『古代に真実を求めて』第八集
宗教の壁と人間の未来 ー序説 『神の運命 ー歴史の導くところへ 』古田武彦

「トマスによる福音書」と「大乗仏典」古田先生の批判に答えて 今井俊圀 (会報74号)へ
マリアの史料批判 西村秀己(会報62号)へ

「磐井の乱」はなかった へ


講演記録 二〇〇四年六月六日 大阪市中央公会堂

原初的宗教の資料批判

トマス福音書と大乗仏教

古田武彦

一 「継体陵」はなかった

 さてそれでは、わたしの話に入ります。初めに天皇陵・継体陵について、ぜひお話をしておきたい。
 継体陵については全国の皆さんの常識では、茨木市にあります宮内庁が管理する太田茶臼山古墳が継体陵であると言われています。
 これに対して、これは違う。ダメだということで、お隣の高槻市にある今城塚古墳。これがほんとうの継体陵である。これが森浩一さんをはじめとする考古学者が前から言っておりました。これらは天皇陵ですから発掘はしていない。ですから姿から言いますと、大王継体は六世紀なかばですが、どうも太田茶臼山古墳は五世紀なかばの姿を示している。あれはダメだと、考古学者は言ってきた。それならどれかになるかとということになりますと、高槻市に今城塚古墳。これなら六世紀なかばになるので良いと言い続けておられた。最近ではNHKで考古学者たちの主張が正しいと認めざるをえなくなったという放送をおこなった。この放送を見た方も多いと多いと思います。それが現在の認識です。
 しかしわたしは、一五年前ぐらいから、あの二つはダメだ。継体陵ではない。いわゆる茨木市の継体陵(太田茶臼山古墳)もダメであるし、高槻市の今城塚古墳もダメだ。こう言いつづけて来ました。講演会でもお聞きの方は多いと思います。

「御陵者、三嶋之藍(御)陵也」(『古事記』)
「葬于藍野御陵」(『日本書紀』)
「三嶋藍陵 磐余玉穂宮御宇継体天皇在摂津国嶋上郡兆域東西三町南北三町」(『延喜式』)

 今要点を改めて言いたいと思います。要するに『古事記』『日本書紀』に書いてあることから外れている。『古事記』には「御陵は、三嶋の藍(あゐ)の御陵なり」、『日本書紀』では「藍野陵に葬(はぶ)りまつる」、このように書かれている。ようするに『古事記』『日本書紀』ともに、藍(アイ)にあると書かれています。「アイ」という字はいろいろありますが。ところが、その藍(アイ)がどこかと言いますと、下の大阪府吹田の地図(茨木市高槻市部分)をご覧ください。中央に安威川があります。その安威川の左側・西側、そこが安威(アイ)です。安威町があるのは、すべて左側です。安威川の西側が安威で、東側は安威と呼ばない。地元のかたがたに確認しても、東側はここは安威(アイ)ではありませんと返事がある地帯です。ですから宮内庁のいう継体陵、安威川に近いほうは、安威(アイ)ではない。いわんや今城塚古墳はもっと離れます。東側ですからぜんぜん安威(アイ)ではない。
 それでは、なぜここになったのか。平安時代の『延喜式』、陵墓形式、これに依っている。これによると「嶋上郡」にあると書かれている。これによって今の継体陵となっている。これは江戸時代に、前方後円墳という言葉を考えた蒲生軍平が継体陵と考え、さらに宮内庁がそれを受け継いで、明治以後現在の継体陵と決定した。もちろん現代の考古学的知識はないし、古墳の編年基準もありません。要するに『延喜式』の「嶋上郡」にあるという形で理解した。
 以上のことをまとめますと、『古事記』『日本書紀』ができたのは七世紀の前半。『古事記』ができた七〇九年、『日本書紀』ができた七二〇年段階では、継体の墓は、藍(アイ)にあると認識されていた。ところが後になって、藍(アイ)を「嶋上郡」に直そうというのは原文改訂。直しを入れられている。なぜかと言いますと『延喜式』の場合には、現地の状況と比較して考察を加えている。
 その証拠にニニギノミコトから始まる天皇陵の始まりのような神代三稜というものがあります。それについて『延喜式』では「日向の国に在り。」、このように書かれてある。宮崎県にある。「緒し陵戸なし。」と書かれ、これをお世話すべき場所がない。結局どこかはっきり分からないが、しかし日向の国にあることは間違いない。これは不思議なというか、常識的な理解です。なぜ「日向国(ひゅうがのくに)」にあるかといえば『日本書紀』に書かれている。
 しかしこれは『古事記』を読めばお分かりのように、わたしの研究をお読みになればわかりますように、日向(ひゅうが)でなく日向(ひなた)。日向(ひなた)は福岡県糸島博多湾岸、そこに高祖山連峰がある。また最古の三種の神器が出てきたのが吉武高木遺跡。ここの字地名が日向(ひなた)。ここが天孫降臨の場所であることを論証した。
 ところが『日本書紀』には日向(ひゅうが)国と書かれてある。この問題も言えばおもしろいことがありますが今回は省略します。『日本書紀』は、神代三稜は日向(ひゅうが)にあると書いてあるが、それ以上はわからない。『延喜式』を編集した人々は、日向を探したが、それらしきものは見当たらない。
 つまり今言っていることは、『延喜式』は現地に当たって見ている。今現地に当たって見たら、安威(アイ)にはたいした古墳はない。巨大な前方後円墳、わたしは方円墳と言っていますが大きい方円墳はない。それでこれではダメだ。どこにあるかということで、安威(アイ)ではないが安威川の東側にある。それを「嶋上郡」と「安威(アイ)」を書き直した。現地状況に合わせて原文改訂をおこなったのが『延喜式』です。

