『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集 講演記録 古今和歌集
二〇〇五年七月三〇日 京都市商工会議所大ホール
[第一部 対談] 古田武彦が語る古代史 古賀達也/古田武彦
第二部古田武彦講演 「君が代ぜん
1歌の始まり “あなにえや、えおとこを” 2『古事記』の「淡道之穗之狹別」 3『古今和歌集』の「古の歌」
4九州年号と神籠石山城 5枕詞について 6古代日本語の甲類・乙類について 7日本書紀の倭(夜摩苔 ヤマト)は、筑紫である 8藤原京はなかった 質問


古今和歌集

古田武彦

[第一部 対談] 古田武彦が語る古代史 古賀達也/古田武彦

社長・杉田誠三氏の挨拶

 本日はひじょうに暑い中、たくさんのかたがお集まりいただき、ありがとうごさいます。主催者を代表してして、ひと言ご挨拶申し上げます。
 わたしは、この会場に二冊の本をもって参りました。一冊が『「邪馬台国」はなかった』という本です。もうご承知だと思いますが、古田先生の古代史に対する一冊目の本です。一九七一年に出版されております。その時わたしは大学を卒業したばかりですから、その本の存在を知りませんでした。その後、七・八年が経って角川文庫から、この本が復刊されております。わたしはその当時古代史が好きだったものですから、たくさんの本をよんでおりました。ただ素人のかた、専門家のかた、相入り乱れて、いろいろな説が出されております。それを読んでみると、ほんとうに好きなことを言っても良いのではないか。そのような感じを改めて受け取っており、あまり読む気はしなかった。
 それで大学の後輩の友人から、ぜひ読んだら良いと紹介されたのが、この角川文庫本です。この本が出版されてから、ちょうど十年後の話です。ところがやはりタイトルがうさんくさい。『「邪馬台国」はなかった』、本当かいな。紹介されて一年ぐらい放置していました。あるとき何の気なしに最初の一行を読んでみて、この人は「すごいな。」と感じました。最後の奥付に、読んだ日付が一九七八年九月二十二日から二十四日と書いてあります。たった三日間で読み終えました。最初は何も分からなかったけれども、今まで読んだ本とまったく違うな。ひじょうにオーソドックス、かつ説得力がある。他の本は、難解・好き勝手である。そのような気がしていましたが、この本は三日間で読みました。それから分からなかったということもあり、その一年間に三度に渡り読みました。初めて、このような先生がいる。これを機会に、先生の他の著書も購入し読ませていただいた。これで邪馬台国論争は決着がついた。素人なりにそう思っております。
 ところが実際問題として学界の中では、ほとんど古田先生のお名前が出てこない。いろいろな本が古代史に関して毎年出てきますが、まったく古田先生の名前が出てこない。敬して遠ざけているのか。はたまた自らの馬脚を表すのがいやなので載せないのか。どちらなのか知りませんが、これだけ重要な論点をつぎつぎと三十数年間論を立てているのにかかわらず、一向に反論する人が表れない。そういう学界の態度に失望いたしました。わたしも大学の先生方を相手に出版をしておりますので、あまり大きな声ではそのようなことを言えなかった。やはり、これではいけない。自分で、本を購入して趣味として読んでおりましたが、このようなご縁で、大きな講演会を開かせていただくことになりました。また先生の本を出させていただくことになりました。ほんとうに嬉しいかぎりです。
 先ほどご紹介致しました「ミネルバ書房フクロウ会」は、われわれミネルバ書房の印刷・製本をご協力いただいている方々と、われわれミネルバ書房との懇親を深める。勉強する。そのような会です。この数年会社の会議室で古田先生に来ていただいて、二十名ばかりで学習会を行なって参りました。でも気がついたら、二十名だけでは、もったいない。今年はもっと集めて聞いてもらおう。これから何年も渡り、このような会を行ないたいと思います。
 それと今日の第二部の「君が代前」の講演については、この秋ミネルヴァ書房より本を出版することになっております。『君が代前』(予定)の原稿も、いただいております。その話を出版前に、講演をお願いしました。
 それから古田先生の代表的な三部作、『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』、『盗まれた神話』については、読みたいと思っても本屋に行っても並んでいない。古本屋に行かなければない。そういう状況です。非常に大事な本です。それで今年から来年にかけて三部作については、新たな進展もふまえてミネルヴァ書房で復刻する予定です。
 それから古田先生の方法論を広げるべく、古田先生を支える会が全国にいくつもあります。それらが集合して古田先生の方法論を支える『古田学』(仮題)という雑誌を出していきます。それもすべてミネルバ書房と関係して発行することになっております。それも合わせて、楽しみにしていただければ幸いです。今日はお忙しい中、ほんとうにたくさんの方が集まっていただいてうれしく思います。ごゆっくり古田先生の話を聞いていただければと思います。どうか、よろしくお願いいたします。

 

