盗まれた神話 -- 記・紀の秘密』 第一章 謎にみちた二書
弥生の土笛と出雲王朝(古田武彦 2003年3月講演記録)

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集
講演記録「釈迦三尊」はなかった 古田武彦
二〇〇五年一月十五日(土) 大阪市中の島中央公会堂
一 「釈迦三尊」はなかった 二 大八島国と出雲 三 筑紫都督府と評督 四 沈黙の論理 -- 銅鐸王朝(拘奴国) 質問一〜五


二、大八島国と出雲

古田武彦

二、大八島国と出雲

 次は大八島国の問題です。大八島国がどこを指すか。なぜかまちまちというか、いろいろな説がありまして一定していない。『古事記』にも出ており『日本書紀』神代紀でも「一書に曰く。」という形で、たくさん出ていることはご存知のとおりです。

日本古典文学体系(岩波書店)
『古事記』
是に二柱の神、議(はか)りて云ひけらく。「今吾が生める子良からず。猶なお天つ神の御所みもとに白まをすべし。」といひて、即て共に參上(まいのぼ)りて、天つ神の命を請(こ)ひき。爾(ここ)に天神の命以(も)ちて、布斗麻迩爾(ふとまにに)【此の五字は音を以ゐよ】。ト相(うらな)ひて、詔(の)りたまひしく。「女をみな先に言へるに因りて良らず。亦還り降りて改め言へ。」とのりたまひき。故(かれ)爾に反り降りて、更に其の天(あめ)の御柱を先(さき)の如く往り迴(めぐ)りき。是に伊邪那岐命、先に「阿那迩夜志あなにやしえ愛袁登賣袁をとめを。」と言ひ、後に妹伊邪那美命、「阿那迩夜志あなにやしえ愛袁登古袁をとこを。」と言ひき。如此(かく)言に竟(を)へて御合(みはひ)して、生める子は、淡道之穗之狹別(あはぢのほのさわけ)の島【別を訓みてワケと云う。下は此れに效へ。】。次に伊豫之二名嶋(いよのふたなのしま)を生みき。此の島は、身一つにして面(おも)四つ有り。面毎(おもごと)に名有り。故(かれ)、伊豫國は愛比賣(えひめ)【此の四字は、音を以ゐよ】と謂ひ、讚岐國は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟國は大宜都比賣(おほげつひめ)【此の三字は、音を以ゐよ。下は此れに效へ。】と謂ひ、土左國は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。次に隱伎之三子嶋(おきのみつごのしま)を生みき。亦(また)の名を天之忍許呂別(あめのおしころわけ)【許呂の二字は音を以ゐよ】。次に筑紫嶋(つくしのしま)を生みき。此の嶋も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫(つくし)國は白日別(しらひわけ)と謂ひ、豐(とよ)國は豐日別(とよひわけ)と謂ひ、肥(ひの)國は、建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ【久より泥までは音を以ゐよ】、熊曾(くまそ)國は、建日別(たけひわけ)と謂ふ【曾の字は音を以ゐよ】。次に伊岐(いきの)嶋を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)と謂ふ【比から都までは音を以ゐよ。天を訓むこと天の如くせよ】。次に津(つ)嶋を生みき。亦の名は、天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐度(さどの)嶋を生みき。次に大倭豐秋津(おほやまとあきづ)嶋を生き。亦の名を天御虚空豐秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、此の八嶋(やしま)を先に生めるに因りて、大八嶋國(おほやしまぐに)と謂ふ。

