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『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊

上岡龍太郎が見た古代史

上岡龍太郎
古田武彦 

 父祖の地足摺は侏儒国やないか

上岡
 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な・・・。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。ですから、この間、足摺に行った話を聞きまして、「えー!」と思ってね。うちは土佐清水から、足摺の方やなくて宿毛(すくも)の方へ行った叶崎(かなえざき)とかいう、見残岩(みのこしのいわ)とか竜串(たつくし)とかの方へ行くんです。で、土佐清水とか足摺でしょう。「へぇー! これは奇遇やなァ」と勝手に考えているんです。

古田
 それはそれは、この一年余りのうちに一二回行きましたですよ。

上岡
 そうですか。あれもすごかったですね、あの巨石が・・・。
 
古田
 ええ、興味津々で今やっている真っ最中なんですよ。あれが形をなしてくると社会的な大遺跡になってきますよ。

上岡
 ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒(しゅじゅ)国やないかと思いましてね。裸国・黒歯国はかなりあからさまになってきたやないですか。それこそスミソニアンがどやの、ウィルスがどやのということからいろんなことが証明されてきてボク、黒歯国に惚れこんだというか、あれがあればこそすごいと思ったんで、だからあれがいろんな方法で証明されるちゅうのは、ボクにとってもうれしいんです。いっぺん侏儒国探しをせないかんな。ボクの先祖はやっぱり侏儒国やなと思ってね。

古田
 あそこに唐人岩(とうじんいわ)とか唐人駄馬(とうじんだば)とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。


 「アホ・バカ」と「ツボケ」

上岡
 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
 たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県のあたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。

古田
 アハハ、なるほど。

上岡
 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ、『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。そいで、ウチのプロデューサーの松本修、これ京大の法学部を出た優秀な、もう若者というても今は四五、六なんですが、彼が『全国アホ・バカ分布考』(太田出版、一九九三年)という本を作り上げたわけですよ。
 全国各地から「あなたんところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに・・・。そしたら柳田国男の方言周圏(しゅうけん)論、「力タツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
 その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際立って言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。

古田
 そうそう。

上岡
 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際はずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。

古田
 そうなんですよ。

上岡
 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちよつと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。

古田
 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうですよ。

上岡
 ほう、やっぱり先住民。

古田
 ええ、「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。


 「古田武彦をやっつける奴おらんのか」

上岡
 ボクとしては最初、邪馬台国問題というのを、それこそ松本清張さんやないですが、宮崎康平さんや原田大六さんとか、なんやすごいドラマやな、これは一生わからんなと思ってた。そこに、昭和四六年に古田先生の本が出てきたんで、わかったと思ったんやないですか。でも、あまりにもわかりすぎるからおかしいな・・・。

古田
 アハハ。

上岡
 今までわからんもんがわかるはずがないと、全部論理明快やしね、反論のしようがない。もう何年たちますか? 三〇年近いですかね。部分的な反論ちゅうのは確かにあんのかもしらんけど、でも全体ではない。で、ボクとしては、変なもんでね、阪神ファンなんですね。阪神ファンというのは阪神をもちろん応援しているんですが負けるのもうれしいんでね。
 そうなると、「古田武彦をやっつける奴おらんのか」と。今まで、たとえば京都新聞紙上とか読売新聞やとか、またそれぞれの書物でいろいろやりとりはあったけど、どうもやっつけてない。それが、ここへきて東日流外三郡誌で、「これはどうも古田武彦も具合悪いぞ、これは安本美典派に勝利がいくな」、これはボクの一番よろこぶところ、一番うれしいなと思ってね見てたんですが。

古田
 ウフフフ。

上岡
 ボクは何に感心したかというと、ダーウィンのことであるとかビッグバンのことであるとか国史画帖ですね。大和桜のことなど、最初に入ってくる情報で、これはもうだめだ、これアあかん、もうこれはどうしようもないやろ思ったら、え?ああそうなんか、大和桜そのものが昔からあるものをやったものなんか。ハハァ、ダーウィンか、こりゃあかんやろ思うたら、あっそうか、エラズマス・ダーウィン、チャールズ・ダーウィン、ああ、そうか、その家柄の学問っていうものがあるのんか。ビッグバンにしろ、そういう考え方がもともとあったんか、われわれの知ってんのは一番新しい形のもんで、学問というものは突如見つけ出したものやない、ずーっと練り上げたものやから、その前にもそういうことを書けるのか、というのを知ってね。だから余計に、もしもこの東日流外三郡誌が仮に偽物でも、そういうことがわかるだけでもすごい。
 私はよく古田先生の書物からの言葉を引用・盗用さしてもろうてます。ボクの好きなのは、「だれかとだれかと議論した時、すぐ日本人はAとBがやって、Aの方が正しいとかAの勝ちでBの負けというけど、論争はどっちの勝ち負けやないんだ」と、「反論があったからその結論が導き出されたんやからAB二人の勝利なんや」ということです。

古田
 おっしゃる通りです。

上岡
 それがすごいことやと思うんですよね。だから恐れずに論争せんことには何かが出てこない、反論するから新たな発見ちゅうのがあるんですね。そういう意味では今非常に興味深く見守ってて、今日はその辺について古田先生に会えるのがうれしくって・・・。
 これがその国史画帖なんですか。

対談 上岡龍太朗が見た古代史  新・古代学第1集

古田
 ええ、そうなんです。

上岡
 はあァ、これは当時かなり世の中に出たんですか。

古田
 ええ大変なもんですよ。とにかく一年たった後には百何版になってます。

上岡
 そうですか。「古今に於ける武者錦絵中の日本趣味豊かな名画より採り・・・」ははぁ・・・。

古田
 だから、当然それをたどらなければ話ははじまらないはずだったんですね。

上岡
 なるほど。「どこまでも本書の題名に相応しい感じを与えた」というから、ぜんぜん違う場面から持ってきてこれの題材にあてはめたということも。でも、最初こんなんが出てきた時にはね、こりゃだめだ、もう何んにもいえんわなァ、と思うてね。うーむ、あァそうですか。この絵なんかボクら子どもの頃見たような気がするなあ、明智光秀なんかね。なんか一部、そういえば戦前の絵本なんかにもあったような・・・。

古田
 いろんなところに使われたみたいですね。

上岡
 なるほど、これが例の首をいっぱいぶらさげた。これをもって最近のものは和田喜八郎作だということはできないと。

古田
 だいたい昭和一〇年に出たものでしょう。それをしかも小学校の副読本みたいに使うたもんですから、いうてみたらみんな今おっしゃニタニタしてるんならいいですけどね、それを印刷して世間に発表するなんて・・・。

上岡
 そうですね。

古田
 だからその辺が基本的におかしかったわけです。ちょうど高句麗好太王碑の時も、改ざん説がもう今以上に新聞に出ましたよね。あの時もやはり基本的におかしいなと思ったのは、あれ見たら、倭は負けてばっかりおるわけですね。九回出てきて九回とも負けっぱなしで終わってるんです。そんなもの日本の参謀本部の酒匂(さこう)大尉、まあ当時は中尉ですが、いかにわれわれの先祖は負けたかという形に改ざんするのはちょっとおかしいと思ってね。私や私の年齢以上の者は皆そう思うたんですが、私の基本的な感覚はそれでしたね。しかしそれだけでは反論にならんからね。あとは実証的に『失われた九州王朝』に書いたようにやってたんですけど、今回の場合も基本的には、昭和一〇年のものをモデルにして偽作したというのはおかしいぞ、という感じを持ちました。


 映画「秋田孝季物語」?