[第一部 対談] 古田武彦が語る古代史 古賀達也/古田武彦

古賀
 古田史学の会古賀でございます。お話に移る前に、わたしと古田先生との出会いというものを若干お話させていただきたいと思います。古田先生のことを知ったのは、藤田さんと同じく『「邪馬台国」はなかった』という本を読んでたいへん感動しました。わたしは化学が専攻ですので、どちらかというと自然科学系分野の人間でございます。自然科学のものの考え方から見てよく分かる。論理的で資料根拠がよく判っている。しかも方法論がよく書かれていますから、このようなデータに基づいて、この方法論であれば、このような答えが出る。非常にわかりやすい。いわゆる自然科学の学術論文を読むようなすがすがしい気分で、この本を読んだ記憶がございます。
 そうなると、ぜひ著者に会ってみたい。そのような気持ちに駆られましたのが今から二十年前、初めて会ったのは大阪の古田先生の還暦のお祝い・講演会です。講演がありその後喫茶店で、先生を囲んでの懇親会で、直接にお会いした。講演は感動しながら聞いていたのですが、その反面これだけ本を書き、どんな人間でもこれだけ先生、先生とちやほやされたらやはり傲慢になるのではないか。その時は、古田武彦はどんな人物だろうか、少し醒めた目でお会いしていました。ところがたいへん腰が低くて、しろうとの単純な質問に対しても実に熱心に対応される。この人は、いわゆる今までの学者、歴史学の大家と違う、人間として信頼できるのはなかろうか。最初は若干醒めておりましたが、この二次会が終わったときには、ほんとうに人間としての古田武彦にぞっこん惚れてしまって、それ以来のお付き合いでございます。それから二十年間ずっと側におり、お話を聞けることを、生涯の喜びととしております。先生も来年八十歳に成られて、ますますお元気でなりよりです。わたしは上京区に住んでおりますので、それが本日の対談の指名された理由と思っておりますが、二十年前の初心者の気持ちに戻って、この質問をしたいと思います。
 まず古田先生は、もともと二十代の頃から親鸞研究を志されたとお聞きしております。三十代から古代史研究・邪馬台国研究に入られたとお聞きしております。そのような初期の研究を、この京都で洛陽工業高校の先生をされながら研究をされたとのことですが、古代史研究に入られたいきさつやエピソードをお聞かせいただきたいと思います。

古田
 みなさん、今日はほんとうにたくさんの方が、お越しいただいてありがとうございます。幸せでございます。古賀さんがご紹介されたとおり来年八十歳で、やっと平均年齢をやっと超えたところでございます。これからどれだけ生きるか明日にも判りませんので、これを最後というつもりで、今日はお話させていただきます。
 今日のご質問ですが、わたしが親鸞研究に入ったというか、二十代・三十代親鸞に夢中でした。理由は簡単なのです。(第二次世界大戦)敗戦の時は、わたしは十八歳。世の中の人がみんな、おかしくなった。昨日まで言っていた事が、ガラッと変わる。たとえば「親鸞上人と言われる方は、念仏の民よりも報国(国に尽くすこと)を大事にするお方である。」、そういうパンフレットがたくさん出ていました。敗戦になるとパッと変わって「親鸞上人と言われる方は、民主主義の念仏者である。」、このように変わった。万事が一事、パッと様(さま)変わりした。昨日まで学校や世の中で言われていたことを信じていたものはいい迷惑です。まして「なんだ、これは!」と言えた者はまだ良いほうで、昨日までの言葉を信じて戦争に行った友達は亡くなったままです。
 このようなガラッと変わり、戦後にふさわしい言葉を喋っている学者や先生を見ているうちに、「世の中とは、こんなもんだ。こんな世の中に生きていても仕方がない」。まあ青年ですから、死んだほうが良いのではとも思った。実際に死んだ友達もおりますから。そのとき、ふと頭によぎりましたのが親鸞の言葉です。まてよ、親鸞もそうなのかな。歎異抄にありますように「たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念佛して、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからくさふらふ」、この文句を聞いておりました。このように美しい言葉を、透き通った言葉を言った人物も、時代が変われば状況にあわせて調子を変えたのだろうか。もしそうでないとしたら、もしそうでない人物がひとりでもいたら、青年ですから独断的なのですが、わたしも生きていても良いのではないか。その時はそう思った。
 しかし、その時には偉い先生方が書いた親鸞の解説本を、わたしは読む気はしなかった。先ほど言いましたように、戦前と戦後でガラッと解説が一変していましたから、同じ名前の人が。やはり自分が親鸞の書いたものを直接読んでみよう。それで親鸞研究というか、親鸞を読みふけった。そのうちに親鸞が書いた真筆本などを見る。そのように深まっていった。この答えはやはり、親鸞はやはり裏切らなかった。そのことは、今日の主題ではありませんから、直接触れませんが。その時に、痛切に感じたことがある。
 それは親鸞に関する古写本が書き直されている。たとえば有名な『教行信証』の最後のところ、「主上臣下法に背そむき義に違し、忿いかりを成し、怨うらみを結ぶ」、要するに承元の法難ということで天皇や後鳥羽上皇が法然や親鸞を島流しにした。安楽・住蓮を斬った。それを指している。
 ところが戦争中に出ました真宗の『教行信証』のところには、「主上」という言葉が印刷されていない。カットされている。つまり天皇や上皇を批判することはとんでもない。そのようにカットされた本が真宗の『教行信証』として出版されていた。これはホンの一例にすぎませんが。このように真宗の都合の悪いことはカットする。またこればかりではなく、書き直してある例もある。真宗の教義から見ておかしい。これの間違いだろうと、そう考えて書き直してある。
 それに対して、わたしはイデオロギーはありませんので、ただ親鸞の事実を知りたいだけだ。そのようなことを調べてみると、そのような書き直しは、やはりダメだ。一つ一つダメだ。そういう経験にたって、古代史を見た。
 昭和三十年代の中ごろに、岩波文庫の『魏志倭人伝』が最初に出た。たいへん版を重ねていると思いますが。わたしが、二十代の中ごろだと思いますが。そこに卑弥呼(ひみか)女王のいるところを「邪馬壹やまいち国」。豆が入った「邪馬壹国」。現代では、「ヒ」が入った「壱」を使いますが、豆が入った「壹」という字。ところがその岩波文庫の注釈に、この「壹イチ」は「臺タイ」の誤り、間違いと書いてある。わたしはそれを簡単に「間違い。」と言って良いものだろうか。そのように考えて授業で言ったようだ。わたしは忘れていましたが、当時の授業を受けた生徒は「先生、あの時はそう言ってたよ。」と、教えてくれました。
 その後、松本清張さんの『古代史疑』という本が中央公論から出ました。清張さんは、たいへんよい事を書いていました。学者はいろいろ書いているけれども邪馬台国の位置が、合わないのは当たり前だ。なぜなら学者が勝手に自分の都合通り原文を書き直している。書き直した上に立って議論をすれば、合わないのが当たり前だ。そういうことを『陸行水走』という短編小説のところでも言っておられた。なるほど、そのとおりだ。それならば清張さんは、いつ「邪馬臺国」はダメだよ。そう言うのだろか。いつ言うだろうかと、当時国語の教員として洛陽工業高校の図書室で配本を待っていました。毎号が来るのを楽しみにしておりました。足掛け三年待っていましたが、最後まで「邪馬台(臺)国」。いつ「邪馬壹国」の誤りだ、そう言うだろうと思っていましたがが、足掛け三年最後まで、その話は出なかった。そしてがっくりしまして、やはり自分で調べて見なければいけないと思ったのが、古代史研究に関わる最初のきっかけでした。京都の一角、洛陽工業高校でのことでした。そのころ住んでいたのは向日町、まだ市ではなかった。以上です。