 そこから先はわたしの判断を示します。わたしはひじょうに『古事記』『日本書紀』について、疑いの目をもっていることはご存知のとおりだ。しかし何でも疑えばよいというものでもない。彼ら『古事記』『日本書紀』を作った人々は、その王朝は継体の子孫だ。神武の子孫とは言えない。大王武烈のところに大きな断層があることは、ご存知のとおりだ。かれらは武烈の後継者でないということを示している。北陸から入ってきた侵略者・征服者。その子孫が八世紀の天皇家。現在の天皇家もそうかも知れませんが。彼らにとって一番の尊ぶべき直接の先祖は継体です。その継体天皇の墓がどこにあるかを忘れるでしょうか。『古事記』『日本書紀』を作った人がみんな頭がぼけて、どこにあるか忘れてしまった。そんなことはわたしの頭では信じられない。
 だから『古事記』『日本書紀』両方そろって、陵は藍(アイ)にあると言っているのは、そこにあるからだ。わたしの理由は非常に単純です。
 それを平安時代に延喜式を作った人たちが、なぜ直さざるを得なかったのは、彼らには一つの観念があった。イデオロギーがあった。天皇陵であるからには巨大でなければならない。応神・仁徳陵があるのですから、だから継体天皇はもっとすごいのがあっても良い。少なくとも小さい円墳ではメンツにかかわると思ったかも知れない。とにかく巨大古墳であるという概念を導入した。しかし『古事記』『日本書紀』を読んでも、まったく巨大古墳であると書いていない。それを平安時代の人たちが、かってに観念を入れて原文改訂をおこなった。それが史料状況の事実です。わたしはこのように考えたわけです。
 そこで十年近く前に、安威の地域を歩き回った。そこには追手門大学がありますが、そこの北側に安威神社があります。現在は安威三丁目ということになっている。ここがまさに安威の真ん中。そうすると『古事記』『日本書紀』が陵は藍(アイ)にあると言っているのは、このあたりの地域を指していると考えられる。
 そうしますとこの安威神社は、大きい神社ではないが、なかなか良い神社です。しかも注目すべきは、神社の周りを円墳が囲んでいる。大きくはないですが円墳が安威神社を囲んでいる。わたしはハッキリ言えば、その安威神社の近辺にある円墳の一つ、円墳でなくとも良いですが、そこに継体を葬ったお墓があるのではないか。そう判断した。
 その証拠には、そう言うのは少し早すぎますが、安威神社からそんなに遠くないところから藤原鎌足の大織冠が出て来ました。当時ぜんぜん期待しないところから出てきました。大織冠は藤原鎌足以外には使われていない。ところがその古墳は、巨大古墳でもなんでもない。たいして期待していない古墳のところから大織冠が出てきました。藤原鎌足の墓は一〇〇年ぐらい後ですけれども。その鎌足にしても、作るとすれば巨大古墳を造らせる力ぐらいはあったと思う。これは付け加えておきます。
 さてそういう例でいうと、宮内庁が比定する継体陵(太田茶臼山古墳)はアウト。それと同時に、永年考古学者が主張していてNHKが大々的に報道した今城塚古墳もアウト。継体陵でない。これがわたしが永年主張していたことです。
 それに加えて最近になって気が付いたのは、継体陵がアウトであるなら、こんどは継体につづく欽明・宣化・安閑の陵墓も同じくアウトではないか。そう言いますのは、それは先ほど内倉さんが言われた放射能年代測定や年輪年代測定法で、年代が上がっていく。有名な富本銭の場合も、これも従来の考古学編年でなく、放射能年代測定や年輪年代測定法で一〇〇年ぐらいあげたもので天武の時であると考えると年代が合う。しかし富本銭だけ年輪年代測定法を適用して、他は適用しないということもおかしな話だ。
 ですからこれも弥生時代の初めだけ、放射能年代測定や年輪年代測定法を適用して他も適用しないのはおかしい。これはありえない。
 そのありえないことが、今行われている。何かと言いますと、高槻に縄文水田というものがあった。あれは従来BC三〇〇年とか言われてきました。まったく同時ではないけれど、少し遅れるがほぼ並行する遺跡である。そのように説明会で言われました。ところがその縄文水田は、現在でもBC三〇〇年とされている。今日来ておられる橿原考古学博物館の説明員である伊東さんに再確認していただいた。つまり近畿の縄文水田は、いぜんとして編年はBC三〇〇年になっている。そうしますと九州・博多湾岸の板付遺跡がBC五〇〇年なりBC八〇〇年に遡(さかのぼ)るとします。そうしますと九州から近畿へ稲作が伝わるのに二〇〇年なり五〇〇年かかってやっとお米が伝わってくる。そんなことがあるのでしょうか。近畿の人はよほど鈍くさいということになる。しかし初めだけさわって従来の編年はさわらない。これは学問というより政治ですが。そのままにしてある。
 この話をすると時間が要りますが、内倉さんから直接、千葉県の国立歴史民族博物館の発表会が東京であることを聞きました。それで東京へ行きまして発表会に参加しました。そのなかで放射能年代測定を何回行っても遡(さかのぼ)る年代になり疑うことができない。また年輪年代測定法に合っています。それを何回もくりかえし言われました。ところがそれと同時に小林行雄さんの研究が弥生時代にありますが、これは誠にりっぱな研究です。わたしたちは目標にしています。そう言いました。なぜ縄文の話の中に、いきなり弥生の話が出てくるのか。小林行雄さんが出てくるのか。普通の人にはよくわからないと思う。しかしわたしどもは聞いていて良くわかった。つまり小林行雄さんが作られた編年は動かしませんよ。弥生時代の最初だけ、それだけ動かして、後はわれわれはいっさいタッチしません。そういうメッセージです。だから考古学者は安心して下さい。ですから参加した考古学者は、いちおう安心して帰られた。そういうことが、わたしどもには良くわかる。
 そういうことですから近畿の弥生時代の始まりは、従来通りBC三百年やBC三五〇年ぐらいに、政治的に据え置かれている。その結果です。だから言ってみれば、ばかにされているのは日本国民だけですよ。
 しかしこれは、人間の理性では、ありうることではない。土器編年を見ても、放射能年代測定や年輪年代測定法に対して、七・八割は八〇年ないし一〇〇年遡(さかのぼ)る。後の二・三割は新しくなっているものもある。
 とにかく従来の考古学編年ではダメだよという結果はハッキリ出ている。ハッキリ出ているけれども知らないふりをしている。身内で知らないふりをするのは勝ってですけれども、わたしはそのグループに参加していないからハッキリ言いまして、それはダメ。
 わたしが何を言いたいかおわかりでしょうか。今城塚古墳、従来の考古学編年から言いますと六世紀なかばで良いと、さかんにNHKがピーアールを行いましたが、これは従来の考古学編年。放射能年代測定や年輪年代測定法によると、従来の考古学編年を八〇年ないし一〇〇年遡(さかのぼ)らなければならない。今城塚古墳も八〇年ないし一〇〇年遡(さかのぼ)らなければならない。そうすると大王継体の墓ではなくなってくる。そうなってくるでしょう。後はいじらないという協定というか談合によって継体の墓なら今城塚古墳にあるということが続いているだけ。わたしは関係ないから、両方共アウト。継体の墓ではない。
 文献批判というか『古事記』『日本書紀』はたいへん批判していますが、継体という自分たちの直接の王者の墓のあるところの在りかまで、忘れることはありえないという単純な理屈で考えただけですが、それが放射能年代測定や年輪年代測定法と一致してきたわけです。
 そうなりますといまの放射能年代測定や年輪年代測定法を、継体陵にだけ適用して欽明・宣化・安閑には適用しないというのは、ありえないわけです。みな同じではないか。そうするとと欽明・宣化・安閑の陵墓も八〇年ないし一〇〇年ぐらいは、遡(さかのぼ)る。そうすると欽明・宣化・安閑の陵墓ではありえなくなる。
 そうすると、わたしは初めてスッキリし疑問が解けた。それはわたしが古代史に入ってきたときに、考古学者の本などを読んでいて、どうもよくわからないことがあった。それはあの巨大古墳が消え去る。消滅するのが、六世紀後半の後半のなかごろです。欽明・宣化・安閑の時代までは巨大古墳で、その後いきなり小さくなる。その後推古や聖徳太子のお墓が、藤原鎌足のお墓もそうですが大きいという話はない。なぜかという説明がない。あることはあるが、わたしには納得できない。たとえば律令制が発達したから文武天皇が行わなくなった。従来説では大化の改新ですが、実体は八世紀初めであると考えていますが、従来説通りだとしても一〇〇年ぐらい後です。律令がだんだん整備されてきたから、巨大古墳は造られなくなった。よく分かったかわからない説明です。
 次に中国の薄葬令の影響が出てきた。これは中国の薄葬令が出て来たのは『三国志』の中にはっきり書いてある。三世紀です。これは魏の文帝から、すばらしい詔勅が出ています。要するに「今まで巨大な墓が造られてきた。しかし、それはすべて荒らされて破壊されていないものはない。だから、そういうものを造ることは政務を執るものとしては、まったくふさわしくない。だから造ることを止めよう。」、まさに論理をもった堂々たる、みごとな詔勅です。大半はどうでもよい詔勅ですが、ときどき論理をもった詔勅が出ています。ですから話は飛びますが、この中国の詔勅ひとつ取っても、箸墓を卑弥呼(ひみか)の墓というのは無理なのです。この東アジアの状況で、おまえは天子の命に何をたて突くのか。薄葬令に盾を突いて巨大な墓を造ったという話になる。ですから卑弥呼(ひみか)の墓は、二〇~三〇メートルの墓です。『倭人伝』の「大作冢」の「大いに」と解釈すべきを、考古学者が「大きな」と読み替えて使っているだけです。
 元にかえって、中国の薄葬令は三世紀に出てその後何回も出ています。それが、やっと六世紀になって影響が日本に出てきたというのは、書いてあれば、そうだと思うけれども、よく考えてみたらおかしい。そんなに掛かるのかとなる。訳がわからない。ですから、わたしとしては従来の説に、どれを読んでも納得はいかなかった。ところが今回、今度七・八十年ないし一〇〇年ぐらい遡(さかのぼ)る。そうすると欽明・宣化・安閑ではなくなり、武烈以前、継体以前からとなります。
 そうるすと、わたしは新たに、この言葉を使いたいのですが、武烈以前の古墳をA型と呼びたい。巨大古墳の時代。九州王朝の分派の時代。継体以後をB型。巨大古墳超越の時代。
 これはわかりますよね。A型の時代というのは、九州からきた自分たちは、その子孫だと言っておった。自分たちの死者を葬るだけでなく、古墳の方部を高くして、そこで先祖のいる九州や壱岐・対馬を遥拝するのだ。これは『日本書紀』神武紀に書いてあります。そういう趣旨で、あのような古墳を造った。りくつを言えば、なにも遥拝するのに、なにも高いところを造る必要はない。先祖を拝めばよいのではないか。そうは言えるけれども、なんとなく高いところで遥拝する必要だとの感覚があったのです。そういう形で巨大古墳は造られていった。
 ところが継体は福井からきた暴れん坊です。良い意味でも悪い意味でも、暴れん坊です。そんなものは何の役にも立たないからいらん。要らない。ある意味ではりっぱな態度かも知れません。
 ようするに継体以後は巨大古墳はなくなった。ひじょうにハッキリするではないか。この点は、この考えに対して考古学者がどう答えるか知りませんが。知らないふりをするかもしれませんが。どちらにしても、重大な内容に気が付いた。そのように考えて皆さんに報告したわけです。

 これに関連して「磐井の乱(継体の反乱)はなかった。存在しなかった」というテーマもあるのですが、今年一月の古田史学の会の講演でお話しましたので今日は申しません。
 これは簡単なのです。あれがもし実在の乱なら、六世紀の前半、この時期に九州で土器が一変した。とうぜん九州型の土器です。それがが一変して近畿型の土器に変わった。形もデザインも。それなら「磐井の乱(継体の反乱)」があったことに賛成します。大義名分は、今はどちらでもよい。わたしは受け入れます。六世紀前半に。正確には、半ばの前半ですが。その時期を境に土器がガラリと一変し、形も変わり、デザインも変わった。近畿にあった細部の形やデザインに、パッと変わった。そのようなことを発見されましたが。現地の(岩戸山古墳の)博物館の方にも確認したがありません。それが実在なら、痕跡を残さないはずがない。
 以上、古代史問題はこれで打ち止めにさせて頂きます。


二、トマス福音書について

 次はトマス福音書についてお話したい。
 そんなものは聞いたことはないよ。そう言われる方が多いと思いますが。わたしも昨年までは知らなかった。実際にこれが出てきたのは一九四五年、覚えやすい年です。日本の敗戦の年。場所はエジプト。ナイル川の下流の中では上流。変な言いかたですが、中流域にはいかない。ナグ・ハマディ村というところがある。そこのお百姓さんが、富んだ土を取ろうとしたら、カチンとカメ壺にあたった。大きな壺で、開けてみると古代エジプトで使ったパピルスに書いた古文書が、それがたくさん出てきてその後解読された。その一つがトマス福音書。これの良いところは、パピルスだから古いとも言えるが何年とまでは、なかなか言えない。ですが、これの良いところは何年と言える。なぜ言えるかと言いますと、この古文書はパピルスを綴じて冊子にしてある。その表紙というか裏表紙に領収書を使って綴じてある。当時はパピルスは貴重だった。これがありがたい。だって領収書には年月日が入ってなければ領収書にはならない。年月日が入っている。だから下限と言うか綴じられた年代がわかる。これも、めずらしいことです。皆さんも貴重なものがあれば、領収書で閉じられたらどうですか。(笑い)それが三世紀。三世紀が下限なのです。トマス福音書はイエスの弟子のトマスが書いたという形になっていますから、上限はイエスが生きていたときの、最初の三十年ぐらいと言われていますが。これは古賀さんが『新約聖書』の研究では二倍年暦ではないかと言われましたので、イエスの年代も変わるかも知れませんが、今言われているのはイエスが生きているときが上限。一世紀の前半。下限は三世紀、そういうことになります。
 これが解読されたのは四年ぐらい後なのですが、東大名誉教授で学士院会員になられた荒井献(あらい ささぐ)さんが研究を志してドイツへ行かれた。だから荒井さんがトマス福音書の研究については、質量ともに中心になっておられる。つい一週間前にも電話でお聞きしたことがございます。気持良く答えていただいた。わたし自身は、ぜんぜんこのトマス福音書については知らなかった。死海文書にはついては以前から非常に関心をもっていましたが、これが現れたのは、わたしが親鸞に没頭していた時なので知らずにいままで来ておった。
 トマス福音書そのものについては、解説していろいろ述べなければならないことがありますが、今日はいたしません。学者がこの番号を付けたのですが、イエスの言葉が百十四の項目にわけてあります。
 それで、ここではキリスト教をおそれず、率直に言わせていただきます。
 ヨーロッパの学者の方が、総掛かりで調べていますから、いろいろの意見がありうると思う。ドイツ語、フランス語その他、いろいろあります。しかしわたしは、それを恐れず、わたしの感じたところを率直・簡明に述べたいと思う。
 総論から言いますと現在のアメリカ・ヨーロッパの聖書研究もそうであるし、荒井さんもクリスチャンであるように、現在のバイブルは絶対というか基本をなす。
 その立場から、『トマス福音書』(講談社文庫)の副題に、第五の福音書という題がついています。福音書といいますと、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝、この三つが共感福音書で、ちょっと離れてヨハネ伝とあり、合わせて四つの福音書で、新約聖書の基本が出来ています。あとにパウロ伝などがありますが、中心は四つの福音書です。これに対して、トマス福音書は、第五の福音書と呼ばれています。
 わたしが言いたいことは、このトマス福音書は第五の福音書ではなくて、第一の福音書である。
 つまり、このトマス福音書はマルコ伝よりも、マタイ伝・ルカ伝よりも早い第一の福音書である。結論から言えば、これがわたしのたどり着いた考えです。
 ついでながら今までの聖書研究の基本の姿勢を言いますと、マルコ伝が一番古い。これが、だいたい一世紀の半ば前後にできた。次にマタイ伝が一世紀の後半直ぐにできるのですが、それで両者に共通部分がかなりある。これをQ(キュー 源泉という意味)文書というものを、元をなす文書を根本と考えなければ解明ができない。荒井さんも、そのように書いてある。これが常識です。
 わたしの理解を言いますと、マルコ伝よりも、Q文書よりもトマス福音書のほうが古い。それが、わたしの結論でございます。
 それを証明し関連するおもしろい話は山ほどあり、いくら話しても言いつくせないほどありますが、今はそれはできませんので、皆さんにお話して理解していただけるキーポイントだけを話したい。つまり論証できるところを、みなさんにお話したい。