上岡
 ボクは攻防が好きなもんやから両方読みくらべてみたんです。安本美典責任編集『季刊邪馬台国』も読むんですが、あの中で一つだけなるほどと思ったのは森村誠一さんが文を寄せてはるんですね。文を寄せてるゆうても、『幻の東北王朝』『東日流外三郡誌偽書の証明』とか、安本美典さんは著書を森村誠一さんに送らはったみたいで、その際送られてきた礼状が雑誌に載っているんです。その礼状の中に載っている文章がまさしくボクらの感覚と同じなんですよ。「これほどのエネルギーと膨大なその創作力があればなぜ偽作するのか」。

古田
 ハハハ、ほんと。

上岡
 和田喜八郎さんもったいないと、あの津軽にうずもらしておくのが。世界的なすごい大小説家やないですか。あんなすごいことを書ける人ね、偽作にしてはすごすぎる。それが第一印象なんですよね。全部あの人が一人で考えてやったらね、あんなことちょっとでけんで、と思うんですね。年代的にいうと、あの文体とかそういうことがでけんでしょう。

古田
 昭和二年ですから、私と同年、私より四カ月あとに生まれておられる。ご本人がいつもそれいうて苦笑しておられるんですよ。「わしがあんなもの書けたら、わしは大変な人間だ。あの中の一つぐらいなら勉強したら何とかいけるかもしれんが、無理じゃ」いうて。

上岡
 ええ、この間冗談でね、ボクに映画撮りたくはないかと話が出たんです。この頃タレントが監督やるのがはやりですから。で、撮るとしたら何の題材があるかっていうので、まあ冗談でいろいろいうてるなかに「そやなあ、撮るとしたらボクは東日流外三郡誌、秋田孝季という映画を撮る」といったんです。
 これを映画にしたらすごい。世界中をずーっとロケできるわけでしょう、これはいい映画になる。それで逆にいうたら、ボクが撮るのはもったいない。だれかええ監督でやればすごい物語になる。東日流外三郡誌という映画、「秋田孝季物語」というね。

古田
 それはすごい。

上岡
 われわれの先祖にこんなすごい人がいたんだ、あの幕末の時代に世界を見てまわり、これだけの学問を吸収し、ということが映画になればおもろいなァてね、冗談でいうてたんが、あァこれ、アイデアとしては面白いぞと・・・。

古田
 いやじつは、アメリカの映画会社がもうやってるんですよ。去年の六月に、何といいましたかアメリカの有名な映画会社(ワーナー・ブラザーズ)が、和田さんとこへ来まして、それでいろいろ撮って帰った。その後、和田さんに中近東へ行ってくれいう話があったらしいんですよ。私には撮りに来たという話はされたんですが、中近東云々の話はまさかと思うていわんかった。ところが去年の七月の終わりになって「古田さん、中近東に一緒に行ってくれんか」っていう電話がきて、びっくりして「いや私は予定がいっぱいで一週間あとなんてとても無理です」といったんですが。「じゃ、しょうがない」ってゆうてね一人で行かはった。一〇日間か二週間ぐらいいて、いろいろ撮ってきたらしいですよ。どういう映画になるか楽しみです。やっぱりアメリカでは、偽書説とか何とかそんなレベルではなくて、私は「これは」というか「やはりさすが」という感じを持ちましたね。
 しかし、それは見ずにいうてはいかんですが、まだまだ突っ込みが足りんと思うんですね。ですから、今おっしゃったことはぜひ。私自身が、私の命があれば「秋田孝季伝」を書きたいというのが夢なんですよ。
 そのためにはぜひ寛政原本が出てきてもらわなければ。和田さんにもそれいうてんですよ。私はいつまで生きるかわからんから、伝記を書きたいんだと。

上岡
 偽書かどうかはまったく別にして、あれを元にして日本人でこんなすごい人がいてたという、それを映画にするだけで得るところの多い映画になるやろ思うんですね、画面としてもすごい。時代劇映画としても日本にはちょっとなかったような時代劇映画やと、これは面白いなあと思うてるんです。それこそ「ヒサリックの丘に立つ」ですか。そこに至るまでもすごいしね。

古田
 これ私まだ見てない部分なんですが、和田さんによると、ギリシアの神殿へ行って、秋田孝季が名前を彫り込んできたいうんだそうですよ。

上岡
 観光客の落書きみたいに?

古田
 だから今行ってどこか探したら・・・。この間、和田さん行ったんだけども、見てきたかいうたら、「いや、どうも引っ張っていかれたからね、とてもその暇なかった」いうてね。丹念に探したら、どうせ漢字だから目立つだろうと。


 「元軍は救世主」という見方

古田
 それから、最近、私びっくりしたのは、秋田孝季が写した部分で、鎌倉時代の要するに元冠のことを東北津軽で書いているんですよ。それが、元軍のことを救世主と、救い主とわれわれは思うたと。何かいうたら、結局、大和朝廷と鎌倉幕府が組んで征夷大将軍ちゅうね、われわれを敵にしてるでしょ、それで苦しんできたと、それを叩きに来てくれたと。

上岡
 ああ、そうか。

古田
 「救世主」というね。

上岡
 元冠をねえ。

古田
 私はそんな考え方なんて、生まれて以来、「皇国史観」で頭がしばられていて、少年時代からそんなこと思うたことなかったのに、そういう言葉が写されているんですよ。これは怒る人は怒るかもしれんけど、やはり貴重なものの見方で、そういう複眼的な・・・。これはヘロドトスの歴史にありますように、一つの事件をギリシア人が見た事件と、エジプト人が見た事件、シリア人が見た事件、同じ事件でもその評価だけじゃなく、事件そのものがぜんぜん違った形で伝えられている、それをいずれも記録するのだということをヘロドトスは書いています。これがへロドトスの学問の基本なんですよね。そういうふうにわれわれは元冠のことを複眼的に見なくては。われわれはもちろん日本人だから、あんな無茶をして、あんなことを中国の教科書に書かんといて、なんで日本にだけ侵略をいうんだと、ちゃんと日本の政治家がいうていけばいいじゃないかと・・・。

上岡
 お宅にも過去に侵略という歴史的事実があったやないかとね。

古田
 そう、書いてないじゃないかと。韓国もそうなんです。

上岡
 そうですね。

古田
 対馬へ行きますとね、その部落は朝鮮人に皆殺しにされたという記録が残っているんですよ。そういうのも、恐らく韓国は知らんのですね、政治家も。知ってれば、われわれが日本へ行って皆殺しにしましたと、教科書にちゃんと書いとると、しかるにお宅は何だと、こういうのが筋ですよね。だから、東日流外三郡誌は非常にそういう、われわれの見方を一挙に広げているということね。

上岡
 そうですね。和田喜八郎さんというのは、皇宮警察にいたことを一種の誇りにもしている。年代的にいうとわかりますわね。子どもの頃からの教育で、昭和天皇に拝謁したことをすごくよろこぶとか、いうたら素直な人ですね。その人が、幕府も朝廷もいつかはやられるだろうてなことをねえ、偽作する時の心理的状況ちゅうのがどっかにあって、そんだけ書けるちゅうのなら、わかるんですが・・・。

古田
 今の和田さんの皇宮警察というのは、正確にいうと、皇宮警察が成立したのは昭和二一年の正月頃からで、その前は皇宮警察というのは組織がなかったんやそうです。それで、だれが守っていたかというと、右翼めいた人やいろんな人がいて、そういうまあ今でいえばボランティアでしょうけど、自発的な組織ができてまして、その中の一人に入ってたらしいんです。