古賀
 わたしが『「邪馬台国」はなかった』を最初に読んで、一番おどろいたのは(『三国志』に)邪馬台国でなく、邪馬一国と書いてあることでした。それまで、どの学者の本を読んでも、なんの説もなく邪馬台国と書かれていたので、とうぜん「邪馬台(臺)国」となっていると思い込んでいました。それが先生の本に、原文は「邪馬台(臺)国」でなく「邪馬一(壹)国」だよ。目から鱗(うろこ)が落ちる思いで読んだ。それで他の学者は、なぜこの問題に何も言わないのだろうか。それともう一つ、邪馬台国でも邪馬一国でも、どちらでもよいのではないかという説もあるようです。なぜ邪馬台(臺)国でなく、邪馬一(壹)国でなければダメなのかを聞かせてください。

古田
 それも簡単でして「邪馬壹國」を「邪馬臺国」となおした理由は、はっきりしています。江戸時代京都に住んでいた学者で松下見林、お医者さんで学者なのです。その人が『異称日本伝』という本を書きました。その本は、日本について書いた外国の記事を集めた本です。その意味では便利な本です。その中で、我が国には天皇しか、代々中心の王者は居られない。その天皇の居られるところは大和である。だから「大和ヤマト」と読めなければおかしい。だから「大和ヤマト」と読めなければ、外国人が間違えたに決まっている。だから「ヤマト」となおせばよい。簡単明瞭な論理でして、要するに奈良県の大和に持っていかなければならない。「邪馬壹ヤマイチ國」では持っていけないから、持っていける「邪馬臺ヤマタイ国」にして使う。こういう議論で、今のわたしから見れば乱暴としか見えない。やはりそのように意図を持って、原文を直すのはいけない。このようなルールで直すのはいけない。親鸞の場合も似たようなケースがありましたが、すべてダメでした。それでわたしは、邪馬台国を邪馬一国になおすのは、アウト。
 また新井白石の(九州)説は有名ですが、その場合には新井白石は、九州にも山門(ヤマト)と読めるところがある。築後山門ですが、ここだろうと言いました。これは二重の錯覚。奈良県に持っていくために「邪馬臺ヤマト」となおしたものを、もう一回九州に山門(ヤマト)があるからといって、そこへ持っていく。これが正しい。新井白石は秀才と言われていますが、こうなるとボケたのではないでしょうが、このような考えかたではダメで納得できなかった。
 もとに戻り簡単な話しです。このように意図をもって改訂するのはダメです。このような方法で改訂してしまえば、すべて自分の意図通り原文を直せばよい。収拾がつかないのが当たり前です。

 