 

三、あなたがたは、何を見に野に来たのか

 まずトマス福音書はぜんぶで百十四ありますが、その中の七十八番目について述べたい。

 七八 イエスが言った、「あなたがたは、何を見に野に来たのか。風に揺らぐ葦を見るためか。(あなたがたの)王やあなたがたの高官の〔ような〕柔らかい着物をまとった人を見るためか。彼らは柔らかい着物をまとっている。そして彼らは真理を知ることができない〔であろう〕」

 つまり状況を言いますと、イエスは神の国についてしゃべろうとしているわけです。聞いている人が一〇人なのか二〇人なのか知りませんが。農民や庶民が集まってきた。女の人が多いと思うのですが。ですが集まってきた人は、一方ではもっぱらイエスの服装についてしゃべっている。これは学校の教師で言えば私語ですが、野原だからヤジに近いですね。「あの。服装はひどい服ね。もう少しましな服をイエスは着たらどうか・・・」とか「あれ破れている。(母の)マリアは気にならないのかしら・・・」など、女の人たちでしょうが、そういうことが気になっている。それで、わいわいがやがや、うわさをしている。しゃべっているときに、そのように言われるとしゃべりにくいですよね。そのときにイエスは聴衆に、たたき返すわけです。何をたたき返したのかと言うと「あなたがたは、何を見に野に来たのか」。つまり葦を見るために来たのなら、あたり一面にあるではないか。どこでも生えている。わたしのところへ来ないで、そこらあたりに行けば良いではないか。たくさんある。また高官の柔らかい着物をまとった人を見るためか。だったら、ここにいないで、政庁などそこへ行けば良い。私のところへ来るのはお門違いだ。しかし言っておくけど、彼らは真理は知らない。あなたは真理を知るためにここに来たのではないか。これはやはり青年ですね。正面からたたき返すわけです。イエス大好き人間とわたしは言いましたが、わたしは青年という言葉をよく使いますが、モデルはやはりイエスです。イエスのように生き、かつ死んでいった人間。それを青年とよぶ。まさに、ここは青年ですよ。
 これも詳しくは言いませんが、英語とコプト語の資料をあげておきます。コプト語というのは古代エジプト語です。その中に、コプト語でなくてギリシャ語で書いてあるところがある。英訳はギリシャ語で書いてある。これがありがたいですね。荒井さんの訳には残念ながら反映されていない。
 「高官」はコプト語でなくてギリシャ語で書いてある。これに意味がある。この「高官」は王の家来の大臣クラスのように感じますが、しかし王に対して大臣クラスならコプト語がある。それをわざわざギリシャ語で書くということは外国人である。つまり外国人であるなら、今のわれわれは非常に理解しやすい。簡単に言えば、天皇とマッカーサーです。「王」にあたるコプト語、複数ですから「王たち」ですが、これが天皇たち。そして今度は、コプト語でないギリシャ語で書かれた「高官」、これはローマの占領軍。だから英語で書かずにギリシャ語で書かれてある。これはあたりまえというか、敗戦後のわれわれには、じつに良くわかる光景である。とくにわたしなどもその時期に青年時代を過ごしましたので、まざまざと思い浮かべて良くわかります。この時期には、ローマの占領軍は来ているわけです。ここのギリシャ語は「Great One」と英語に訳されている。Great Oneとはアレキサンダー大王のことです。ローマの占領軍に当てている。それをイエスは、天皇やローマの占領軍は良い着物を着ているが真理は知ってはいない。私はこんな服装をしているけれども真理は知っている。おまえたちは、その真理を知りたくてここに来たのに、なんだ。攻撃的なイエスがここに出て来ている。
 これに対して現在のバイブルはどうか。言いますと、そこに書かれています。

   マタイ一一・七 ー 八に並行
  七 イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめた。「あなたがたは、何を見に荒野に来たのか。風に揺らぐ葦であるか。
  八 では何を見に来たのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。

   ルカ七・二四 ー 二五に並行
  七 イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめた。「あなたがたは、何を見に荒野に来て来たのか。風に揺らぐ葦であるか。
  八 では何を見に来たのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着飾って、ぜいたくに暮らしている人々なら、宮殿にいる。

 これとトマス福音書に三つの違いがある。第一には人間関係が違っている。主客関係が違っている。つまりトマス福音書の場合には、イエスと群衆とのやりとり。群衆はイエスに悪気はなかったでしょうが服装についていろいろ言っている。それに対して正面からたたき返すイエス。これに対して他の福音書の方は有名なヨハネ。洗礼者ヨハネの服装について、群衆がいろいろ言っていることに対して、イエスがヨハネ弁護の陣を張ったということです。つまりここでは服装評論家になってしまっている。服装評論家イエスがヨハネ弁護人の役割を担っている。ここでは人間関係がまったく違っています。
 第二には、いうまでもない、天皇とマッカーサー。それにあたる言葉がいっさい削られてない。この言葉はきわどい言葉です。こんなことをうかつに言ったら、ろくな目にあわない。そうですよ。最後にイエスは殺されて、ろくな目にあわなかった。それが現在のバイブルには、まったくない。
 第三番目に、いちばん大事なことはことは、その「天皇とマッカーサー」に関して、「彼は真理を知らんのだ。」と決めつけている。それが現在のバイブルにはない。これに対して、わたしは昔懐かしいドイツ語や、よくは知らないフランス語の本を読んでいるけれども、だいたい当然ながらバイブルからという評価になっている。
 かなりの人は、ヨハネに書き換えられているとか、(トマス福音書などから)削られているとか、改竄(かいざん)されているなどの考えは、可能性があるけど言い切れないという言い方をしています。バイブルからという評価で基本線で解説が出来ています。
 クリスチャンになっている人は、現在のバイブルで学んでいます。それが書き換えられたという話になると、ぐあいが悪い。もちろんわたしは、反キリスト教でもない。もちろん親キリスト教でもない。文献のほんとうの姿を、ありのままに見たい。それだけです。そういう考えから見ると、今のバイブルの姿に対して、二世紀のはじめ頃、後になって「高官(マッカサー)」という言葉を入れましょう。「彼らは真理を知ることができない」という言葉を入れましょう。そういう人間が出てきて改竄(かいざん)本を作ったということは、わたしには理解できない。ヨハネという言葉を切り取ってイエスと住民との直接対話に書き換えましょう。そういう考えは、わたしの頭では、どうしてもそのような図は思い浮かばない。
 『トマス福音書』が第一のバイブル、現在のバイブルは書き換えられた姿を示す例であろう。そのように考えております。

 

四、父の国は高官を殺そうとする人のようなものである

 同じようなことを、もう一つ例をあげてみましょう。

  九八 イエスが言った、「父の国は高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕がやり遂げうるかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから彼は高官を殺した。

