『新・古代学』 第1集 へ

上岡龍太郎が見た古代史 上岡龍太朗/古田武彦

東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)
平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判『古代に真実を求めて』第2集)へ


『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社

「これは己の字ではない」

砂上の和田家文書「偽作」説

古田武彦

  一

 筆跡研究は文書研究の基盤である。
 それゆえその研究には常に「確実性」が要求せられる。基本の確実性なしに、筆跡研究は本来成り立ちえないのである。
 今、問題とされている、基本の確実性とは何か。

「現在、研究対象となっている、その資料とは、一体何物か。」

 この確認である。この基礎的な確認なしには、一切の筆跡論議はその「確実性」を根本から失うであろう。時として一片の、冗舌なる喜劇と化する他はない。
 従来「偽作」論者たちの提供してきた「筆跡鑑定」なるものは、そのような「喜劇の典型」として永く語り継がれ、筆跡研究史上の戒めとされることであろう。
 この点、簡明かつ的確にのべることとする。

これは己の字ではない 和田喜八郎の原稿(本当は和田章子さんの字) 砂上の「和田家文書」偽作説 季刊「邪馬台国」51号グラビア 新・古代学第一集


 上の写真を見ていただきたい。
 これは『季刊邪馬台国』五一号に「和田喜八郎氏の自筆原稿」とされているものである。これが「筆跡鑑定」の基礎資料とされている。ところが、その上欄及び左欄に、和田喜八郎氏自身が(文字通りの「自筆」で)、
 「これは娘の字
  己の字
  では(「は」の下は“書き損じ”)
  ない
  平成七年二月二六日 和田(丸わく)
            和田喜八郎」

と書いている。
 これは、同日、和田氏の旅先(東京)で、わたしの眼前で、第三者同席のもと、書かれたものである。わたしとしては、「筆跡」問題を研究対象とする調査のため、慎重に事実関係の確認を行ったのである。
 というのは、わたしの所へ送られてくる文書の「あて名書き」や「署名」の中に、筆癖の異なるものがあったため、それらの中の代表的なものを氏の前に持参し、ひとつ、ひとつ「確認」を求めたのである(何回にも、わたった)。
 その結果、同じく「和田喜八郎」と“発信者名”が記してあっても、喜八郎氏自身が書いたものと、そうではない(家族の方の筆による)ものと、存在することが判明した。
 これは、誰人でも、家庭内の事情をふりかえれば、珍しくないことだ。わたし自身でも、わたし自身の字ではなく、家人の筆跡で「古田武彦」と書いて、発信されること、郵便物や宅急便において珍しいことではない。これと同じだ。
 そこで、問題の『季刊邪馬台国』五一号を持参し、喜八郎氏に確認を求めたところ、一見すると、すぐ、
 「ああ、これは己の字ではないよ。娘の字だ。」
 と、いとも軽々と言い切られたのには、驚いた。

 この事実は、一切の「偽作」論争をふっ飛ばす。
 なぜなら、「偽作」論者は、「和田喜八郎氏の和田家文書(東日流外三郡誌)『偽作』は、昭和四〇年代にはじまった」とする。なぜなら、『市浦村史資料篇(三巻)」に大量(全体の三分の一くらい、と言われる)の「東日流外三郡誌」が収録されたのは、昭和五一〜二年の頃だ(市浦村側入手は昭和四六年秋。白川村長〈当時〉による)。だから、「偽作」論者は右のように主張してきたのだ。そして問題の「宝剣額」についても、そうだ。そしてその根拠を「筆跡鑑定」においてきた。
 ところが、昭和四〇年代と言えば、今から二〇年ないし三〇年前だ。喜八郎さんの娘さんは、まだ生れていないか、生れていても、幼年か少女の時代、とても「偽筆」をふるえるような「時間帯」ではないのである。
 しかも、今問題の、いわゆる「和田喜八郎氏の自筆原稿」なるものは、これ一枚ではない。その冒頭に、
 「第四章
    神秘の宇宙に学んだ信仰と科学」