古賀
 松下見林の学説が、現在の学者の考えの根拠となり、それをそのまま使っているということなのですか。それと不思議に思いますのは、「ヤマト」と読みたいから、(『三国志』魏志倭人伝の「邪馬壹ヤマイチ」を)「邪馬臺ヤマタイ」と読み替えたと言うことなのですが、至の入った「臺タイ」を、そもそも「臺」と読めるのか。素人判断ですが、この「臺」を「ト」と読むと、学校時代習った記憶がない。ずいぶん強引な手法と思いますが。

古田
 言われる通りです。実は今日は、その問題も論じるつもりです。『古事記』『日本書紀』で「ト」と読まれて使われて例は厶に口の「台」で、普通に使っている。この「台」を、「台」と読んでいる例はある。ところが至の入った面倒くさい「臺」は、「ト」と読んだ例はまったくない。「ダイ」と読んだ例はありますが「ト」はない。最後に言いますが、これは驚くような大学者が間違えています。それはまた後で。

古賀
 現在の「邪馬台国」論争は現在でも続いていますが、主に近畿説と九州説。その他日本中全国いたるところに「邪馬台国」の候補があります。先生の場合は、邪馬一国であり博多湾岸に到達されたわけですが、その到達した方法論を含めて簡単に説明をお願いします。

古田
 これは簡単で朝日新聞社の米田さんという方から、実に執拗に「倭人伝の邪馬一国」について本を書きませんかと言われた。わたしは、お断りを言い続けていましたが、それでもまことに執拗に言い続けられた。しかしどうしてもその時、わたしは本を書く気にはならなかった。応じられなかった。それにはデッドロックがありました。それは『魏志倭人伝』の中に、何里、何里と里数値が書いてありました。帯方郡というところから、そこから倭国の都、邪馬一国。そこへ到着するための部分部分の(出発)方向と里数値が書いてある。一方全体の数値、出発地から到着点までの数値、つまり帯方郡から女王国までの総里程が書いてある。一万二千余里。「余」は、あまりです。しかし部分部分の里数値を加えても、総里程一万二千里にはならない。どうしても千三百里か千四百里ぐらい足らない。わたしの計算では千四百里、余りが出てくる。(わたしの考えでは)そのような部分を足して全体にならないような文献を一生懸命研究しても仕方がない。そのように勝手に思っていた。
 当時向日町のアパートの二階で、当時はクーラーがないので真裸のパンツ一つで、毎日『倭人伝』と取り組んでいた。ある日のこと、それが解けた。つまり帯方郡から女王国に向かう途中で、足していない数値があった。それが対馬と言われる対海國、壱岐といわれる一大國の数値を見過ごしていた。つまり方四百里と言われる対海國。方三百里といわれる一大國。明らかに里で書かれており、足し算に入れなければならないが、この半周が入っていない。通ってきているから、これの半周づつを加えなければ、おかしい。方四百里と方三百里の四倍を入れると全周になり元に戻るから、その必要はありませんが。

  対海国の半周    一大国の半周
(四百里+四百里)+(三百里+三百里)=千四百里

 その足し忘れが、八百里+六百里=千四百里である。わたしが求めていた千四百里は、そこにあった。この対海国の半周と一大国の半周を加えると、全体が一万二千里となった。

 もうこれには本当に飛び上がった。また同じことを言っていると笑われるかも知りませんが、アパートの二階から真っ裸であることを忘れて階段を飛び降りて、妻に「わかった。!わかった。!」と報告した。忘れもしません一瞬です。横で見ている人がいたら、あいつ頭がおかしくなったと思っただろう。
 これにより自動的に邪馬一国の場所は決まってしまった。出発点は帯方郡、到着点は不弥国。博多湾岸、いまの下山門辺りと言われている不弥国ですが、部分里程は不弥国までしか書いていない。不弥国までに、まさに総里程一万二千里になってしまった。先ほどの対海国の半周と一大国の半周を加えることにより、総里程は一致した。これで良い。
 そうしますと女王国は、とうぜん不弥国の南にありますから博多湾岸を中心とする国としか考えられない。「生の松原」などが不弥国ですが、そこから南が邪馬一国。博多湾岸を中心とする邪馬一国しか考えようがない。そのときはなぜ南が、邪馬一国なのか分からなかった。現在は分かっていますが。そこは日向(ひなた)川の上流でして室見川との合流点があり、そこが吉武高木遺跡。日本で最初の三種の神器が出てくる最古の遺跡。一番古い弥生の王墓、おそらく瓊々杵尊(ににぎのみこと)が葬られているところであると考えますが。そこがまさに下山門の南にあたっている。そのことを指して邪馬一国と言っている。もちろん「七万戸」ですから、範囲は広いですが、中心部は吉武高木遺跡。これは後で分かったことです。そのことは、当時は分からなかったけれども、部分部分を足して総里程になったのだ。正解になったのだ。もう、これ以外にない。そのように考えています。
 それで不思議なことに誰一人どの学者も、今言ったわたしの論理が間違っていると指摘する学者はいない。間違っていると指摘する議論を待ち望んでいた。別の考え方、このように考えたら部分を足して全体になるよ。三十数年そういう反論を待ち望んでいたが、誰一人いない。だいたいこの問題で論争しようとしない。これはわたしが勝手に推測するのですが、論争したら勝てない。反論が容易でない。誤差はあるが足し算ですから、大体の論理はわたしが言ったとおりだ。また部分を足して全体に成らなくても良い。そういう議論も出来にくいし、他の方法で計算したらこのようになるのだとも言いにくい。
 それなら古田には反論しない。相手にしない。それで三十数年来ています。しかしそれは言いにくいことですが、学問として健全ではない。ですからそれ以来三十数年、邪馬一国はどこかと言うことは、まったく変化がない。博多湾岸とその周辺、しかもそこは、吉武高木遺跡を中心とする三種の神器が集中する日本列島の唯一の地帯であった。