 はじめて読む方はなんのことだと思うかも知れませんが。この状況はどうか。ここでは「高官」はギリシャ語ですから、ハッキリいえばマッカーサー、ローマの占領軍たちです。それを殺そうとするようなものだと言います。かれは、外で高官を殺す前に、家の中で練習する。刀を抜いて自分の腕でできるかどうかを試している。確認している。それでこれなら活けるということで修練がすめば、占領軍のNo.1かNo.2か知らないけれども初めて高官を殺す。
 これはなにか。いきなり天国のことを、民衆に説いてもわからない。家の中で練習しなさい。家の中で奥さんや子供に対して、天国とは何かをしゃべるわけです。おとうさん、それではわからないとか子供に言われたり、奥さんからこう言えばと家の中で練習する。おとうさん、これならわかる。奥さんが、そうよ。その通りよ。そのように、家の中にいる者が納得するようになってから、初めて外に行って民衆に呼びかける。こう言っています。言っていることはその通りで、誰に聞いてもわかりやすい。しかし譬(たとえ)が、凄(すご)い。ハッキリ言ってテロリストです。しかも占領軍に対するテロリストです。しかも、そんなことをしてはいけないという話ではない。やれという話でもない。少なくとも否定的な譬(たとえ)ではない。むしろ彼らは、みごとに鮮やかに殺したと警察では話をするかもしれんが、彼らには隠れた努力があるんだよ。どうもこの話は、(テロリストのことを)聞いてるほうも知っているみたいです。誰それのおじさんは、高官のだれそれを殺した。家の中で一生懸命練習して成功したとか、誰それの兄さんは一生懸命練習してあきらめたとか。そういう話を聞くほうも知っている。イエスも知っている。このような譬(たとえ)なら、(周りも)よく分かる。このような譬(たとえ)をつかって天国の話を説いている。なんだか今のイラク・パレスチナを思い出しませんか。
 このトマス福音書の話を、アメリカ大統領にしたら、あまり良い顔はしないだろう。
 とにかく、ここではイエスは占領軍の高官に対して、外国に対するテロリストを譬(たとえ)にしていることは間違いない。これをけしからんと思われるか、立派だと思われるかは、現代の価値判断。今のわたしには関係ない。とにかくこの文章は、そういう情況を示していることには疑いがない。そしてこの項目は、現在のバイブルには、まったくない。皆さん今お話したことを、今まで見たことはないでしょう。
 それでは結局どちらが先かという話になる。この話がない、現在のバイブルが先で、あとから素っ頓狂な人物がこの話を書いて付け加えたのか。あるいはこのトマス福音書に書いてあることが本来なのか。
 特に現在のバイブルはパウロが中心です。パウロの話がたくさん入っている。ローマが布教の中心になる。だからこの話はヤバイ。それが削除されたと考えるのが順序です。
 次はぜんぜん別の問題にふれることにします。

  7 イエスが言った、「二人の男が一つ寝台に休んでいるならば、一人が死に、一人が生きるであろう」。サロメが言った、「あなたは誰なのですか。一人が出たような人よ。あなたは私の寝台に上ぼり、そして私の食卓から食べました」。イエスが彼女に言った、「私は同じ者から出た者である。私には父のものが与えられている」。<サロメが彼に言った>、「私はあなたの弟子です」。<イエスが彼女に言った>、「それ故に私は言うのである、彼が同じであるときに、彼は光で満たされるであろう。しかし、彼が分けられているときに、彼は闇で満たされるであろう。」

 このように書かれています。いきなり内容説明に入りましょう。ここでは三行目で、はっきりしている。このサロメは、あの有名なヨハネのところに出てくるサロメと同じか別かはわからない。同名の別の女性かも知れません。サロメという女性とイエスの二人がいて、三行目「あなたは私の寝台に上ぼり、」でわかりますようにイエスは前の晩サロメと一緒に寝た。サロメは売春婦か何かしりませんが。彼女と同じベットで一晩過ごした。「私の食卓から食べました」からわかりますように、朝食を伴にする表現も、親しい一つの(男と女の)関係をあらわしている表現です。ようするに前の晩に一緒にいた証拠です。ですから、そのときは、イチャイチャしていたのではないか。ところが、イエスがいきなり言うわけです。「二人の男が一つ寝台に休んでいるならば、一人が死に、一人が生きるであろう」。男と女ではない。つまり、ここに二人の男が一つの寝台に寝ているとします。その二人がどういう運命になるかわからないのだよ。一人が死に、一人が生きていることもあるのだよ。言い変えればイエスは、サロメと昨夜は伴にしたけれども、明日の運命はわからないのだよ。いやになにか哲学的な話というか、深刻な話をイエスは言った。
 そこでサロメは言うわけです。「あなたは誰なのですか。一人が出たような人よ。あなたは私の寝台に上ぼり、そして私の食卓から食べました」。あなたはいったい誰。神様みたいなことを言うわね。昨日はわたしと一緒に寝台で寝ていてイチャイチャしていたではないか。朝は機嫌よく私と一緒に朝食を食べたのでないですか。それが今、神様のような大変むつかしいことを言うわね。こう言ってイエスをからかったわけです。そうするとイエスは、さらにくそまじめな話を、さらに徹底させるわけです。「私は同じ者から出た者である。私には父のものが与えられている」。私もおまえも、おなじ神から出た一人なのです。あなたもわたしも神から与えられた人間の形をした一人なのです。私には神の言葉を与えられています。わたしは神から与えられた人間の言葉を語っています。こう言って、からかわれたのに、まじめ人間のまじめくさった表現をするわけです。サロメのほうは、ものをわかった女性らしく、いいです、いいです。わたしはあなたの弟子です。あなたはそんなことを言わなくてもわかっていますよ。そういう形でイエスをあやしています。たいへんサロメのほうは、年上というか広い意味のセックスを含め世の中に関して長(た)けている感じです。ところがイエスはさらに言った。「彼が同じであるときに、彼は光で満たされるであろう。しかし、彼が分けられているときに、彼は闇で満たされるであろう。」つまり先ほどのベッドの二人の話を理論化するわけです。同じベッドに二人の男が寝ている場合でも、一人は、神を信ずるものは光に満たされた生涯を送るようになるだろうし、神を拒否するものは闇に満たされた生涯を送るだろう。そう言って最初に言ったことを、イエスはまじめに駄目押しするわけです。
 こういうときには男性は、あまり女の人に普通このような言い方をしないと思うのですが。そういう逸話。しかし、これはありうる話です。もちろん今のバイブルにはぜんぜんない。なぜないのか、おわかりでしょう。現在のイエスは、バイブルでは神様です。神様がこれでは困る。格好がつかない。しかし三〇前の普通の男なら、とうぜんありうる。別にイエスが童貞でいてもかまわないが、一人の男としてあたりまえでしょう。このような話があってふしぎではない。むしろ、こういうときにすら堅物な男というか、ここでは女に原則論をぶつける男である。これはありうる話です。いい話だ。
 この話は現在のバイブルにはぜんぜんない。現在のバイブルにぜんぜんないほうが本来で、イエスが神になった後から酔狂な男があとからこの話を作って付け加える。そんなことがあると思いますか。わたしはありえないと考える。
 わたしがイエスを論評する資格はありませんが、ここのイエスは野暮天ですが、なかなかいい青年であると思います。そのように好感をもちます。

 もう一つ、これに関連する話をします。

  一〇四 彼らが彼に言った。「来てください。今日は祈り、断食しましょう」。イエスが言った、「私が犯した罪とはいったい何なのか。あるいは、私は何に負けたのか。しかし、花婿が花嫁の部屋から出てくるときには、そのときにはいつでも彼らは断食し祈るべきである」。

 よくわかったか、わからん話です。私の理解を言いますと、「彼ら」というのはお弟子さんです。「来てください。今日は祈り、断食しましょう」とお弟子さんがいうわけです。これもわたしの理解した種を証(あか)しますと、イエスは売春婦と一緒に寝ていたわけです。一緒に泊まっていたわけです。弟子も知っていたわけです。そうしますと、そういう体でお説教されることに弟子たちは抵抗がある。先ほどはサロメに、まじめに説教していましたが、そういう説教されても白けるだけです。そういうときは、よい方法がある。祈りをあげて、一食抜く。断食をするわけです。そうしますと、その罪がチャラになる。そういう感覚が弟子たちの中に、ユダヤの社会にある。だから話をするのは止めて、断食してください。そのように好意的に言った。ところが、そこでイエスは言った。「私が犯した罪とはいったい何なのか。あるいは、私は何に負けたのか。」私は何も罪をおかしていない。何に負けたのか。女性と一緒に寝たのがなぜ罪なのか。セックスしたのが、何に負けたことになるのか。そんな形式的なチャラにする儀式はしない。正面から拒否するわけです。その次の「花婿が花嫁の部屋から出てくるときには、そのときにはいつでも彼らは断食し祈るべきである」、これも読んだだけでは、なんのことかわからない。これもコプト語の原文とギリシャ語と英訳を対照して見ますと、「花婿」「花嫁」はコプト語のなかではギリシャ語で書かれている。荒井献さんの本の中では、「花婿」はギリシャ語であると書いてあったから、その通りだと思っていたが念のためとおもって確認したら両方ともギリシャ語だった。これは何かと言いますと、これは異国風の最近の風習なのだ。だからそういう連中は、そのようなやり方をする。しかし私はいやなのだ。そういう安直な断食したら罪は消える。そういう方法はいやだ。そう言っています。これは、やはりイエスという男は、やはりそうかという感じがする。
 これも少し話をしますと、私の好きな親鸞にも似たような話がある。親鸞が関東で鎌倉幕府の館に呼ばれたときがある。呼ばれたときと言ってもアルバイトです。写経をするわけです。権力者は百巻・千巻のお経を写したら供養になる、そういうつまらん考えで写経を行います。お坊さんは、その一切経(仏教の全経典)の校合(照らし合わせ)のアルバイトして稼ぐ。そのひとりに親鸞は呼ばれている。その休みというかお昼に食事がでる。食事の中にはお魚も出ています。そのとき他の僧侶は、みな衣を脱ぐわけです。これは何かと言いますと、僧侶というのは殺生して魚を食べてはいかん。そのようになっている。本当は野菜とか動物質でないものを食べるべきでしょうが、そうはいかないから魚を食べる時には、うまい便法がある。つまり衣を脱げばよい。衣を脱いでいる間は、僧侶ではなくなるのですから魚を食べればよい。うまい便法ですね。ですからみんな衣を脱いで食事をする。ところが、その中で親鸞ひとりだけ法衣のままで食事をしていた。それを見た(子供時代の)時頼が、側に行って「なぜ、あなたは法衣を脱がないのか。」と子供らしく質問した。親鸞が「せめて袈裟を着て食べて、魚鳥に功徳(くどく)を与えたいと思ったのです。」と答えた。そういう談話があるのですが、これはほんとうは違うと思う。なにが違うかといえば、要するに親鸞は、衣をぬげばよいだろう、そういう安直な姿勢がいやであった。変だから時頼は聞いたのでしょうが、親鸞は安直な姿勢を拒否する精神。
 ここのイエスも似たような姿勢。もちろん、この話はバイブルにないし、似た話はマタイ伝・マルコ伝・ルカ伝にもあるが、読んでもらったらわかるが、よくわからない。

   マタイ九
  一四 そのとき、ヨハネの弟子達がイエスのところに来て言った、「私たちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」
  一五 するとイエスは行った、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし花婿が奪い去られる日々が来る。その時は断食をするであろう。・・・」

 このように書いてあるが、わたしは何回読んでもよく分からない。肝心なことを抜かしてある。イエスが売春婦と寝て、弟子達が好意的に断食をしてくださいと言ったのをイエスが敢然と拒否している。これが抜かれているから前後を取っても、なんのことかわからない。これもほんとうは、トマス福音書が第一福音書で、クリスチャンの方から怒られるかも知れないが、現在の『聖書』が改竄(かいざん)本である。そういうことでございます。
 さてそれでは、今朝にかけて発見したことがらを申させていただきます。だから史料にはない。青山学院大学を出られた関西学院大学平谷教授に、わたしをふくむ三人のメンバーにコプト語でトマス福音書のレクチャを受けています。

  九六 イエスが〔言った〕、「父の国は、〔ある〕女のようなものである。彼女が少量のパン種を取って、粉の中に〔隠し〕、それを大きなパンにした。聞く耳がある者は聞くがよい。」
  九七 イエスが言った。「〔父の〕国は、粉を満たした〔壺を〕担い、〔ある〕遠い道を行く女のようなものである。壺の耳〔把手〕が壊れた。粉が彼女の後ろ、道〔に〕流れ落ちた。(しかし)彼女はそれにきづかなかった。彼女は禍を知らなかったのである。彼女が家に着いたとき、彼女は下に置き、それが空(から)であることを発見した。」

 聞いても最初はわからない。まず最初の九六の話、これはご存知のように粉の中にパン種を入れておくと、二・三倍に膨れたパンになる。天国はそれと同じだ。これは何かというと、イエスから天国の話を聞くわけです。しかし、よくわからんわけです。しかしわからないけれども何か大事な話だと思って覚えておく。そうしますと何日か、何ヶ月か、何年か経つと今の言葉がふくらんでいって役に立つ。そういう話です。
 次の九七の話。壺の取手がこわれている。そこから粉がこぼれている。しかし彼女は気が付かないで、づっと家まで帰った。家へきて見たら粉が一つもない。これはわかりますね。つまりイエスから天国の話を聞くわけです。その時はアッと思い、よい話だと聞くわけですが、二・三日が経つと忘れるわけです。二・三週間したらスッカリ忘れてしまう。だからせっかく貴重な天国の話を聞いても、さきほどの女の粉を失ってしまうのと同じなのだ。
 ですから、この話は、得するケース、損するケースを言っています。そのときの壺はどんな壺だろうと、学習会で議論になったのですが、わたしは間違えて頭の上に置く壺だと考えていたのですが、それはそうではなかったようです。肩に乗せる壺で、細い取手が取れたようです。こういうことは生活の中にあるだろう。ここまでひどくはなくても、たとえばマリアがうっかりして壺の粉を全部でなくとも、なくしたケースがあったのだと思う。それを譬(たとえ)に使ったと思う。いくらか損をしたと思うだろうが、もっと損をするのは、神の言葉を聞きながら忘れて行く人は、大損だよ。そう言っています。それに対して、(今は)わからないけれども大事にしなければなりませんよ。

 また寄り道ですが、旧制広島高校のときに岡田甫(はじめ)先生からソクラテスの言葉(趣旨)として、

  「論理の導くところへ行こうではないか。たとえ、それがいずこに到ろうとも」
  「論理の導くところへ行こうではないか。たとえ、それがいかなるところに到ろうとも」
  の言葉を紹介しながら、一番大事なところはどこかと言われ、最後の「たとえ、それがいずこに到ろうとも」

であると紹介して頂いた。それ以上の解説はなかったが、この言葉がどんどんふくらんで今日に至っている。
 よい言葉というのはすぐ全貌はつかめないけれども、パン種のようにふくらんでいく。わたしなどはそれを思い出しました。
 イエスはそのようなことを言っている。よい譬(たとえ)ですが、それと同時に、昨日気が付いてエッと思った。つまりこれらは、イエスが家の中で練習した成果です。町の中でいきなり説教して、イエスの信仰の大事な点は・・・とか、神の国の本質は・・・とか、言い出したらお百姓さんたちは何をむつかしいことを言っているのか。帰えろ、帰えろと言って、だれも相手にしてくれない。つまりここで(町の中で)いきなりむつかしい信仰の話をしても、だれも聴いてはくれない。だからこれはイエスが家の中で練習しているわけです。
 そこから先は、わたしが勝手に設定したことですが、そういうことを家で練習していたら(母の)マリアは、イエスのことが心配だった。大工の仕事をまじめにやっていれば良いのに、また変なことを言い始めた。「神の国が・・・」と言い出して、あんなことを言ったら、えらい人に目をつけられて、えらい目にあわないか。そう思ったら心配でたまらないわけです。そうすると、やはりその途中で壺の取手が壊れても、それに気が付かないから小麦がこぼれる。ぜんぶ無くなったかどうかはわかりませんが。普通だったら気が付くでしょうが。わたしはそういううっかり者のマリアが大好きですが。
 そういううっかり者の実例が、家庭の中であったと思う。そういう例を使えば、ほかの人も良くわかる。
 聞いた人は天国はそんなすごいところかと思う。いわんや、先ほどの話は、女たちをみんな知っている。これならわかる。イエスが言ったことは覚えておかなければ損だわね。
 これらの話は、素朴にみえるけれども素朴な話ではない。つまり根を持った素朴さです。これなら通じるという素朴さです。つまり家の中で、練習し抜いたという成果です。あるいは練習相手は、マリアであったり、いとこであったりしますが、そこで成功した話をしています。
 そう考えますと、先ほどの高官を殺すテロリストの話、あの話を聞いていたのは青年である。青年と言っても普通の若者。青年はテロリストにあこがれている。かっこよく殺した。だから若者にそういう譬話をしたら、エッと答えたと思う。天国なんて私には関係ないよという顔をしていた若い男が、エッと目を引かれるわけです。それであの話ができた。
 同じように、この場合は庶民の農民の女の人たちを聞き手にして話をする。これならエッセンスが分かる。そのようなことに初めて気が付いた。そのように考えると、これらの話はバイブルにぜんぜんない。パン種の話は少し出ているが、小麦の粉の話はぜんぜんない。このような話は(イスラエルの)ナレザの村あたりではよくある話です。しかしローマの町中でやっても、小麦の粉が抜けるような話は通じない。ローマは、そのような世界ではない。くだらんと言われる。だから、この話はカットされた。そのようにわたしは理解する。逆はちょっとありえない。
 わたしは、この粉がこぼれる変な話のモデルはマリアにちがいない。老人でなく若い母親のマリアがこれだけぼけていたのは、それだけイエスのことを心配していたにちがいない。イエスが変になって大工の仕事をやめてというか、大工の仕事だけで満足しなくなって、意図は分からないけど、偉い人のことを攻撃しはじめた。それがマリアには心配でたまらなかったから、こういう抜け作をやったのであろう。これはわたしの単なる推定でが、なんの証拠もない。このたいへん良い話が、現在のバイブルにはない。
 ということでお分かりいただけた思いますが、わたしはこのトマス福音書は第五の『聖書』ではなく、第一の『聖書』であると考えています。

 