上岡
 ああ、そうですか。

古田
 ただその時に、和田さんの思い出話では、昭和天皇の食事の席に呼んでもらったことがあるんやそうです。もう緊張して、肉かなにか切ろうとしてナイフがポーンと天皇の前へとんでいったんですって。申しわけありません、申しわけありませんというたけど、もうニコニコして、あれは大変な方だ、ちゅうて、そういう話がもうほんと大事な話なんですよ。


 ボクの中で外三郡誌って揺れ動いている

上岡
 そういうところ聞いていると、うーん、そうだなァと。だから、今のところはボクの中で、失礼だけど外三郡誌って揺れ動いている。安本美典さんの読むと、なるほど、これはもう偽書や、こりゃもう間違いない、と思うんです。で、こっちを読むと、いやそうはゆえんやないかというね・・・。ボクらみたいに自分で史料に当たって調べることができない、それぞれのいうことを読むしかない立場の者にとっては、たとえば国史画帖を見ると、これはもうだめだとかね。で今執拗に筆跡鑑定ていうこと、ボクあの本読みなれたから、もうあの字体をボクでもわかるくらい、これがだれの字で、だれの字で、この時のレジュメの時の字でとか、ずーっと出てますわね、あれ見てると、こりゃ無理だろう、これだけ字が似てたらいかんというね。
 ところが古田先生のを見ると、いや違うんだと、「私は現実に和田喜八郎さんが目の前で書いたものを見てるし」とこういわれると、私なんか筆跡鑑定とかいうのは非常に純学問的なというか、筆跡鑑定というのがどの辺までボクらの目でわかるものか、まったくわからんです。

古田
 これは最近、去年の一二月に送ってきた和田さんの筆跡なんですがね。和田さんに、「おれの字である」と証明してもらったもんです。
 で、こちらは末吉さんの自筆なんです。まあまあ一応はうまいですよね。そちらははじめは末吉さんかと思ったら、そうじゃなく長作さんという、喜八郎さんのお祖父さんですね、末吉さんは曽祖父(ひいじい)さんです。その字なんですね。これとそれは違います。長作さんのほうが少しうまいんです。だから、こういうのを見るとぜんぜん違うわけですね。

上岡
 安本さんの本で見てると、どう見たって全部一緒なんですよね、あの並べ方で見ると。こんだけ違う字がようけあると・・・。こんな感じの字は見たことないですよ。

古田
 そうでしょう。

上岡
 長いのが出てくるのは割と見たことあるけど、これは雰囲気が違うものやなァ。まあ、素人目やからね、どれが似てるとかいうのは、純粋にボクらから見てやけど、これで見ると違いますねえ。

古田
 私は親鸞研究の頃に、ほとんど筆跡研究に没頭したんですが、そういう立場からいうと、やはりその史料をたくさん見るということが大事なんです。ところが、和田家文書自身をほとんどあの人たちは見てないわけですよ。和田家文書のほうもたくさん見る、そして喜八郎さんのほうのもたくさん見る、そうでないと、安定した判断はできないんです。それなしに判定するということは、むかし、箱書きって江戸時代にありましたよね、値打ち付けるために。あれは非常に危ないんですね。
 あの人たちは、もう見ればわかるって感じで箱書き書くんですが、それで鑑定料をとる。あれはやはりプロというてもあまり信用できないことなんですね。そういうのを、私はまあ親鸞研究で打ち破って、やはりたくさん史料があって、対象の条件が整ったら判明すると、それがなければ判明できない。判明できないっていうのは、何もわからないというのは恥じゃないですね、条件がそろえばわかるんで、わからない時はわからない、という立場でやってきたわけです。そういう目で見ると、あそこに出ている筆跡研究は非常に具合が悪いですね。材料自身が非常に乏しいですし、それと、一つの流派の場合に一つの字の書き方になるわけです。むかし女学校なんかで、書道の先生がいるともう全校同じような字を書くわけですね。

上岡
 最近の丸文字はほとんど一緒ですね。女子高生なんかね。

古田
 そう、だから現在、学校教育で習っているものを基準にして、そうでないのを同グループというだけの話で、当然これはみんな同グループですよ。だから、筆順が同じであるとか、そういうたぐいのことでは決められないですね。だからあれは同グループの証明ばかりやっているわけです。

上岡
 はあ、なるほど。

古田
 その点は今度はびっしりと、材料はたくさんあるから、いやという程しようと思っています。これはもう私が書いていますように、和田さんに変なくせがあって、もっとまとめてくれたらいいのに、一つ一つ送ってくるんですよ。だから材料はたくさんそろいます。そういう立場からみると、喜八郎さんとこちらの筆跡の違いなんちゅうのは、私には「いろは」の「い」の字なんですよね。
 だから、最初のうちはあんまり触手が動かなかったんです。ああいう筆跡の鑑定が出ましても、こんなやり方じゃだめだよって思って。でまあ、そうしとったんですが、真面目になったっていうのは変ですが、これは去年のゴールデンウィークなんですよ。和田喜八郎さんのところへ行きまして、石塔山の、そこで聞いたことは「いじめ」問題。つまり私は予想はしておったんですが、和田喜八郎さんのお孫さん、また弟さんのお孫さんなどですが、小学校でいじめにあった。というのが結局、新聞で和田家文書は偽物だ偽物だと出るわけですよ。そうすると「いじめ」があるんですね。予想してたっていうのは、先程申しました好太王碑の時、酒匂大尉の子孫の方が千葉県にいらしたのですが、この方の子どもさんが小学校でいじめにあった。あの「偽作」説の時に。

上岡
 そんなに敏感なもんなんですかねえ。

古田
 ええ、もうお母さんから、もうたまらんという感じでお聞きしたのを覚えています。もうその子どもさんたちも大きくなられたでしょうね、二〇何年たちますからね。そういう経験、これも当時の新聞は知らなかったのか扱わなかったですが、そういう経験があったもんですから、こんどもきっとあるだろうと・・・。子どもの社会はある意味で大人の社会の写し絵ですからね。
 それと私がぜんぜん予想しなかったのは、妹さん、妹さんといっても六〇前後ですが、その方への「いじめ」というか、農村では嫁に行っててもあれは某家から来たということは皆知ってるわけですよ。それで、いろいろいわれてノイローゼというか、病院へ入院した。それは今から一年ちょっと前、一昨年になりますが、一二月頃一回お聞きした。そしてこんどゴールデンウィークにまたもう一人の妹さんが入院した。一人は退院したが一人はまだ病院のほうだと。もう和田さん、いつもは剛腹(ごうふく)な人が、もうほんとにたまらんような顔しておっしやったんです。
 ああこれはちょっと放っておけんなァと。それまでは私の方針は「寛政原本」が出るまで寝てよう、「寛政原本」が出たら真面目にやろうと、それまではいろいろいう人にはいわしておけばいいんだというスタイルだったんです。ところが今のような様子を聞きますとね・・・。私は未だに「寛政原本」出るまで寝てよう、というのが正論だと思っているんですが、しかし「いじめ」問題をそのままでほっといちゃいかんと、子どもには何の罪もありませんからね。それに、一番「偽作」説が間違いだということを知れる立場にあるのは私なんですね。今の筆跡の問題でも、もう学問研究とするにはばかばかしいくらいに私にはわかりきっていますし。ちょうど私の字と兄貴の字と親父の字をくらべると、筆跡鑑定しなくたってわかりきっていますでしょう。