古賀
 先生の邪馬一国を特定する里程問題ですが、たいへん分かりやすい。わたしもあの本を読みまして、帯方郡から一万二千里のところにあると書いてある。そうしますと一里が何メートルかで、おおよそ邪馬一国の場所は決まってくる。コンパスで円を描けば決まってくる。古田先生の研究によれば、当時は一里=七十五〜七十六メートルの短里ということですので、短里で一万二千里を考えてコンパスで当たれば博多近辺にしか届かない。ということで言われてみれば、当たり前の話なのです。ところがそれ以前は、一里=四百五十〜四百六十メートルの長里があったということですが、長里でコンパスを当てると関東平野近辺となる
単純な理屈で、仮に長里か短里か分からないとしても、成立するのは博多近辺か、関東です。単純にコンパスで円を描けば、短里であれば博多湾岸、長里であれば近畿を飛び越えて関東平野近辺となる。どう計算しても近畿は当てはまらない。普通の学者の人はどう説明されているのですか。

古田
 その問題は、今の学者では説明がつかない。(長里では)東に行けば関東平野、南に行けば沖縄になる。沖縄説もあるがだれも賛成していない。だって物が、『魏志倭人伝』で書かれている考古学的出土物「三種の神器」などが出ていませんから。どちらにしても、東にも南もダメなのです。
 結論から言いますと、孔子などが出た周代は短里、『倭人伝』と同じ短里だった。それが秦の始皇帝は六倍にした。彼の縁起担ぎで六という数字が良いのだと、六倍に増やして一里の単位を増やした。絶対値を増やした。それを漢が受け継いだ。しかし魏・西晋は、短里に復帰した。この問題も学者からなんの反応もない。
 とにかく本日の言いたいことは「部分部分を足して全体にならなければならない。」。これは誰が考えても分かる。これをわたしは「部分と全体の論理」と言っていましたが、今日は、簡単に「裸はだかの論理」と言いたい。今日も暑く、見つけたときも暑かったので。ですから古田のいう博多湾ではない。ここだよと反論する人は、この「裸の論理」を打ち破って欲しい。

古賀
 次にお聞きしたいのは古田史学全体のテーマとして、邪馬一国があってそれが九州王朝になったという全体のテーマに発展していった。この問題について古田先生は、どのように考えられて行ったのか。その辺りのことのお話をうかがいたい。

古田
 この問題について思い出すのですが、わたしの説が東大の史学雑誌に「邪馬壹国」として載りました。そのあと半年ばかり後に読売新聞に、そのことが近藤さんにより報道されました。その後朝日新聞の米田さんが来られました。その間の大きな思い出は、松本清張さんのお使いと称する方が来ました。それは新潮社が松本先生のご依頼によって、ご連絡いたします。あなたの説を松本先生が知りました。ついてはそれを巡るあなたの考えを、松本先生が聞きたいと言っておられる。しかしご存知のように松本先生は、連載をたくさん抱えてひじょうにお忙しい。それで新潮社の私が、代わりに京都にお伺いしてあなたの説を詳しく聞いて、松本先生にお伝えしたい。そうしたいと思いますが、よろしいでしょうか。このようなお手紙だった。
 わたしはお断りしました。それはダメです。なぜかと言いますと、対等な研究者として合いたいと言われるなら、どんなことでもして喜んでお会いします。しかし自分は連載で忙しい。代理を寄越すから、それに言えという人、そんな人とお話しするつもりはありません。そう言って丁重な文章を書いたつもりですが、論旨はそのような文章を書いてお断りした。
 そのお使いの方から手紙が来て、松本先生にお話ししたら、松本先生は古田さんの言われる通りです。もし東京に来られる機会があれば、ぜひとも連絡して頂けないかと申しております。そういう丁重なお手紙があった。それで年末に東京に行く機会がありましたので、連絡して新潮社の建物の一角で松本清張さんとお会いして、いろいろお話した。
 しかしその時は、「部分と全体の論理」の話はまだ出来ておりませんでしたから、「邪馬壹国」でなければならない。「邪馬臺国」に直して使うのは間違いだ。そのような話をして邪馬一国の場所は、博多近辺から鹿児島までの、南北の線のどこか一線上にあるという話だった。
 ところがその後、わたしにとって大事な話がある。テープを止めてくださいと言いました。そして言いましたのが九州王朝説。これは何かと言いますと『隋書倭国伝』、正確には『隋書イ妥国伝』。その中に、「日に出づる処天子」も書いてある。ところが「日に出づる処天子」の近くに「有阿蘇山其石無故火起接天」が出てくる。阿蘇山有り、火起こりて、天に接す。そういう印象的な言葉がある。天子のそばに阿蘇山がある。誰が読んでも、そうとしか理解できない文章がある。ついでながら、火があって、それを人々が尊重している。また「魚の眼精」がある。これも書いてある通り、行って見たらありました。別の用件で阿蘇山に行きました時に、偶然乙宮神社(熊本県産山村)に祭ってあった。御神体として丸い石が祭ってあった。持ってみたら重たいものです。海底で回転して出来た石だと思う。もちろん「魚の眼精」そのものではない。「魚の眼精」そのものは、鯨か何かの目玉でしょう。ですからそのような丸い御神体は現在でも阿蘇山のふもとにある。このように隋の使いは阿蘇山に行っています。飛鳥に行って大和三山に上ってはいない。ということは誰が読んでも、先入観なしに読めば、「日出ずる処の天子は阿蘇山のそばにいる天子である。」と理解できる。

