古田武彦講演録 古田史学の会・新年賀詞交換会 二〇一一年一月八日 於:大阪市大阪駅前第二ビル  三国志全体序文の発見ほか  あけましておめでとうございます。古田でございます。おひさしぶりに皆様のお顔を拝見できて、たいへん嬉しく存じております。  最近も新しい発見があいついでいます。今日ここですべてを述べることは出来ませんので、要点のみ発表にして、詳しくは著作論文で発表したいと思います。  現在はミネルヴァ書房から出す日本評伝選『俾弥呼ひみか』を書いてる真っ最中でございます。   一 『三国志序文』の発見 『三国志』「東夷伝序文」(読み下しーー古田) 書に称す。東は海に漸(いた)り、西は流沙に被(およ)ぶ、と其の九服之制、得て言う可きなり。然るに荒域之外、重譯して至る。車軌の及ぶ所、未だ其の國俗殊方を知る有らざる者なり。 虞より周に曁(いた)り、西戎(さいじゅう)に白環之獻(けん)有り。東夷に肅愼之貢有り。皆世を曠(おな)しうして至る。其の遐遠(ふえん)なるせ(や)此(かく)のごとし。 漢氏の張騫(ちょうけん)を遣わし、西域(さいいき)に使し、河源を窮(きわ)めしむるに及び、諸國を経歴し、遂に都護(とご)を置き、以て之に総領(そうりょう)せしむ。然る後、西域の事、具(つぶさ)に、存(そん)す。故に史官、得(え)て焉(これ)を詳載すると得(え)たり。 魏興り、西域と興(とも)に尽くす能わずと雖も、其の大國に至りて、は龜茲(きじ)・于[[宀/眞](うてん)・康居(こうきょ)・烏孫(うてん)・疎勒(そろく)・月氏(げっし)・善*善(ぜんせん)・車師(しゃし)之屬、歳として、朝貢を奉らざること無し。略(ほぼ)漢氏の故事の如し。    [宀/眞]は、ウ冠に眞。JIS第3水準ユニコード5BD8    善*は、善に邑(おおさと)編。JIS第3水準ユニコード912F 而して公孫淵、父祖三世に仍(いた)りて、遼東を有す。天子、其の絶域の為に、委ぬるに海外之事を以てす。遂に隔斷し、東夷・諸夏に通ずるを得ず。 景初中、大いに師旅を興し、淵を誅(ちゅう)す。又軍を潜め、海に浮び、樂浪・帶方の郡を収め、而る後海表謐然(ひつぜん)、東夷屈服す。 其の後高句麗背叛す。又偏師を遣わして討窮を到す。極遠に追い、烏丸の骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐(ふ)み、東・大海を臨む。長老説くに、異面の人、日の出所に近し、と。遂に諸國を周觀し、其の法俗を采り、小大區別、。各に名號(めいごう)有り。得て詳紀(しょうき)するを得可(うべ)し。 夷狄(いてき)之邦(ほう)と雖も、俎豆(そしょう)の象(しょう)、存す。中國礼を失うも、之を求むるに、四夷に猶(なお)信ずるがごとし。故に其國を撰次し、其の同異を列し、以て前史の未だ備わざる所を焉(これ)に接せしむ。  実は昨年の九月終り頃には、日本評伝選『俾弥呼ひみか』は三分の二近く書けたのです。これなら年内に十分完成する。こう思っていたのですが一〇月の中旬、おそい金木犀(きんもくせい)が咲き誇っていたとき新しい発見がありました。要するに『三国志』全体の序文が見つかったのです。これは従来魏志の巻三〇にありますいわゆる「東夷伝序文」と言われているものです。もともと、これがおかしかった。なぜかと言いますと『三国志』には全体の序文はないわけです。ところが魏志の最後の巻三〇には二つも序文が入っている。一つは「烏丸うがん・鮮卑伝」の先頭に序文がある。この序文も、ちゃんと夷蛮伝の序文の態を果たしている。周辺の夷蛮が軍事的に変動を生ずる恐れがある。その夷蛮に備えて東夷伝を書いた。周辺の夷蛮に対する序文に、きちんとなっている。ところが、次にしばらく見ていきますと、また東夷伝の序文が入っていた。これはだいたい今まで、おかしいと思わなかったのが実はおかしかった。ところが、これをよく見てみますとと、これが『三国志』全体の序文である。  それではなぜ全体の序文が、全体の先頭にないのか。この答えは直ぐに分かりました。  つまり陳寿は敗戦国蜀に生まれた青年で、戦勝国魏の首都洛陽に来て張華(ちょうか)に見いだされた。魏の臣下のナンバー一の張華の注目というか評価を受けて、そして魏の歴史を書くことを依頼された。それで彼は一生懸命魏の歴史を書いた。それで魏朝の歴史を書き進めていた結果、(曹)魏が(西)晋に変わりまして禅譲を受けたとき、三世紀の終わり近くに完成した。だから完成した以上は、とうぜん(西)晋朝に正史として報告し、正しい歴史として晴れがましい表彰を受けるところだった。ところがその直前と言っていい時期に、内部の対立で張華が失脚した。そして対立する荀勗(じゅんきょく)が権力を握った。  荀勗が権力を握ったなかで『三国志』を完成させた。だから晴れがましい表彰を受けることは出来なかった。そのうちに陳寿は死んだわけです。三世紀の終わりに。今度は四世紀の初めになって荀勗一派が失脚した。そして張華を受け継いだ人々が復権して、再び(西)晋の権力を握った。それですでに死ぬ前に陳寿が完成していた『三国志』を復権して、改めて(西)朝の正史として認定するというはこびとなった。  これは本に書いたことがありまして、『古代史を疑う』という本の最後に「陳寿伝」を書いております。これをご覧いただければ、今のいきさつが詳しく書いてあります。そういうことがありましたので、なぜ魏志巻三〇・東夷伝に二つも序文があるのだろう。そういう疑問を持った瞬間に、その真相が判明した。つまり全体の序文を序文として晴れがましく提出できなかった。それを魏志の中に嵌(は)めこんで「東夷伝序文」と称していた。そういうことが、このたび分かった。  その内容は時間の関係で詳しくは申しませんが、先頭に「書に称す。東は海に漸(いた)り、・・・」で始まり、序文の終わりには「東・大海を臨む。長老説くに、異面の人、日の出所に近し」という言葉で結んでいます。ここで先頭の「書に称す。」とは、『尚書』に云っているとの意味です。『尚書』の先頭にある「海偶日を出だす」とは日本のことで、『尚書』ここで周公が言った言葉です。日本から倭人が使いを送ってきた。この使いが来たことに対して、たいへん喜んだときに言った言葉として『尚書』に載ってある。これは周公は今の西安に居た。そこから見ていると、日の出る処(ところ)は日本なのです。これを朝鮮半島と考えることは無理で、朝鮮半島だと解釈する大家も居ますが無理がある。なぜなら朝鮮半島の西海岸を知っていて、東海岸を知らないということはありえない。東海岸を知っていれば、朝鮮半島から太陽が出るということは、到底考えられない。それに対して日本の場合は、北海道・樺太・千島列島を知らないわけですから、日本列島から太陽が出ることを周公が示した。孔子のイメージも、それを受け継いでいる。  それに対して陳寿は『尚書』の周公のことを『三国志』序文の先頭に「書に称す。東は海に漸(いた)り、」と書きました。それに対して周公は間違っていた、そういうことを言っています。なぜなら三世紀の魏の時には、すでに魏の使いが倭国に行った。卑弥呼(ひみか)に会った。ですから日本列島に来ていて、太陽が日本列島から出るということを錯覚するはずはない。逆に女王国に来て女王に会い、不弥(ふみ)国から再び出発して「西東南四〇〇〇里」の侏儒国へ行く。その侏儒国の長老から「東南船航一年、裸国・黒歯国有り、日出る処(ところ)に近し」という情報を得る。  ちょうど『漢書』で班固が安息国(今のペルシャ・イラン)の長老から、西へ一〇四日。そこへ行ったら西に海しかない、今のブジラルタル海峡。そこからまた西へ海ばかり一〇四日行ったら、日の没む処(ところ)に近し。そういう情報を安息国の長老から聞いて書いた。その場合には国名が書いていない。そこから海ばかりのところなら、西へ一〇四日と書く意味がない。とうぜん陸地があることを示しています。  陸地があればとうぜん人間が住んでいる。ですが人間が住んでいながら国名は知り得なかった。安息国の長老はそこまで教えてくれなかった。だから班固の『漢書』には書いていない。ところが陳寿は『三国志』において侏儒国の長老から東に行けば、「有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至、日出処近」という情報を得た。この場合の「船航一年」とは二倍年歴で半分の六ヶ月かかりますが、そこに行けます。そして、そこの国名「裸国・黒齒国」まで記録した。太陽の出る処のより近いところ、そこまで記録できた。つまり司馬遷の『史記』やまた班固の『漢書』以上の業績をわれわれはあげることができた。それが陳寿の『三国志』全体の序文で言いたかったことなのです。  「東・大海を臨む。長老説くに、異面の人、日の出所に近し」は、そういうことを言っています。  だから多くの学者は、あえて言わせてもらうとわたし以外の多くの学者は、『倭人伝』では卑弥呼(ひみか)の女王国のことを書いた。そしてみんなそう思っていますが大間違い。女王国は中間の繋留値(けいりゅうち)であって、本当の目的地は侏儒国。そして侏儒国の長老から「日出処近」という東の端の情報を聞くために、そこまで魏の使いは行っています。  ですからわたし以外の邪馬台国論者は、侏儒国のことはほとんど論じていない。  いわんや裸国・黒歯国のことはすべてネグレクトしていて触れていない。生意気なことを言うようだが『魏志倭人伝』の本質を知らない。九州説・近畿説を問わず、わたし以外の邪馬台国論者は『魏志倭人伝』の本質を知らずに論じて来た。そういうことが分かってきた。威張ったような言い方をしますが、わたし自身もおそまつでした。昨年の一〇月中旬遅い金木犀が咲く頃まで、そのようなことに気がつかなかった。そしてそのようなことに気がついたら、その立場から日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』を最初から書き直さなければならない。それも大変なので、最初の三分の二はそのままにして、後の三分の一を改めて書き直してみようと考えています。それが現在のわたしの状況です。  (追記、発刊されている日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』は、これ以後再度書き直されたものです。)  二 男性と女性は同一人にあらず  さて次は今日の本題に入りまして、一番先に申しあげたいことは現在の教科書、つまり明治以後から二十一世紀にいたる教科書、明治から始まって大正・昭和・平成の教科書は、教科書としては失格、アウトである。このような簡単な事実である。  明治以後の教科書に「日出ずる処(ところ)の天子」がたいへん晴れがましく載っております。ところが皆さん、これはもうご承知のように中国の唐の初めにできた『隋書』の初めに載っている言葉です。『古事記』・『日本書紀』にはまったくありません。ところがその『隋書』を見ると、今の言葉を言ったのは「多利思北孤たりしほこ」という国の代表、君主が中国に使いを送り国書を出した。その国書の中で言っている言葉が、「日出ずる処(ところ)の天子、日没る処の天子・・・」と書いてあることもご承知の通りです。一方、多利思北孤は男性である。なぜなら「王妻號鷄(*3)彌きみ」という奥さんが居ることもご承知のとおりである。女性が奥さんを持つことはありえない。明白に男性である。    鷄*は、「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。JIS第4水準ユニコード28FF8(D863+DFF8)  それで一方、明治以後の教科書で「多利思北孤」に当てている推古天皇は明白に女性である。『日本書紀』にも、女性であると繰り返し書かれてある。だから明治以後の教科書は「男性=(イコール)女性である」、そういう立場で書かれてある。  もう一つの考え方「多利思北孤=(イコール)聖徳太子」である。そういう立場の説もある。聖徳太子は確かに男性である。しかし君主・国主である多利思北孤が、自分の署名付きの国書を書いて隋に使いを送った。これはいろいろ論証できますが、いろいろ言わなくとも自分の署名がない国書というものはありえない。だからそれを中国側が『隋書』に書いた。  そうしますと、推古天皇は明白に女性である。他方聖徳太子は国主ではない。第二権力者である。そうすると聖徳太子は国主ではないのに、偽の手紙を書いたということになる。聖徳太子はそんなインチキな男か。とんでもない。わたしは聖徳太子はそんなインチキな男と思わないし、またそれが通るとも思わない。  なぜかと言うと、隋の使いが倭国(イ妥国)に来て会っている。会話が成立している。会話が成立してしていながら、君主・国主と摂政を間違えて中国側が書く、そんなインチキなでたらめな連中か。わたしは、そのようなことを信じることはできない。だから「聖徳太子」説もダメです。 この場合大事なことは「多利思北孤」が男であるというのは、わたしの説ではない。わたしが勝手に男性に違いないという仮説を出しているわけではない。事実そのものが、男性として記録されていることは疑いがない。また推古天皇が女性ですよということも、わたしが説を述べているいるわけではない。『日本書紀』では繰り返し女性であるという立場で書かれてある。また聖徳太子も摂政という立場で書かれている。だからこれは説ではない。  「男性=(イコール)女性」というのが説である。明治以後の明治以後の教科書が採用した説です。教科書で採用したから信じろと言っても、日本国内でおとなしい日本人だけが丸暗記させられているだけの話で、世界中どこへ行ってみても、そんなことを出しても信じる人間は誰一人いません。  ということは、今の憲法十九条に書かれている思想と信教の自由は誰も侵すことはできないという、新憲法の確信をなす条文がある。 ですから今教師が「男性=(イコール)女性である」という、そんなことを生徒に教えることはできませんと言って拒否した場合、文部科学省の大臣が憲法に違反して、その教師を罷免できるのか。これは出来ない。また教師が生徒に対して、いまのような教科書の内容を教えた場合、生徒が今のような教科書の内容、「男性=(イコール)女性である」であることは考えられません。こういう態度に対して試験の問題として、○ではなく×にする権利が憲法に違反してあるのか教師にあるのか。そんな権利はない。このような憲法に違反して成立している教科書を一三〇年以上、おとなしく教科書として使わされているのが現代の日本人。だから日本人の頭がおかしくなるのは当たり前なのです。要するにそれは、信教の自由と書いてあるが、建前だけです。とにかく覚えて、ホントに○をもらえるのは、「男性=(イコール)女性である」であると器用に仕分けできる人間です。そのように器用に仕分けをできる人間が、東大を通ったり高級官僚になったりするわけです。しかし「それはおかしい、信用できない。」と突っかかるような人物は脱落するわけです。あるいは悩んで頭が変になる。だから日本でうつ病が多い。あるいは自殺が多いのはとうぜんなのです。だから、そのような建て前と本音を使い分けなければ生きてはいけないような社会に、明治以後の世の中はなっている。  だから器用に仕分けできる人間は、大阪地検特捜部の問題であったように無罪である、事実と違うことがたくさん存在しても、それは一応横に置いておいて、上から言われた筋書きで器用に偽装する。これは正に明治以後の公教育の典型なのである。検察は偽の調書を作成したのは優等生。それはおかしいという人間は脱落していく。  そういう社会であることは分かりきっているから、いろいろ手当をして、若干自殺が減っているでしょうが、根本的には建て前と本音が矛盾するのを公然と国家が押しつけている社会が、明治以後の社会である。それでいいのであれば、自殺などは勝手にすれば良い。そう考える人は良いが、そういうことは困ると考える人は今言ったようなことを本音と建て前を別仕立てに考える社会はアウト。ノウ(NO!)とやはり本当のことを、敢然と本当と言えるような社会になったとき、直ちに自殺やうつ病は激変する。日本だけが何も貧しいから自殺が多いわけではありませんから。心の病なのです。  そのような話を若い人にしましたら、二十歳過ぎの青年ですが、いや別に憲法を持ち出さなくとも「男性=(イコール)女性である」というのはおかしいよと一言で終わりましたが。それはそのとおりですが、憲法違反であるということを改めて申しあげたわけでございます。  三 水戸光圀の発掘祈念文  その次に、それからお回ししたいものがある。これは水戸光圀の上侍塚・下侍塚古墳発掘にさいして、墓前祭りで読み上げた名文です。これを八ヶ語に訳して、世界の考古学者に配ろう。そういうプランを八王子の大学セミナーでお話しし寄付などをいただきましたが、順調に進みまして英語からフランス語など八ヶ国訳ができました。お回しするフランス語訳は、フランス在住の奥中誠三さんがお造りいただいてもちろんネイティブの方にも見せてお造りいただいた。  さらに学術的な立場から神戸女子大学の赤井義弘さんが学識者の立場で校閲していただいた。これをお回しします。  これでさっそく谷本茂さんの発行している雑誌『フェニックス』に掲載することにしました。しかし図に乗りましてというか、ここまで八ヶ国訳ができたら、追加してさらに二つ増やしたい。後の二つの一つはイスラエル語、もう一つはアラブ語。今地上では盛んに戦闘が行われている。しかし発掘したらイスラエルの地の下からアラブ人の墓が出てきたり、アラブの地の下からイスラエル人の墓が出てきたりする。だからぜひこの二つも加えたい。これもだいたいアラブとイスラエルの大使館に連絡して下地ができまして、イスラエル語とアラブ語をプラスして、一〇カ国語のものを今年度中に世界中の考古学者に配布したい。もちろん配布してすぐ世界中の考古学者がおこなうとは期待できないが、死者に礼を尽くすというのが本来の方法だ。明治以後の近代考古学は間違っている。  なぜならばヨーロッパ・アメリカの近代の考古学者はクリスチャンである。古代の墓は魔女の片割れの墓だ。だから発掘して中のものを抜き出して、博物館やその倉庫に置いてあるだけだ。死者に対する礼を尽くすことを、かれらは怠っていた。しかしこれは間違いだ。水戸光圀がおこなったように死者に礼をつくしていない。発掘する前に墓前祭をおこなって死者に礼を尽くし、発掘結果を報告してまた墓前祭をおこなう。また発掘した後はより立派な墓にしてかえす。これが人類普遍の姿です。  ヨーロッパのキリスト教は、何十万年・何万年という人類の歴史から見れば、たかだか二〇〇〇年にすぎない新興宗教ですから、死者に対する礼儀は根付いていない。ヨーロッパではキリスト教の教えを信じ、死者に対する礼儀を失ったままである。それを明治以後の考古学は、ヨーロッパは何でも偉いんだ。東大・京大の考古学は、猿まねして同じような発掘して古墳を掘ったら放ったらかしにして、死者の大事なものを取り出して博物館に並べて喜んでいる。発掘された土地の古老はみんな憤慨している。それは憤慨しているほうが正しい。日本の考古学が、ヨーロッパの猿まねをしていることは間違っている。水戸光圀の姿勢が、人類普遍の姿です。そのことを世界に向かって発信したい。そのことを示したい。  たとえば、日本の考古学者がエジプトで発掘するときは、発掘する前に墓前祭をおこなう。もちろん終わった後も。そして整地して返す。そしてなぜ、そんなことをするのかと聞かれたら説明する資料です。  四 万世多元説  さてそれでは、次の段階に入らせていただきます。  東京八王子の大学セミナーでも、すでに報告した「万世多元」説の問題です。今日のテーマにも深い関係がありますので、要点は申しあげたい。 『魏志』倭人伝 〔魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀〕見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年  『三国志』を書いた陳寿はもっともわたしが尊敬する歴史家の一人ですが、彼が唯一ミステイクというか間違った箇所がある。それは「百年或八九十年」のところです。つまり倭人というのは長生きである。一〇〇年あるいは八・九〇年生きているとそう書かれてある。八十歳以上の寿命がある。  ですが、これは大ウソです。現在の研究では弥生時代の人々の寿命が判明していて、いずれも四〇歳代半ばで寿命は終わっていることははっきりしている。(たとえば福岡県福岡市金隈遺跡の報告書や説明書)ですから八〇歳まで生きているということはまったくない。  では、これは何か。わたしが年来言ってきた「二倍年歴」である。安本美典氏が最初言われ、わたしも賛成した「二倍年歴」、そのような立場で書かれている。これは『日本書紀』で古代の天皇の寿命が百二十六歳など、やたらに長い人もいるが平均してみると九〇歳ぐらいとして書かれている。ということは、やはり「二倍年歴」で書かれている。  ところが陳寿はそれを知らなかった。本当は『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」とあるように、一年に二回始まりがあるということですから、陳寿がこのことを正確に理解しておれば、こんなミステイクはせずに済んだ。しかし結果的に、はっきりと陳寿はミスを犯している。  ところがそのミスを、『日本書紀』の編者はミスと思わなかった。『三国志』に書いてあるから本当にそうだと考えた。 『日本書紀』上 神功紀(岩波古典大系に準拠)  三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡(こおり)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守登*夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。 ・・・  四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。  四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲者掖耶訳等を遣して上獻す。  六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。      登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127  『日本書紀』の編者は、中国の正史『三国志』のこの箇所を引用しています。ですから『三国志』「魏志倭人伝」を読んでいます。それを古代の人はこれだけ九〇歳前後まで長生きだったと、七一二年に『日本書紀』を造った人々は信じ込んだ。手持ちの九州王朝の史書を持ち込み転用して『日本書紀』を造るのですが、古代の天皇の寿命は平均九〇歳前後だった。天皇の寿命には一二〇歳前後の人もいますが、古代の天皇の寿命は長生きを本当だと思いこんで七一二年に『日本書紀』にはめ込んだ。そうして、かつ『三国志』「魏志倭人伝」の卑弥呼(ひみか)の記事を神功皇后をに当てた。  『日本書紀』を造る一つのキーポイントは「神功皇后紀」である。なぜなら『古事記』の場合には、卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)に当たる人物がいない。  これでは東アジアでは通用しない。卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)に対応する人物がいないと東アジアでは信用されない。だから対応する長大な「神功皇后紀」を造って、卑弥呼(ひみか)の記事を三回、壱与(いちよ)の記事を一回登場させ、かつ卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)の二人を一人(ひとり)にして『日本書紀』にはめ込んだのが大きな目標です。  しかも「二倍年歴」とは知らずに、古代の天皇を並べたものだから、神武天皇はBC六六〇年ぐらいになってしまった。だから七二〇年に『日本書紀』を造った編者は、「二倍年歴」という時代が存在したことを知らなかった。これはつまり完全に王朝が違う証拠である。八世紀からの新米の王朝と、七世紀以前の王朝が同一の王朝なら、そのようなトンチンカンな誤解をするはずがない。ここには明らかに、王朝の断絶がある。そのように言える。 『古事記』(岩波古典大系に準拠) 故爾に天津日子番能邇邇藝の命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天八重多那【やへたな 多より以下二字は音を以ゐよ】雲を押し分けて、・・・、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖【うきじまり、そりたたして 宇より以下十一字も、亦音を以ゐよ】、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気【くしふるたけ 久より以下六字は音を以ゐよ】に天降りまさしめき。 ・・・・ 是(ここ)に、天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗(かささ)の御前(みさき)に、麗(うるは)しき美人(をとめ)に遇(あ)ひたまひき。 ・・・・ 此(か)くて石長比賣(いわながひめ)を返さしめて、獨(ひとり)木花之佐久夜毘賣(このはなさくやひめ)を留めたまひき。故、天つ神の御子の御壽(みいのち)は、木の花の阿摩比能微【あまひのみ 此五字以音】坐(ま)さむ。」といひき。故、是を以ちて、今に至るまで、天皇命等の御命長くまさざるなり。 ・・・・ 故日子穗穗手見の命は、高千穗(たかちほ)宮に伍佰捌拾歳坐(ま)しき。御陵は、即ち其の高千穗の山の西に在り。 『日本書紀』(岩波古典大系に準拠) 巻二神代下第九段 時に、高皇産靈尊、眞床追衾(まとこおふふすま)を以て、於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵(ににぎ)尊に覆(おお)ひて、降(あまくだり)まさしむ。皇孫、・・・日向の襲の高千穗峯に天降(あまくだ)ります。 巻二神代下第九段一書第一 稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。・・・皇孫をば筑紫の日向の高千穗[木患]觸(くしふる)の峯に到します。 巻二神代下第九段一書第四 日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗の[木患]日(くしひ)の二上峯の天浮橋に到りて  さらに面白い問題がありまして、木花之佐久夜(このはなさくや)姫と石長(いわなが)姫の話である。『古事記』上巻の最後の巻に、「故、天つ神の御子の御壽(みいのち)は、木の花の阿摩比能微【あまひのみ 此五字以音】坐(ま)さむ。」といひき。」と出てきます。妹の木花之佐久夜姫は美人で、姉の石長姫はブスだった。ところが姉さんとの結婚をせずに、妹の木花之佐久夜姫を邇邇藝(ににぎ)は邇邇藝(ににぎ)は奥さんにした。「故、是を以ちて、今に至るまで、天皇命等の御命長くまさざるなり。」つまりブスの石長姫の呪(のろい)・祟(たた)りによって天皇の寿命は長くなくなった。  これはおかしいですね。それでは一一〇歳、一二〇歳と長寿の天皇はたくさんあるのに、長くないと言っているのはおかしい。  この問題は、今回わたしには簡単に理解できた。なにかと言いますと、同じページに「故日子穗穗手見の命は、高千穗(たかちほ)宮に伍佰捌拾歳坐(ま)しき。御陵は、即ち其の高千穗の山の西に在り。」とある。高千穂というのは、現在の福岡市高祖(たかす)山連峰だと思いますが、そこに彦穂々出見尊は五八〇歳居られた、とこのように書いてあります。  これは何かと言いますと、現在のわたしにはうたがう余地なく理解ができます。なぜかと言いますと、三〇数年前、手塚誠さんという福岡県糸島郡の農家で旧家のお宅を訪れたことがある。原田大六さんのリードにより、高祖(たかす)山にクシフル岳の存在を教えていただいた。原田大六さんが言うから間違いないと考えましたが、それだけでは不確かなので、何か書いたものはないかと問うと手塚誠さんのところに文書があることを教育委員会を通して教えていただいた。  それで確かに黒田長政の書状がありまして、そこに「クシフル岳」と書かれている。これを写真を撮り『盗まれた神話』に掲載させていただきました。  ところがその時に、実はもう一つ見せてもらった史料(系図)があった。系図を見せてもらって驚いた。なぜかと言いますと、その系図は、代々同じ名前が連続して並んで書かれていた。次々見せてもらった。これは何ですかと問いますと、「私も分かりません。ですがこのような系図が伝わってきている。」とおしゃった。  今のわたしには簡単に分かることです。これは「襲名」です。歌舞伎の世界で今話題になっていますが、歌舞伎の世界では江戸時代からの「襲名」ですが、日本の社会には古くから襲名という習慣がある。ある人が市役所のアルバイトに行って驚いた。戸籍を見ると江戸時代から明治時代まで「善兵衛」さんが続いている戸籍がありましたよと知らせて下さいました。このように日本社会には古くから襲名の伝統があり、江戸時代から判明している襲名の習慣が、現在まで続いているのが歌舞伎の世界です。ここの「五百八十歳」はひとりがそんなに長く生きていることはありませんから、一人でなく襲名である。一人が平均一〇年なら五百八十歳は五十八人、平均二〇年なら五百八十歳は二十九人の話にすぎない。 (手塚誠さんは数年前亡くなられたが、ご遺族の方に聞きましたらこの文書は福岡県図書館に系図を寄付されたので手続きを行えば閲覧することができます。後日調査で行方不明と判明。)  ですから『古事記』のここは襲名の書き方である。しかし『古事記』の編者は襲名の書き方であることを知らなかった。これを五八〇年生きたと考えたから、百十歳や百二十歳は命が短くなったと考えた。それは石長姫の祟りだと、俗説を流布した。だから『古事記』の編者はすでに「襲名」という記録の意味を知らなかった。万世一系どころではない。これは完全に王朝が代わっているという証拠です。 『日本書紀』巻十七 継体天皇(岩波古典大系に準拠) 廿五年二月の春二月。天皇病甚し。天皇、磐余玉穗宮崩りましぬ。。時に年八十二。 『古事記』(継体天皇) 天皇の御年、肆拾參歳(よそじまりみとせ)。御陵は、三嶋の藍(あゐ)の御陵なり。  さらに継体天皇の寿命について見ますと、『古事記』では四十三歳、『日本書紀』では八十二歳とある。明らかに『日本書紀』は二倍年歴ですが、『古事記』はここから一倍年歴に変わった。それが判明する記事です。ここで八世紀の『古事記』・『日本書紀』の編者はすでに二倍年歴の意義を本当に知らなかった。つまり完全に王朝は換わっているということです。万世一系どころではない。ここも王朝が代わった証拠である。 『日本書紀』(岩波古典大系に準拠) 巻十六巻 小泊瀬稚鷦鷯天皇 武烈天皇 岩波 二年秋九月に、孕(はら)める婦(をみな)の腹を刳(さ)きて、其の胎(かたち)を觀(みそなわ)す。 三年冬十月に人の指甲(なまつめ)を解(ぬ)きて、暑預(いも)を掘(ほ)らしむ。 四年夏四月に、人の頭(かしら)の髮を抜(ぬ)きて、樹の巓(すゑ)に昇らしむ。樹の本(もと)を[昔斤](き)り倒して、昇れる者を落し死(ころ)すを快(たのしみ)と爲(な)す。 五年夏六月に、使人をして、塘(いけ)の[木威](ひ)に伏せ入らしむ。外(と)に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すことを快(たのしび)と爲す。 七年春二月に、人を樹に昇らしめて、弓を以(も)て、射墜(いおと)して咲(わら)ふ。 八年春三月に、使女(おみな)を裸形(ひたはだ)にして、平板の上に坐(す)ゑて、馬を牽きて、前に就(いた)して、遊牝(つるび)せしむ。女の不淨(ほとどころ)を觀(み)るときに、沾濕(うる)へる者を殺す。不濕(うる)はざる者をば沒(から)めて官婢(つかさやっこ)と爲す。此(これ)を以て樂(たのしび)と爲す。  さらにどうしても、落とすことのできないテーマがある。それは武烈天皇のテーマである。もの凄くいやらしい、セックスハラスメントの権化、悪逆非道の天皇として『日本書紀』には描かれている。もちろん戦前にはそんなことは触れただけでもアウトになるから誰も触れていない。ところが戦後も触れていない。なぜかと言いますと津田左右吉のお陰だ。津田左右吉が、これは中国にある悪王伝説を模したものだ。それを入れなければいけないと思って造っただけの話だ。あれは造りものであって歴史とは関係がない。このように言った。だから津田左右吉の説を受け入れた井上光偵氏、直木孝次郎氏、上田正昭氏は、だれも武烈紀の歴史的意義を真面目に論じてはいない。しかしわたしは、この考えは間違いであると考えている。なぜなら『日本書紀』の編者が、津田左右吉の説に従って『日本書紀』を造ったはずがない。『日本書紀』の編者は、武烈をどうしようもない悪辣な人物として描きたかったから描いている。なぜか。これははっきりしている。継体以後の天皇家は、天皇としての資格はなかった。いわゆる地方豪族であって天皇になれる家柄ではなかった。それが天智・天武・持統は天皇になっている。それを合理化するために、前の天皇の武烈はこれだけ嫌らしい奴だったから、やむなく継体が請われて天皇になった。つまり継体天皇が、いかに天皇にふさわしくない人物かと見られていたかの逆証明である。だからこそ武烈天皇の悪王伝説は必要だった。  同じ構造で、中国でも必要だった。殷の紂王をあれだけ悪逆非道に描くことが必要だった。これそのものが、後の王朝が、前の王朝の正統な後継者でない説明である。けっして趣味や道楽で描いたわけではない。  いわんや日本の場合、ものすごい書き方をしているというのは、ものすごく継体は、天皇にふさわしくないという証明になる。その証拠に武烈の墓がない。『日本書紀』には武烈の古墳のありかが書いてある。しかし実際に調べてみるとまったくの丘であって、古墳のかけらもない。これは現地の教育委員会のかたにお教え頂いたし、皆さんもご存じだと思う。まったくの丘を『日本書紀』は武烈陵として示している。これだけ有力な証拠はない。結局継体以後の天皇は、武烈を天皇として祀っていない。祀っていないから古墳がない。『日本書紀』で武烈を悪者として扱っているのと対応している。  以上いろいろ挙げましたが、どれ一つ取りましても、「万世一系」というのは、まったくの絵空事。明治以後、徳川三〇〇年に対抗した「万世一系」というコマーシャルのうたい文句にすぎない。  寄り道しますが、明治以後の詔勅に何回「万世一系」が使われているかご存じですか。わたしはそれを調べたいと思ったのですが、簡単に調べることはできないのです。つまり明治以後の詔勅がまとまって出ている本がない。かろうじて新人物往来社から現代語訳の詔勅をまとめた本がある。唯一詔勅が全部入っているぶ厚い本があったが、これがバカ安い。これで明治以後「万世一系」という文言が、何回使われどういう文脈でどのように使われてきたかをまた調べて報告させていただきます。  五 『論語』の史料批判 為政編 四 子曰、吾十有五而志干学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」 先生が言われた。吾十五で志し、三十に立ち、四十で惑わず。五十で天命を知り、六十で耳に順い、七十にして心の欲するところの踰を矩ず。 子罕 第二十三 子曰、後生可畏、焉知来者之不如今也、四十五十而無聞焉、亦不足畏他已。 先生が言われた。後生まれたものは、畏るべきだ。将来わたしのようになれないなどとは、どうして言えよう。しかし四十・五十にもなって、一行評判にならないならば、畏れる必要もない。  さてその次は中国の歴史に入らせていただきます。  『論語』が二倍年歴で成立しているということを、古賀達也さんがお書きになりまして良い論文でした。しかしわたしはどん欲でして、それだけに満足できずに居た。ポイントとしては書かれたとおりですが、しかし学問として実証でそれを埋めなくてはいけない。「三十にして立つ、四十にして惑わず」という言葉があります。ですが古賀さんに申しあげたとおり、四十・五十まで世に知られなければ、後の世まで知られることはない。そのような言葉がかいてある。しかし四十・五十まで人に聞こえるような業績を上げなければ、その後もどうせたいしたことはないという考えはおかしい。だって生きていること自体が、当時は四十・五十までだ。これではどうしようもない。これを「二倍年歴」と考えて、二十歳や二十五歳と考えれば、始めて正確に理解できる。四十歳・五十歳を、二十歳・二十五歳と考えて、世に知られる業績が挙げられなければ、後はたいしたことはない。これも独断と言えば独断ですが、まだ二十歳や二十五歳なら話として成り立つ。しかし一倍年歴ならば、後がないのに絶対成り立たない。しかもこれだけ二倍年歴だということはないので、他も対象になる。ですから考え方として「志、立、惑、知、順、矩」は、他のところにも出てくる。この用例を全部抜き出して調べてみて、他の用例としては、このとおりだ。やはり二倍年歴だとピッタリ理解できるが、一倍年歴だとそうはいかない。このように証明をお願いした。  学問というのは、ワンポイントを指摘するというのは出発点ではあるけれども、本当の学問研究はそこから始まる。何回も古賀さんにお願いしていたが、しかし古賀さんは有能な方だから、労働組合の委員長をしたり、会社で営業に回されたりしてなかなかできなかった。他の人にもお願いしてみようと考えたが適当な人が居なかった。  それでわたしが調べるしかないと考えてまいりました。さいわい『論語』の総索引が出ていたので、高かったけれども思い切って買って良かった。これでいろいろなことが分かってまいりました。 巻第三 擁也第六 十一 子曰(い)わく、賢なるかや回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えざるも、回や其の楽しみを改めず。賢なるかや回や。 先生がいわれた。「えらいものだね。回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、狭い路地(ろじ)のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね。回は。」  ここで大事な横道にはいります。まず願回にたいする有名な言葉があります。ここに「陋巷ろうこう」とありますが、従来『論語』の解釈は、どれをとってみても「貧しい巷」と解釈してあります。実はそうではなかった。これは『如是我聞、孔子伝(上・下)』(大修館書店)を書いた諸橋徹次さん自身が、中国の曲阜に行かれて「陋巷ろうこう」が地名であることを見つけられた。「陋巷」は普通名詞だと思っていましたが、実はそうではなかった。固有名詞だとエッセイに書かれていた。わたしもハッと思って中国へ行きました。行って見て、はっきり「陋巷ろうこう」と看板に書かれてあった。表通りは一応立派になっているが、裏に回れば本当にこんな処に住んでおられるのかという貧しい家並みが連なっていた。つまり願回は陋巷に住んでいた。ということは、つまり奴隷ではないが自由民の最下層、それが陋巷に住む身分の人たちだった。つまり願回自身は自由民であるが、陋巷に住む最下層の生まれのであった。  もちろん孔子はそれを知って言っている。実は孔子自身が、たいへん貧しい身分の人である。と言いますのは親父さんが良い身分だったのが、反乱にあって魯の国へ逃れてきた。そこで九人の子供を生ませた。ところがほとんどが女の子だった。一人だけ男の子が居たけれども、その子は智恵遅れの子だった。最後に孔子のお母さんを娶った。彼女は占いをしていた。被差別民でしょう。彼女を娶って孔子を生ませた。司馬遷の史記は、これにひどいことを書いてあって、親父さんが姦通して孔子を生ませた。そういう見方をしている。つまり身分がまったく違っていて結婚する相手ではない。その彼女に孔子を生ませた。ところが孔子が生まれて三年目に親父さんが死んだ。そうすると他の親父さんのお母さんは、孔子のお母さんを相手にしない。身分が違うから。それで孔子は、お母さんと生活するために、何でも仕事をして稼いだ。 そのことは、子罕第九が事情を示しています。 巻第五 子罕第九 六 太宰問於子貢曰、夫子聖者興、何其多能也、子貢曰、固天縦之将聖、又多能也、子聞之曰、太宰知我者乎、吾少也賎、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、 太宰、子貢に問いて曰く。夫子(ふうし)は聖者か。何ぞ其れ多能なる。子貢が曰く、固(もと)より天縦(てんしょう)の将聖(しょうせい)にして、又た多能なり。子これを聞きて曰(いわ)く。太宰、我を知れる者か。吾れ少くして(いや)し、故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや、多ならざるなり、  太宰、これは人の名前です。子貢は孔子の有名な弟子の一人です。太宰という弟子が、孔子の有力な弟子である子貢に聞きました。 「孔子先生は聖者ですか。何でもお出来になるし、何でもお知りです。聖者ですから、そのようにお出来になるのですが。」  、そのように聞きました。」 「そのとおりだ。天性の天才ですから、何でもお出来になるのです。」、  そのように子貢は、孔子を持ち上げたというか、模範的な返事をしました。孔子はそれを聞いて、 「いや、違う。わたしは、貧しくて、賎しい仕事、鄙事(ひじ)やなんでも仕事をしなければならなかった。だから鄙事(ひじ)でも、なんでも働いて日銭を得て、それで生活をする若い時の生き方だった。だから、なんでもやらざるを得なかっただけだ。  本来君子は、なんでも出来なければいけないか。そんなことはない。  鄙事などなんでもしなくてすめば、一番結構なことだ。」 岩波文庫 抜粋 2486泰伯第八 ・・・・ 2487子曰、興於詩。立於禮。成於楽。 師曰く、詩に興じ、礼に立ち、楽に成る。  つまり孔子は身分の低い生活をしていた。ところがその孔子に大きな転機が訪れた。それが十五歳の時である。このことは、『論語』総索引を買って、それによって知ったのですが。  それで結局、「君子」とは何者か。当時、これは身分である。ちょうど江戸時代と同じく武士というのが身分であるように、武士に生まれたら生まれながらに武士である。商人に生まれたら、生まれながらに商人で一生商人を続けなければならない。同じように君子に生まれたら生まれながらに君子である。庶民は、永遠に君子に成れない。それが孔子以前の社会である。  ところが孔子はこれと違う立場を取る。何かと言いますと天体に星が秩序正しく運行している。それに対して地において、その天の意志を実行するのが「礼」である。それで有名な願回からどういう生き方をしたら良いでしょうかと問われて、孔子が答えている有名な言葉がある。 岩波文庫 抜粋 巻第六 顔淵(がんえん)第十二 一 顔淵、仁問。子曰、克己復禮為仁、一日克己復禮、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非禮勿視、非禮勿聴、非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、回敏不雖、請事斯語矣、 顔淵、仁を問う。子曰(い)わく、己を克めて礼に復(かえ)るを仁と為(な)す。一日己を克めて礼に復(かえ)れば、天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己れに由(よ)る。而して人に由らんや。顔淵の曰く、請う、其の目(もく)を問わん。子曰(いわ)く、礼に非ざれば、視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば、聴くこと勿かれ。礼に非ざれば、言うこと勿かれ、礼に非ざれば、動くこと勿かれ、顔淵の曰(い)わく、回、不敏なりと雖(いえ)ども、請う、斯の語を事(こと)とせん。  この「礼」を礼儀と取ると、これ以上変なことはない。朝から晩まで礼儀正しく息が詰まるような生活をしなければならない。しかし、それに願回が分かりました。たいへん喜んで生涯の指針と致しますというのも変である。この「礼」は何かと言いますと、天体の運行のように、天の意志を受けて、地で実行するが「礼」である。だから何事にぶつかっても、昼も夜も天の意志はどうだろう。天の意志を察することにより、地上の人間が生きるのが「礼」である。これが孔子の解釈である。それが出来る人が「君子」である。ですから「君子」という言葉の解釈にたいして、驚天動地のひっくり返しを孔子はおこなった。それ以前の「君子」は、先ほど言ったように身分で君子なのである。バカでもあほでも素頓狂でも君子は「君子」だ。ところが孔子は、それをペケにした。天の意志を体して行動するのが「君子」だ。新しい「君子」に対する解釈を立てる。それを願回に言った。願回も、陋巷に生まれた自由民の端くれですから、その孔子の言葉を聞いて喜ぶ。分かりました。願回も「君子」になることは、夢のまた夢だったが、わたしも「君子」になれるのですね。それが願回が感激した意味なのである。  だから願回が死んだとき、孔子が言った有名な言葉、「天われを喪(ほろ)ぼせり」。これも失礼な言葉で、願回一人が死んだくらいで、この言葉はない。他に弟子はたくさん居た。他の弟子は立つ瀬がない。しかし孔子から見ると、他の弟子は、身分上の「君子」に生まれて、教養として自分の教えをプラスアルファとして、自分の飾りとしている。本当の自分の教えとは違う。ところが願回は、本当の自分の教え、天の意志を実行して生きるのが「君子」だ。そのままその通り理解した弟子が願回だった。その意味で、本当の孔子の後継者は願回だった。ところが願回が早く死んだ。天は何をするのだ。願回を死なせて、わたしを滅ぼしてしまった。天に対して孔子は毒づいている。天にたいしてクレームを付けている。  この天は、仏教の天とも、朱子学の天ともまったく違う。漢の儒教では、商人出身であった劉邦・漢の高祖を「天子」として絶対化した。天に「忠」、親に「孝」という教義を打ち立てた。「忠孝」というぜんぜん孔子が知らない天子擁護の学を儒教と称した。その考え方が『論語』にもかなり入り込んでいる。身分君子のほうの考え方も『論語』にかなり入り込んでいる。それらを仕分けをしなければならない。共通の分母で孔子の思想を論ずることはできない。考えることも出来ない。 泰伯第八 ・・・・ 子曰、興於詩。立於禮。成於楽。 師曰く詩に興じ、礼に立ち、楽に成る。  詩というは、『詩経』の詩。若い十五以前の孔子は、詩に親しみ学問に興味を持った。ところが十五の時、礼に立つ。孔子は今まで学問をしてきたが、君子というものは、天の意志を実行しなければならない。それが「礼に立つ」である。つまり「楽に成る」というのは、「天の意志を実行することがわたしの使命である。」ことを楽しみとする。そういう習慣が「礼」である。これが孔子の思想の神髄を表す。それが願回を感激させた内容と対応している。それに気付く。総索引のお陰で、そのことを知ることが出来た。  六 蚩尤(しゆう)文字  大きく元に戻って、二倍年歴の話に移っていきます。  見ればお分かりのように、堯・舜・禹の舜(しゅん)は、百十二歳まで生きている。年齢のほうが二倍年歴だけでなくて、暦も二倍年歴だと考えています。このように、わたしは堯・舜・禹は二倍年歴であることは前から分かっていた。  その点を十一月に北多摩病院の検査入院の時、夜加藤院長にこのような話をした。二倍年歴より、一倍年歴のほうが古いかも知れませんよ。これは皆さんに、現在の暦は一倍年歴だから、古田の考えている二倍年歴は、その前にあったとご理解頂いている。ところがその二倍年歴より、実は前は一倍年歴だった。  なぜかと言いますと、現在使っている旧暦をみると「神無月」を見ると、十二ヶ月に一回しかない。つまり七・八月ごろ、もう一度「神無月」に当たるものがない。そうしますと旧暦は一倍年歴。これも簡単に言いますと、シベリア居たのが、千島・樺太・北海道を経てから南下してきた阿蘇部族。同じく二番目が津保化族、この人達は大陸から一倍年歴を持ってきた。月はシベリアでも見えますから。その一倍年歴が旧暦の基礎になっている。それに対して、南方から黒潮に載ってきた人たちが居る。渡辺というかたと、一緒にパラオに行った。行ったら直ぐに分かった。なぜならパラオ政庁の年配の日本語の出来る女性のかたが悩みを打ち分けて下さってすぐ分かった。わたしたちは西欧並みの一倍年歴で生活を送ることを教育で主張している。だから首都の周りはそうなったけれども、しかし周辺の田舎のほうへ行くと、まだ二倍年歴を変えてくれないので困っております。そういう話だった。そして二倍年歴の根拠としての墓石。何年に生まれたと墓石に書いてある。そして百五十歳で亡くなったと書かれてある。長寿命のかたの墓石がやたらにある。しかしそんなに長生きの人はいない。とうぜんこれは二倍年歴。ですから本人が何年に亡くなったと言うことは分かります。そして本人のいう年齢で計算して生まれた年が西暦で書いてある。  現地に行けばハッキリ分かったことですが、雨ばかり降っている雨期と、まったく雨が降らない乾期がハッキリ分かれている。そのような二倍年歴に分かれてとうぜんの風土だった。ですから二倍年歴は、あり得て当然の暦だ。  二倍年歴は黒潮に載って北上してきた。ただその時、シベリアのほうからきた一倍年歴はすでにあった。このような形ですよと加藤院長に述べました。そうすると加藤院長はパッと言われた。 