 田沼意次、秋田孝季の往復書簡

古田
 それでまたさきほどの話にもどるようですが、私と和田さんの間で、面白いエポックがあった。最初は、和田さんのほうが和田家文書のことをよく知っている、まあ当たり前ですが、私はそれをお聞きする感じで交渉が続いていた。ところが、私が見ているうちに、どうも秋田孝季というのは江戸幕府と関係があるな、もしかしたら隠密じゃないかということを感じ出したんです。
 それを和田さんにいうたんです。「いや違う、江戸幕府とは関係ないよ。伊達藩だ。伊達藩とは非常に関係があった」「しかし国外に出てるみたいだが伊達では出れないでしょう」「いや、出れる出れる、もう樺太のあっちへ出りゃね、簡単に出れる」。もうぜんぜん受けつけんわけ。何回いうたけど何回も却下。ところが、そのうち出てきた。やっぱり秋田孝季は江戸幕府の田沼意次とつながりがあり、そして隠密という言葉も出てきたんですよ。

上岡
 へぇー。

古田
 それが結局「裏目」に出て・・・、ここにも持ってきましたが、田沼の依頼状ですね。孝季とのつながりがありまして、それで孝季は国外へ行くわけですよ、中近東に。要するに田沼は一種の開国派のさきがけなんですよ。そのために海外状況を調べてきてほしい、ということを三春藩主の秋田殿、というのは秋田孝季の義理のお父さんなんですが、それを通じて依頼するわけです。それで首尾よく「ヒサリックの丘にたつ」。
 でもって、意気揚々と帰ってくるんですよ。帰ってきたら田沼が失脚しているわけです。だから、汚職を種にして鎖国派に足を引っ張られたんですよ。最近の政治みたいな感じですけどね。

上岡
 うーん、なるほど、そうですか。

古田
 やっぱり政治家をやっつける時には、だしを使うわけですよ。その時の田沼意次の手紙がすばらしい手紙なんです。話がちょっとよそへ行きますが、これは「北鑑きたかがみ」の第五十巻という和田末吉の写したものです(往復書簡は本書特集1の論文「累代の真実ー和田家文書研究の本領」に収録してあります)。短いけど要点をちゃんと突いてますよね。こんな文章書けませんよ。

北鑑 古田武彦・上岡龍太朗 新・古代学第1集

上岡
 そうですねえ。いやそれで、反論派というか偽書派にいわすとですね、古田先生が「ひょっとしたらそれ幕府の隠密とちゃうかァ」というと、それが出てくる、といいますよね。こっちがいうとそれに合わしたもんが出てくる。そこで何回も却下されて「いや伊達藩や」「いや幕府は関係ない」というのに、先生が何回も「隠密や、隠密や」というた、でちょっとこれに合わして書こうか、いうてこれが書けるかといわれると・・・。ふうむ、それから慌ててこの紙しつらえてですね、墨すってですね、そしてこれ火でいぶるか何かしていかにも古そうに見せないかんですわね、そのためにハンコ押したりね、そんなことができるかどうかっていうことになってきたら・・・ふうむ。

古田
 だからね、今の話のつづきになりますが、その件があってから和田さんと私の勢力関係というとおかしいですが、逆転した。この頃は何かいう時「いや私は内容はよくわからんから、あんたやってくれ」と、そういうはっきり逆転現象。

上岡
 史料の持ち主より学問的に調べた人のほうが、内容的により学術体系的に読みとれるということはありますわね。

古田
 ということで、筆跡であるとか、内容であるとか、でまた人柄であるとか、そういうことで偽作説はとんでもないと思ってます。そういう立場にある者として、私が一番適当した立場にあるわけです。
 でその私が、やはり「いじめ」の問題をだまってちゃいかんと、こりゃやろうと。自分の今までの基本ルールを変えまして、“改宗”しまして、そしてやりはじめたんです。そしたらもう次々に、大和桜の問題とか、今のエラズマス・ダーウィンの問題とか、もう次々偽作じゃないという証拠が出てきました。
 秋田孝季と田沼の書簡でも、「寛政原本」が出てくればそこに真筆がある可能性があるわけです。やはり「寛政原本」が出てくればもうこの問題は決着がつく、そういう面では楽観しているんです。
 それで研究しはじめて出てきたことを古田史学の会報三号に載せたんです。これを喜八郎さんのところに送ったわけです。そしたら喜八郎さんの子どもさんが、子どもさんというても三〇代の方ですが、その方が小学校に持っていった。そしたら「いじめ」がピタリとやんだっていうんです。

上岡
 へえー、ああそうですか?

古田
 ええ。和田さん、一一月の終わり頃ですか、うれしそうな顔をして、私はあのうれしそうな顔忘れられんですが、いっておられました。だから「いじめ」の中でもそういうケースはあるんですね。結局学校の先生がピシャッとクラス「世論」の形成にやっぱり学校の先生は大きな力を持ってますからね、それで、ピタッとやんだ。
 そしてぞっとしたのは、ゴールデンウィークから一一月の終わりまで、ずーっと「いじめ」がつづいておったんですね。


 宝剣額と「再利用」問題

上岡
 寛政元年の字のある鉄剣奉納額ですが、あれも字は今までの字と一緒だというふうによういわれますし、この下から赤外線で見ると違う字が出てきた。ほんならこれは当時は再利用をしてたんだという。またこれに関しては、たとえば鉄剣は今から二〇〇年前にも作ることは可能だった、でも現代かもわからないという。その揺れ動くというか、どっちと限定はできないですね。で、反応的にも、そうか筆跡鑑定の学者さんが新たにこれは昭和四〇年代に書かれたもんだと書いてはっきり限定しやはる。どこから四〇年代と、なんでそれがいえるのかなァみたいなね。字が新しいと、この「奉納」と「寛政元年」はまた別の字体であるとかね。

古田
 これは私の方から見るとじつにはっきりした問題なんです。これは古賀達也さんという「古田史学の会」の事務局長をしておられる方が私をリードしてくれましてね、市浦村(しうらそん)の村役場の別室でそれを再発見したんですね。それを観察し検討したわけです。これは秋田孝季たちが書いたとすると第一史料です。まあ基本的な史料だと考えたわけです。ところがそれを発表したら、それに対してこれは偽物だといいだしてきたわけです。
 しかしこれは考えてみればわかるんですけど、現地の日吉神社の宮司さんが、昭和二四年にここにあったということを証言したんですね。土地の村の人たちにお聞きしてみたら、それは戦前からあるもんです、というお話を聞いた、と証言して下さいました。この方も私より一つ二つ下の方ですけど、非常に篤実な方でして、この方がいわれるには「私は神様に仕える身ですからそんなウソを申すことはできません」と。といいますのは、村の人から電話がかかってきまして「あれは今うるさいから何もいわんときなさい」ということがあったんだそうですよ。それに対して「いや私はもう神様に仕える身だから、ありのままのことをいうしかありません」という返事をしましたということですね。そうすると今の昭和四〇年の筆跡だということになると、この人が二四年の時に見たという話と矛盾します。

上岡
 そうですね。

古田
 それから青山さんという土地の方がおられまして、ちょっと字(あざ)は離れたところにおられますが、市浦村の方です。その方がやはり子どもの時分にそこへ遊びに行っていて、その方は今は七二、三歳の方ですけど昭和のはじめにそれを見たという証言があるんですね。この方は昭和二七、八年頃に村の測量委員として財産区の調査をしておられ、その時に他の人たちと一緒にこれをちゃんと見たということです。子どもの時は剣額があるのは覚えてたけど字まであるのは知らんかったけど、その昭和二七、八年の頃はちゃんと字があったのを覚えているという話がありました。で、そのことも書いて下さったし、宮司さんも書いて下さいましたし、ビデオにもちゃんと撮らして下さいましたし、だからそういう人たちが皆ウソをついているというね・・・。