『隋書イ妥国伝』(部分)
有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭有如意寶珠其色青大如鷄(*3)卵夜則有光云魚眼精也
      *3:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」

 この点も、本日はご存知でない方もおりますので一言言わせていただきますが、教科書では「日出処天子」はかならず載せてあるが、その隣にある「有阿蘇山」も近畿飛鳥になりにくいからカットしてある。許可書も教師の指導要録もカットしてある。混乱するからカットしてある。このような仕掛けが、国家の意思を反映して仕掛けられている。とにかく岩波文庫の『魏志倭人伝』を買えば、『隋書イ妥国伝』も書いてあります。阿蘇山も出てきます。たいへん薄い本です。
 わたしは『隋書イ妥国伝』を見ると「日出処天子」は九州である。この判断はたいへん速かった。わたしは何も、大和に「日出処天子」がいても構わない立場です。異議はない。ただその場合、都合が悪い「阿蘇山」をカットして考えることはアウト。そのように松本清張さんに申し上げたのが、外部の人に述べました最初です。

 もう一つ、九州王朝説に思い出がある。『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)を発刊された後、その本を関係する人に送った。その中の一人に、園田高陽さんという方がおられた。京大を出た当時は、新進気鋭の学者のリーダ格の人だった。後に関西大学教授になって、現在は郷里の和歌山に居られるようだ。その人とはわたしより年下ですが、歯切れが良い方で仲が良かった。京都左京区の百万遍で、その方とバタリとあった。本をお送りしたことを伝え、どのように考えるかと言いました。率直に答えられ、「読みました。古田さんに悪いけれど、わたしは近畿説です。なぜなら、それには理由がある。東大の池内宏さんの説です。彼の『日本上代史の研究』(昭和二十二年発行)、これはたいへん良い本です。わたしは、この意見に賛成です。」と言われた。京大の園田さんは、東大の池内さんの意見に賛成しておられる。この本は東洋史の専門家として倭国、三世紀の卑弥呼と倭の五王、それから七世紀の日の出づる処の天子とは中国の史書から見ても同一王朝の立場に立って扱われている。もちろん日の出づる処の天子を、池内さんは聖徳太子だと考えている。つまり近畿だと考えている。これは同一王朝だから三世紀の邪馬台国も近畿です。その論理に立たれている。園田さんはその論理に賛成だから近畿説です。そのように園田さんは、立ち話で言われました。
 わたしは、さっそく帰ってその本を買ってきて読んだ。確かに園田さんが言われたような論理で書いてある。書いてあるが、ですがわたしは逆の結論を得た。お分かりでしょう。つまり七世紀の日の出づる処の天子は推古天皇・聖徳太子だ。そこを動かない結論として、先ほどの論理を結びつければ、だから三世紀の卑弥呼の国も近畿大和であるとならざるを得ない。ですが先ほど、わたしは『隋書イ妥国伝』からみれば、先ほどの「日の出る処天子」は七世紀九州であると考えれば、同じ論理で三世紀邪馬一国卑弥呼(ひみか)の国も九州にならざるを得ない。論理的にそれ以外の道はなかった。わたしは直感的に「有阿蘇山」だから七世紀の日の出づる処の天子も九州だと考えた。ですがわたしには学問ですからやはり論理的に九州王朝という立場に立たなければ、学問的に一貫できない。そのことを園田さんから教わりましたことが元になっております。
ですから、わたしの九州王朝説が論理的に確立したのは京都の百万遍である。(笑い)

古賀
 中国の歴史書から邪馬一国から倭国まで、代々続いていた王朝は九州王朝である。これは分かりやすい考えです。しかし現に今天皇家がありますように、歴史の中で大和朝廷が存在した。それでは九州王朝と大和朝廷との関係、あるいは九州王朝はどうなったのか、そのあたりの説明をお願いします。