五、復活と汝(なんじ)の敵を愛せよ

 次に重大な問題を申しあげます。このトマス福音書に復活の話はありません。復活なしは、あたり前と言えばあたり前の話です。このトマス福音書では、イエスは死んではいない。生きている。だから復活の話がないのは、あたり前です。現在のバイブルには、生きているときに、捕らえられて死に臨んで復活することを予言する場面がある。それもありません。復活の話はゼロ。もう一つは「汝(なんじ)の敵を愛せよ。」がない。これがゼロ。
 復活の話がないのは、それはそうだろうと思っていたので悩まなかった。これは前から考えていて、わたしの考えではこのトマス福音書のイエスなら、権力者に対してこれは書けない。バイブルのイエスなら権力者にとってはやさしいことばかり言っている。それを権力者は、なにを狂ってイエスを処刑したのか。そのような感じを前から持ちました。みなさんも、そう思いませんか。しかしトマス福音書に出てくるイエスは、ローマ当局や司祭を名前をあげて説教を行う。放っておいたら権力者にとってえらいことです。早いうちに芽を断とう。そのように感じた。
 それはそうとしまして、その場合イエスが殺されたのは間違いがないでしょうが、その場合嘆きの丘に死体が投げ込まれたでしょうが。ところが、しかし先ほど言いました人間イエス。直接接した人々にとっての青年イエスですがあまりにも無残に殺されたことは、あまりにも痛ましい最後だと思ったにちがいない。そう思ったその中の男が、わたしは男だと思うのですが、夜に行ってイエスの死体を盗み出した。盗み出したという言葉は正しくないですね。死体を出して、持ち上げて運び出した。それで丘の上か木の下かわからないけれど、どこかふさわしいところに埋めたと思う。真夜中だから、男たちだと思うのです。
 さて夜明けになってから、後から女たちが死体を探そうとしたが、ない。それで復活という概念が生まれた。
 復活という概念は(旧約)聖書にある。イエスのことではないけれでも復活したという概念はある。ですから復活したというイメージはある。女たちにも。そのイメージはある。ただしイエスに、あてたことはなかった。それをイエスにあてて、イエスは復活した。そういう復活のイメージを伝えたのは女たちでないか。そのように考えています。
 トマス福音書に復活の話がない。それはそうだろうと考えていました。
 次に、わたしが悩んだのは(トマス福音書に)「汝(なんじ)の敵を愛せよ。」がない。これで悩んだ。
 それが、わたしとしては解決することができました。
 これはなにかと考えましたのがアレキサンダー大王の大遠征。イエスよりも四・五百年前ですが。マケドニア・ギリシャから出て北インド・ガンダーラあたりまで支配、遠征したというのは有名な話です。そのとき彼のとった方式として有名な話が、混血児奨励策をとった。つまり異民族の混血児が生まれるということを奨励した。これは有名な話で、わたしも高等教師の時に教えた覚えもある。皆さんも聴いた覚えがあるとおもう。なかなか美しい卓見だと思って聞かれた人も多いし、わたしもそういう記憶が残っていた。しかしよく考えてみると覚えただけだから、そこにとどまっていたが、よく考えるとたいへん残酷な話だ。
 これは何かというと、マケドニア・ギリシャの占領軍が、戦争で勝って負けた地域の男を殺した。そうすると女だけが残る。その負けた側の女とセックスをして混血児を産むことを奨励した。ハッキリ言えばそうだ。まさか逆にギリシャから女の人々が出かけていって、現地の残された男とセックスして回った。そんなことは、わたしには理解できない。
 そうなりますとその場合、これはアレキサンダー自身のうまい方法だが、混血児は統治する占領軍から見ても大変うまい方法です。その産まされる子供は、占領軍の子か地元の子か、わからない子供ができる。自分たち占領軍には、たいへん便利な子供たちです。支配する占領軍から見れば。
 しかし女の人からみれば、やりきれない。子供を産まされのですが、その父親になる男は、自分の父親や、自分の本当の前の夫や、兄や弟を殺した占領軍の男ではないか。それが新たな自分の男。この場合正式に結婚するわけではないから自分の男に、その子供を産まされる。子供が産まされたら、その相手の男性を愛さざるをえないではないか。つまり「敵を愛する。」
 アレキサンダーのうまい表現は、男の側から言った格好の良い言い方ですが、実際に産まされる女の側からは屈辱にみちた敵を愛する。そういう声を出さざるをえない。あまりにひどいので、声にも出なかった。これは、わたしの考えですが。
 ですからアレキサンダー遠征の後ですから、イエスの生きているときも敵を愛するというイメージは存在した。これもハッキリ言っておきますが、現在のローマで、聖書は〔キリスト教の〕宣伝用の教材として作っている。ローマが悪いという書き方では、ぐあいが悪い。ローマは悪くない。悪いのは大司教などをはじめとするユダヤの民衆が悪いのだ。(史料状況を見ても、)『聖書』もだいたいそのような形になっている。今のバイブルは、ローマにつごうの良いバイブルの形になっている。しかし、そんなことはウソですよ。
 しかし不幸というか幸いというか敗戦後の占領軍を受け入れた、われわれなら分かる。現在の人間である我々なら分かる。マッカーサーの意図に反して、天皇だか政府の意向が通りましたか。まったくノウ(NO!)。実例をたくさん知っています。ありうることではない。それをいかにもマッカーサーが悪いのではない。天皇や当時の民衆が悪かったかのように、現在のバイブルは書き直している。このような意味でも、現在のバイブルは改竄(かいざん)本。これは初めてわたし一人が言っていることではない。よく言われていることです。
 それでイエスのような扇動者と同調者を葬り去る。今のうちに殺すのにかぎる。殺すのは見せしめであって、殺せば同調者は胡散霧消するにちがいない。それが占領軍側の意志だった。たしかにそれは占領軍側の意志どおり、多くの人々は胡散霧消した。しかし胡散霧消しない人々もいた。それは、やはり人間としてのイエス。ひとりの青年としてのイエスを尊敬し愛した女たち。その女たちは、そのイエスを忘れず守りつづけた。
 だからその女たちは、「汝(なんじ)の敵を愛せよ。」を〔聖書に〕入れ、伝えつづけた。このばあい、敵はローマの高官でアレキサンダーではない。イエスを処刑したローマ軍、またそれに同調したユダヤの王たち。敵ですよ。
 「汝(なんじ)の敵を愛せよ。」、そういうテーマが発生した。そういうイデオロギーがなかったら、胡散霧消しないでいく方法がなかった。それが有名な「汝(なんじ)の敵を愛せよ。」というテーマを産んだ。もちろん今のバイブルでは、イエスが言ったようになっている。これを産んで伝えたのは、女たちである。
 そういう意味で、ここから先は、ずいぶんひどいことを言うと言うかも知れないが、まあ聞いてください。わたしはイエスよりも女たちのほうが、すぐれた求道精神を持っていた。そのような結論に達した。(拍手)
 それは、あたり前です。イエスは三五歳そこそこの青年ではないか。人生経験と言っても、たかが知れています。たいしたことはない。女たちはやはり年齢におうじて、いろいろな人生経験を経てきている。人生経験の差は歴然としている。そこから産みだす精神構造は、イエスのような一本やりの青年よりも、ぐっと深い求道精神が生まれて何も不思議ではない。そういう意味で、イエスよりも女たちのほうが、すぐれた求道精神を持っていた。そのように考え、そのとおり皆さんに言うわけです。
 ただしそれは、そうなのですが女たちに、あのようにすばらしい求道精神の種を植え付けたのはイエスです。あの潔癖な妥協せざる青年イエス。あのローマの圧制にも妥協せざる青年イエスの姿が、女たちを感動させた。いつも妥協したり、なあなあへらへらと生きて来ている男たちの姿を見てきているではないか。その中でほんとうに妥協せざるイエスの姿が、すばらしい精神構造を生み出した。
 その意味で、さきほどイエスより女たちのほうがすばらしいと言ったのは、半分は半分です。半分はイエスが種を植え付けた存在だと考えています。

 

六、父の国は、女のようなものである

 それで最後に、印象深く気がついたことですが、親鸞の問題で『歎異抄』蓮如本というものがありまして、この本は従来誤りが多いとされていた。
 しかしわたしは親鸞研究のなかで、その誤りが多いとされていた蓮如本が、実は(親鸞の)ほんとうの具体的な姿を示していた。他の分かりやすいとおもわれていた従来の『歎異抄』は室町・江戸時代の改竄(かいざん)本である。それが親鸞研究をおこなったときの基本問題でした。このあたりは『古田武彦著作集第二巻 親鸞思想ーその史料批判』でくわしく書かれています。それに関連して一つおもしろい問題があったので、言わせていただきます。
 イエスの文章に、先ほどの九六と九七にへんな文章があった。

  九六 イエスが〔言った〕、「父の国は、〔ある〕女のようなものである。・・・」
  九七 イエスが言った、「〔父の国〕は、粉を満たした〔壺〕を担い、〔ある〕遠い道を行く女のようなものである。・・・」

 ここでは、ぜんぶ「女のようなものである。」と言っています。これが変だと言われています。関西学院大学のトマス福音書を用いたコプト語の研究会でも、さかんに言われています。
 これに対し、わたしは「こういう用法が、この時代にあるのではないか。」という提言をしています。しかし今度『歎異抄』を見てよく検討してみますと、新しいことがわかった。
 『歎異抄』第七条に「念佛者は無礙(むげ)の一道なり。」とある。無礙(むげ)というのは礙(さわ)りなし。ですから、これはおかしいのです。念仏者は、念仏を信じる人です。礙(さわ)りなきひとつの道は、いうならば道です。人と道は同じではない。だから「念佛者は無礙(むげ)の一道なり。」というのは、間違っている。おかしいという意見がある。
 これを理解する手段として、 ーー念仏(者)は「者」を「ハ」と訓したるものが、「者は」と連署された。と岩波文庫では理解したり、ーー これを岩波文庫の『歎異抄』を書いた金子大栄さんは、「者すなわち念仏の行者である。」という親鸞の深い境地の現れであると解説した。
 これに対してわたしは、これは当時の語法である。つまり「念仏者は無礙(むげ)の一道にあり」という意味である。鎌倉時代の例を、いろいろあげて証明した。三〇歳代。今考え直してみるとその説明したこと、そのものに間違いはなかったのですが、事の半分も説明していない。つまり、ありうる語法であるけれども、普通の語法ではない。
 トマス福音書にもどり考えてみると、「天国は女のようなものである。」、これは普通ではない。同じく「天国は、高官を殺す人のようなものである。」、これも普通でない。おかしい。天と人をイコールで結んでいる。ありうるけれども、ですが普通は使わない例です。
 これを普通は聞いていて、エッと思う。逆にエッと思わせたい。だいたい「急がば回れ。」ということわざ。「急ぐなら、回りなさい。」と言えば、エッと思う。「急がばまっすぐ行け。寄り道をするな。」では、なにもおもしろくもない。一見エッと思わせて真理を説くというやり方。その用法です。
 親鸞も聴いている念仏者に、「念佛者は無礙(むげ)の一道なり。」と言って、相手をエッと思わせて、「なぜわたしが、無礙(むげ)の一道と同じなのか。」と疑問を投げかけ、びっくりさせる。イエスも同じ用法です。「天国は女と同じである」と言えば、聴いている女はびっくりする。わたしがなぜ天国と同じなの。びっくりするけれども、内容は(親鸞と)同じ。「天国は高官を殺す人のようなものである。」青年は、高官を殺したけれども、なぜ俺が天国と同じなのか。びっくりするではないか。
 だから意外性を持った言葉を発して、対象をひきつける点が『歎異抄』も『トマス福音書』も共通している。
 現在のバイブルは、それが無くなってしまい、「天国はパン種のようなものである。」という分かりやすい表現に変えられている。今朝気がつきましたので、発表させていただきます。
 そこで最後の結びとして言いますが、わたしは非常にうれしい。それはなぜかと言いますと、親鸞研究以来、古代史研究を通して試みたおなじ方法論。それが正しかった。今さらと言われる方もありますでしょが、わたしとしては確信を持った。もちろん部分的には対象が違いますので、多少はちがっていますが基本的には正しかった。ですが対象が『歎異抄』であろうと、古代史の『魏志倭人伝』であろうと、『古事記』『日本書紀』であろうと、『聖書(Bible)』であろうと、まったく関係ない。おなじ方法論でおこなう。つまりイデオロギーやいろいろな権威者の言葉に従うのではなくて、その史料が示すありのままの姿のみに依拠する。つまり「論理の導くところへ行こうではないか。たとえいかなるところへも」
 今日発言したことを、ヨーロッパやアメリカで発言したら、暗殺されるかも知れない。
 そんなことは問題ではない。暗殺してみても消える話ではない。一回みなさんに話をしましたから、これだけの人が聴いていますから、話がチャラになるわけではない。わたしとしては非常にうれしい。これで念願のトマス福音書の話を終わらせていただきます。

 

七、トマス福音書と大乗仏教

(追加質問ならびに、質問の時間に大乗仏教の問題を答える形で講演)