上岡
 ええ、ええ。

古田
 これはちょうど好太王碑の時にもね、改ざん説に不利な人がおると「あれはウソつきなんだ」と処理をしましたよね。あれと似たような処理になっているわけです。
 それともう一つ大事なことは、いわゆる和田家文書が偽物だという場合に、まだ偽物作って屋根裏へ置いておくとか、倉に置いておくとかいう話なんですね。ところが「宝剣額」の場合は絵馬堂だか拝殿に置かれているものでしょう? あったわけですよ。みんなが見るわけじゃないですか。そんなものを新しく偽物作って置いたら、みんな黙っておりやしません。だいたい昭和五〇年頃に『市浦村史』というのが出まして、これで真っ先に「東日流外三郡誌」が世の中の目に触れたわけです。これの上・中・下の中巻の写真に、この宝剣額の写真が載ってるわけです、白黒で。ということは、その本を作ったのは当然村のインテリが作ってるわけなんで、それを村の人たちに配ったわけです。いわゆる非売品、売る本じゃないですから、村史を配った。だからみんな見てるわけです。そしたらこんなものはおかしいよ、とかね。

上岡
 そうですね。

古田
 おかしければすぐその段階で話が出るわけですよ。昭和四〇何年の村の人たちがみんな知ってますね。そういうことを考えましても偽作説はむずかしいんですよ。だからむしろ、私がこういう言い方をしますとかえって混乱を招きますが、もし「偽作」説を宝剣額についてやるならば、戦前の偽作ですね、つまり末吉さんが偽作するというなら、まだやり得るわけですよ。宮司さんや青山さんが見たこととまあ折り合いがつくわけですよね。で、村史に載ったのも明治頃の偽作だから皆忘れてしまったんだといえんことないです。
 しかしその場合でも、絵馬堂や拝殿というのは村の人にとって二四時間の美術館みたいなものです。それは明治でも変わらんわけですから。もう一つは日本人のメンタリティで、そんな偽作を神様の拝殿に置くというようなメンタリティはまず聞いたことがないですね。そいでそれをまた許す村があるでしょうか。村のことは一木一草まで関心があるわけですからね。

上岡
 偽作して自分んとこの床の間に置いて、「じつはこれは・・・」いうてたらわからんでもないですがね、公共のところへ、衆人看視のもとに出すとばれるといやすぐばれるわけですから。

古田
 すぐばれますよ。都会なんかよりはずっとそういうのは厳しいですから。そういうことを考えてもやっぱり私は「偽作」説は無理で、ああいう「再利用」とかいうことはあることでね。これは有名な例があるじゃないですか。「最後の晩餐」なんかね、下から絵が現われてきたなんて話あるでしょう。日本でも法隆寺の釈迦三尊の台座の下から変な字や絵が出てきたでしょう。あれも、われわれが考えたらあんなもの作るのならちゃんと真っさらな木で作ればいいのにと思うけど、明らかに他のものに使った「再利用」なんですね。
 それともう一つ印象的な例では、武寧王陵ですね、百済の、あの武寧王陵の中から石碑が出てきましたけど、あれがまた変な穴が開いているんですよ。正面から見ても、穴が四角の中の真ん中に開いてんじゃなくてちょっとずれたところに開いているんです。それは何かというと、裏を見ますと方角が書いてありまして、要するに土地の神さんか何か知りませんが、それを祀る方角が書いてある。方角に対しては本当の真ん中なんです。それを「再利用」している。

上岡
 はァー、王さんのお墓の?

古田
 王さんのお墓の中の石碑でね。あんなことせんでもいいと思うけど、それをやっている。いうことは現代人の感覚と違うんですね。現代人はなるべく真っさらなものを使うほうがいいという考え方です。昔の人はむしろ由緒あるものを「再利用」するほうが、ふさわしいというか、奥床しいというか、そういう感覚の違いだろうと思いますね。
 それと違うのは、法隆寺の「法華義疏」ですね。御物を拝見して、同じ学校の中村卓造さんと行って電子顕微鏡写真をとらしてもろうたんです。あれは坂本太郎さんの力添えがあったんですが、これを見ると驚いたのは第一ぺージの最初のところが切り取られていたんです。

上岡
 そうでしたね。

古田
 明白に切り取りがあるんですね。で、これは法隆寺の前の所蔵者と覚(おぼ)しき所がばれると具合が悪いということで切り取っているわけですね。私は一所懸命それを強調しました。『古代は沈黙せず』とか、最近は家永さんとの論争でも載せたんですが、だれも何んにもいわんですね。家永さんもいわれんけど他の人も何んにもいわない。
 これは明白に悪意、といってはおかしいですが、意図ある切り取りです。「再利用」じゃないですこれは。だからこういうことには口をつぐんで何もいわんといてですね、さっきのような「再利用」ケースに偽物だと称するでしょう? それでは武寧王陵も偽物だ、ダヴィンチも偽物かという話になります。まあ、そういうことで、やはり奉納額の問題も面白い問題だと思いますね。


 倭人伝解読は辻棲が合いすぎる!

上岡
 魏志倭人伝にはじまった古田先生の、ボクらにすれば著書的な活動ですね、学問的な、それがあまりにも理路整然として、それにまた、今までと違うじゃないですか。今までと一緒で理路整然なら納得いくんですが、今までと違ってんのに、こっちのほうが理路整然やないですか、するとどうもやっぱりどっかでね、釈然とせんのですわ。

古田
 アハハハ。

上岡
 確かに部分を足して全体にならなければいけないという、この定理はもうだれも否定はできんですわね。で、魏志倭人伝でドンピシャつといったやないですか。あの三百里・三百里で六百里、四百里・四百里で八百里、で千四百里という、あんまりうまいこといき過ぎるんとちゃうかと・・・。どっか辻褄が合わんほうがなんかね、ううむ、正しくて・・・。あんまりドンピシャリいきすぎる。で九州の、たとえば「天下った」であるとか、最初に福岡へ来た時の何百年の歴史の中で遺跡がこんだけあるはずだ、吉武高木遺跡で出てきたのがいくつだと、で森浩一さんにいわすと、見つかった遺跡の他に見つからないのがいくつあるはずだからと、数足したらあれもドンピシャいくじゃないですか。
 あんまりドンピシャいきすぎるじゃないかと。あないドンピシャいくと小気味よい半面、あまりにもドンピシャといくんでおかしいみたいな神経がこっちに生まれてきてしまうんですよね。

古田
 そうでしょうね。いや、おっしゃる通りなんですが、それが今考えてみたら『「邪馬台国」はなかった』では、まだドンピシャリではなかったんですよ。なんでかというと、あそこの中に侏儒国が「女王を去る四千里」と書いてあるでしょ。あれおかしいですよ。なんでかというと、倭人伝は女王国・邪馬一国へ来るための、それを主人公にした本のはずでしょう。

上岡
 そうでしょうね。

古田
 ところが女王国に着いたのにそこからまた四千里やなんてことを、侏儒国だけでしょう? 投馬国であるとか、狗奴国とかどこも書いてないのに、侏儒国にだけ里程があるでしょ。あれがおかしい。私自身もおかしいことに気づかずにきとったんです。最近わかってきたのは、裸国・黒歯国。あれが今の足摺が黒潮の出発点なんですな。まあ結局、フィリピンのほうから来ますけど、アジア大陸の一端である足摺、日本は島といったってアジア大陸のつけ足しのチョボチョボです。そこにぶつかって方向を転ずるわけです。黒潮の出発点です。で到達点が南米の西海岸の真ん中辺なんですよ。
 なぜかというと、フンボルト大寒流という地球上最大の寒流が北上するわけです。それで今のペルーとチリの国境辺でぶっつかるわけです。あとはタヒチ島のほうへ行くわけですから、これはもう暖・寒流であって、黒潮としてはあそこでストップするわけです。だから要するに、大陸に打ち上げられるかタヒチ島へ行きますかっていうことなんですね。ということはつまり、黒潮の出発点と到達点になってきた。

上岡
 なるほど。

古田
 しかも、これ今年非常に大きなニュースが入ってきましたのが、名古屋のがんセンターの疫学部長の田島和雄さんという方が一〇月の癌学会で発表されたんですよ。それはHTLVという白血病の遺伝子があるんですが、その I型というのが沖縄・鹿児島・足摺ですね、でなぜか北海道にあるんですよ。ところがそれが中国にない、韓国にない、そしてポリネシアにないんです。ところがアンデスの原住民にドシャッとあるわけです。
 この論文で私はいいと思いますのは、最後に「そうなっているが、なぜそうなっているかがわからん」と書いてある。これがすばらしいですね。私はさっそくお会いしたわけです。東京へ来られた時に、新宿の早稲田大学文学部の裏に国立予防衛生研究所があるのですが、そこでお会いして、新宿へ行くタクシーの中で、もう一所懸命ご自分のことを話しておられて「で、あなたは?」といわれたから、「いや裸国・黒歯国へ黒潮に乗って」っていったら、「あッ、黒潮ですか!それはいい」っていってね。黒潮なら「途中下車なし」で日本列島と南米、「これはいけますよ」といってね、向こうがえらいね、いいアイデアをもろたみたいに喜んでおられたのが印象的でした。そういうことがありまして、いよいよ足摺が侏儒国というのはよかったんだと。
 私、足摺というと田宮虎彦の『足摺岬』、身投げ未遂小説みたいな、あれしか知らんかった。そこへもっていっても仕様がないという気がしながら『「邪馬台国」はなかった』に書いたんです。論理上そこへ行くより仕様がなかったんですね。ところが、それが意味あったわけですね。
 考えてみますと、倭人伝というのは、洛陽が第一原点、帯方郡が第二原点。

上岡
 なるほど。

古田
 洛陽と帯方郡の間は三国志に書いてないけど、これは行政地域だからわかっている。で、その帯方から女王国までが一万二千余里あるとかいろいろ書いてあります。そして女王国から侏儒国までが四千余里。そして侏儒国から裸国・黒歯国までが船行一年。つまり洛陽から第五原点、到着点の裸国・黒歯国までの道筋が書いてあったんですよ。

上岡
 ううーむ。

古田
 気がついてみれば当たり前です、「女王を去る四千余里」というのは、それ以外に考えようはないです。それを私は一番最初『「邪馬台国」はなかった』の時は気がつかなかったんです。だからまだまだこれから出てきますよ、そういうものが。その時には完壁にいってるみたいに思ってるけど、時間がたってみると、ああなんでこんな?と思うことがありますね。

 

 「殿、御乱心」か

上岡
 いやア、ボクらにしてみれば「なるほど、なるほど」の連続で、あまりにもいろんなことが「なるほど」やからね。うーむ。やっぱり「ついていけん」戸惑うんでしょうな、これ。ある部分だけ「変え」っていわれたら変えられるんやけど、全体像を覆(くつがえ)せっていわれると、かたくなな部分がどっか人間あってね・・・。

古田
 だから従来説をのべてきて、それを覆したくない人がいる。しかし、そのものでも反論していきにくい、実際は、あまりうまくいかん。そうすれば、ちょっと東日流外三郡誌でやってひっくり返して、あんなインチキなものを信用している古田はインチキだから、古田のいう邪馬一国博多湾岸説はインチキだ。九州王朝説はインチキだと、まあこういう論理構造になっているんですね。最近では、それもどうもうまくいけんようになったから「古田が偽作をしとる」と。

上岡
 あァ、なるほど。

古田
 こっちから見たらばかばかしいとしかいいようのない、最後の幕が上がったというか、最後のあがきというようなものでしょうね。だいたい明治写本など四千何百巻かあるというんです、末吉さん・長作さんの書いた物など。そんなものを偽作できるわけがない。「東日流外三郡誌」だって何百巻もあるんですからね。そんなもの偽作できるはずもないし、またバラエティからいっても、質的にいっても、できるはずがない。
 私、学問に対する感じ方っていうのは、口はばったいようですけど、やっぱり誠実性ですね、これが始めで終わりですから。

上岡
 それだけに、ボクらは古田さんが「殿、御乱心」と、だれか諌める者はおらんのかと。でも今までやってきはったその延長線上に絶対に、その人間はあるわけで、それもけしからんとね。古田さんが認めんのやから、その辺でボクらも「東日流外三郡誌」に関しては非常に戸惑いを覚えたんですよね。

古田
 「東日流外三郡誌」なんかあんまり手を触れるなとまあ好意的にいわれてたことがあるんですよ。でも、やってよかった。これはたいへんな史料で、もう本当に今までの歴史に対する見方を一変させられるものでした。


 未だにワカタケル・雄略で通す神経が・・・

上岡
 ボクはマスコミっていうのが未だにわからない。たとえば、例の埼玉県の埼玉古墳群の鉄剣、あれは毎日新聞が最初の特ダネめいたことやったんですわ。で、あそこで雄略天皇というのが出ました。しかし、あれはどう見たって違いますよね。
 古田先生のいわれる力タシロ大王かどうかも一つの仮説とするけど、あれをワカタケルで雄略だとする方が無茶ですよ。あれはとても成立せん説明だけど、未だにあのことが既定の学説みたいに、現にワカタケルの銘のある鉄剣が関東から出たからってゆうて、何んかがあると出るんですよね。それは確定してないやろと、まだ。見つかった時点でワーッというのはセンセーショナルやからまだわからんでもないんですが、毎日新聞は未だにあれをワカタケル・雄略とするんですね。

古田
 毎日新聞だけやないですが。

上岡
 それやる記者の神経ですね、それがわからんですよ。で、その人に会うて「なぜあなた、それがいえるんですか」と、「これが違う、これが違う、この宮にはいなかった、これも違う、これも違う、のになぜ、これですか」っていうね、そこに倭の五王まで出てくるわけですよ。よけい違うでしょうと。だからボクも古田先生のを読んでて、倭の五王とか聖徳太子に関しては、例の「日出ずる所の天子」の書簡にしたって、あれを聖徳太子としている、それから倭の五王を応神・仁徳以下に当ててる。これに関してはどうも反論できんやろう思うんですがね。未だに、でも武は雄略であるとか書いてあるわけでしょう。

古田
 そうそう、それに反論せずに、「古田のは相手にせん」と。それ以上に各大学の学者にもあるフラストレーションがたまっているんだと思うんですよ。というのは、学生なんかから質問があるじゃないですか。

上岡
 ありますよ、そりゃ。

古田
 だから、そういうフラストレーションが、今回のああいう「東日流外三郡誌」問題、「殿、御乱心」問題の本当の背景だと思うんですよ。

上岡
 はあー、なるほどね。

古田
 そうすると、あの人たちは安心するわけですよ。特に最近のO・Nラインの問題で、七世紀の終わり八世紀の始めが画期線だったと。あれも私がいうのもおかしいですが、論理的な話ですから、それを否定しなけりゃ成立するわけでしょう。あれが成立したら、今おっしゃったようなワカタケルもないわけでしょう。だから、そういうのをまともに賛成・反対はまだ学問ですから自由にしましても、取り上げるべきだということに私は早晩なると思うんですよ(『日本書紀を批判する』新泉社、参照)。
 といいますのは、この「東日流外三郡誌」問題が決着しますと、偽書説のバックにいる人も「こりゃ、あかんな」と、やっぱりまともにO・Nラインを賛成するにしろ反対するにしろ論じないかんなという、少なくとも風潮が現われてきて、他方では、いやもっといろんな手を使ってやっつけてやろうと、そういう学界の中に分裂が生じてくると思うんですよ。

上岡
 そうですね。いやほんまに、ボクらにとっては面白いっていえば面白いんですが、無責任にいわしてもらえば「面白いな、もっとやれ!」やればやるほど真実が出てくるんだから・・・。深まりこそすれね。

古田
 いや私が一番感謝してるのは「偽作」説の人。早ようやってもらってよかった。これがもし一〇年あとだったら、私よぼよぼになってね気力がなくなってるわけじゃないですか。

上岡
 ワハハハ。

古田
 今のうちにやってくれた、これは感謝してもし尽くせませんね。「寛政原本」出るまで寝とるよっていってたのが、一応は本気になってきましたし。そして和田さんに向ってもね、「私が元気なうちに出せよ!」ってね、迫力が違ってきました。


 秋田孝季の実在証明は簡単

上岡
 で、偽作説の入にいわせると、こういうものも全部和田喜八郎さんの手になるものという・・・。

古田
 そうです。だから本当に和田さんがそうだとしたら「惜しいタレント」ですなァ。

上岡
 そうですよ。もう直木賞どころやないですよ。こんだけのことが書ける人。それこそ『真実の東北王朝』の中に出てるような、たとえば十三湊ですか、あそこの地理的な変遷であるとか火山がどうなったとか、あの辺のことを和田喜八郎さんが個人で、紙作ってそれを書いて、そこまで・・・。

古田
 「偽作」説の人に共通する特徴は、和田喜八郎さんのことを知らんのですよ、テレビでちょっと見たぐらいのことはあっても、会うたことがない。それが「偽作」説が成り立っている唯一の根拠なんですよ。こちらは会うて、喜八郎さんのいいとこもあるけど、田舎の人ですから、もうその辺をさんざん経験させられておりますので、「偽作」説を出す余地がないんです。私のほうは。

上岡
 この文書の裏は何んですか。

古田
 これは大福帳なんです。佐々木というお金持ちがいまして、そこで大福帳を使ったんですね、それを無料だと思うんですが、分けてもろうて、その裏に書きつけたわけです。

上岡
 その辺にもさっきの「再利用」やないけども、こういうもん、もしも書写して残しといたら、こんなとこに写さんでも新しい紙にやればいいと思うんですが、ふうむ、しかし秋田孝季の存在が確認できないちゅうのは何んなんですか。

古田
 それは簡単に解決できます。存在が確認できるのは過去帳というものがあります。それは秋田孝季ではないんですが、妹りくの夫の和田長三郎です。それが過去帳に出てきます。長円寺という菩提寺がありまして、そこに過去帳がありました。これもあぶない話で、お寺が一昨年の一二月に全焼したんです。ところが幸いなことに、五所川原市が全部コピーをとってあったんです。天明の大飢饉の天明年間、あの時の流行病の調査を保健衛生の面でやるというんで、持って帰って全部コピーをとっていたんです。

上岡
 よかったですねえ、それ。あぶないとこですね。

古田
 寛政とか文政とか、あの辺にちゃんと和田長三郎が出てくるんですよ。で、和田権七さんという末吉さんのお父さん、この方も出てくる。それで和田末吉に当たると思われる明治二年のところに和田長三郎も出てくるんですよ。死んだ方は戒名で書いてあるんでわかりにくいんですが、その責任者の方が実名で書いてある。そういうのがちゃんとあるんですよ。だから近世文書やる時はそれから調べるのが常識なんですよね。明治以前は戸籍はありませんから、その代わりお寺がいわゆる戸籍の代わりになってたわけですからね。その辺をぜんぜん調べてないんですよ、あの「偽作」説の人たちは。
 ちょうど今日持ってきましたけど、長円寺過去帳の写真ですね。でまた面白いことに、その長円寺に、こういう石碑がありましてね、これが和田長三郎吉次が作った石碑なんですよ。

上岡
 へぇー。

古田
 文政年間に建てているんですね。和田長三郎のお父さんお母さんと、それから奥さん、これはりくという人、これは戒名で出ていますけど、そして自分のところは抜いてある、書いてないわけですよ。戒名だけ作って書いとるんですね。そういう面白い石碑がありましてね、これは過去帳と一致するわけです。
 だからまあ、安本さんは心理学の先生ですから、あんまり近世文書はやったことがないんでしょうしね、まわりの人たちもそういう専門ではないですからね。だからやっぱり近世文書をやるんならまず過去帳から入ると思いますね。

上岡龍太朗が見た古代史 新古代学第1集

 安本美典さんは面白い

上岡
 いや前から安本美典さんというのは面白い人やと・・・。まあボクらの面白いっていうのはいろんな意味があるんですけどね、まあ面白い人やと思ってたんですよ。ボクら、その学問の世界もエンターテイメントとしてみる傾向があるんでね、学者の人でも風貌とかふだんの行いとかからわりとタレント的にボクらは見てしまう。純学問的ではないんですが、そういう意味からしても安本先生、なかなかユニークな人やなァと思うてたんです。一番最初は『「邪馬台国」はなかった』の書評を書かれて、その時には古田先生にこの方となら話し合えるだろうってなことをおっしゃってたんですよね。あの辺から急に目の敵のように出してこられた・・・。

古田
 これにはちょっとした事件がありまして、今から思えばですけど、要するに安本さんが私に会いたいといってこられた。それで大阪のビジネスホテルみたいな、学校がいつも使っていると、そこに泊っているから来てくれんかというんで行ったんです。その時の話のポイントは一緒に手を組まんかと、そして井上光貞さんを攻撃しようと・・・。

上岡
 ほう、なるほど。

古田
 外国の学者でもその手があるんだと。若手が出る時に一人でゆうたってだめだ、何人かが組んでね権威者を叩くんですって、そうすると有名になる、それをやりましょう、という申し出だったんです。私はそれを断ったんです。その日はにべもなく断っちゃったんですね、「いやァ私はそんなことはやりたくない」と。「私はああいう有名な榎一雄さんとか批判をさせてもらっているのは別にあの人をどう思うてるわけやなくて、ただ従来の説で有力な説だと思うから、それを無視して自分の説だけ出したんではだめだから榎説を批判さしてもらっているんで、なんにも含むところはないんだから」
 私自身の先生である村岡典嗣(つねつぐ)先生が、授業で津田左右吉とか和辻哲郎とか、そういう人を批判されるわけです。ほんとに私は前列におったからツバが飛んでくる位の勢いでやられる。ところが奥さんにお聞きすると、日常生活では非常に仲がいい。奥さんのお話を聞きまして「あァ、学者とはそういうもんか」と思ったんです。明治生まれの先輩がそういうようにやってんだから「私もあんたとそうしよう」と。要するにその時安本さんは「私とあなたとは批判を一切し合わないことにしましょう、そして一緒にこれをやりましょう」というわけ。「いやそんなこといわんで、もうお互いに十分批判し合って、そして仲はうんといいと、あの明治の連中に負けんくらいやりましょうや」ってね。そしたらちょっと毒気が抜けたようで、他の話に移って、倭人伝を巡るいろいろの話で和気あいあいとね。でもう一度、次の日京都の駅前の和風旅館だったですが、そこでまたお会いして話した。
 ところがそれからしばらくして、「季刊邪馬台国」で井上光貞との安本美典氏の会見記で、井上光貞を絶賛してるわけです。“こんなすばらしい人はいない”と、“もういろいろ言うとただちにニコニコとそれに答えられる”と。“私はまさにお釈迦様の手のひらで孫悟空が乗っているような気持ちになった”と、“これだけの偉大な学者が日本にはいらっしゃる”と。