とあるように、これは「和田氏の提供した原稿」の中の一枚なのである。全体で数十枚にのぼる原稿なのだ。

 「知られざる聖域
    日本國は丑寅に誕生した
            東日流中山史跡保存会誌
                 和田喜八郎 著」

と表題され、その次に、

「  目  次
  まえがき
  第一章 東北や東北日本に遺る古代の証
  第二章 縄文の文化は東北に創り日本國を開闢す
  第三章 オラクル・サイキという意味
  第四章 神秘の宇宙に学んだ信仰と科学
  第五章 安倍・安東氏の推移
  第六章 あねこもさの傳説と眞澄の東日流資料
  第七章 東北自由交易を怖れた家康
  第八章 みちのくとはに歌枕抄集        」

とあり、その第四章冒頭に当るのが、右の一枚なのである。もちろん、全文、同筆である。
 その末尾には、次のようにある。

「平成四年二月四日
          和田喜八郎

   注
 此の原稿は水沢市公民館の史家の市民に贈ります。
 少か四日間に走筆をしたので、之例甚々しく訂正あるを望む。」(原文のママ)

 このとき、和田喜八郎氏は水沢市(岩手県)からの講演を依頼された。その講演に先立ち、氏はこの原稿を、水沢市の教育委員会に送付した。その理由は、

 「自分は口が下手だから、この原稿をあらかじめ送る。これによって自分の講演の主旨が一般の聴く人に判るように(文書化して)おいてほしい。」

 その意思である。このような考え方を、わたし自身も、何回も同氏より聞かされたことがある。他にも、同じような経験をした、市町村の方々(たとえば、秋田県の田沢湖町)があると聞いている。ゆきとどいた、氏の配慮である。市に対する好意だ。
 その和田氏提供原稿が「盗用」され、「盗採」され、「盗載」された。和田氏に対して好意を寄せられた、また寄せつづけておられる、水沢市の市当局や市教育委員会の方々に、わたしとしては、はなはだ心苦しいのであるけれど、やはり事実は言わなければならぬ。記さねばならぬ。水沢市の市当局(の中の一部)に“盗み取り犯人”が潜んでいた。そして和田氏提供原稿からの「盗み物」を、「偽作」論者に提供した。
 浅はかな「偽作」論者は、これに飛び付いた。さらに浅はかな、「筆跡鑑定」者群、小・中学の先生(鈴木政四郎、佐々木隆次)から大学の専門家(〈安本美典〉林英夫、寺山旦中、恵良宏)と称する人々まで、この「非、自筆」をもとにして、

 「和田喜八郎氏の和田家文書や『宝剣額』の『偽作』」

が「筆跡鑑定」によって証明された、と称して、一大連続「喜劇」ドラマをくりひろげつづけて今日に至っている。
 彼等は誰一人として自分たちの「鑑定対象」に対する、(関連筆跡群の実地研究による)基礎的かつ総体的な確認を行わなかったのである。
 そしてこの「愚挙」は、いたましい「いじめ」を和田家の中の純真な子供たちにもたらしたのである。
 「筆跡鑑定」にたずさわった「教育職経験者」たち、みずからの職業倫理にかえりみて恥ずるところはないのか。ないのなら、貴方たちは「教育者」でもなく、「人間」でもない。
 わたしは、「いじめ」の中で被害をうけた子供たちのために、そのように敢えて言い切らざるをえないのである。
(なおこの他に、「偽作」論者の犯した「筆跡鑑定」上の誤認、誤判定、誤方法の指摘すべき点、あまりにも数多いのであるけれども、ここに至ってわたしの筆は、一方では痛憤、一方では“あきれはてた気持”のために進みがたい。今はすでに、事はあまりにも明らかなのであるから。
 筆を改め、機をえらんで、後代の筆跡研究者への「戒め」として、必ずことのすべて、他の幾多の論点を明細に詳論することを予定したい。)
            (ふるた・たけひこ 昭和薬科大学教授)


和田家文書筆跡の研究 明治二年の「末吉筆跡」をめぐって(『新・古代学』第2集 特集1和田家文書の検証)
________________________________________

和田家文書をめぐって 「和田喜八郎氏偽作」説の問題点(古田史学会報 一号)

和田家文書は真作である ーー「偽作」論者への史料批判ーー(古田史学会報 三号)

和田家絵画の史料批判「八十八景」の異同をめぐって,「筆跡鑑定」の史料批判<序説>反倫理を問う 古田武彦(古田史学会報十四号)


『真実の東北王朝』(駿々堂 古田武彦)へ

浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集

『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に 古田武彦 『新・古代学』第七集

東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)

平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ

平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ

『新・古代学』 第1集

ホームページへ


 これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota”