えられてきた大同二年秋の入洛説を裏づける史料は何一つ存在しない。(中略)
 ところが、弘法大師の書簡のなかに、その時期を明らかに示唆しているものがある。しかし、残念なことに、この書簡は宛名も年月日も欠いてはいるが、冒頭で「西府に一たび別れて、今に七年」とあるから、この書状の年代が確定されれば、おのずから、弘法大師がいつ頃、筑紫を離れられたか知ることができる筈である。
     (『弘法大師の書簡』高木[言申]元著より)

高木[言申]元氏の[言申]は、言編に申。JIS第3水準、ユニコード8A37

 このように、高木氏は空海の帰国年を九州に着岸した大同元年とされた上で、「古来言い伝えられてきた大同二年秋の入洛説を裏づける史料は何一つ存在しない」と断定されていることから、『御遺告』偽作説の立場にたっておられるようである。
 さて、氏が指摘されている、空海入洛年を示唆する書簡とは次のようなものである。

 西府に一たび別れて、今に七年。悵恋已まず。忽ち有る人の伝え語るを見るに、此日、京に入ると。即ち就いて謁えんと欲するに、私願期ありて山局を出でず。限るにこの縁を以て、馳せ謁えることを遂げず。貧道、聊か三寳を供せんと欲するに、山厨げき然として事ごとに弁じがたし。伏して乞う。米油等を済くことを垂れんことを。
 また大唐より将来するところの経疏文書等、数本を写し取りて普ねく流伝を事とせんと思欲う。紙筆等もまた得がたし。また恵みを垂れんことを望む。
  ム甲、頓首。
   (『弘法大師の書簡』より。『高野雑筆集』所収)

 この書簡は末尾の部分を欠いて、宛名も年次も不明だが、おそらくは上洛していた鎮西府の知人宛のものと思われる。
 高木氏は、この手紙の経典の書写を依頼した内容が、弘仁六年(八一五)に会津の徳一に宛てた手紙と同内容であることから、同じ弘仁六年のものであるとされ、弘仁六年の七年前の大同四年(八〇九)こそ、空海が筑紫を離れて入洛の途につかれた年であるとされた。
 はたして、氏の立論は成立するであろうか、検証してみよう。まず、氏が根拠とされた、弘仁六年の徳一宛の書簡を見てみよう。

(前略)
 空海、大唐に人って学習するところの秘蔵の法門、その本、未だ多からずして広く流伝すること能わず。衆縁の力に乗じて書写し、弘揚せんと思欲う。所以に、弟子康守を差して、かの境に馳せ向かわしむ。
 伏して乞う、かの弘道を顧みて、助けて少願を遂げしめなば、幸甚、幸甚。
 委曲は別に載す。嗟、雲樹長遠なり、誰か企望に堪えん。時に風雲によって金玉を恵み及ぼされよ。謹んで奉状す。不宣。
  四月五日     沙門空海
陸州徳一菩薩 法前 謹空
  (『弘法大師の書簡』より。『高野雑筆集』所収)

 この書簡は弘仁六年(八一五)四月五日に陸奥国会津恵日寺の徳一に宛てたもので、確かに経本の書写を願うことにおいては、前掲の鎮西府の知人に宛てた内容と同じである。したがって、高木氏は共に弘仁六年の書簡とされたのだが、残念ながら氏の説には従いがたい。
 二つの書簡に記された空海の状況を詳しく比較すればわかることだが、とても同年のこととは思えないのだ。たとえば、前者では米油などの食料にも事欠き、紙筆がなく経本の書写ができないと窮状を訴えている。しかし後者では「その本、未だ多からずして広く流伝すること能わず。衆縁の力に乗じて書写し、弘揚せんと思欲う」と写本が少なく広く流伝することができないと援助を乞うており、前者の段階よりも生活的にも布教活動にも格段の差を見てとれるのである。
 こうした、書簡に記された背景を考慮することなく、共に書写を依頼した書簡だから同年であろうとする氏の論拠は僭越ながら史料批判上、甘いと言わざるを得ない。したがって、これら書簡の内容から判断して後者が弘仁六年ならば、前者はそれよりも前とすべきである。と同時に、筑紫を離れたのも大同四年よりも前ということになる。
 かくして、高木氏が大同四年上洛説の根拠とされた、これら二つの書簡ははからずも、大同二年「帰国」説の傍証とも言える例であったのだ。
 こうなると、『和州久米寺流記』の大同二年十一月八日、空海が大日経疏を講じたとする記事や、同じく大同二年に大和国添上郡に虚空蔵寺を建立したという伝承も偽作として退けるのではなく、今一度検討の必要があろう。

 8 隣国の証言、『三国史記』

 空海の帰国年の年の誤差から発した本稿のテーマは、九世紀における倭国(九州王朝)の存在という。予想もしなかった帰結へと展開をみたのであるが、隣国史料に傍証があった。『三国史記』新羅本紀の次の記事だ。

 A(哀荘王三年、八〇二)冬十二月、均貞に大阿 [冫食]を授け、仮の王子と為す。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
 B(哀荘王四年、八〇三)秋七月、日本国と聘を交わし、好を結ぶ。
 C(哀荘王五年、八〇四)夏五月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
      (『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王)

