記紀の史料批判 古田武彦(講演集)へ
講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集 講演記録「釈迦三尊」はなかった 古田武彦
二〇〇五年一月十五日(土) 大阪市中の島中央公会堂
一 「釈迦三尊」はなかった 二 大八島国と出雲 三 筑紫都督府と評督 四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴国) 質問一〜五


三、筑紫都督府と評督

古田武彦

三、筑紫都督府と評督

 それでは次に移らさせていただきます。ここでは、わたしにとって有名な記事をとりあげています。

『日本書紀』巻二七天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑に、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石爲を以て送使とす。

「筑紫都督府」の所、註釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った。

『続日本紀』巻一文武四年(七〇〇)
六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美(てじみ)。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志(ちくし)惣領。准犯决罸。

 ここでは「筑紫」を「つくし」と読んでいますが、現地音では「ちくし」。それのほうが正しいと年来言っていますが。とにかく、ここに一回だけ「筑紫都督府つくしととくふ」という言葉が出てきます。後は出てこない。後にも先にも、ここ一ヶ所だけです。たいへん重要であると論じた。
 次に『続日本紀』巻一文武四年の項を取り上げて、「衣評督」とあり、これは「評」が出てくる記事として学界に有名になった。
 若き日の井上光貞さんが東大講師のときに、これを取り上げた。ほかにも「評」の金石文が出てきますが七世紀後半は、「郡」という制度ではなくて「評」という制度が施行されていることを示していると論じた。正確にあのかたの論じた点を述べると大化の改新(六四五年)以後も、「評」という制度が七世紀終りまで続いたはずだ。このような上記の史料や金石文によるかぎり、そう考えざるを得ない。ところが『日本書紀』を見るかぎり、大化の改新以後は全部「郡」と書かれてある。『日本書紀』を見てみますと全部「郡司」などというかたちで繰り返し出ています。だから、それまでは「郡」という制度が大化の改新以後存在したというかたちで、学者には理解されていた。
 これに対して若き日の井上光貞さんは反論を唱え、「評」でなければおかしい。『日本書紀』の信憑性に問題がある。「大化の改新の信憑性について」という論文を書いて、そういう目線で発表された。
 ところがそのときの学会の司会者が、恩師の坂本太郎さん。そのときの東大の教授だった。発表が終わって、わたしは、井上君の意見に反対です。しかし今は司会者ですから意見を言うことは遠慮して、改めて反論を書きます。そのように言われた。これが口火となり丁々発止の論争が二十数年続き、天下の学者が坂本派と井上派の二つに分かれて壮大な論争が行われた。それが決着がついたのは、奈良県の藤原宮や静岡県浜松市伊場などから出てきた木簡など確定できるものが示していたのは、七世紀後半は「評」であった。お弟子さんの井上さんの勝ち、お師匠さんの坂本さんの負けとなった。井上光貞さんの威信はめざましく上がった。だから学会は井上派でなければ、人にあらずという時代が最近まで続いているとも言えなくもない。「郡評論争」と言いますが、わたしの著書『古代は輝いていた』(朝日文庫)第三巻に詳しく書いてありますからご覧ください。