 質問にもありましたので、(トマス福音書と)大乗仏教との関連をお話することが抜けていましたので、お話したほうが良いと思いますので、話させていただきます。

  法華経<岩波文庫>(二二四ページ)
 観我成佛。復速於此。當時衆會。
 皆見龍女。忽然之間。變成男子。
 具菩薩行。即往南方。無垢世界。
 坐寶蓮華。成等正覺。三十二相。
 八十種好。普為十方。一切衆生。
 演説妙法。・・・
 わが成仏を観よ、またこれよりも速(すみやか)ならん」。当時(そのとき)の衆会(しゅうえ)
 皆、竜女の、忽然(こつねん)の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具して、
 すなわち、南方の無垢(むく)世界に往き、宝蓮華に坐して、等正覚を
 成じ、三十二相・八十種好ありて、普(あまね)く十方の一切衆生のため
 に妙法を演説するを見たり。・・・

 (225ページ 提婆達多品)
 そのとき、サーガラ竜王の娘は、世間のすべての人々が見ているところで、また長老シャーリ=プトラの眼前で、彼女の性器が消えて男性の性器が生じ、みずから求法者となったことを示した。そのとき、彼女は南方に赴いた。そこで南方にあるヴィマラー世界にとどまり、七宝づくりの菩提樹の根元に坐り、みずから「さとり」をひらいて仏となり、三十二種の吉相と八十種の福相のすべてを具えて、光明で十方を照らして教えを説いている姿が見えた。
・・・

   <トマスによる福音書>講談社学術文庫より
  一一四 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国に)導くであろう。私が、彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」

 これは法華経に「竜女の、忽然(こつねん)の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具して、」とあります。これの左側のサンスクリット語の訳として、「シャーリ=プトラの眼前で、彼女の性器が消えて男性の性器が生じ、みずから求法者となったことを示した。そのとき、彼女は南方に赴いた。」とあります。なぜこんなことを持ち出したかと言いますと、これと同じ文言が『トマスによる福音書』百十四にあります。百十四番で、シモン・ペテロは有名なペテロの一人です。マリハムとは女性の名前です。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。つまりマリハムは、ここのメンバーにいたが、出て行ったほうが良い。なぜなら女性は天国に行けない人間だから。つまり女性差別です。それに対して、イエスは、「見よ、私は彼女を(天国に)導くであろう。私が、彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」と言った。変な言葉です。
 荒井献さんが岩波文庫から出しておられる『新約聖書要覧』。この本を偶然手にして見ますと、ここに、この言葉が部分的に引用してある。それを見て、ハッとした。なぜハッとしたかと言いますと、これは私には非常に親しい言葉です。

  『親鸞聖人全集』浄土和讃 大經意
 諸佛の大悲ふかければ
 佛智(ぶっち)の不思議をあらわして
 變成男子(へんじょうだんし)の願をたて
 女人成佛ちかひたり

 つまり阿弥陀仏は、女を男に変えて、そして浄土に救いたもう。この考え方は、親鸞が信じているというか根本にすえる大乗経典に書いてある。大無量寿経・四十八願経にも書いてある。その前の段階だといわれる荘厳経・三十六願経にも、ちゃんと書いてある。その前の段階といわれる二十四願経・大阿弥陀経にも、ちゃんと書いてある。その前の段階だとわたしは思うのですが同じ二十四願経の平等覺経、これにはない。女を男に取り換える話はない。これらの大乗経典の前後関係には、おもしろい問題があるのですが今回は省略します。私の判断としては、一番初めの段階といわれる二十四願経にはない。大阿弥陀経の二十八願経には全体として、この話は現れる。これは誰でも知っていることで、わたしなどは親鸞研究でいつも見ていたことです。
 それと同じものがトマス福音書にありました。結論から言いますと、変わった話だから両方無関係であるとは思えない。しかも大事なことは両方ともアレキサンダーの大遠征・支配の地である。これは関係がある。大事なことは矢印の方向はどちらか。どうもわたしはトマス福音書から北インドへの、方向の矢印ではないか。このように考えた。その理由は、実はトマスの伝記にある。正式名称は長いですが、略していうと「トマス公伝」。これは講談社の文芸文庫に『新約聖書外伝』という形で荒井献さんが編集され収録されている。
 これは、トマスの伝記です。彼はイエスと同じ大工です。ところが奴隷に売られて北インドに行く。そこで宮殿建設をおこなう。日本とちがって大工といっても石工のほうです。それで信用されてキリスト教の布教を行い、宮殿建設が終わって開放されて、それから南インドに行く。そこで布教して死ぬ。ところが驚きましたよ。この解説を見ますと現在でも南インドに、トマスキリスト教会がある。かなりの組織で勢力です。それで荒井献さんに電話して念をおしました。場所はどこかと言いますと日本と反対側のインドの西海岸の南。ケアラ州。解説に場所が書いてあります。「トマス公伝」の主張どおりです。もちろん「トマス公伝」には神秘的なことが書いてあるので、内容は信用できない。しかし全体に、どのようなコースをたどって、どのように南インドに来たのかについてはウソはないと判断しています。これも親鸞の場合も同じことです。『親鸞絵伝』という本がありますが、かなり神秘的なことが書いてあって、それはあまり信用できないと思います。しかし親鸞が京都に生まれ、越後に流されてゆき、関東へ行き、京都に帰って死んだ。そのアウトラインはウソではない。それに付け加える。教祖になれば神秘的な話をつけくわえる。「トマス公伝」も同じであって、神秘的な話は信用できない。たどってきたコースは信用できる。荒井献さんは、たどってきたコースも全体として信用できないように考えておられるが、本当はそうではない。
 問題は、これにより法華経が説明できる。わたしの松本深志高校時代の教え子でもある丸山孝雄さんは、法華経が専門家で立正大学名誉教授になっています。それで彼からレクチャを受けました。今の法華経研究で困っているのは、南に浄土があるという問題です。西に浄土があるというのは分かりますね。大無量寿経にしても法華経でも、西に浄土があるという話は同一です。それがどこか。今のイラン・イラクあたりのどこかが楽園だったという話はある。しかし南に浄土があるという話はすこしも分からない。まさかインド洋を越えてみてもあるとは思えない。ところが、ここでトマス福音書からの情報を入れると理解できる。現在でもありますが、キリスト教のメッカがある。この情報を入れると、南に浄土があるという話はよく理解できる。
 女を男にするという話だけでは理解できないが、セットにすると法華経へ影響を与えたのはトマス福音書からである。
 ついでながら異説もあって、現在の学界の学問的研究として「竜女の変成男子」の話が載っている提婆達多品は、法華経の一番最後に成立したと考えられる。しかし立正大学などの宗門のところでは、最初に出来たとなっています。今回はどちらでもよい。いずれにせよ二・三世紀です。トマスは一世紀の前半ですから、こちらのほうがもっと古い。同じように大無量寿経も、断言はできないですがトマス福音書の影響を受けている感じがする。最初はない。途中から出てくる。
 大無量寿経という経典、仏教はもちろん真宗や創価学会やその他の教団も、いずれもトマス福音書の影響下にあるということになります。
 ただ、しかし、なぜトマス福音書に、これが出ているのか。これの一番ストレートな答えがある。わたしとしては持っている。第一の理由は『聖書 Bible』の創世記。聖書の創世記では女が悪い。女が蛇にだまされてリンゴを食べたから。そういうばかばかしい理由、そういう変な理由で楽園を追放される。それで男が女にくっついて一緒に楽園を出た。そういうことになっている。女はそういう悪いことをしたから、今でもお産のときに苦しむのだ。よくもあんなひどい性差別のものを聖典と言っているなあ。そう聖書に言いたいぐらいだ。
 ですからイエスが福音を語るとき、福音を聞いたら救われるという。しかし「女はだめだろう。」という反論がおきる。それに対して、女を男に化けさせてという方法論を、屁理屈を言うわけですよ。屁理屈という言葉は悪いけれども、はっきり言ってそうです。その屁理屈は、どこから来たかと言いますとギリシャ。アレキサンダー展がありましたが、それを見に神戸へ行きましたが、美しい女神のお尻のところから、男根(男性のペニス)が突きだしている。行かれた方は忘れずに、ごらんになったと思う。これは何かといいますとギリシャの前のトロヤ。ギリシャがトロヤを征服しますが、そのトロヤの神仏集合したような女神から頂いてきた。その解説資料もあります。それではトロヤの女神がなぜそうなのか。わたしの考えではアマツオーネ、女性戦士の存在である。勇敢な女性戦士。
 わたしはイリヤッド・オデッセイで、シュリーマンが見落としていたことがあると思う。シュリーマンはあれだけイリヤッドが好きで、トロイ遺跡を発掘して歴史事実であることを証明した。ところがシュリーマンが、まったくノータッチの問題がある。トロヤのそのときの王様が、ギリシャの大軍を見て言うのです。「こんな大軍を見たのはアマツオーネの大軍を見て以来初めてである。初めてだ。」と二回言った。だからトロイ戦争が歴史事実というなら、アマツオーネとの戦争も歴史事実と見なければならない。トルコに行ったときに、黒曜石を見ました。武器としての鏃(やじり)から、たいへん大きく手でかかえるぐらいの、磨かれたみごとなものまで。もちろん、これは輸出用ではなくて権力のシンボルです。ですからアマツオーネは金属器以前の黒曜石の文明です。とうぜんアマツオーネは女で男の性質をもつ。そのように文明が転換して行く。ようするにイエスというのはヘレニズムの文明の中にある。ヨーロッパ文明は兄弟の文明であるとカッコよく言っているけれども、実際のイエスはヘレニズムの文明の教養をもって成長していった。
 ということで「女を男に変えるという論理」の知的背景は、イエスの背景はヘレニズムの文明であった。
 それでもう一言言っておかなければならないことがある。
 それでは仏教が栄えたのはトマス福音書のおかげで、このような豊かな内容をもったのか。その一点張りかというと、そうともいかないようだ。端的に言いますと、「前生譚」です。たいへんそぼくな経典がある。お釈迦様は、この世の前の世に、こんな良いことをしておったから、この世でやがてお釈迦様になったのだ。つまりむずかしい理屈よりも、この世でこんな良いことをしたら、次の世で良い目にあいますよ。損得勘定ですけれども、そういう前生譚がたくさん出来ています。日本に来た仏教にもその前生澤が、最初に伝わったという話がありますが。その場合、たくさんあるその前生譚の中で、七つだけ女だった。前生は女だったのが、今度はお釈迦さんは男ですから、男になって国王の家に生まれたという話がある。そうすると女が男に化けてという話になっている可能性がある。これも研究の途中。これも七つある女からお釈迦さんになったという話が古いものか新しいものか、そういう検討は、まだ行っていない。これからの話です。別にわたしは仏教に見方するとか、キリスト教に贔屓にするということはまったく関係ありません。
 仏教が特にめんどうなのは量がおおい。それと年代がはっきりしない。中国のばあいは、漢訳でだいたいの年代が与えられるのですが、それ以上はなかなかむつかしい。仏教の中でも、南伝仏教、今は小乗仏教と言っていますが、これは特にむつかしい。だから特にむつかしいところを、わたしはこう考えるからそれに違いないと、イデオロギーというか観念で考えるのは、わたしの方法論でありませんので、ゆっくと楽しみながら問題を追及できればよい。
 これが残っていた大きな話で、わたしと大乗教典との関係でございます。時間の関係でこれで終わらせていただきます。ありがとうございます。