大阿 [冫食]の [冫食]は、二水編に食。JIS第4水準、ユニコード98E1

 空海が帰国した時期とまったく同時期に、隣国の新羅では、倭国と日本国とを区別して対応しているのだ。古田武彦氏は『失われた九州王朝』において『三国史記』のこの記事を引用し、ここに記された倭国を九州王朝の残映あるいは後裔と表現されたが、本稿の一連の論証からすれば、むしろ近畿天皇家に従属状態とは言え、国家としての「実像」が九世紀においても存在していたのではあるまいか。
 たとえ、太宰府に近畿天皇家により鎮西府が置かれたとしても、そのことをもって九州王朝が滅亡した証拠にはならないのではないか。たとえば、多賀城が蝦夷国内に置かれていたことを古田武彦氏は論証されたが、その時点で蝦夷国が滅亡していたわけではない。これと同様の状態が九州王朝にもあったのであり、完全に滅亡するまでには、さらに長い年月が必要であったと考えるべきであろう。

 9 九州王朝の滅亡、被征服か禅譲か

 『御遺告』真贋論争へのアプローチは多元史観により全く新たな局面へと発展してきたようだ。多元的古代の証言者、空海の遺言は、九世紀における列島の政治地図を復元したのみに留まらず、より深刻なテーマヘと論理を導こうとしている。
 それは何か。率直に言おう。九州王朝から近畿天皇家への権力交替は、はたして征服であったのか、それとも「禅譲」であったのか。この問題である。
 従来、考えられていたように「征服」による併呑であれば、空海の時代、筑紫は日本国の一部として認識されていても不思議ではない。しかし、事実は違った。空海をして筑紫を「我が本国」とは言わしめなかった。筑紫は依然として「独立」した別国だったのだ。朝鮮半島側の認識も同様であったことはすでに述べた。
 とすれば、今一つの権力交替「禅譲」の可能性を視座に入れた論理的展開と諸史料の再検討が必要となる。しかし、この問題は本稿のテーマからあまりにも離れ過ぎており、かつ許された紙幅も尽きようとしている。問題点のみを列挙し、後の研究に委ねたい。

(1). 『旧唐書』倭国伝は、貞観二十二年(六四八)になって、また新羅に付託して上表文を奉り、唐と通交するようになった、で終わり、倭国が滅亡したとは記していない。
 また、同日本国伝においても、あるいは日本はもと小国で倭国の地を併せた、という、と記すのみで、倭国が日本国により滅ぼされたと断定も、記してもいない。むしろ、倭国と日本国との関係を明確にしきれていないことを告白したような表現となっている。
 『旧唐書』日本国伝は開成四年(八三九)の記事で終わるが、言い換えれば、その時点においてなお、倭国の滅亡を記していない、すなわち認めていないことになろう。

(2). 拙論「九州王朝の末裔たち」(『市民の古代』十二集所収)でも述べたことだが、神護慶雲三年(七六九)の道鏡事件において、大宰府の主神、習宜阿曽麻呂は皇位継承に関する発言権を有していた。
 はたして滅ぼされた側の官僚機構、大宰府に近畿天皇家の皇位継承に発言できる事態をどのように理解すればよいのか。
 さらに、九州王朝の政庁名、大宰府がそのまま続いている歴史事実をどう説明できるのか。

(3). 古田説によれば、「日本」の国号を最初に使用したのは九州王朝倭国であり、後に近畿天皇家が「日本」を継承したことになるが、戦勝国が自ら滅ぼした国の国号を「使用」するとは、どういう理由からか。

 以上、これらの疑問を解決する論理帰結、それは「禅譲」しかない。九州王朝の急速な没落に際して、近畿天皇家が列島の事実上の第一実力者となり、その彼我の現実を「禅譲」により公認させた、そう考えられるのだ。「禅譲」をせまる近畿天皇家に対抗する力も権威も九州王朝は失っていたのであろう。残された道は「禅譲」と引き替えに、自らの九州内の形式的権威と「独立」を得ることではなかったのか。そのように考えると、天智十年(六七一)の筑紫の君薩夜麻の帰国、すなわち白村江の戦勝国、唐が敗戦国の王を帰国させたことにも、積極的な理由がつけられよう。すなわち、「禅譲」の儀式を強要すること、これである。
 空海の『御遺告』より導き出された、九世紀における列島の政治地図の復元、それは九州王朝から近畿天皇家への代表権力者の交替が、征服ではなく「禅譲」である可能性を浮かび上がらせた。さらに、付け加えれば、譲られたのは列島の代表権に留まることはなかった。たとえば、年号の公布権であり、法隆寺の釈迦三尊像であり、そして神話を含む「歴史」そのものであった。その集大成が『日本書紀』であり、言わば同書は「禅譲」の書であったのだ。
 最後に言う。本稿で述べた「禅譲」は本来の語義のものではなく、血ぬられた力づくの「禅譲」である。それでも「禅譲」の形式を近畿天皇家が必要とした理由は何か。思うに、志賀島の金印の時代から連綿と続いた東アジアの大国、倭国の伝統であり、中国から金印を二度にわたり授与された「歴史の重み」であろうか。本稿で提起した「禅譲」説は新たな課題を提起する。倭国の完全なる滅亡はいつか、この問題であるが、ひとまず、ここで筆を擱きたい。私はあまりにも空海の幻想に取りつかれてしまったようだ。


(1) 森田龍僊著『高野の三大宝』
(2) 高木[言申]元「御遺告部註疏雑記」『続真言宗全書会報37』所収。
(3) 真保龍敝解説『弘法大師空海全集』第八巻


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