 ところがその時に負けた坂本太郎さんが、非常に意味深い大事な発言をされている。「確かに木簡などを見ると、事実は評であり井上君の言ったことが正しかった。それは認める。しかし、いまだに分からないことがある。それでは実際は評であったものを、なぜ『日本書紀』は「郡」と書き換えなければならなかったのか。それが、私には分からない。」あのかたはひじょうに正直なかたですから、そのように書いておられる。その通りなのです。しかし天下の学者は「負け犬の遠吠え」としか受け取らず、この坂本発言・疑問には学界は正面から答えようとはしなかった。
 それで次に、現在の現役の日本史の京大教授鎌田さんが富山大学の助教授の時、若い時に「評」について書かれた論文が学界では有名です。もちろん井上さんの勝利の確定した後であり井上さんの考えを受けて書かれたものです。もちろん井上氏の勝ちですが、それでは「評」という制度は誰が造ったのか問題となります。これは孝徳天皇が造ったと考えなければならないという主旨の論文です。途中にいろいろな推測であるという言葉がさかんに出てきて、その点は鎌田さんの良心的な姿が窺(うかが)えますが、結論はやはり孝徳天皇が造ったものであろうとしています。やはり若い研究者であった鎌田さんが言っているとおりだ。そしてこの論文の意見が、今日に至っている。現在の学界はその文脈で理解して大学でも語られ、皆さんもその通説で覚えておられると思います。
 しかしわたしは、これに対しておかしいと考えた。なぜなら、その坂本疑問でありますが、そのとおりです。現実は「評」だった。これを今疑う人はいない。それでは実際は「評」だったものを、なぜ『日本書紀』は嘘をついて「郡」と書かなければならないのか。それは従来の立場では説明できない。その点わたしの立場なら、それは説明できる。つまり九州王朝というのは七〇〇年以前に存在して、「評」というのは九州王朝の制度である。『日本書紀』は、九州王朝というものが存在し「評」という制度があったことを、素直にそのことを書けばよい。ですが九州王朝の存在を隠して、近畿天皇家が一見中心のような顔をした。神武天皇から中心だったかのような、最初からずっと中心だったかのように、一見見える歴史書を造った。よく見ればおかしいところはたくさんあるが、近畿天皇家が中心だったような全体の像を描いていた。
 だからその場合九州王朝の制度である「評」を消し去らなければならない。これはかなり徹底していて、『日本書紀』だけ消し去ったのではなく『万葉集』も消し去っている。『万葉集』も八世紀になってだけでなく、むしろ七世紀の天武とか持統などの歌もたくさんある。あれは全部「評」の時代ですから、「評」が出なければおかしいのです。ですがいっさい「評」はなくて、ぜんぶ「郡」になっている。だから『万葉集』も「評」を隠すという改竄(かいざん)の手口がおよんでいる。そのようなことに気が付いて、がく然としました。(『古代史の十字路』・『壬申大乱』東洋書林、参照)
 それで、わたしが指摘したのは「評督」の上部単位があるはずだ。「評督」は最高ではない。それで上部単位は何かといえば「都督」である。これも先ほどの講演の中で九州王朝で「府」という制度もある。そういう鋭い指摘がありましたが、その通りである。それと同じく役職のリーダーを「督」と呼ぶ制度があったことは間違いがない。その「評督」という制度が『続日本紀』に出てきている。その上部単位は「都督」である。この都督は何かというと『日本書紀』に一回限りですが出てきている。そこの岩波古典体系『日本書紀』の注釈が、大変おもしろい。
 何かといいますと「筑紫都督府」に注釈があって、「注釈二一 筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残った。」とある。これには原史料があって、うっかり誤ってそのまま写したものであろうと書いてある。つまり誰か知らないが、顔も名前も知らない不用意な人間がいて「筑紫都督府」とうっかり書いてしまった。次いで『日本書紀』を書いた人が二番目のうっかりさんで、それをそのまま写して書いてしまった。これは何を言いたいかと言いますと、「筑紫都督府」という話はなかったことにします。岩波古典体系が「筑紫都督府」という話はなかったことにしますと言っていますから、日本中の学者は、ぜんぶそれに従っている。わたし以外は。