「そうすると堯・舜・禹の前の変な連中、怪物も一倍年歴だったかも知れません。」  その変な怪物はは何かというと蚩尤(しゆう)。この説話を読みますと、霧を吹きかけて黄帝を悩ませた。それで黄帝が指南車をもって、これを滅ぼした。対抗して琢*鹿(たくろく)の野で蚩尤と闘った。それで霧を吹きかけた蚩尤(しゆう)が怪物として描かれる。その黄帝とそれを承けた堯・舜・禹は二倍年歴だった。それに攻撃されて負けた蚩尤(しゆう)は一倍年歴だったかも知れない。なるほどその可能性はありますとわたしは答えた。     琢*は玉篇の代わりに三水編。  これを原点にしてわたしはそこから考えたわけです。  文字の発生は、堯・舜・禹に始まるのではなくて、蚩尤(しゆう)に始まる。  と言いますのは、ここで新しく「蚩尤文字」という言葉を始めて造ったのですが。要するに、占いや呪(まじな)いの文字です。甲骨文字というものが、占いや呪(まじな)いの文字が背景になって文字が成立しているのではないか。これは白川静さんの研究の基本を成す。信仰や習俗について少し話が旨すぎるきらいがあるほど綿密に証拠立てられている。その元を成す占いや呪(まじな)いが蚩尤(しゆう)の時代に始まるのではないか。  それの元を成すのが、実は日本の対馬にあります亀卜(きぼく)文字ではないか。対馬に亀の占い。亀の甲を焼いて、割れ筋を見て、その到達具合を見て、今年が吉か凶か判断する。これが中国の文字の元の元、甲骨文字の元、漢字の淵源ではないかという考えです。そういう話をしたことはあるが少し跳びすぎていた。ところが実は、甲骨文字の元は、「蚩尤文字」に始まる。しかも史料を整理して分かったことですが、それで黄帝が指南車をもって戦った琢*鹿(たくろく)野で、蚩尤と闘った。そこの人たちは顔に入れ墨をしていたと書かれていた。みなさんピンときませんか。倭人ですよ。対馬の倭人も入れ墨をしている。対馬と東シナ海を挟んで、顔に入れ墨をした人たちが居る。これで繋がったではありませんか。漢字の元は対馬の亀卜文字に始まる。もちろんこれは始まりの始まりです。再検討してやはりそうでしたとか、違いましたとか報告すべきものです。ですがわたしも年を取って八十四歳になりから、明日どうなるかわからない。皆さんにとりあえず報告して、皆さん調べて下さいとお願いする遺言のようなものです。  ですからもう一度言いますと、漢字の元である、中国の甲骨文字の元である「蚩尤しゆう文字」と対馬の亀卜文字は同類のものではないか。今後の重要なテーマになると考えています。  七 旧約聖書をめぐる問題  今夢中になって取り組んでいますのは、バイブル・『旧約聖書』をめぐる問題です。たいへん良い本が手に入りまして、『旧約聖書を推理するーー本当は誰が書いたか』(R・E・フリードマン著 松本秀明訳 海青社)という本です。松本秀明さんは、毎日新聞・中外日報に勤務されていた方で、今は大阪府交野市に居られます。これは従来の『旧約聖書』にたいする考え方をまとめられていて、わたしとしてはたいへん有り難かった本です。ただしわたしのこれから述べますことは、まったく違いまして、これらとはぜんぜん違う立場に立って述べさせています。  まず従来、何回も述べたテーマから入らせて頂きます。世界でもっともたくさんの部数が発行されている本がバイブルであることはまぎれもない有名な事実です。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、さまざまな言葉で発行されています。ところがそれらのバイブルは間違いである。問題の所在をあえてハッキリさせるために言わせていただくが間違いである。なぜかと言いますと、先頭のところに「神がこの宇宙をお創りになった(神が天地を創造された)」(カッコ内は、新共同訳、日本聖書協会、二〇一〇年刊)から始まっていることはご承知の通りだ。ところが「神」というのが、英訳では“Gods”ではなく“God”と単数形になっている。これは英国教会の欽定訳ですが、とうぜんルターのドイツ語訳も、複数形でなく同じく単数形です。各言語訳を検討したのですが、ぜんぶ同じ単数形であることを知ることができました。ところが、これは原文とは違っている。この場合原文とは、言うまでもなくヘブライ語の『旧約聖書』です。そこでヘブライ語の『旧約聖書』で見ますと、そこでは「神々がこの宇宙を創った。」と複数形になっている。この点わかりやすいようにヘブライ語『聖書』の図版を付けておきます。同時に『聖書が原語で読めたなら ーー聖書語学の証しと勧め』(大久保史彦著 聖書語学同好会発行)というたいへん分かりやすい本を紹介させて頂きます。そこには、「エローヒームは複数形」とあるように、まぎれもなく複数形で表されている。  ですから原文のヘブライ語では複数形である。これはまぎれもない史料上の事実です。それがなぜ世界に最も多く流布されているバイブルでは、なぜ単数形に変えられたか。問題はそのように発展してゆく。ですが、これはひじょうに分かりやすい事実です。  なぜかと言いますとヨーロッパは、魔女裁判によってキリスト教以外の異教をすべて排除した。キリスト教オンリーの社会を造りあげた。唯一の例外としてはユダヤ教が一部ありますが、ユダヤ教とキリスト教とは同じ神様です。正確にはヤーウェ、一般にはエホバと訳されていますが、その同一の神がこの宇宙を造ったという形にしたかった。要するに「このエホバの神が、この宇宙をお創りになった」という形で始まる。これは非常にスッキリした形である。いわゆるヨーロッパ単性社会については『神の運命』(明石書店)や『親鸞 ーー人と思想』(古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店)の中で、「近代法の論理と宗教の運命 ーー“信教の自由”の批判的考察」として論文に詳しく論じています。魔女裁判と称して魔女を殺し尽くして造られたヨーロッパキリスト教単性社会の中で、バイブルが造られて世界中に流布されている。その場合「(エホバの)神が、この宇宙をお創りになった」という説明は、一番分かりやすい話の筋合いとなる。  しかし聖書の原文であるヘブライ語ではそうではなかった。「神々がこの宇宙をお創りになった」から始まっている。ヘブライ語の聖書はわたしどもの見方からいうならば、たいへん筋の通った分かりやすい考え方である。なぜならユダヤ教・キリスト教などの一神教の始まる前は、中近東でも何千年・何万年前はとうぜん多神教の時代が続いていた。そこにはとうぜん宇宙はあったし、この宇宙を誰がお造りになったのであろうかという疑問はとうぜん出てくる。その時多神教の時代だから、とうぜん神々がこの宇宙をお創りになったとならざるをえない。多神教の中で、突然唯一神であるエホバが出て行って活躍するわけにいきません。多神教の神々が活躍する中で、この宇宙が造られ、海も山も生まれ、動物も植物も生まれ、神様も人間も生まれた。その中からユダヤ教の最高神であるエホバの神も生まれた。光栄ある最高の神も、複数の神々の中から誕生した。  言ってみれば、ユダヤの民族神であるエホバの神の誕生譚という性質を『旧約聖書』は持っている。ですから最初は複数の神々が、この宇宙をお造りになった。このように構成されているのがナチュラルで自然なわけです。いきなり唯一の神から始まったらおかしい。ですから『旧約聖書』のヘブライ語の原書は、原書としてたいへん筋が通った書きかたをしています。それに対して、ヨーロッパのキリスト教単性社会になったら、それでは困る。エホバの神が、この宇宙を創った。そういうことにしたい。だから複数の神ではこまる。複数の神がエホバの神ではこまる。だから単数型にした。改竄(かいざん)した。  これは皆さん聞いていて、思い当たることがあるでしょう。つまり「邪馬台国」問題と同じなのです。原文の紹興(しょうこう)本・紹煕(しょうき)本では「邪馬壹(いち)国」と書かれてある。ところが江戸時代初期に松下見林が『異称日本伝』を書いたときに、それではこまる。日本では唯一正しい歴史書として『日本書紀』がある。そこには歴代の天皇は大和におられる。だから「ヤマト」と読めなければおかしい。読めなければ、読めるように取り替えて直せばよい。これは江戸初期の京都の本願寺派の学者と同じだ。親鸞の文書でも同じようなノウハウでなおしている。同じ形で京都の松下見林も「邪馬臺国」になおした。それを新井白石が、九州にも山門(ヤマト)があるのだ。筑後山門を晩年に「邪馬台国」に比定した。これがおかしいのは、松下見林が、「邪馬壹(いち)国」を「邪馬臺(たい)国」になおしたのは、奈良県の天皇家を原点とする歴史とするために「ヤマト」となおした。それを九州にも筑後山門が「ヤマト」と読めると言って、持って行くのは筋違い。新井白石は秀才だというけれども、ときどきそのような筋違いをやる。ということで、わたしの立場はそのようなイデオロギーで、論者の主観で、原文を直すというのもアウトである、してはならない。  今の問題も同じだ。複数の神々がこの宇宙を造ったのでは、エホバの神がこの宇宙を造ったとはならない。なるためには単数に直さなければならない。だから単数形に直して英語、仏語、・・・と全部印刷して、全世界に流布し最大の出版物になった。最大の出版物と言ってもそれだけの話で、間違っていることになんら変わりはない。同じくたくさんの人々が「邪馬台国」と言ってみても、間違っていることに変わりはない。  このようなことは以前何回となく言って参りました。  さてその次、新しいテーマに入って参ります。  その「創世記」において、宇宙を造ります。この場合六日間、海を創ったり、人間を創ったり、いろいろ忙しく、神様はがんばって活躍された。そして七日目に休んだ。このようになる。だから世界で行われている一週間は七日という制度は、ここから出たことはご存じです。誰でも知っていることですが、ではなぜバイブルで六日働いて七日目に休んだのか。これはどこから来たものだろうか。  それが今まで論じていなかった新しいテーマです。  それで先頭の複数形の「神々は」は、どこから来たか。これは五人や十人の複数の神々ではなくて、ワンペア(一対)の男女神ではないか、そのように考えた。この点、この考え方の元を成す考え方を再度示したい。理論的な根拠ですね。  それでマルクスは、神が人間を創ったのではなくて、人間が神を創った。そういう発見をマルクスは十代から三十代の初めの頃に書いた論文で強調した。「これで宗教批判は終わった」とまで言った。もちろんこれはマルクスの発見でなくフォイエルバッハが発見し、マルクスが賛成して書いた。しかしわたしは、この考え方は一応合っているけれども、正しくない。そのように考えた。なぜかと言いますと、これは問題の始まりである。  端的に分かりやすい言い方をしますと、くだらん人間が神様を創ったら、くだらん神様となる。自分の部族の見方ばかりして、他の部族は殺しても奴隷にしてもかまわない。そういう品性下劣な神様を造ってきた。ということは中途半端な人間が創った神々は、中途半端な神々と成る。原水爆に対してハッキリダメだと言えないような中途半端な神々になってしまう。また素晴らしい人間が神を創ったら、素晴らしい神になる。原水爆に対してハッキリダメだというすばらしい神になる。つまり人間が神を創ったという話は当たり前すぎる話で、何も唯物論を持ち出さなくともマルクスやフォイエルバッパが始めて発見した話ではない。早い話が、犬や猫が自分たちで祭壇を造って自分たちの神様を祀っているすがたを見たことがあるでしょうか。誰もない。チンパンジーやゴリラが自分たちの祭壇を造って、自分たちの神様を祀って拝んでいるところを見たことがあるでしょうか。全くない。人間だけである。これ一つ取ってみても、神とか宗教は人間が創ったイメージである。何も唯物論などと騒ぐことはない。自明すぎる。ですから最初言いましたように、造り主の人間が貧しい人間で神様を創ったら、貧しい神様ができる。中途半端な人間が神々を創れば中途半端な神々を創る。迷っているいる人間なら迷っている神々。すばらしい人間ならすばらしい神様を創る。このような歴史の中の宗教の発展を実証的に明らかにすることが歴史だとわたしは考える。ところがマルクスやフォイエルバッハは入り口で止まったために、低級な無神論にとどまり、現在のソ連や中国の無神論も、低級なレベルに留まっているわけです。  そういう目で見ますと、『旧約聖書』の「(複数の)神々がこの宇宙をお造りになった」のは、人間の写し絵です。人間はとうぜん男女がペアになって子供を産む。女だけでも産めない。これは人間にとってよく知っていることです。これを母体にして、「(ワンペアの)神々がこの宇宙をお造りになった」というイメージで神を造った。だからこれは五人や十人の複数の神々ではなくて、ワンペア(一対)の複数形である。これにはいろいろな問題が派生しますが、主語が複数形であるのに、動詞が単数形である。なぜだ。そういう有名な問題も存在する。ですがこれもわたしの立場からすれば、ワンペア(一対)ですから、ワン(一)と理解するから動詞が単数の形を取っている。これも話を始めれば、いろいろな問題を提起する。  さて問題を先に進めていきます。「(ワンペアの)神々がこの宇宙をお創りになった」という考え方を人間がしたとします。そのその神々は誰か。とうぜん、それはこの考え方からは、神々は『旧約聖書』が生まれる前です。何千年、何万年の多神教の時代があった。その中で言われてきた話である。中近東やその周辺で有名な話である。そのような有名な話であれば、そのワンペアの神々の名前がないはずがない。とうぜん名前がどこかに残っていなければおかしい。そのようにわたしは論理を展開し考えてきた。それは誰か。そうしますと皆さん聞いていてビックリされると思いますが、それは「アダムとイブ」である。なぜかと言いますと、あの『旧約聖書』に出てくるアダムとイブは、たいへん馬鹿者扱いされている。だってイブは、神から「善悪を知る木、これから(実を)取って食べてはならない。」、そう言われていたのに蛇にだまされて食べた。裏切って楽園を追放される。そのようなたいへんな目に合わされた。旦那のアダムのほうは、イブにくっついて楽園を追放された。これも、いよいよバカです。子供に聞かせたら、なんとイブの事件はおかしい。木の実を食べたぐらいで追放されるとはひどすぎる。またアダムはバカだね。神様に言われたらそれぐらい守らなければいけない。率直な感想として、そういう子供もいる。それでこの二人が、そういう幼稚な馬鹿者扱いされていることは疑いもない。ところがそこで、日本古代史の経験が生きてきた。 『日本書紀』神代上、第十一書(日本文学大系、岩波書店、訓は古田)  陰神(めがみ)先ず唱えていわく、「あなにえや、うましおとこを」と。すなわち陽神(おがみ)の手を握り、遂に夫婦(めおと)になる。淡路島を生む。次に蛭児(ひるこ)。  と云いますのは『古事記』・『日本書紀』に出てくる蛭子の問題である。蛭子を産んだ。壁をはっている骨なしの蛭(ひる)のように嫌らしいやつだ。だから醜いといって神様に成り得ないからと追放した。これは誰でも知っている話です。  ところがこの蛭子はほんらい、このような姿ではない。ヒルコ・ヒルメは男女神一対の神です。旧石器の時代には瀬戸内海・淡路山から出る輝ける太陽神。当時は瀬戸内海が水没していないから淡路島でなく淡路山から出る太陽の神。しかも『日本書紀』十一書によれば、女が「あなにえや、うましおとこを」、なんとすばらしい男だとと言ったから淡路島が生まれ、次に蛭子が生まれた。男性神が生まれた。大成功と書いてある。  ところが、それが『日本書紀』の他の十書の神話や『古事記』の神話では、失敗した理由にされている。つまり女が先に「あなにえや、うましおとこを」と発声したから失敗した。どうしたらよいかと天神に相談したら、女が先に言ったから失敗した。男が先にリードしてと発声せよと言われた。言われたから、そのとおりに行ったら成功した。これはやはり、『日本書紀』第十一書の姿が、旧石器・縄文時代から伝わる本来の姿である。淡路島も蛭子も生まれ大成功という話。それが弥生時代になり男中心の時代になって、男中心の神話に書き換えられた、改竄(かいざん)されている。  ですから蛭子というのは、旧石器・縄文時代の輝く主神であり太陽神である。それを蛭(ひる)のようにいやしい子として貶(おとし)めた。その目的は弥生の新しい太陽神である天照大神をピーアールする。逆に言いますと、天照大神を新しく太陽神としてピーアールするために、従来の旧石器・縄文時代の太陽神である蛭子を、ナメクジのような下らない神におとしめるというのが、あの神話の重要な目的です。  このような例はたくさんありますが、元の「アダムとイブ」に戻ってみても、蛇はトルコに行って驚きました。薬局のシンボルが蛇なのです。薬を探すときは蛇のシンボルを探す。ということは、蛇は『旧約聖書』以前、旧石器時代では、あらゆる病気を治す救いの神だった。そういうすばらしい神だったのが蛇だった。だから『旧約聖書』では、わる賢い蛇にされている。従来の神聖な蛇をペケにして悪者にするのが『旧約聖書』の役割である。 このような例は、例外がない。以前の段階の文明の尊崇されてきた神様をペケにして、新しい文明の主神を持ち上げる。この方法は、世界史・日本史例外なく、いつもの事である。  ですから「アダムとイブ」があれだけ馬鹿者扱いされているということは、『旧約聖書』以前には、すばらしいワンペアの神である証拠となる。わたしの理解ではそうなってくる。しかも普通は「アダムとイブ」と呼ばれているけれども、これは逆であろう。つまり「イブとアダム」。つまり「アダムとイブ」と呼ばれているのは、男中心の社会になって、「アダムとイブ」と呼ばれた。本来は「イブとアダム」。なぜなら宇宙を造ったといっても、子供を生むのは女のほうである。いわゆる専権事項、男は埋めない。介添え役に過ぎない。中心人物は女のほうである。「アダムとイブ」と呼んでいるけれども「イブとアダム」。  ハッキリ言えば「イブが、この宇宙を創った」という話が本来の姿だったのではないか。  そうしますと七日間とは何か。これも同じく北多摩病院の検査入院の時考えたことですが、女性のお腹の中にいる子どもの胎動の期間なのではないか。子供を産む期間ではないか。現在では荻野(おぎの)式などがあって、生まれたときから逆計算して、いつ宿ったか分かるようになっている。もっと昔では「十月十日」で生まれるというのが、江戸時代当たりから言われている。そういう知恵を持っている。ですがそれらはいずれも、発達した段階の抽象化された知識である。一番本来の姿は、女の人のお腹(なか)の中でピクピクし動き始めから生むまでではないか。これらは妊娠して三ヶ月ないし四ヶ月して動き始める。この話を加藤院長にするとさっそく正確な医学上の知識を教えていただいた。つまり初産婦と経産婦では違いがある。初産婦の場合には、四ヶ月目にお腹のピクピクし動き始める。経産婦では、三ヶ月ぐらいからお腹のピクピクし動き始める。  イブとアダムの場合には、とうぜん初産婦ですから四ヶ月目にお腹がピクピク動き始め、後の六ヶ月で生まれる。それで終わる。この後の六ヶ月を縮小して、六日にしたのではないか。生まれ出たら休むというのも同じ。七日目に休む。  女の人が生むのも同じ。こういう形で本来は「イブがこの宇宙を六日間で造った」という話が出来たののではないか。以上でなぜ七日間なのかという疑問が、わたしにとって始めて疑問が解けた。  答え自身は簡単な話です。ですがわたしにとってバイブルの創世記に、神は一日から六日まで万物を創造し、神は七日目にお休みになったと書いてある。それは初産婦のお腹の胎動の時期に合わせて造ったものです。一ヶ月を一日に短縮して。それは、それだけに終わる。しかしわたしにはそれだけに終わらなかった。大発見だった。先ほどの話のように、バイブルの先頭から改竄(かいざん)されている。それだけ聞いても、もう古田の話は聞きたくない。クリスチャンだったら席を立って帰っても不思議ではない。それに加えてヘブライ語が正しい。これは憤慨する人は余りいないかも知れないが、実はイブとアダムが本当の主語であり、宇宙を生んだ神々なのだ。ここまで言ったら、クリスチャンもユダヤ教の人も怒り狂うかも知れない。  しかしわたしは反クリスチャンでも反ユダヤ教でもない。わたしはイエス大好き人間。口幅ったい言い方をすれば、どんなクリスチャンよりイエスは大好きだと自負している。あのような一人の青年として、あのような一人の人間として人生を終えるのが、本当の人間だ。本当の人間は、ああでなければならない。本当のわたしの心の支えであり、お手本だ。バイブルももちろん尊重して、神や宗教の成り立ちを知る人類最高の財宝としての書物の一つである。わたしはそう考えている。そういう立場であることと、先ほど言ったようなわたしが日本古代史で得たような方法論によって理解した結果が、正に「第一日目から六日目まで働き続け第七日目に休んだ」というなぞを解くことが出来た。  これはわたしの分析の方法が正しかったことを意味すると考えた。それはわたしの日本古代史で得た方法論ですから、日本古代史の分析の方法もわたしは間違っていなかったという自信を持つことができた。  ですからこれに対して、いや違う、そういう意見は大歓迎。その場合に、その人は古田の言っていることは、この辺りが未熟である。その人の別の仮説に立てば、古田の言っていることよりもっと的確に説明できる。七日間の問題も、その他のわたしの触れた問題もより的確に説明できる。そういう説を出していただけたら、その瞬間にわたしが間違っていたと言います。自分が間違っていたときに瞬間に受け入れることができなければ、学問なんてやる意味がない。大歓迎。しかしそれが出来ないのに、あれがおかしい。これがおかしいと言ってみても、難癖を付けて、わたしをおとしめて言ってみても、古田を殺せと言ってみても関係ない。もうすぐ死にますから。何も怖くない。  さらにこの問題は、その後進展いたしました。二つあります。 『旧約聖書』創世記 アダム  ーー 九三〇歳  セト  ーー 九一二歳 エノス  ーー 九〇五歳 カイナン ーー 九一〇歳 マハラレルーー 八九五歳 ヤレド  ーー 九六三歳 エノク  ーー 三五六歳 メトセラ ーー 九六九歳 レメク  ーー 七七七歳 ノア   ーー 九〇五歳         (アダムの系図)         セム     ーー 六〇〇歳(一〇〇歳プラス五〇〇歳の形)  アルパクシャドーー 四三八歳  シェラ    ーー 四三二歳  エベル    ーー 四六四歳  ペレグ    ーー 二三九歳  レウ     ーー 二三九歳  セルダ    ーー 二三〇歳  ナホル    ーー 一四八歳  テラ     ーー 二〇五歳         (セムおよびテラの系図)  一つ目は『旧約聖書』創世記の寿命。初めの九人の寿命が一〇〇〇歳近い年齢が次々書かれている。それから急に六〇〇歳未満の年齢がまた並んでいる。これは何か。この一〇〇〇歳近い年齢は二十四倍年歴。要するに、やせた月が満月になる。その半月を一歳と数えます。次に満月から月がやせてしまう。この半月が一歳。それで一月が二歳。そうすると一年は十二ヶ月ですから、一年経てば二十四歳になる。だから一〇〇〇歳と言っても四十二歳ぐらいになる。また一〇〇〇歳と言っても、だれもそこまで生きてはいない。みんな九〇〇歳ぐらいで死んでいるから、これは三十歳後半で亡くなっている。日本の場合、先ほど言いましたが弥生時代の人の寿命は、骨の研究から判明している。弥生時代の人の寿命は四十歳代前半です。それよりずっと早い旧石器の時代の人の寿命が、三十歳後半の寿命というのはたいへんリーズナブルです。  それに対して次のグループは、六〇〇歳未満で死んでいる。初めは五〇〇歳未満と考えたが、五〇〇歳プラス一〇〇歳と書いてあるから六〇〇歳未満。これは十倍年歴。つまり六〇〇歳と云うのは六十歳。ですが当時としてはたいへんな長寿。後は四六四歳、四三八歳というから、やはりこれも三十歳半ばを過ぎ四十歳代初めぐらいで亡くなっている。暦としては十倍年歴。この十倍年歴というのはたいへん意味があって、先ほどの話のようにいわゆる六ヶ月が六日に短縮されている。この関係と対応していると考えます。そうしますとお腹(なか)の中の話は、六〇〇歳(十倍年歴)の時期に造られたのではないか。断定は出来ませんが、その可能性があると考えました。  さらに前進した。この二十四倍年歴は、エジプトの暦ではないか。なぜかと言いますと、エジプトにはナイル川という大きな河が流れている。あれがやはり満月の満潮時には地中海の塩水が、ナイル川の下流域のかなりの部分まで注ぎ込む、干潮時にはさーと引いていくと考えます。日本では九州筑後川が潮の干満の差が激しいことで有名ですが。ましてナイル川ではスケールが違う。満潮と干潮で大きな変動がある。その変動で、満潮になって一歳、干潮になって一歳。そうすると十二ヶ月で二十四歳。ですから二十四倍年歴というのは、人がただ空想で描いたのではなくて、ナイルの河の潮の満ち引きと対応している。『旧約聖書』には「出エジプト紀」がありますが、これと関係していると考える。エジプト時代に居た彼らが最初経験していた暦が、二十四倍年歴ではないか。  この点もある人に話をしますと、さっそくインターネットで「エジプトの暦」で調べて、資料を送っていただいた。ですが、そんな話はぜんぜん書いていないと言ってきた。それはそうでしょう。今わたしが言っているテーマは、まったく新しいテーマです。今インターネットで「エジプトの暦」で調べて分かることは、従来の旧説に基づいて後に楔形時代に出てくる暦を計算した話です。今わたしが言っていることは、そのようなレベルの話ではない。今の「エジプトの暦」の話には「女のイブが六日間で宇宙をお造りになった」という話は、インターネットにはぜんぜん出てこない。そういう理解に立った場合は、従来言われている「エジプトの暦」の前に、時期としては「出エジプト紀」の少し前に、ナイル川の干潮と満潮に基づく暦があったと理解しなければならないのではないか。そういう新しいわたしの史料批判です。  ということで、この問題をやはり全世界に発信したい。これを知ってほしい。とりあえずは、Tokyo古田会NewsNo136 Jan. 2011に「閑中日記 第六十九回 一週間はなぜ七日間かーーバイブル論 古田武彦」に詳しく書きます。わたしとしては、東京古田会の会長の藤沢さんには、英文で全世界にインターネットで配信したいと伝えた。世界中の人が関心を持つと思う。バイブルの問題には関心を持つ人は多いと思う。  八 その他 略(一〇三号 会報と同一) 質問一  埼玉から来ました藤田孝行と申します。七日にたいしてですがわたしは、勝手に七という数字は一月・二十八日の単純に四分の一だと思い込んでいました。先生のご説明ですと六ヶ月を六日にするという考えですが、その六ヶ月の中の一ヶ月というのは今の一ヶ月と同じではないのではないか。六ヶ月を六日にして後(一日)休むという、その六ヶ月の中の一ヶ月という単位は、四週(二十八日間)という意味なのか、どのような暦として考えられているのでしょうか。 (回答)  一ヶ月の四分の一を七日にしたのではないか。今のそういう考えかたでは、それではなぜ三分の一ではダメなのか。そういう問いに答えられないと思います。  そういう意味で、たまたま四分の一になったという説明しかできない。四分の一説にはそういう問題があり満足できない。これが第一点。  一ヶ月については、前半で一倍年歴についてそのために説明しましましたが、二十四倍年歴から人類の暦が始まったわけではない。一ヶ月・一月という暦は月が満ちてそして欠ける、それで計算する暦。それが「一月」と考えるのは旧石器の阿蘇部族の段階でシベリアから入ってきている。これは二十四倍年歴よりとうぜん古いわけです。先ほどのしゆう文字も一倍年歴であり、二倍年歴より古い。その古い一倍年歴を元にして考えています。  現在の一倍年歴を新しい暦と考えられて、二十四倍年歴などが古いと考えられて疑問を呈されたのだと思う。そうではなくて、一番年歴が古い。それがバックにある。  それとわたしの仮説の良いところは、女の人の胎動期間(お腹の中がピクピクする期間)が現在でいう六ヶ月間であることに対応している。これは現代も古代も変わらない。それと対応していると考えると説明が可能である。またバイブルの中での第二段階としてして、六〇〇歳(十倍年歴)の時代に造られたことに対応している。  先ほど言いましたように、わたしの説を絶対とする必要はありませんが、それを否定する場合はもっと優れた的確な仮説を今日でなく、ゆっくりと提案して下さい。 質問二  芦屋市から来ました川口守之助と申します。簡単な質問ですが、血液で繋がっていたら「万世一系」になるのか。それとも男だけの家系で繋がっていなければ「万世一系」にならないのか。その辺りのことをお伺いしたい。 (回答)  これも雑誌などで、最近良く出る問題です。男系と女系の問題なのです。これも時間の関係でずばり言いますと、雑誌などで云われている説明はまったくアウトだ。なぜなら今日説明しましたように「万世一系」という概念そのものがダメなのです。明治以後、江戸幕府より天皇家のほうが優れている。そうピーアールするために造り上げた概念が「万世一系」です。それ自身が成り立ち得ない概念です。『古事記』・『日本書紀』の中でそういう主張はされてはいない。これが第一点。だから男系と女系だということ自身が意味がない。  第二に、あまり明確に分かりすぎていることですが、天照大神自身が女性である。少なくとも『日本書紀』では女性として、明確に扱われている。その天照大神の子孫が、天皇家であるという立場に立っていることは当然なのです。それを津田左右吉の説に従って、造作されたものだからと除外する。自分の都合の悪いことは何でも除外するなら、何でも言える。  そういうことで男系でなければならないという議論はおかしい。