『日本書紀』巻一第四段本文
・・・産(こう)む時に至るに及びて、先ず淡路洲(あわぢのしま)を以(も)て胞(え)とす。意(みこころ)に快(よろこ)びざる所なり。故、名づけて淡路洲と曰ふ。廼(すなわ)ち大日本(おほやまと)〈日本、此をば耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆、此に效へ。〉豐秋津洲(とよあきづしま)を生む。次に伊豫二名洲(いよのふたなのしま)を生む。次に筑紫洲(つくしのしま)を生む。次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)とを雙(ふたごに)生む。世人(よひと)、或雙生むこと有るは、此に象(かたど)りてなり。次に越洲(こしのしま)を生む。次に大洲(おほしま)を生む。次に吉備子洲(きびのこしま)を生む。是に由りて、始めて大八洲(おほやしま)國の號(な)起れり。即ち對馬嶋(つしま)、壹岐嶋(いきのしま)、及び處々(ところどころ)の小嶋(をしま)は、皆是潮(しお)の沫(あわ)凝りて成れるものなり。亦、水の沫(あわ)の凝(な)りて成れるとも曰ふ。

『日本書紀』巻一第四段一書第一
・・・然して後に宮を同じくして共に住ひて兒(みこ)を生む。大日本豐秋津洲(おほやまとあきづしま)と號く。次に淡路洲。次に伊豫二名洲。次に筑紫洲。次に億岐三子洲(おきのみつごのしま)。次に佐度洲。次に越洲(こしのしま)。次に吉備子洲(きびのこしま)。由りて、此を大八洲國(おほやしまのくに)と謂ふ。瑞、此をば彌圖(みつ)と云ふ。妍哉、此をば阿那而惠夜(あなにゑや)と云ふ。可愛、此をば哀(え)と云ふ。此をば 太占、此をば布刀磨爾(ふとまに)と云ふ。
・・・
・・・
『日本書紀』巻一第四段一書第六
一書に曰く。二の神、合爲(みとの)夫婦(まぐはひ)して、先づ淡路洲・淡洲(あはのしま)を以って胞(え)と爲す。大日本豐秋津洲を生む。次に伊豫洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲を雙(ふたごに)生む。次に越洲。次に大洲。次に子洲。

『日本書紀』巻一第四段一書第七
一書に曰く。先に淡路洲を生む。次に大日本豐秋津洲。次に伊豫二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壹岐洲。次に對馬洲。

『日本書紀』巻一第四段一書第八
一書に曰く。[石殷]馭慮嶋(おのごろしま)を以って、胞(え)として、淡路洲を生む。次に大日本豐秋津洲。次に伊豫二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲を雙(ふたご)生む。次に越洲。

『日本書紀』巻一第四段一書第九
一書に曰く。淡路洲を以って胞(え)として、大日本豐秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊豫二名洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。

(参考)
『日本書紀』巻一第四段一書第十
 陰神(めがみ)先ず唱えて曰く、「妍哉あなにゑや、可愛少男えおとこを」とのたまふ。便(すなわ)ち陽神(おがみ)の手を握(と)りて、遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して淡路洲を生む。次に蛭児(ひるこ)

 これだけ大八島国候補が並んでいる。ところが、この大八島國には不思議なことがある。何が不思議かといえば「出雲」がない。「筑紫」はかならず出ている。「出雲」は「筑紫」とかならずセットになって並んでいて、一番良く出てくる言葉です。統計というか抜き出してみると、『古事記』では一番に「出雲」が出てくる、そして「筑紫」が続く。『日本書紀』では「筑紫」がトップで「出雲」がそれに続く。第三位・第四位とは圧倒的に差が出る。ですから「筑紫」が出てくる比率が多いことは、たいへん分かりやすい。ところが「出雲」は、まったく出てこない。
 これに対して、わたしはかって一つの考え方を述べました。「大洲ダイシュウ」と読んで、どこかの大島(おおしま)と考えるのではなく、この「洲」を「くに」と呼んで、これは一つの国・領域のことではないか。すると「大洲おおくに」は大国主の「大国おおくに」にあたり、これが出雲に当たるのでないか。そのように書いたことがある。これは一つの考えではあるが今のわたしから、四十代後半のわたしの考えを見ると、一理屈はあるが不十分である。なぜなら仮に、「大洲おおくに」を出雲とします。『日本書紀』神代紀の「一書に曰く」の中に「大八島」に関しては七つあるが、その七つのうち「大洲」とあるのは三つしかない。他は無い。するとこれは「筑紫」はあるのに、なぜ「出雲」は三つしかないのか。これでは答えにはなっていない。一理屈はあるが答えになっていない。若かりし時の答えを、今わたしが批判するとこのようになる。
 それでこの問題について、わたしにとってはまったく新しい発見がありました。