 わたしは、それはおかしいと論じました。ここに書いてあるから、書いてあるとおり理解すべきだ。かつ「都督」を原点にしなければ「評督」という言葉は理解できない。しかも有名な「倭の五王」では、『宋書』に「使持節都督」という称号を要望しかつ与えられたということは、あまりにも有名である。これは日本列島に都督がいた。その都督の元に評督がいた。その都督がいたところが、先ほどの「府」の論証で言われているように都督府です。『日本書紀』に「筑紫都督府」とある。都督府という言葉が歴史書にも九州の地名にも、きちんと残っている。
 そういう指摘をしていたが、未だ書いていないことがあった。この場合には「評督」の場合も、出方が問題です。『続日本紀』の場合は、初めて出てきて「决罸せしむ」、攻め滅ぼしたと書かれてある。つまり『続日本紀』の「評督」の場合には、一回限り出てきて、従わない心掛の悪い奴で人々を脅かすから、これを攻め滅ぼした。ですから初めて出てきて、これを攻め滅ぼしたというかたちになっています。
(『日本書紀』の継体のところで、百済のほうで「評ひょう」と呼ぶべきか、なんと呼ぶべきか問題はありますが「背評せのひょう」が出てきます。これは質問があれば別に答えます。これには「評督」は出てこない。)
 とにかく「評督」という言葉は、初めて出て来てすがたを消す。つまり、これは評督は討ち取った、攻め滅ぼしたということに意味がある。井上さんも論じてはいますが、単語だけを取り上げて論じています。だから日本中の学者もみんな知っているが、しかし単語だけを取り上げて論じています。この場合単語は文章の一部ですから、「評督を攻め滅ぼした。」と理解しなければならない。この場合近畿天皇家側が攻め滅ぼした。攻め滅ぼされたのは、近畿天皇家側が近畿天皇家側の見方を攻撃したということはありえないから、近畿天皇家側でないほうに属していた「評督」を攻め滅ぼした。これで以後「評督」は、いなくなりました。そのように言っています。わたしも読み返してみたら、そこまで書いていなかった。
 『日本書紀』の「筑紫都督府」も同じです。「筑紫都督府」は、言うも愚かですが倭の五王が居たのが都督です。その都督が筑紫に居たことを示している。福岡県太宰府市に「都府楼」があり、皆さん行かれたことがあるでしょう。あそこに倭の五王が居たところであることは「筑紫都督府」という言葉で証明される。
ところが初めて出てきて、それで消えてしまうということは、この「都督」は南朝系列の都督である。ところが南朝は逆賊である。隋・唐は北朝系列ですから自分たちだけが正しい天子であり、南朝は逆賊と言っています。南朝側は、北朝側を逆賊だと言って来ました。しかし六世紀の終り六九二年に南朝側は滅ぼされ、それ以後逆賊はいなくなった。しかしその逆賊に任命された都督をまだ保持していたのが倭国である。それが筑紫都督府。その存在した南朝の都督を、天智六年(六六七)で終りにした。今まで南朝の都督府があったのは誰でも知っているけれども、これ以後は存在しない。
 もちろん名前だけは、八世紀になっても出てくることは古賀さんが論じています。しかし名前だけ出てきても、これらはもう性質が変わっています。『日本書紀』で示した「筑紫都督府」はこの段階以後、南朝のすがたの都督は消えた。ところが中心の都督(府)は消えたが、未だ評督は残存していた。その二・三十年後残存している評督を、文武四年(七〇〇年)に攻撃して攻め滅ぼした。このように『続日本紀』は言っています。
 『日本書紀』も『続日本紀』も、(近畿天皇家の)一連の人々が書いたものである。ですから「都督」も「評督」も一連の記事として理解しないほうがおかしい。
 そして現在では、「筑紫都督府」は誰ががミスで写し間違えた。そういう世界中の人に聞いたら恥ずかしいような理由で、ないことにして知らないふりをしている。
 ですが、やはり南朝系列の都督が存在しその下部単位として評督が存在した。評督は日本だけの存在ですが。そのようなことを『日本書紀』と『続日本紀』が証言していた。分かり切った話ですが、それを今回確認して、なんのことはないと考えました。

 さらに今回おもしろいことが、もう一つ加わりました。同じ文章ですが。
岩波古典文学体系準拠

『日本書紀』巻二七天智六年(六六七)
十一月丁巳朔乙丑に、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聰等罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以て送使とす。

原文
『日本書紀』巻二七天智六年 
○十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於*3筑紫都督府。○己巳。司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博徳。大乙下笠臣諸石爲送使。○是月。築倭國高安城。讃吉國山田郡屋嶋城。對馬國金田城。

校異
・・・
P610
巻題二十七 天智天皇
◇校合本ー北野本・伊勢本・内閣文庫本
・・・
三六七、・・・*3於ー(北・勢・閣ナシ)、・・・

 原文の『日本書紀』巻二七天智六年の十一月丁巳朔乙丑の項の最後に、「送大山下境部連石積等於*3筑紫都督府」とあって、ここに注3が付けられてある。この注3が問題である。これは岩波古典文学体系の最後のほうに校異の注が出てきて、「*3於ー(北・勢・閣ナシ)」とある。つまり古い写本には、この「於」がない。それを『卜部兼右本』、室町から江戸にかけての写本ですが、写本としては新しい。これは新しいですが全冊そろっているから、岩波古典体系はこれを底本にした。しかしより古いのは『北野本』、『穂久邇文庫本(伊勢本)』、『内閣文庫本』。とくに京都北野神社に残っていた『北野本』が一番古く、『伊勢本』と『内閣文庫本』がそれに次ぐ古さです。これら三つの写本には「於」がない。それを新しい写本では「於」がないのに付け加えている。それにも関わらず、岩波古典体系は、『卜部兼右本』を底本にして「於」を付け加え従っている。
 それでは「於」があるのと、ないのではどう違うのですが問題となる。これも経過は省いて結論から言いますと、「於」がないと、古い写本では「大山下境部連石積等の筑紫都督府に送る。」となる。それでは送った主語は誰かと言いますと百濟鎭將劉仁願である。つまり中国の有名な武将です。彼は百済に派遣されていたから「百濟鎭將」と言っている。これが主語です。それで目的語は何かと言いますと「熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等」。彼らを遣わした。どこへ遣わしたか。もちろん「筑紫都督府」です。そして問題のところです。ここで「於」がないと、とうぜん「送大山下境部連石積等筑紫都督府」は、大山下境部連石積等の居た筑紫都督府へ送る。つまり彼らのいた筑紫都督府へ送るとなります。
 『日本書紀』の他の例を考えてみて、このような理解となりました。『日本書紀』でよく使われる言葉に「送使」という言葉がよく出てくる。使いを送るという意味で「送使」という言葉がよく出てくる。つまり天子や上級の高官が、使い自身を送ることを「送使」という。使い自身が、ものを送ったり人を送ったりするわけではない。それで見ますと、誰を送ったかと言いますと、この場合「司馬法聰」を遣わして、どこどこへ送った。この場合劉仁願がどこへ送ったのと言いますと「筑紫都督府」へ送った。そうしますと、この場合「大山下境部連石積等のいる都督府へ送った。」と理解せざるを得ない。
 ところが今の後世写本『卜部兼右本』では、そう解釈したくなかった。ここでは「於」を入れて読むと、改竄(かいざん)ですが「大山下境部連石積等」がどこかにいて、それを連れて帰ったという意味にした。その意味に文章内容を書き換えた。

 この点も細かい問題ですが、おもしろい問題があり付け加えます。

岩波古典文学体系準拠
『日本書紀』巻二七 天智四年(六六五)九月
九月の庚午朔壬辰に、唐國、朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等を遣す。
〈等というは、右戎衛郎將上柱國。百濟將軍朝散大夫上柱國郭務宗*を謂ふ。凡て二百五十四人。七月廿八日に對馬に至る。九月廿日に筑紫に至る。廿二日に表函を進る。〉
・・・
十二月戊戌朔辛亥に、物を劉徳高等に賜ふ。
是の月に、劉徳高等罷り歸りぬ。
是歳、小錦守君大石等を大唐に遣わすと、云々。〈等といふは、小山坂合部連石積・大小乙吉士岐彌・吉士針間を謂ふ。盖し唐の使人を送るか。〉
      宗*は、立心偏に宗。JIS第4水準、ユニコード60B0

 白村江の戦いの後敗戦国側が、天智四年に大唐への使いを遣わした。「是歳、小錦守君大石等を大唐に遣す、云云」とある。それで注として、「等といふは、小山坂合部連石積・大小乙吉士岐彌・吉士針を謂(い)ふ。盖し唐の使人を送るか。」とある。「盖し唐の使人を送るか。」は、連れて帰ったという意味の送るですが。それもありうる。

 ここで問題は、大唐に遣わされた使いの「小山坂合部連石積」という人物です。ここにも「小山坂合部連石積」という人物が入っている。約二年前に遣わした小山坂合部連石積らが帰ってくるので、それで良いのではないかと思いやすい。ここで問題がおきる。先ほど申しましたが境部連石積が帰ってくるときの冠位は「大山下だいせんげ」となっている。しかしおなじ坂合部連石積が大唐に行くときの冠位は「小山しょうせん」であり、違っている。

 書きましょうか。

坂合部連石積(境部連石積)の冠位
天智四年(六六五)「小山」 
      ↓
天智六年(六六七)「大山下」

 これ少しおかしいですね。同じ人物が中国に行って、帰る途中に冠位が上がったというのも変な話だ。ですから岩波古典体系の注釈では、これは後になって冠位が上がったのを、このときのように書いたのであろうと書かれてある。(岩波古典体系『日本書紀』旧版P367 注二〇、遣唐副使。→四年是歳条。冠位が上がっているのは帰国後の叙勲の追記か。)
 これは、おかしいですね。その時の事件を書いてあるのだから。後で書いたのなら、出発するときの肩書きも、それなら上げて書けばよい。それを行くときは上がる前の肩書きを書いておいて、帰ったあとは上がったあとの肩書きを繰り上げて書くというのは、分かったようでまったく分からない話だ。
 しかし、これはかんたんなのです。境部連石積は大唐に行って帰ってきた。帰ってきて筑紫に居座った。戦勝国・大唐に行って、もうこれから唐に帰順して従います。そういう誓いをして唐から帰ってきた。それで筑紫都督府に居座った。今までいた連中は白村江で死んだのか、敗戦で失脚した。だから近畿天皇家側の息のかかった人物が筑紫に居座った。そういう人物が居座っている都督府に、中国の百濟鎭將である劉仁願は、自分の懐(ふところ)刀ともいうべき人物上柱國司馬法聰を派遣した。この場合派遣するほうも自分の懐刀ともいうべき人物、派遣されるほうも唐の支配を受け入れる側の人物が筑紫都督府を支配していたというか、そこに居た。
 つまりこれで南朝系の「筑紫都督府」というものは最後の命脈を断たれた。一巻の終わりとなった。そういう話なのです。
 ところが、岩波古典体系を作った編者・学者はそのような理解がないので、「於」を入れた後世写本を採用した。「於」を入れた『卜部本』の編者は作り替えた。今のようなことを理解できないから「於」を入れて文章を変えた。「於」が入っている文章は『日本書紀』にたくさんあるので、それにならって作った。

 さてそこで問題は、「・・・送大山下境部連石積等の筑紫都督府。」という一連の文章が成り立つかどうかを、昨日来一生懸命取り組んできた。結論から言いますと明確に成り立ちます。なぜなら、この文章はへたな文章です。メイド・イン・ジャパン、和風の漢文だと、よく言われる。漢文でありながら、漢文としては中国人からみればちょっとどうかと思われる漢文、中国人が首をかしげる漢文がある。ここは百済風漢文。漢文としてはあまり上手とは言えないが、しかしこの書いた人の文章の基礎は、きちんと表れている。

原文
『日本書紀』巻二七天智六年 
○十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於*3筑紫都督府。

 主語の「百濟鎭將劉仁願」、これは良い。つぎの「遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等」は文章が変です。これも一つの分析が出来ますが、今は省略します。「熊津都督府」は唐が任命したことは、『旧唐書』という史料にあります。これは北朝系というか、唐側の都督府です。この文章は、上の目的語の中が幾つもに重なり合っている。重箱、しかも三重箱のように重なり合った文章です。
 しかも、今度は書き手の人物が、「司馬法聰等」を「大山下境部連石積等のいる筑紫都督府」へ送る。帰ってきて大山下境部連石積等が支配している筑紫都督府へ送った。重箱、しかも二重箱のように重なり合った漢文ですが、そのように理解できる。
 ともあれ『日本書紀』は、「筑紫都督府」があったということを証言している。これで終わったということを『日本書紀』は主張している。終わったということが書いてあって、それ以前の歴史に何も関係しないということはありえない。たくさんあるがカット、終わった分だけ書く。「評督」もたくさんある。しかし書かないよ。降伏させて終わったことだけ書く。それだけ書けば分かるだろう。『日本書紀』はそういう文脈で、一連の問題を処理している。

 それで関連する問題を申し上げたい。『日本書紀』は、『宋書』・『隋書』が存在することをもちろん知って、それを前提に書かれている。
 しかし有名な倭の五王、賛・珍・斉・興・武が出てこない。『日本書紀』の著者が『宋書』を読んでいないかというと、そんなことは考えられない。日本人であれ、中国人であれ歴史書に強い連中がそろっている。
 ところが『宋書』は、南朝系の歴史書である。偽の天子から任命された偽の史官が作った歴史書である。筑紫都督府は、偽の天子が任命した王者であり偽の都督です。だから私たち近畿天皇家とは違う連中です。そのことは述べません。ですが東アジアの人々はよく知っている。『宋書』をみんな読んでいるから(九州に)都督府もあったことを知っている。しかしそれはわれわれ大和政権とは別の、心がけの悪かった連中です。
 同じく『隋書』の「日出処天子」。『隋書』は唐が一番早く作った歴史書です。一番東アジアに鳴り響いていて、(大和政権が)『日本書紀』を作るときには金科玉条にした歴史書です。しかし『日本書紀』には、あの「日出処天子」は書いてはいない。うっかりミスで書かないのではない。何回も言ってますが「日出処天子」を、『隋書』は誉めているのではまったくない。蛮族のくせに天子を称するような許しがたい連中が居たということを書いている。それなのに隋の煬帝は、おもしろくないという顔をしたと書いてあるが、結局へらへらと使いを送った。しかも使いはご馳走になって帰ってきた。そんなくだらん隋の天子だから、我々はそれに我慢できず反乱を起こし、これを叩きつぶした。唐の天子は、隋の一武将だった。反乱を起こして天子を倒すというのは大逆罪です。そのように見えるだろうが、それには深い理由がある。かの隋の天子はわれわれ中国人面汚しの天子だ。だからわれわれは、隋の天子を倒さざるを得なかった。そういう自分たちの反乱に対する自己弁明に『隋書』を使った。『隋書』を読めば、あれに気がつかない読者はいない。いちばん目立つところです。そういう意味では、非難どころではない。われわれ唐は隋とは違う。ぜったい、この連中を叩きつぶす。開戦予告です。いわば太平洋戦争のハルノートと同じです。
 だから後いきなり百済に攻め入っている。これは完全に中国の侵略です。今の中国の歴史教科書に侵略と書いてなければ、中国の歴史教科書はインチキである。これは、まったくの侵略です。新羅が国境紛争が起こっていることを唐に報告した。それを理由に百済に大軍を投入して攻め寄せて、国王・大臣・王子などを数百人捕虜にして見せしめの行列を行なって中国西安に連れて帰った。これが侵略でなかったら、世界中侵略というものはない。ですが、それを行った本当の目的は倭国。百済と倭国とは今でいう軍事同盟を結んでいる。片方が攻撃されたら、片方が助ける。そういうことを知っていて、片方の百済を叩いた。これだけ理不尽に百済を叩いたのであるから、倭国が黙っているはずがない。黙っているなら男でない。人間ではない。そういう迫り方をした。それに、けっきょく倭国はつられてしまった。
 最初倭国は神籠石(山城)にこもって戦うつもりだった。しかし近畿天皇家が一抜けた。斉明天皇の喪に服するという理由で、引きあげてしまった。だから当初の予定は、神籠石山城に籠って戦うつもりだった。神籠石山城に籠って戦うほうが、ぜったいに有利です。唐は攻めては来れますが、あと持久戦になったときに補給線である船を後ろから攻撃すれば良い。ゲリラ戦を行えばよい。それを狙って神籠石山城を造った。ところがその中で、斉明天皇の喪に服するという理由で、大和や吉備の連中が抜けてしまった。そのことは『風土記』に出ています。ですから、その体勢が執れなくなって白村江に飛び出して行った。そのことは唐が狙っていたことです。そのことは何回もお話したことでございます。

 以上述べましたように、この部分の文章は従来理解されていなかった。意図的というか、ハッキリ『日本書紀』を誤解していた。

 もう一度言いますが、『日本書紀』を作る時は『隋書』があることは百も承知しています。一番当時最近の一番よく知られていた史書です。唐が一番勢力が盛んな時に『隋書』は作られていて、『隋書』を近畿天皇家はぜったい見ています。近畿天皇家にとって、一番大切な歴史書です。しかし「日出処天子」は大和の勢力ではありません。心がけの悪い九州の筑紫都督府のあとを継いだ連中がやったことです。そのような無罪証明に、日本書紀』を書いている。考えてみれば、それ以外にありえない。
 その点は水戸光圀の『大日本史』は、はっきりしていまして「倭の五王」や「日出処天子」はまったく出ません。「日出処天子」は『大日本史』に出ていそうな気がするが出ていない。水戸学では『古事記』・『日本書紀』を大義名分の原点にするからです。『大日本史』では、「倭の五王」や「日出処天子」をいっさい相手にしない。その点では、筋が通っている。
 筋が通らなくなったのは明治以後で、「日出処天子」を持ってきて『日本書紀』の天皇家にくっ付けた。また戦後は「倭の五王」を持ってきて、井上光貞さんは『日本書紀』にくっ付けた。だからヌエのような、南朝系か北朝系か分からない、両またぎのような歴史を明治以後は習わせられている。その通りに覚えたら○がもらえ試験に通り、よい出世ができるような仕組みを国家が作っている。古田のような考えを書いたら間違いなく×です。大学の史学科でも、ぜったいに古田説を使ってはいけない。そういう仕組みを作っている。しかしいくらそんなシステムを造ってみても、しょせんむなしいものである。これは戦争中に、神がかった「天孫降臨」を全国に吹聴していても、一瞬にして消え去った。もう一度これと同じ運命をたどらざるをえない。そのように考えます。

 それで倭の五王の問題をあらためて調べてまして、その感を強くしました。

『宋書』倭国伝
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬環(*1)甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝徳覆載摧此彊敵克靖方難無替前功竊自假開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

*1:「環」の「王」を手偏とした字

 倭王武が、「喪父兄(父兄を失う)」と言って、いきなり戦場で死んだ。それで動きが取れなくなった。しかしわたしはもう一度南朝の天子のために忠節を尽くす兵を挙げたい。このように書かれている。
 しかしこの文章の中で、「武」は雄略にまちがいない。わたしいがいの学者はそのように言っている。さらに学者間で相違はあるが、仁徳や応神が「珍」や「賛」であると言っています。
 しかし『古事記』でもよいですが『日本書紀』を見て、たとえば仁徳が息子と一緒に戦って戦死したという記事がありますか。まったくないですよ。
 これで応神や仁徳が「珍」や「賛」だと言えますね。あきれますよ。これはなぜかと言いますと、井上光貞さんが言ったわけです。定説派の学者の元となる存在ですから名前を出して言います。「わたしは原則として津田史学に賛成する。しかし系譜のほうは『古事記』・『日本書紀』は信用できる。しかし説話部分のほうはダメである。」、そのように仕分けをした。詳しくは帝紀の問題など、いろいろありますが今は省略します。
 もう一度簡単に言いますと系譜は良いが、説話はダメ。そういう仕分けをした。そうなると、あとは怖いものはなしとなる。つまり応神・仁徳は戦争に行った形跡はないし、親子で討ち死にした形跡もないが、それは問題にならない。あれは説話ですから信用できない。系譜のほうは合っているから良い。それで今まで来ています。しかし考えてみますと、マジックのような気がする。その人物の名前だけ、しかも一部分を切り取ってきて信用します。倭の五王と、違っていて矛盾していても一切問題にならない。そのような机の上の遊技のような形では処理できるでしょうが、それが人間の歴史に対する見方でしょうか。
 それに対して「新しい歴史教科書を創る会」の系列の人々は、津田史学を批判し『古事記』『日本書紀』が正しいと言っています。それなら「日出処天子」が出ないのは、どういうことか。「倭の五王」は出てこないのは説明できない。
 どう見ても『日本書紀』を作る人々は、どう見ても「日出処天子」や「倭の五王」は百も承知で、われわれは彼らでありません。かれら筑紫都督府の人々は、劉仁願が使いを送ってきた時点で、ジ・エンド(the end.)となりました。彼らの残党は文武四年に薩摩でジ・エンド(the end.)となりました。このように『日本書紀』は言っています。そのメッセージを知らないふりをして「筑紫都督府」という単語だけ利用して、近畿天皇家中心主義の支配に利用してきた。
 以上のことは当たり前過ぎるかも知れませんが、改めてもう一度のべました。

 

      質問四は重複掲載

(質問四)
 間違いかも知れませんが「・・・鎮将劉仁願、熊津都督府・・・筑紫都督府・・・」の一説について、わたしは、以前このように考えておりました。「熊津ゆうしん都督府」とか「筑紫都督府」というものは、占領した唐が現地を支配するために設置した政府・役所のことではないかと考えて読んでいたのですが。ですが「都督府」がもともとあったものなら、「筑紫都督府」とは言わずにたとえば「倭国都督府」と言ったと思うのですが。「筑紫都督府」というのは唐の側から見て、言う時に付ける名称ではないのか。先生のお話を、このように理解したのですが。

 (回答)
 その通りです。まず「筑紫都督府」と「都督府」は分けて考えたほうがよい。「都督府」は、中国が任命した都督がいるところが都督府です。中国南朝を中心にする下部官庁です。ところが「筑紫」は、あくまでも実在の地名ですから「筑紫都督府」は南朝が任命したものではない。倭国側には「都督府」だけです。「筑紫」も「倭国」もいらない。他方、現地は都督府だけです。「筑紫都府楼跡」とか「倭国都府楼跡」とか言っていません。言わないのが当り前です。ですから「筑紫都督府」という言い方をしているのは、あくまでも中国側、より正確には百済側の文章なのです。ですから「筑紫」が必要なのです。ですが倭国の「都督府」ではない。もう倭国は実質的には滅ぼした。都督府はその時点では存在しない。ですが地理的には筑紫ですから。
(だから強いて言えば「筑紫にあった都督府」という意味で、言葉を使っている。)
 これを北朝側、唐の設置した「都督府」と考えて都合の悪いことがある。なぜなら北朝側の歴史書に出た来なければならない。「熊津都督府」は唐の歴史書に出てきます。これは良いけれども「筑紫都督府」は、歴史書に出てこない。出てこないけれども、ひそかに唐は任命した。これは禁じ手です。都督府のあるのは、やはり『宋書』倭国伝の都督府しかない。
 これはいろいろ悩んだ時期があるので、ご質問の意味は良く分かります。このように考えております。


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