古田
 この点教員として、神戸から京都の洛陽高校、後に別れた洛陽工業高校に移りました。京都に来てまして最初の年、たいへんなショックを受けた事件がある。誰も知らない事件ですが、わたしにとってはショックな事件でした。
 わたしの隣の席に数学の先生がいました。同年で京都の出身の方で、住まいもずっと京都です。古田さんは古代史を研究されているが、「わたしの変んな話があります」と聞かせていただいた。わたしの家の隣にお店があって、そのお店のおじいさんに子供の時には、わたしは可愛がられていた。そのおじいさんが言うには、「天皇はんも、出世しやはりましたなあ。わたしのとこには、天皇はんにお貸しした金の、借金証文がたくさんあるのですが。たしかにあるのですが、いまさら取り立ても出来ませんしなあ。よろしおす。これだけ偉くなりはしたら(政治を)あんじょうやってくれはったら、それでよろしいわ。」そういうことを、時々言ったそうです。
 それを聞いて、ショックをわたしは受けました。わたしは、戦前の愛国教育の最中に育っている。戦争中は、天皇は神である。そう聞いて育った。
 くだらん話をしますが、小学校の時「天皇陛下はおしっこするのかな。神様はおしっこしない。いやする。」と子供の時、論争をしたことがある。後で聞いたことなのですが、まったく別の小学校では天皇が来たときに、おしっこをしたか子供が探検隊を作って探りに行ったということがあったらしい。うそのようなホントの話。そういう雰囲気の中に育ってきた。
 だからわたしには、この話しに横面を張り倒されたようなショックを受けた。だって神様だったら借金をするはずがない。借金証文があるはずが無い。後で調べましたら、そのおじいさんの言われる通りで、やはり天皇家は明治維新までたいへん(経済的に)苦労した。よく言われる話に、ある人が御所に行ったら、天皇が蚊帳の中にいて、裸で出てきた。どうしましたかと聞くと、着物は質に入れたから今はない。もっとも夏は、家全体が蚊帳の中だから、特にさしつかえはなかったということもあるでしょうが。蚊帳(かや)は若い人はご存知無いでしょうが。
 今の話は、なにもおかしなウソ話ではない。ですがわたしなどには、そのような天皇は想像の外である。ショックを受けた。その点、京都の人は進んでいる。一面ではもちろん御所もあるから天皇はんは偉い。天皇はんの居られる京都はすばらしい。そういう面もたしかにある。しかし、それだけかというと、天皇はんは、貧乏しはっていた。お金を貸した。そういう面もある。このようにおおらかというか天皇家に優しいというか、おおらかなというか優しい面も京都の人にはある。要するに理屈ではなしに実感として、人間としての天皇の顔を知っている。

 それでまた話が広がるかもしれませんが、また違った面の話をします。
 ある大学院生の方が、教員の教育実習を受けに郷里に帰られた。それで、このようなことを見たという体験を聞かせていただいて、別の意味でショックを受けた。それは柿本人麻呂の有名な歌が、現在の教科書に載っている。

『万葉集』 二百三十五番
 皇者 神二四座者 之 天雲之 雷之上[入/小]廬為流鴨
 皇は 神にし 座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
 すめろぎは かみに しませば あまぐもの いかずちの うえに いほり せるかも
(おほきみは)

       [入/小]は、入の下に小。JIS第三水準、ユニコード5C12

 これはあまりにも有名な歌です。天皇は神として祭られていた。これは、わたし自身戦争中(第二次世界大戦ー太平洋戦争)、さんざん聞かされたことですが。今の教科書にも載っています。それを説明して、現在でも「天皇は神として祭られていた。」、若い人に学校で説明しています。若い人に説明をしています。
 しかし今のわたしから見れば、これはとんでもない話です。わたしも偉そうに言っているが、いろいろ本や教科書に書いてあるとおりだと思っていました。大和飛鳥に行かずに雷丘を見ずに、そう思われて通っている話です。行ってみたら、びっくりした。現地の雷丘(いかづちのおか)は、高さが十メートル前後のあまりにも小さい丘です。そんな丘に、天皇が上がったから神と讚える。そんな馬鹿な話がどこにありますか。十メートルの丘にあがって神様なら、みんな神様だ。しかも「天雲の 雷の上に」と書かれてあるが、あんな十メートル前後の丘に、雨雲がかかるわけがない。
 だれも皆現場である飛鳥に行ってこの丘を見ずに、あの歌を教えていた。まったく現場と食い違っている。十メートルの丘に上がったからと言って、生き神様だ。すばらしい。誉めるにも限度がある。誉められたら代えって不愉快だ。オベンチャラ以外の何者でもない。
 それではいったい何か。『古代史の十字路』(東洋書林)に詳しく書かれていますが、答えは簡単です。人麻呂が歌を作った場所は、大和飛鳥ではない。九州福岡市の西隣糸島郡に、佐賀県との境に千メートル前後の背振(せぶり)山脈がある。その第二峯が雷山(らいさん)。それがこの歌の雷(いかずち)である。そこには雷(いかずち)神社がある。また上社、中社、下社とあり、上社のことを「天の宮あまのみや」、中社のことを「雲の宮くものみや」と呼ばれている。それを社(やしろ)のかたちで祭られている。そこには九州王朝の代々の王墓がある。しかも大事なことは、そこは千メートル近くかつ海岸に近いため、いつも雨雲が垂れている。わたしも何回も上がりましたが、一日中完全に晴れていたのは一回だけです。いつも雲が立ちこめています。ですから雷山は、実際経験から言っても、「天雲の 雷の上に」という通りです。そこには九州王朝の代々の王墓がある。それは社(やしろ)のかたちで祭られている。それで「皇」は「おほきみ」と読むのではなくて、「皇すめろぎ」と読むべきです。神道では生きているときは人間で、亡くなれば例外なく神様になる。仏教では仏様になる。それと同じことです。九州王朝、代々の王者も死んだら神様になって社(やしろ)に祭られて居られる。それで天雲のかかる雷の上に廬(いほり)をしておられる。実際には雷山にある社(やしろ)を、廬(いほり)と呼んでいます。なぜ社(やしろ)を廬(いほり)と見立てたのか。これが人麻呂がこの歌を造った一番のポイントがある。
 つまり白村江の戦いの後、民衆の廬(いほり)は、荒れ果ててしまった。唐の誘いに乗って、白村江に出ていって戦って破れた。白村江の戦いで四回戦い四回負けて、家族は夫や子供を失い、民の生活はさんさんたるものになった。しかも負けて唐の軍隊に、くりかえし駐留というか占領されている。しかし九州王朝代々の王者は、社(やしろ)を廬(いほり)として、今も無事に平穏にお過ごしになられている。しかし民の廬(いほり)は、荒れ果ててしまいました。この歌は誉めているのではない。九州王朝の代々の王者に対する鋭い批判の歌だった。言い様のない凄まじい歌です。
 五・七・五の中にあれだけのメッセージ、歴史や思想がふくめられている。ゲーテの詩の中にもそこまで見事なこのような詩は、見たことは無い。わたしもゲーテの詩を習うためだけにドイツ語を勉強したようなものですが。

 それを『万葉集』では大和に持ってきて、前書きを、大和の雷の丘にして載せた。実に言い様のない珍奇な歌にしてしまった。十メートル前後の丘に雨雲が垂れる。また丘に上がったからといって、持統天皇を神であるとオベンチャラを言う。馬鹿を言うな。これは度がすぎる話だ。

 ついでながら言わせていただくと、この『古代史の十字路』(東洋書林)という本は万葉集を研究されている学者の皆さんに送りました。有名な人の中では中西進さん。近くに住んでいますから本をお送りしたことをお電話しました。また大野晋さん。かって対談したこともありますので、よくご承知です。同じくお電話しました。ですがどの人からも、まったく返事はない。答えはない。答えれば古田は、雷丘を九州だと言っているが、近畿大和のあの丘でよいのだ。このように説明すれば、十分理解できるのだ。そのように言えばよい。あるいは九州雷山であるという説では、このような理由でダメだよ。おかしい。そう言えばよい。何回も同じことを言いますが、わたしは、別に九州雷山をひいきにしているわけでは、まったくない。事実を事実として捕らえる、わたしが納得できれば別に大和飛鳥でもかまわない。しかし大和飛鳥ではまったく合わない。その立場です。
 それに、この本は幸いにも版を重ねていますが、新聞の書評が一回も出ない。大体書評は、新聞社から依頼された専門家が書くものです。今言った論理が一杯詰まっているので、書けばどこかに差し障りが起こるから誰もいやがって書かない。ノーコメントであるとかってに想像して思っている。あれだけ書評が新聞に出ていて、今述べた問題がつまらないことには思えない。後生の人から見れば、なぜ書評が出なかったのか研究の対象になるのでは。
 それはともかく今の人麻呂の歌は、『憲法義解』(伊藤博文著、宮沢俊義校注、岩波文庫)で「天皇ハ神聖ニシテ冒スベカラズ」と記載されているように、明治憲法の根拠にされている。これは「統帥権干犯」と称して横やりを入れ、議会を機能させず内閣を進退不能にして戦争に突入させた事件もありました。そこに人麻呂の歌が載せられている。ここに書いてあるとおり天皇が現神(あらひとがみ)であり犯してはならないされた。戦争に突入した時の決め言葉になってきている。
 ところがこの歌が現在の教科書でも若い先生が同じように、この時代は天皇は神であったと、説明している。ゾッとした。黙っているなら、もう一度同じ道を歩んでいても、文句は言えないだろう。

 要するに天皇家中心主義では、歴史は説けない。七〇二年、八世紀は天皇家中心の時代に入る。唐の則天武后が、天皇家を日本の王者と認定したのが七〇二年以後。それまでの七世紀末までは、大和の天皇家中心の時代では無かった。天皇家は先ほど言った九州王朝の分家であるけれども、中心の王者ではなかった。それまでの倭国・九州王朝の王者は、紫宸殿・内裏・内裏が丘・朱雀門があった太宰府に居た。
 このように、歴史はあるべきふさわしい姿に返して行く。これは天皇家にとって不利なことではない。歴史を正しく見て、そんなに不利になるような権力なら早く亡んだほうがよい。わたしは、そんなことはないと思う。

古賀
 他に聞きたいことは、たくさんありますが二部に質疑の時間もありますので、これで一部は終わらせて頂きます。ありがとうございました。


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