『古代に真実を求めて』
(明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部
一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年号
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一~四
古田武彦
古田でございます。昨年から各会での講演は自粛させていただく。そう言いました。それと昨年の十一月、一泊で東京八王子で行われた大学セミナー「万葉・古今が語る日本の古代 -- 古田武彦先生を囲んで」。そこでわたしの持っているテーマについて、それまで考えていたことをすべてお話しました。さらに今回書くことを約束している研究叢書『卑弥呼ひみか』(ミネルヴァ書房)の内容までも申し上げました。ですからこのような講演会でお話することもないと考えておりました。ところが「万世一系」という問題も出てきまして、これはわたしの立場からは放置しておけないということが一つ。それから藤原京に太極殿(だいこくでん)があるかないかということを古田史学会事務局長である古賀さんと電話などで論争していた。こういう問題は、やはり皆さんに聞いていただいたほうが良いのではないか。藤原京の問題は近畿の皆さんは現場に強いわけですから。話を聞いていただいてさらに深化した論争を行なえば良いのではないか、それが一つ。それで講演会でお話することになりました。
ところが現在、大学セミナー「万葉・古今が語る日本の古代」での講演以後もいろいろな問題が続出し、ぞくぞく深化しました。昨夜からも大きな発見があり、お話したいテーマがあふれています。しかしそれを経過を含めてしゃべっていれば、返ってお聞きになる方によく分からないことになります。それで今さらながらですがいくつかの要点に絞ってお話したい。関連のことは、質問の時間に聞いていただくなり、さらに新しい雑誌である『なかった -- 歴史学の真実』(ミネルヴァ書房)を見て補っていただくということをお願いしたい。
最初のテーマは表題どおり『「万世一系」の史料批判』です。これを古田史学の会代表である水野さんに講演でお話ししたいと申し上げました。しかし「その問題は解決したようです。」とご返事がありました。昨年に有識者会議が開催され、答申が会って承認される方向で進んでいるとのことでした。それでは、わたしの出る幕はないなと考えたりもしました。ところがその後の様子を見ていますと、すんなり議論がその方向で定まって進んでいないようです。新聞や雑誌にもよりますが『文芸春秋』などでは「万世一系、これが分からないようでは話にもならない。」などと、あおっているようにもみえます。それで今回元に返って再度お話したい。
と申しましても、わたし自身は次はだれが天皇になるとかならないとか、そういう問題に興味があるわけではない。はっきり言えば、それはわたしの出る幕ではない。それは広い意味の政治問題であって、広く議論していただいて決まるように決まればよい問題である。もちろん一人の国民として関心はありますが、歴史の問題・古代史の問題としては研究者としてのわたしの出る幕ではない。それは、なんの疑いもなく明瞭です。
その上で黙っておられないと考えたのは、皆さんにはよくお分かりいただけると思います。そこでは「万世一系」という言葉がさかんに使われ、これは自明の事実だ。これを考えないで、天皇の問題を考えることは許さない。このような論法の本があふれている。今日も本屋に寄ってきてまた買ってきました。しかしこの考えは言うまでもなく、とんでもない話だ。
これは皆さん良くご承知のように、『古事記』・『日本書紀』には、「万世一系」という言葉はない。どこを探してみてもない。索引を見ても、もちろんない。この「万世一系」という言葉を強調して言い出したのは、もちろん明治維新以後である。もちろん江戸時代には「勤王の志士」とか思想家の中では使われている。それがクローズアップされたのは明治以後である。
一番有名なのは『明治憲法』の冒頭に、それが書いてある。もちろん『皇室典範』にも登場する。
『憲法義解』(伊藤博文著 宮沢俊義校注 岩波文庫 一九四〇年)
第一条 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
・・・
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫ヲ繼承ス
・・・
第三条 天皇神聖ニシテ侵スヘカラス
・・・
第四条 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
・・・
『明治憲法』には「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と書かれてあり、「万世一系」だから「神聖ニシテ侵スベカラズ」である。そのような論法になっている。『憲法義解』、これは伊藤博文が解説し注釈を付けたものです。さらにこれに宮沢俊義が校注した本が岩波文庫でございます。
この中で『憲法義解』の中で、『万葉集』の「大王おほきみは神にしませば天雲の雷丘に庵せすかも」が記載されており、この歌一つとってみても「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」である。そのような注釈になっています。
『万葉集』二百三十五番 古田武彦訳
天皇御遊 雷岳 之時 柿本朝臣人麿 作歌一首
皇者 神二四座者 之 天雲之 雷之上[入/小]廬為流鴨
皇は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
すめろぎは かみにしませば あまぐもの
いかずちの うえに いほり せるかも
しかしこれは申すまでもなく、まったくの間違いです。しかしこの歌は近畿天皇家関連の歌ではなく、近畿大和の飛鳥の雷丘(いかづちのおか)の歌ではない。いわゆる九州王朝関連の歌。それも今の福岡県糸島郡の雷山(らいさん)で人麿が作った歌。歴代の九州王朝の天子の墓所のところで作った歌。それはわたしの著書『壬申大乱』『古代史の十字路 -- 万葉批判』(ともに東洋書林)をお読みの方はご存知の話だと思います。
それで明治以後の「万世一系」については、詔勅を全部を抜き出して見るべきだと考えたのですが、そこまで余裕がなかったのでおおまかにとらえて考えてみます。それは明治以後の詔勅でも常に「万世一系」が出るわけでもない。わたしは、戦争中(太平洋戦争 ーー 大東亜戦争)に育った人間ですから、感覚的にそうは感じていたが、あらためて調べてみるとその通りだからです。
たとえば『教育勅語』でも「万世一系」という言葉は出ない。それにあたる内容はありますが言葉としては出ない。出てくるのは『開戦の詔書』、大東亜戦争、若い人は太平洋戦争と言っていますが、そこに「天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル・・・・」と書かれてある。また有名な東条英機が出したと言われる『戦陣訓』。そこに「本訓其の一 第一 皇國 大日本は皇國なり萬世一系の天皇上かみに在おはしまし、・・・・」とある。
ですからこれを見れば、まずお分かりのように、『開戦の詔書』それから『戦陣訓』で、そのときに「・・・万世一系・・・」と言っています。だから、このように相手である国民や兵士に対して「死を惜しまず行け!」と言う。なぜならば「・・・万世一系・・・」だからと、相手を駆り立てる時に使われる役割のようです。詔勅などをみていますと、常に万世一系、万世一系と出ているわけではない。かなりその中の特殊なケースのみに出ている。つまり国民なり兵士に対して、死の淵に追いやる時、生と死を分かつ時に行けと使われている。そのときの理由付けに「万世一系」という言葉が登場している。これは子供の時の感覚に一致している。そのように感じてはいたが、あらためて調べてみて、そのことを確認しました。
ところが『明治憲法』や『皇室典範』に出てくる「万世一系」はどうなのか。日清・日露の戦いがあったではないか。そう言われるでしようが、このことにいちばん意味がある。それで今さらながら気が付いたのは、この『明治憲法』や『教育勅語』が対象としているのは、とうぜんのことですが、その前にあった江戸徳川幕府である。今までは神君徳川家康公の後を継ぐ征夷大将軍の命を受けて命を惜しまず忠誠をつくすのが江戸時代の論理だった。ところがそうではない。天皇である。そうは言っても国民は判らないわけです。京都で貧乏公家の生活をしていたものだから知らない人が多かった。
これもわたしがよく言うことなのですが、京都に行って驚かされたことがあります。高校の教師時代、同僚だった数学の先生の話である。その人が言われるのに、御所の近くの老舗のおじいさんに可愛がられていた。そのおじいさんが言うには、『天皇さんも、偉ろうならはりましたなあ。出世しはったですなあ!うちの家には、天皇さんに貸した借金証文がだいぶありますが。今さら取り立てるわけにも行きませんしなあ。よろしおす。東京で気張ってくれはるなら、よろしおす。』、そのような話をよく聞かされたと。 わたしは、その話を聞いてびっくりした。少年の時は広島での戦争中の経験しかなかったから。京都の人の感覚には、まったく驚天動地だった。ですが調べてみると江戸時代は、そんなものだった。
しかしそれに対して明治になり、これではいけない。そんなことでは江戸時代に借金証文を書いていた人のために、なぜ死ぬのかとなる。だから、それを何を隠そう。万世一系だ。徳川将軍より、もっと、もっと偉いのだ。その神聖な天皇の決めた『明治憲法』だから間違いない。その血筋を決めた『皇室典範』だから間違いない。万世一系だから間違いない。そのように伊藤博文などは、きばって書いている。理由づけを、きばって書いている。ただの天皇ではダメなのです。そこで「万世一系」が持ち出されている。これも相手をむりやり承服させる。納得させる、そのときに「万世一系」が持ち出されている。その意味では、『開戦の詔書』や『戦陣訓』と共通の性格が持っている。これが一つ。
それから男系・女系が今問題になっていますが、わたしから見ると、これはたいへん簡単な話です。なぜ簡単かと言いますと、明治の天皇制の存在に並び立っていたのは一番の反対側の例、バックにあるのは徳川将軍家である。将軍家は百パーセント男系の男子である。女の将軍や女系の将軍も聞いたことがない。すべて男系の男子である。みんな江戸時代の武士も町人も、それを知らないものは、それこそいなかった。それに対して天皇というものを、新たに持ち出した。だから男系の男子に決めなければならない。なぜなら大元帥陛下でなければならない。全軍を統括する「大元帥陛下」という性格を「天皇」に置いた。「大元帥陛下」が、女性であったり女系であれば(徳川)将軍家に対して劣るというか、太刀打ちできない。当時の感覚としては当然です。もちろん議論としては、当時の学者や国民にはいろいろな意見があります。しかし議論があったからといって伊藤博文など国家の基本をなす人々にとっては、これは基本の考え方です。つまり明治の天皇制は、一面では徳川幕府の模倣である。この考えはだれも知っていたが、だれも言わない。知っていても遠慮して、どこにも書かれていない。しかしこのようなことは事実の問題である。明らかに明治の天皇制は、男系の「大元帥陛下」である。これはとうぜん徳川将軍家に対する男系の武家の統率に対抗するアンチテーゼとして打ち出されたことは間違いない。皆さんも聴いたら、それは違うよという人はいないと思う。しかし新聞を見ても雑誌を見ても、誰一人そのことは書かない。明治の天皇制は、徳川幕府の模倣である。これは分かり切ったことであるが、だれも書かない。不思議です。これを言うことが悪いと思って遠慮している。しかし、このことは良いか悪いではなく事実です。いままでの徳川幕府を意識して対抗して、新しい体制を造った。それが男系の天皇というものです。このことは動かせない。このことを(歴史的な)事実として捕らえ、その上で議論すべきである。その先の議論は、人によりいろいろあっても良いが、基本の事実を誤魔化して議論してはならないと思う。それが第二点目に、わたしの感じているところです。
もっとハッキリしていることがある。伊勢の皇大神宮を皇室が尊崇していることはご存知の通りだ。毎年正月には勅使を送り、天皇自身もときどき行かれるようだ。では伊勢神宮にお祭りしているのは「素戔嗚尊すさのおのみこと」なのか。みなさん何を言うのかと、言われるでしょう。ですが男系であれば素戔嗚尊である。彼は天照(あまてる)大神の弟である。皇室は、代々男系である。男系を大事にされた。それには伊勢神宮を見ればよろしい。「素戔嗚尊」が伊勢神宮にまつられ尊崇されている。こう言えば論理は一貫している。
しかし伊勢神宮はそうではない。伊勢神宮に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祭られているということは、聞いたことも見たこともない。百パーセント伊勢神宮は天照大神を祭っている。「天照大神」が女性であることは確実である。「天照大神」が男性か女性か、さまざまな議論があって、この議論自身は面白い問題を含んでいる。しかし『古事記』・『日本書紀』を見るかぎりは、百パーセット女性で、かつ「高木神」という旦那さんがいる。とうぜんながら「高木神」は男で、「天照大神」は女である。だから男系だというならば、素戔嗚尊が弟で嫌だと言うのならば、(伊勢神宮に)「高木神」の子孫が代々連綿と連なっていると言わなければおかしい。だから伊勢神宮に「高木神」を祭っている。だから男系である。これを忘れている歴史を語っている。そう主張するのなら善し悪しは別として、そうなっていれば我が国は一貫として男系である。
「我が国は、万世一系であり男系である。これを知らない人はいない。」そのような主張をする人は、伊勢神宮を見て見ぬふりをしている。伊勢神宮は完全な女系です。伊勢神宮が女系であることが素晴らしいし、わたしから観ればおもしろい問題を提起している。縄文時代は女性中心の時代だった。それが弥生時代になり、男系が威張る時代になっても、(縄文という)古(いにしえ)に返して女性の天照が登場した。天照は実在したすぐれた女性の軍事指導者である。これもわたしの本や論文をご覧下さい。このような問題、天照(アマテル、アマテラス)が天皇家の先祖で女性であることは、だれでも知っている。
さらに『教育勅語』の冒頭に、「朕惟フニ、我ガ、皇祖皇宗こうそこうそう、國ヲ肇はじムルコト宏遠こうえんニ・・・」という言葉があるが、青年時代には常に聞かされた言葉です。この「皇祖」というのは、とうぜん神武ではない。なぜなら『日本書紀』「神武紀」の最後のところには、「皇祖天神を祀る」というところが出てくる。神武が、自分を祭ることはありえない。とうぜん天照(アマテル)を祭っている。そして天(津)神。この神は、とうぜん天照より古い、その以前の神である天神は、天津神です。天津神と天照を神武が祭っている。「皇祖」というのは、天照(アマテル)です。天照から国が始まっている。女性から、わが国が始っている。そのことを宣言している。
『日本書紀』巻三神武紀(岩波古典文学大系本準拠)
四年の春二月の壬戌の朔甲申に、詔して曰く『我が皇祖の霊、天より降り、鑒光かんこうして朕わが躬みを助く。今諸もろもろの虜已すでに平げて、海内事無し。以て天神を郊祀して、用もって大孝を申す可きなり』と。乃(すなわ)ち霊時を鳥見山の中に立て、其の地、号して上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用って皇祖天神を祭る。
それを男系である。女系天皇はとんでもないという人がおれば、そこのところをはっきり説明しなければならない。あれは偽物だ。『古事記』・『日本書紀』の、あの神武天皇の詔勅は偽作だ。伊勢神宮で天照を祭っているのは間違いだ。そのような論証が必要である。わたしはそのような論証が成り立つとは思わないが、そのように論証し男系と主張するのなら好きか嫌いかは別にしても、一つの見解として理解できる。しかし伊勢神宮が天照(あまてる)大神を祭っているのは、国民はすべて知っている。伊勢神宮を見ないふりをしていて、みんなが見ているなかで「(天皇家の)歴史は男系」と言いつのっている。これを見ていると、わたしは(太平洋戦争の)戦争中を思い出します。天孫降臨、つまり天から神様が降りてきた。そのような絵を戦争中の人間は見せられて、本当に信じていたのか。よく黙っていたなと思われる。この講演会に来られたかたを拝見するには、そう思われると思う。しかし当時でも内心は、そのようなことはないと思っている。しかし言ったらヤバイ。友だちには「天から神様が降りてくることはない。」と言っていても、オッフィシャルに言えばヤバイから言わない。今の問題でも、世間では「天皇家は男系。男系。」と言っているが、「(先祖の)天照は女性じゃないか。」と家庭の中では言っていると思う。しかし世間で言うとヤバイ。だから言わない。そのような構造になっている。これも戦前と似た構造になっている。そういう危機感を持っています。
それとご存知の「継体天皇」の問題。系図上、そこは応神天皇六世の孫。『古事記』・『日本書紀』を見るかぎりは、応神天皇六世の孫と書かれている。応神天皇五世・六世の孫だから「男系」で良いのだ。そのような正当化する議論を苦労しておこなっている。
そこまで言うのなら日本の豪族は『古事記』・『日本書紀』からは、おおよそ天皇家の子孫という形になっている。血族国家史観。これはわたしの先輩の(古事記学会の会長を務められた)梅沢伊勢三さんが、研究の中で得られた概念なのです。つまり日本全国の豪族は、すべて天皇家の子孫だと言っています。そのこと自身は嘘に決まっている。そのようなことはありえない。しかし、そのような建前で『古事記』・『日本書紀』は書かれている。説話以上に大事なのは、そのような系譜である。そのように梅沢伊勢三さんは言われる。計算してみると『古事記』の場合は七十七パーセントが天皇家の子孫である。『日本書紀』では四十数パーセント、『古事記』より少ないけれども、それでも半分近くは天皇家の子孫である。
だから継体天皇が応神天皇五世・六世の孫だから、天皇家も「男系」の家系である。そのような主張をするのなら『古事記』の七十七パーセントのどの豪族を持ってきても天皇家になれる。平清盛や源義朝を天皇にしても、何の差し支えもない。ある意味では源氏や平氏の方が五世・六世の孫よりも、もっと天皇家に近い。そういう議論で平清盛や源義朝を天皇にしても良い。平将門ももちろんさしつかえない。そういう議論、ばかばかしいと思うけれども、その上で「男系」を言い募るなら、それなりに理解できる。一般の国民はなんとなく男系でなければと思いますが、皆さん方のような古代史に関心のある方はすぐ嘘だと分かる。しかし世間で言うとヤバイ。だから言わない。そのような構造になっている。これも戦前と似た構図になっている。
それで最後の問題の極め付けは、九州王朝論との関わりです。「万世一系」について、このごろ女性の生物学者まで出てきて、Y染色体がどうかとか、だから「男系」でなければと問題だと論じ、さらにそれを引用して論じているが、これはとんでもない話である。生物的に言うのならば、これは全員われわれが「万世一系」である。途中で突然変異してネズミから人間になったとか、鯨から人間になった人はいない。天から降ってきた人間もいない。問題は「万世一系」というのは生物学的概念ではなくて、天皇家が古代からずっと日本の中心権力者であり続けてきた。あるいは権威者であり続けてきた。そのような前提の話である。だから九州王朝があったという議論からは「万世一系」はダメになる。
わたしが言っているように、七〇一以前は九州王朝の時代で、以後は天皇家の時代である。これを認めたら「万世一系」は崩れ去る。「万世一系」ではなしに「九州王朝」論が崩れ去っても、わたしは一向にかまわないが、このような理由で古田の「九州王朝」論は間違っている。それを論証して退ける。そうしてもらえばよいのですが、そういう話ではない。
九州王朝論には触れもしないで、「万世一系」を知らないで天皇を語る資格はない。そのような高飛車の態度を取っている。これは「開戦の詔書」や「戦陣訓」に見られる姿勢と共通している。だからわたしとしては放置できない。それで、たとえささやかでもハッキリと申し上げたい。それで御手元のレジメ(「万世一系」の史料批判)をしかるべき人に送って、結果はどうなっても基本の歴史理解を、ここにおいて下さいと申し上げたい。
次に、追加というか関連するお話をしたい。今のわたしの言ったことをいちばん良くご存知だったのは、昭和天皇のようです。昭和天皇は生物学者ですから、血だけ言ってはダメだ。そういう感覚をもっておられたようだ。
『失われた日本』(古田武彦著 原書房 一九九八年、復刊 ミネルヴァ書房 2013年)
第十二章 空白の「三種の神器」五 参照
その中の関連史料として
『昭和天皇独独白録』(文春文庫)一四九ページ
『昭和天皇の終戦史』(吉田裕著 岩波新書)二二二ページ
これも経過を話せば長くなりますので結論だけ話しますと、昭和天皇の回顧録が出ていまして、アメリカ占領軍に要求されて敗戦の経過を語った。それを側近が書きとめた。その中で戦争を止める決心をしたのは「三種の神器」が原因である。アメリカ軍が日本列島の制海権のみならず制空権を握った。いつ伊勢神宮や熱田神宮に落下傘部隊が降りてくるかもしれない。そうなれば伊勢神宮の鏡や熱田神宮の剣が奪われる。あれが奪われれば、わたしは天皇でいることはできない。なぜならばわたしは北朝の身であるからと。これを読んでいて、わたしはビックリしました。
もちろん南北朝時代の歴史事実として、天皇家が「北朝の身」であることは知っています。高校教師時代には生徒に教えたこともあります。現実に敗戦の時「北朝の身」であることが、降伏の理由になっていたとは、読んでいてぶったまげました。しかもわたしには敗戦の時には一八歳でしたから同時代なのです。何回も昭和天皇は、敗戦の時国民に災禍が及ぶことを怖れられて降伏を決意された。そのような話を何回もしつこく聞かされていた。しかし「北朝の身」であることが、降伏を決意した原因とは。しかもこの件は重臣の日記にもおなじく書かれているから、まず間違いのない事実です。
それではなぜ「三種の神器」が出てくるのか。この「三種の神器」問題だけでも、言い出したらおもしろい問題が続出し講演はそれだけでも終わってしまうので結論だけ話させていただきます。昭和天皇は生物学的なことのみの血だけではダメだと考えていたようです。
だって戦後、有名な熊沢天皇が出てきて、南朝の系列だと主張して世間を騒がせました。あれを今の我々から見るとたいしたことはない。茶番劇だと思える。ですが昭和天皇ご自身は、必ずしも茶番劇だと思ってはいなかった。南朝のしかも男系の血筋を受け継いでいたのは、熊沢天皇かもしれない。北朝のほうは、ハッキリ言えば足利尊氏のお蔭で天皇になれた。天皇家それ自身から言えば南朝だった。そのことはわたしが言うと不遜な言い方になるが、そのことは昭和天皇自身が百も承知してた。そうすると結局血筋だけで議論は出来ない。そこに「三種の神器」が必要になる。理由はどうであれ「三種の神器」が、南朝から北朝に移された。それいらい北朝側が「三種の神器」をもっている。自分は持っている。だから自分は天皇で居られる。これが昭和天皇裕仁を支えた論理だった。ですからわたしの血筋が男系として連綿として続いている。そのような血筋論から言えば、「三種の神器」は要らない。しかし生物学者でもある昭和天皇は、そうは考えていなかった。
このあたりの問題については昭和天皇は、若い時に乃木希典将軍から山鹿素行の『中朝事實』という手写した本をもらった。この『中朝事實』が「三種の神器」論を述べています。(乃木希典は学習院の院長だった。昭和天皇裕仁はその生徒である。)その『中朝事實』がいま述べた「三種の神器」に対する昭和天皇の背景としてある。ですから血筋論だけではアウト。「三種の神器」を持っているからという論理付けがなければ、天皇が天皇たる存在ではありえない。
これもまた、言い出すとおもしろい問題に遭遇する。簡単にヒントだけ示せば『日本書紀』に「三種の神器」の問題をあれだけ、何回も繰り返し書いてあるのはなぜか。熱田神宮にある。ここにもある。『日本書紀』に繰り返し書かれている。この事実、これもおもしろい問題の入り口です。
以上、いま述べた歴史の事実をきちんと押さえて議論する。「万世一系」という言葉は、天皇家が江戸徳川将軍に対峙するために持ち出した。あるいは太平洋戦争の『開戦の詔書』や『戦陣訓』という人を戦場に駆り立てるときに使われた。そのような言葉を、もう一回使ってはいけない。もう一度使えば、それは何か別の目的があるのではないか。そのような外国の人の見方が正しい。その辺りのことをわたしは強調させていただきたい。
古田武彦
〈まえがき〉
1.最近、皇位継承をめぐる論議がさかんである。テレビや新聞・雑誌等に各氏の各論が掲載されている。
2.わたし自身は「皇位継承」自体については、これに「関与」ないし「介入」する意思は全くない。
3.ただそこで使用されている用語は、学問上、全く事実と道理に反している。いわく「万世一系」、いわく「女系天皇」等。
4.近来政治家や新聞記者・評論家・学者などが、これらについて「あやまった概念」に立って述べている。よって明確にこれを記すこととする。
〈本文〉
第一、「万世一系」という言葉は、古事記・日本書紀にはない。明治維新以降「強調」されはじめた言葉である。これは「神武以来」ではなく、「天照大神以来」の意だ。なぜなら教育勅語の冒頭に「我が皇祖皇宗」とあるけれど、この「皇祖」とは日本書紀の神武紀に、神武天皇が「皇祖・天神」を祭った、と述べられている、その言葉だ。神武天皇が“自分”を祭る道理はない。天照大神なのである。これをうけた「万世一系」を「神武以来」などと、ゆがめ解するのは不当だ。例の「天孫降臨」の神勅がわが国の皇統の「万世一系」の証拠とされた。これを肯定するにせよ否定するにせよ、事実を曲げることは不可である。
第二、言うまでもなく、天照大神は女性である。「夫」は高木神。高木神は「吉武高木」(福岡市)の「高木」。九州在地の神だったようである。ともあれ、高木神ではなく、天照大神を今も伊勢神宮に祭る天皇家が、「大いなる女系の王家」であること、天下に隠れもない事実である。現代の男系主義のイデオロギーのために「古来の伝統」を無視あるいは軽視することは不可である。明治国家はみずからの男性主義のために、この基本の道理を無視することはなかった。
第三、現代の男系天皇主義者は「天照・神武、共に造作」説の津田左右吉の説のあとで、一方の「天照神話」は切り捨て、他方の「神武天皇・第一代」は採り上げる。御都合主義という他はない。(わたしはいずれも、史実と見なしている。)
第四、継体天皇の問題。応神五世(或は六世)の孫とされている。記・紀は「血族国家」観に立つ。全国の豪族の八八パーセント(古事記。日本書紀は四五パーセント。梅沢伊勢三氏による)が「皇系」すなわち「天皇の何代かの孫」とされている。継体天皇は、その中の一人なのである。これで「男系の継続」と称するなら、桓武天皇の子孫の平清盛や清和天皇の子孫の源頼朝が「天皇」になってもO・K。そうなってしまう。笑止である。いずれの国の王家にも、戦乱や変動はある。わが国にも、それがあった。それだけのことなのである。「万世一系」とか「男系天皇」とか“りくつ”をつけはじめると、かえって世界の心ある人々から「?」を抱かれることとなろう。(欽明天皇の生母は武烈天皇の姉で女系。宣化天皇・安閑天皇の生母は尾張の豪族の娘。父はいずれも継体天皇である)。
第五、明治以降は「男子天皇」の立場となった。その理由は明白である。「江戸幕府の将軍を模倣した」からだ。将軍は代々男性。そして男系。これは「明治の常識」だった。勤皇の志士たちは、記・紀には精しくなくても、右の常識は万人周知だったのである。その将軍に代って、全軍を統率する「大元帥陛下」であるから、「男子」以外にはありえなかった。——「明治の天皇制は、古代ではなく、徳川幕府の模倣」これが明治体制のもつ歴史的な姿、その率直な事実に他ならない。
第六、不可欠の反対概念がある。九州王朝説だ。「七〇一」以前が、その時代。天皇家はこれ以降、との立場である。今は学界の定説となった「郡と評」の分岐点。それが「七〇一」だ。そのとき、必ず「廃評立郡」の詔勅が出たはずだ。だが、日本書紀にも、続日本紀にも、それがない。なぜか。ここに「九州王朝」説のリアリティ(真実性)が、しっかりと顔をのぞかせている。 この「九州王朝」説は、明治から敗戦までは「許容」されなかった。政治的に「排除」されていたのである。もちろん、わたしはこれを歴史的真実として真摯に主張している。けれども「学問上の応答」なしにこれを政治的に「排除」しなければ「万世一系の天皇家」というような“超越的”な言葉は成り立ちえない。それは「生物的概念」ではない。“常に政治上の中心権威者であった”という政治的概念だからである。純粋に「生物的概念」ならば万人とも「万世一系」である。やがて「九州王朝説を唱える者は非国民」と言われよう。——学問の自由の死滅である。
第七、今、人あって「万世一系」や「女系天皇」といった「非・歴史的な概念」をもてあそぶならば、必ず外国の識者から「軍部統率の大元帥陛下への復活の野望」の声が大きくあがるのを、おそらくとどめがたいであろう。事実、“外国の王家とはちがう、日本の天皇家”とか、“万邦無比の特異性”を唱えはじめているからだ。ウルトラ・ナショナリズムへの道である。
第八、最後に言う。現実の「皇位継承」いかに。これにはわたしは関心がない。ただ願わくは、皇室内部の女性に“圧力とストレスを与えぬ制度”それを祈るだけである。しかし「歴史の真実の圧殺」に対しては断固、死を賭しても戦わねばならぬ。なぜなら再び日本国民の不幸を、確実に、かって以上に、招きよせるべき重要な因子だからである。
それ以外に、何の他意も、わたしにはない。
二〇〇六、二月六日 暁天記了
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