『古事記』
此の八千矛神、高志の國の沼河比賣を婚(よは)はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく

八千矛の 神の命(みこと)は 八島國 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志の國に 賢し女を 有りと聞かして 麗女を 有りと聞かして さ婚(よは)ひに あり立たし ・・・ 

 これを発見しましたのは歌謡史をたどるような研究をするために『古事記』を読んでいて見つけました。良く読んでみると、「此の八千矛神」とは大国主のことです。後にこの「八千矛神」が大国主であると、イコールで結んでいる歌が出てきますので間違いないことは明らかです。次は「八島國 妻枕きかねて」、その八千矛神が、この八島国に良い女がいないかと探して回ったが、いなかった。それで「遠遠し 高志の國に」、たいへん遠い越(こし)の国へ居ると聞いてやって来ました。そうしたら、あなたがいた。女性に対して、凄いうまいオベンチャラ。そう言っている。
 そうすると、ここで越(こし)の国は大八島国(おおやしまのくに)に入らない。大八島国には、良い女はいない。大八島国ではダメだから愛想を尽かして、越の国に来たらあなたがいた。よかった。そのようなムードで書かれてある。だから越(こし)の国は、大八島国に入らない。
 同時に、これは八千矛神(やちほこのかみ)はどこにいるか。とうぜん出雲にいる。大国主ですから。ですから大国主は出雲にいる。その出雲にいる大国主が、大八島国を良い女はいないかと探し回った。何か、女性を馬鹿にしているというか、高をくくったというか。いやな言い方ですが、とにかくそういう言い方をしている。
そうしますと出雲は「大八島國」に入らないのではないか。出雲は原点で、「大八島國」という言い方は、出雲以外の取巻きの八つの国である。そういう言い方で、この「大八島國」が出てきているのではないか。
 今のわたしの頭では当たり前ですが、そう考えたときはギョッとしました。そう考えると『日本書紀』『古事記』は、たいへん分かりやすい。大八島国にどれを取っても出雲が出ないということは、あれは出雲を原点にしての「大八島國」。だから出雲は出ない。こんな簡単な話はない。
 それをいかにも、われわれは近畿天皇家中心の考え方、あるいはその前の九州王朝中心の考えに頭を巡らせていたから、その考えで「大八島國」を見ていたから出雲中心の「大八島國」に考えが到らなかった。良く考えてみると一番元の形の「大八島國」。一番原形としての「大八島國」は、実は出雲で造られた概念。(これは言い過ぎかもしれませんが、理由は後で述べます)そう考えるとひじょうに分かりやすくなったことがある。
 陰暦(睦月、如月、弥生、・・・・神無月、霜月、師走)の暦がある。この中に神無月(十月)がある。この解釈は一定していまして、その月には神々が出雲にお出かけになる。だから自分のところには神々がいないから「神無月」。この解釈そのものもインチキ臭いと思いますが、それはともかく、そのように言われている。神様が出雲に集まる月。これは、この暦自身が出雲中心の暦であることは疑いない。疑いは無いが、それではあちこちから集まってくるよと言われているが、それではどこから集まってくるのかは判らない。わたしはその点について、それに関心を持っていたのですが、それは各神社に聞いてみるしか仕方がないだろう。神社により、私供の神様は出雲に参りますという神社と、私供の神様は出雲に行きませんという神社もある。各神社に問い合わせて、私供の神様は出雲に参りますという神社の分布を調べてみなければと考えていたが、今まで出来ずにいた。これもその気になれば、チームを作って調査すれば簡単だと思いますができずにいた。
それともう一つ関連の話がある。これもわたしの本をお読みの方は良くご存知ですのことです。対馬の阿麻氏*留(あまてる)神社へ行きました時のことです。宮司さんは居られなかったが氏子代表の小田豊さんにお会いし、非常に印象的なお話をお聞きしました。
      阿麻氏*留(あまてる)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10