(質問一)
  <今回は略>

(質問二)
 宝塚市の小島さんから、非常におもしろい質問をいただきました。
 先生は、出雲は北門の国からの侵入者(?)が建てた国(移住者の国)であるとの説を出しておられますが、もしそうであるなら神無月(神有月)に出雲に全国の神々が集まったとき何語で話し会われと思いますか。ズーズー弁もしくは今の日本語の旧語、あるいはアイヌ語か。

 回答
 おもしろいですね。とうぜんズーズー弁がはばをきかしたと思います。今でも残っているぐらいですから。しかしズーズー弁一辺倒ではなかった。水野さんが話を出されて、わたしがお話しする機会がなかった例の和田家文書(『東日流外三郡誌』)、あれは非常にきちょうな資料だと考えています。まったく変わりなく考えています。
 そこに出てきている話に、(日本列島に)粛慎(阿蘇部族)がまず来た。それから次いで靺鞨(津保化族)が来ました。わたしはこの考えが基本的に正しいと思っております。阿蘇山の「アソ」、対馬浅茅(あそ)湾の「アソ」、現在の舞鶴湾は、昔浅茅(あそ)湾と言っていました。「アソ」と言っているのが各地に残っています。ですから「アソ」はひじょうに古い言語です。木曽御嶽山の「キソ」も古い言語で、「ソ」は神様という言語です。これが大陸からの第一波というか早くからの言語です。第二波が靺鞨系の津保化族。これが入ってきた。これがおもしろくてアメリカへ行って帰ってきて日本に来た。すっ頓狂な話ではありますが、無視できない証拠がつぎつぎ出ています。この話がある。
(『古代に真実を求めて』第七集(明石書店)ー講演記録「歴史の曲がり角と出雲弁」参照)
 それでズーズー弁は、粛慎(阿蘇部族)ではなくて、第二波の靺鞨系の津保化族の系列。だから靺鞨系のズーズー弁が最初ではなくて粛慎系の阿蘇部族の言語があるところに、新たに、と言っても縄文時代での新たにですが、靺鞨系の津保化族が入ってきた。そういう形になる。ですからとうぜん神々が集まった場合でも粛慎系の言葉や靺鞨系の言葉のミックス。
 もう一つ忘れてはならないのが海洋系の言葉。「天孫降臨」というか、どんでん返しで出雲を滅ぼして主権を奪う。主権を奪ったのは弥生の前期末ですが。とうぜんそれまでに海洋民族はいます。いまの出雲が主権を持っていた時代にも、黒曜石のある島根県の隠岐西郷町のところから、黒曜石を運んできたのは船で運んできた。海洋系の民族が持ってきた。その彼らが、大陸の金属器を得て、取って返して主権を奪う。その時の女性のリーダーが天照(あまてる)なのです。ですから、その人たちの海洋系の言語もあるわけです。かなりミックスされた多種の言語が、集まったら神々のあいだで使われていたのであろうと想像します。
 日本語については、多元的古代「関東」の機関誌『多元』にかなり書かせていただきました。神(カミ)という言葉の、「カ」という言葉は「神聖な水」という意味の大陸系の言葉ではないか。カムカの「カ」とか、カムチャッカ(半島)の「カ」とか、そういう類の言葉ではないか。日本語でも足柄(あしかり)の「か」などがあります。
 それから今度「ミ」は、女神を意味する海洋系の言葉であろう。イザナギ、イザナミと言いますが、「イザナ」は鯨です。女性のほうは「イザナミ」です。ですから「ミ」は、女神を意味する海洋系の言葉です。
 だから神(カミ)という言葉は、日本語の基本単語のように言われ、扱っていますが、わたしの方から見ますと合成語である。大陸系の「カ」という言葉と、海洋系の「ミ」という言葉が結合して神(カミ)という言葉になった。これはアイヌ語の「カムイ」と同じです。
 ということで縄文時代は単純素朴な時代であると言われるが、とんでもない話です。何千年、一万年以上続くのですから、素朴なはずがない。大陸からの、また海洋からの征服・被征服を経ていると考えます。

(質問三)
 
次に姫路の方で、ひじょうにに整然とした質問を出されていただきました。この方は『トマス福音書』をご覧になられているようでして、その理解としては『トマス福音書』は、「グノーシス派」のものであるか。

(回答)
 わたしは講演でその説明は行わなかったですが、荒井献さんの本では「グノーシス派」という流派があって絶えず出て来ます。その流派が作ったのが『トマス福音書』である。そういう立場です。荒井献さんも、だいたいその立場のみならず、他の学者もだいたいそうです。だから現在あるバイブルが、本来の源泉である。だからグノーシス派が、それを作り変えたのが『トマス福音書』である。そういう基本的立場に立っている。この方も、そのように読んできておられたようで、今日の話を聞いて、そのような記憶であったと質問に書かれている。
 わたしも、『トマス福音書』とグノーシス派との関係は書くときには、改めて論じたいと思っております。いま簡単に言いますと親鸞を理解するのに、江戸時代の学者は、本願寺系の真宗教学の立場から理解する。今までそれで来ていました。それは悪いわけではないが、いったん横に置いておいて、あくまでも親鸞自身の言葉を、鎌倉時代という同時代のいろいろな文献があるわけですから、そこと共通の用法・同じ単語の意味の理解から、親鸞の言ったことを復元して理解する。そういう方法を取ったわけです。それまでは真宗教学の一部として親鸞の言葉を理解する。そういう方法が一般的だった。グノーシス派の一つとして、『トマス福音書』を理解する。それと同じですね、方法論としては。ですから、わたしの方法論とは違うということです。

(質問四)
 
もう一つ、先ほどの田遠(でんどう)さんからの質問ですが、万葉集三三二九番(白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 雨雲の・・・)について説明して欲しいとのご要望ですが、時間が無くなりましたので説明は別の機会に行いたい。

 回答
 結論として言いますが、九州王朝の天子についての歌が万葉集にあった。九月が済んだら帰ってくると言ったが、あなたは帰ってこない。しかも、それのバックに漢の武帝の[秋風辞]という漢詩を、バックにして作られている。おどろきました。

  諸橋漢和大辞典[秋風辞]三二七
             〔漢武帝、秋風辞〕
  秋風起号白雲飛、草木黄落・・・・

(質問五)
 高田光義さんからの質問ですが、小林恵子さんの立場をどう思われますかと書いてある。

 回答
 小林恵子さんに対しては、現在のところ論じる気持ちはございません。本は横に置いてあるが。わたしの『失われた九州王朝』よりも後の本ですし、わたしの説はなかったことにして論じています。あれはやはり良くない。小林さんのような在野の方が、学者の真似をして、古田説はなかったという形で扱うのはよくない。フェアでない。わたしの説に反対でも賛成でも良いが、自分の説を立てる場合は、こういう理由で古田の説には反対である。こういう立場で、この問題が説明できる。それはやってほしい。これで読んでいる読者は満足しているのかな。そんなことを思っています。小林さんには、批判するチャンスがあれば、いくらでもしますが。わたしとしては、そういう感じをもっています。小林さんにお会いする機会があるなら、そう申しあげてもらったら良いと思います。

(質問六)
 名前記入のない方の質問ですが、近畿天皇家は自分たちの歴史や誇りがあるのに、なぜすべて九州王朝の歴史史料を改竄(かいざん)して、自分自身の史料として使用したのか。

 回答
 これはおもしろい問題ですね。じゅうぶん伝承があるのですから、それを復元することに徹したらよかったとわたし自身も思います。ですが自分たちに自信がなかったのでしょう。九州王朝の後光が射していますから。また東アジアでの支配的な権威を改竄(かいざん)して自分の権威をみせつけたいと考えたのでしょう。
 おもしろいことに、このやり方は近畿天皇家だけではない。例をあげますと、ヨーロッパ。ギリシャも、そうであるかも知れない。例をあげますとギリシャ神話がくせものです。太陽の神アポロは、オリンポスへ東に行くではないか。ところがオリンポスはアテネから北の端にある。北に向かう太陽がギリシャにあるのでしょうか? しかしギリシャでもやはり太陽は西に向かっている。ところがトロヤから真西に行くとオリンピア。地図で確認しました。あれまったくの間違い。あの神話はトロヤ神話を盗んだのではないか。本来のギリシャ神話ではない。そういうおもしろい問題もある。しかも西ですが、しかし東へ行くと少数民族クルド人の居住地帯です。トロヤから東の正面はクルド人の住む山岳地帯(三角地帯)である。もしクルド人の神話を調べたら、何か関連があるのではないか。
 ですからギリシャ神話は、それまでの神話を盗んで縫い合わせてあるのではないか。だいたいギリシャ神話は神様を差別しすぎる。良い神様もいるけれども、悪い神様は、一生地球を背負っている労働者のような神様がいる。そんなはずはない。非征服民の掲げている神だから神話もあのような位置に置かれたのではないか。ギリシャ神話自身が、ほんとうのギリシャの姿を復元する糸口になるのではないか。
 ぜひ、皆さんに研究していただきたく、わたしの研究の秘密ををしゃべらせて頂きます。(笑い)

  二〇〇四年六月六日<日>大阪市中央公会堂
 古田史学の会 創立一〇周年記念講演会
  古代に真実を求めて ーー停滞を突き破る学問


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『古代に真実を求めて』第八集

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著作  古田武彦