 「うちの神様はたいへん偉い神様です。年に一回神無月に出雲に行かれます。一番偉い神様なので一番最後に行かれます。最初に行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は一番偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そのように聞いております。逆に帰るときは、一番最初に帰って来られます。他の神様は、後帰る順番を待って次々帰って行きます。うちの神様は一番偉い神様と聞いております。」

 そのようなことを、ゆっくりとした漁民らしい口調で小田豊さんは話されました。そのことを一生漁師であるおじいさんは、これは自分のおじいさんから聞いた話だとして語っていただきました。
 確かにその季節現在の十一月、陰暦では十月の頃は、対馬から出雲へ行くのも帰るのも一番良い季節です。これはわたしが理解するのに、行きは簡単です。対馬から出雲へは対馬海流が流れているので、行きは海流に乗ればよい。すぐ行ける。問題は帰りです。帰りは海流に逆向しますから、なかなか難しい。その時に風が東から西へ吹く季節。帆をかけて風に乗れば素直に帰れる時、風がひじょうに帰りやすいシーズンになっている。
 そのときはなるほどと思い、神話は風土が影響している。季節と関係があるのだな。それにしてもその神様は、なんとなくかわいらしい神様で、天をピューと飛ぶわけでもないし超能力を持たない。船を漕いで行き帰りする非常にそぼくな神様だと関心して帰りました。
 そのときは感心して帰っただけでしたが、帰るのは対馬から福岡空港まで飛行機で三十五分かかります。その間に驚天動地の大事件が、頭の中に起きた。「あの話は考えてみると、天照大神あまてるおおかみは家来だ!」そういう神話なのです。家来です。一の家来。本当に一番偉いのは言うまでもなく出雲の神様。出雲の神様は座っておれば良い。動かなくともよい。神々は参勤交代よろしくお参りする。そのお参りする家来の神々の中で、一番偉い神様は天照大神。
 われわれは天照大神(アマテラスオオミカミ)と呼んでいるけれども、敬語だらけで化けてしまった。これは出世魚ならぬ出世神。本来は天照大神(あまてるおおかみ)。「阿麻氏*留あまてる」と神社は表記しております。それは出雲の一の子分であると自慢している神様。
 しかしわたしは戦争中に育った人間ですから、天照大神(アマテラスオオミカミ)と言えば、ゴッド・オブ・ゴッド(GodofGod)、最高の神様といつも教えられてきた。その考えに頭が固められていた。天照が家来であるという考えに、気がついて本当だから頭が破裂しそうな驚天動地の印象を受けた。
 しかし考えてみると、これが本来の形です。なぜなら一の家来だから「国譲り」となる。その事件の前からご主人であれば、「お前、譲れ。」という馬鹿なことを言う必要がない。取り上げれば良い。それまで中心の権力者は出雲であったことを示している。この事件以来、天照は成り代わって主人になった。あの「国譲り」神話の前提になるのが、わたしが阿麻氏*留(あまてる)神社の氏子である小田さんにお聞きした話だ。
 わたしが大学時代に聞いていた話というのは、現地伝承というのは当てにはならないよ。中世ぐらいに作られた話だよ。『古事記』『日本書紀』が古い。そのようなことをよく聞かされていた。しかしこれは間違いです。どうみても現地伝承が古い。『古事記』『日本書紀』が新しい。弥生以降という新しさ。ところが現地伝承は、少なくとも弥生以前か縄文か。弥生以前にさかのぼる話である。その時初めて神話というものの位置付け、それを知った。わたしにとっての大事件の話です。
 さて今の問題は、この話も考えてみますと、出雲への神々の参勤交代の話だ。それが、ちょうど良いシーズンになっている。この言い方は参勤交代の神々も、範囲はそれほど広くないという感じがする。だって十一月ごろの風が一番良いと言えるのは、対馬だから言えるわけです。日本中どこでも、風が出雲に行くのに一番良いと言えるはずがない。
 だからこの話自身が、かなり狭い範囲の話である。そういうことがバックにある。ともあれ今の問題で言うと、どこからかA,B,C,D,E,F,G,Hの大八島の神が出雲に集まってくることを示しております。先ほどの対馬の小田さんのお話が、参勤交代よろしく出雲にお舞いりする姿を示しています。なによりも日本人誰もが知っている陰暦の姿がこれを示している。しかしその場合、どこから集まってくるか判らなかった。しかし今気がついてみますと、はっきりしております。それは八島国である。この問題は、これから始まって面白い展開があると思うのですが、今回はこれだけにさせていただきます。
 『古事記』『日本書紀』を見ているつもりで、今まで真相を知らずに見ていた。そういうことに気がついたわけでございます。

 

     質問二、三は重複掲載

(質問二) 
 最初に出雲を中心とした大八島国があります。出雲が銅鐸をシンボルにしていたら、「拘奴国」も大八島国に入るのでしょうか。銅鐸圏が「拘奴国」の一部として入っていた。それでは出雲に、天照大神も銅鐸国家も入っていたのでしょうか。その兼ね合いはどのように整理して考えて理解したら良いのか。
(出雲王朝と、九州王朝そして銅鐸国家の関係をどのように理解したら良いのか。)

(回答)
 質問されている意図が必ずしも明確に判りませんが、縄文時代を一応外して考えます。これは弥生前期とします。出雲において中国の[陶土員]を模した弥生の土笛が祭祀の道具として表れる。中国の殷・周で祭祀の道具だった。それが日本では弥生前期に表れる。それは西の端が福岡県の大島、東は京都府舞鶴のすこし南。下関にもありましたが、その中心は松江にある。圧倒的に中心として表れる。これが一番元の形です。これに対して銅鐸が造られてゆく。銅鐸が造られた後、「国譲り」という名の簒奪が行われる。それで出雲は筑紫の支配下に入る。その時に銅鐸や何かを埋めるわけです。八千矛の銅剣、これは剣ではなく矛と思いますが、それを埋めるわけです。それが荒神谷の発掘です。
 その時はもう銅鐸は出雲だけではなくて、近畿に分布してきている。弥生の土笛の時は、そうではなかったですが。銅鐸になると近畿から東海に分布してきている。銅鐸が分布していった後に、出雲は簒奪された。だから出雲の配下にあった簒奪されなかった人々が、九州王朝と対立した。そういう筋道になる。そうしますと大八島国の中に「拘奴国」が入っていた可能性もある。

(質問三) 
 大八島のお話の中で、文脈がよく分からない部分があるのですが。八千矛の神がオベンチャラを言うのなら、中心である出雲の国を探したが良い女はいなかった。次に大八島の国を探したが良い女がいなかった。そして越なら、越に良い女がいると聞いたので探しにきたと言えばオベンチャラになると思いますが、一番肝心な出雲の国で探したという文章が出てこない。本当のオベンチャラになっているのかどうか疑問に思われる。

(回答)
 これは詩ですから、幾つかに答えを取ることは可能だと思います。(あなたが)言われたように、最初はそのように考えていました。しかし大八島の中に出雲が入っているならば、国生み神話の七種類の中で、どこか出雲が出てきて欲しい。それで「大洲おおくに」と考え、これが出雲であると考えました。今のわたしから見ると、半分正しくて、半分違っている。なぜなら大国というのは、石見国としての大国村(訪問当時は、仁摩町)で、その大国は出雲でなく石見である。だから、その「大洲おおくに」は、今は石見であると言い換えることは出来る。そうすると出雲は、依然として全くない。まったく無いのが他の方法で説明できればよいが、それはない。それが一つです。
今あなたが言われたように、最初出雲で奥さんを探してまったくいなかったと考えるのが、それは順序として当然のことです。ただその場合、出雲が大八島に入っているという解釈も可能である。その解釈の場合、七種類の国生み神話の中で出雲が一つぐらいなければならない。ただその場合一つだけでなく、「筑紫」と「出雲」の関係から「筑紫」が全部出ているのに、出雲も全部出てきて欲しい。それがないのがおかしかった。ただ出雲で奥さんを探した話もあると思う。
 これも同じ話を何回もしますが、大国主を探して島根県に行きました。わたしが古代史をやり始めて間もない頃です。三十年ほど前ですが、島根県へ行きました。島根県は、ご存じのように東三分の二ぐらいが出雲で、西の三分の一が石見の国です。その石見の国でも出雲よりのところに大国村がありました(訪問当時は、仁摩町)。わたしは、ここが目見当ですが、大国主となにか関わりがあるのではないか。大国主というのは、字面どおり「大国」という場所の主人と名乗っています。島根県を調べましても、他に「大国」というところはありません。周りを調べましても、ここにしか「大国」というところはありませんから、大国村が大国主の名前と関わりがあるのではないか。そのように想像しました。想像そのものはいくらでも出来ますが、やはり現地に行ってみなければならない。そのように考えて妻と一緒に大国村へ行きました。そこには旅館が一軒しかなかった。その村の旧家の方が、旅館というか、人を泊める生業を営んでおられた。すばらしい建物の家でした。そこで夕食の時、お聞きしました。
「この土地の古い謂れを、ご存じの方をご紹介いただけないでしょうか。」とお聞きしました。そうすると御主人の奥さんが「おばあさんが良く知っております。」と言われましたので、お願いいたしました。品の良いおばあさんが、階段から下りてこられました。
 わたしが、「大国主命について、お話が何か残っていないでしょうか。」と、お聞きしました。そうすると「その方はわたしの家でお泊めした方でございます。」と、おばあさんが答えられました。わたしは、本当にそうか、訝りました。
 その人がさらに言われたのは、「その方は賊に追われて逃げてこられ、私の家でお匿い申したことがございます。」と答えられ、いよいよ、これは大丈夫なのかな、勘が狂ったのではないかと思いました。
 それで、さらにこの村の郷土史に詳しい方をご紹介いただいて、お会いしました。しっかりした感じのおじいさんが居られました。わたしは、さらに大国主命についてご存じのことはありませんかと、同じことをお聞きしました。
 ですが、その方の言われることには、「あの方には、私どもはたいへん迷惑致しました。あの方は、たいへん女好きな方です。あちこちの女を、自分のものにしては、それを拠点にして勢力を広げる。そういうことを繰り返し、繰り返し行った、たいへんお上手な方です。われわれ村の者は、たいへん迷惑いたしました。」
と言われました。これで二人の方に同じようなことを、お聞きしました。
 また近くの洞穴に案内していただき、そこに大国主命が住んで居られたと言われました。わたしも行って入り口の写真を取りました。洞穴には、マムシが出るというので入りませんでしたが。
 さらに私が「大国主は、この村の方ですか」と尋ねると、「いえ、いえ!この村の方では決してございません。よそから、お見えになった方でございます。」と答えられ、とんでもないことを言う、そのような応答だった。再度、「よそと言われるが、どこですか。」と尋ねると、「それは、どこから来られたか分かりませんが、村の方では決してございません。」と、そこだけ念を押す奇妙な問答をかわした。
 今お話ししたのは、聞き取った話の、エキスの部分です。それでわたしが感じとったのは、どうもこの村の人にとっては、大国主は非常にリアルな存在である。しかもお聞きのように、たいへん誇りにするというよりも、たいへん迷惑至極な存在としてとらえられている。そういうイメージである。どうもそのような人物だった。
 聞いていて、まるで戦国時代やり手だった若い頃の秀吉の話を思い浮かべながら、大国主の話を聞いていた。明治は遠くなりにけり。それはとんでもない話だ。弥生はいまだに生きている。その村の人にとっては、弥生はまだ近いのです。
 その話を聞いて、わたしは大国主は実在の人物で記憶が残っている。そのように感じた。そのようなわけですから、大国主は、出雲以外の大八島で女漁りをしたことは、石見の現地伝承で証明されている。出雲・大八島の女漁りが済んで、さらに大八島の外に女を求めた。そういうことでございます。


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