上岡
 ワハハハ。へぇー。

古田
 それで、私を批判しはじめた。あの人としては趣旨は一貫してるんですよ、対象が変わっただけでね。だから、そういう相手に選ばれたのは光栄と思わないかんですね。

上岡
 まあ、なんかあるほうが面白いですからね。ボクも阪神ファンやけど、やっぱり相手がおるから戦こうてくれるんで・・・。

古田
 私の方が年期の入ったファン。藤村のファンです。

上岡
 ああ、でしょう、広島ですもんね。

古田
 呉港中学。

上岡
 そうかそうか、呉港中。

古田
 甲子園で優勝して帰ってくるの、駅でわたし、こうやって背伸びして見た。

上岡
 中等野球の頃ですな。なるほど、なるほど。


 親父の話、古田先生の話

上岡
 ウチの親父なんかも、さっきの村岡先生が津田左右吉云々ちゅうんやないけど、むかしいうてたんがあるんです。「今の政治家はいかん」と、「むかしは徳田球一と吉田茂はな、国会で激しくやりおうても、代表質問終わって通る時、“どや、参ったか”いうて通りすぎた」あの徳球と吉田茂が仲がよかったちゅうてね、お互いその思想は違う、確かに違うのやけど私生活とかそういう時にはお互いを認め合うてたんやと、「それが今の政治家にない」ちゅうてね。ボクさっきの話聞いてて、その親父がいうてたんを思い出しましてね、ええ。

古田
 そうですか。

上岡
 変な話ですが、私、小・中・高、まあ大学は行けませんでね、大学のほうで来んでええといわれたもんで。今思うとね、学問上ていうか、よう小学校時代の恩師とかいうやないですか、ボクはあれがいてないんですよ。なぜかなァと思うと、親父がボクの育て方が悪かったんでねえ。最初から、「先生はバカや」と、ウチの親父はもう人を全部バカヤと。子ども心に、親父の話のほうがおもろかったんで、学校の先生の話よりね。

古田
 なるほどなるほど。

上岡
 ええ、親父は高知の人ですから、酒をがんがん飲む、毎晩一升びんが空になるんですよね。で酒屋さんが一ヵ月に一回、酒びんとりに来て、でまた三〇本持ってくる。でも後年体こわして、家のもんが「いやもう、毎晩一升飲みますんで」と、「いやワシャ一升酒は飲まん」と、「最高四合しか飲まん」。ところが、夕方四合、夜中に三合、朝方に四合、これで一升なくなるんですがね、ええ。でも本人は「四合しか飲まん」です。一升? そんなに大酒飲みやない、四合でやめとる」と、でもちょっと寝ては飲むから、まあ一日に一升なくなるんですがね。
 そんな酒飲みでしたから、酒飲みながらいろいろボクに、ボクがいることを意識したんでしょうな。大人同士の会話の中でボクに多分いうてたと思うんですよね。でボクはそれを聞いてんのが好きやったですからね。坂本龍馬が好きでね、高知ですからね。「龍馬はな、うーん“人は皆われを何ともいわばいえ、われのなすことはわれのみぞ知る”とゆうてな、まあ鴻鵠(こうこく)の志、燕雀(えんじゃく)いずくんぞ、ちゅうやっちゃ」いうて。それボク子どもの頃聞いてて、それで学校へ行って「燕雀いずくんぞ・・・」いうのが好きな子どもでしたからね。みんな「何いうてんにゃ、こいつは」というね。親父の話がずーっと好きやったですから。あんまり学校自体に学問で打たれたちゅうのがないんですよね。
 それだけに、学校出てからまあ漫才やって、そういう意味では古田先生の書物に触れた時に「ああァ、なるほど、学問ちゅうもんはこうするのか!」と。つまり、そのルールていうのがあるやないですか。学間の調べ方、反論の仕方、実証の仕方、仮説の立て方、ね。仮説を立てたものをどう実証していって学問として定着さすかっていう、その論理的な道順ちゅうの、なるほどなァと。それからボクは逆に、ボクの場合は学者ちゃいますから、古田先生に逆に「芸恩」を感じてるんです。

古田
 アハハハ。いや、それは光栄ですね。

上岡
 普通なら「学恩」ていうんでしょうけど、ボクの場合学問にならんから、芸にそれを応用さしてもらうちゅうかね。それが非常に、われわれのしゃべりの中でもそれが、今の古代史界のやり合いなんか見ているとね、とにかく端的にゆうたら、倭の五王の取ってつけたようなのとか、すぐワカタケルを雄略にあてはめるとか、ああいうやり口が学問の世界でまかり通っているちゅうのは、あれ「笑点」に出ても、あれは座布団を取れん。

古田
 アハハハ。

上岡
 あんなこじつけではね、あれは座布団取られるぜ、という程度でしょう。それを倭の五王にあてはめてね、これはヲアサツマワクゴノスクネのツマであるとかね、それをゆうたって「笑点」でも無理でしょう、っていうことをちゃんとした学者がやっているんですからね、そんなレベルかと思うた時にね、どうすれば学問というのを真っすぐに、つまりルールにのっとって道を歩んでいけるかというやつですよね。ですから古田先生が自分で示したことは、こんどはそれ外れると自分で自分の首を締めることになるんですものね、逆にね。

古田
 そうです。今、思い出したことは、足摺近辺て面白いとこで、吉田茂も出てるわ、幸徳秋水も出てる。中村市のほうですが、それで今の共産党の不破さんも出ていますよね。あの人もあの近所で、いろいろな人がのびのびと、右と左も。

上岡
 ウチの親父もそうですけど、四国の中でも高知はちょっと違うてましてね、背骨に四国山脈があるでしょう。あれでもう日本中が見えないちゅうか。でウチの親父らの村へ行きますと、みんなが歌うてる歌がですね「へこの浜寄する大波は、カリフォルニアの岸を打つ、そいつは豪気だねー」ちゅうんですわ。目があっち向いているんですね。

古田
 なるほどなるほど。

上岡
 だからね、この浜寄する大波はカリフォルニアの岸を打つ、いうてね、歌とうてるちゅうことはすごい壮大であって、かなりホラ吹きですしね。徳島とか香川はすぐ大阪・京都へ出られますから、ポッとあっちが見えるんです。しかし四国山脈が阻んでるんでしょうね、あっちを見ないで世界を見てるちゅうのは。ジョン万次郎とかね、坂本龍馬とかね、それこそ吉田茂とか、ウチの親父なんかもそれこそ貧乏で、貧乏で、どん百姓で。ほんま、段々畑を、親父の母親は満百まで行きましたよ。八〇ぐらいまで、まだ海に潜ったり、田んぼ耕したりしてましたですよね。で汽車見たことなかったですよ八〇何歳まで。車は来ますけど汽車は来ませんからね、あそこはね。八〇幾つで京都へ行くんで、はじめて汽車見たような人でしたけどね。ウチの親父は、そんなところで貧乏やったから、普通、そういうところやったら、貧乏やったから金欲しいいうて、金持ちに憧れる人と、ウチの親父の場合は、「貧乏なくさないかん!」ちゅうて。ほいで、でも貧乏でしたけどね最後まで、ウチの親父もね。世の中から貧乏なくさないかんちゅうて、で共産党へ入って選挙へ二回出て、終戦直後ですけどね、すべりましてね。でボクに「選挙だけは出たらいかん」ちゅうてね。

古田
 アハハハ。

上岡
 ノックさんが選挙に出た時も「選挙だけは出たらいかん!」ちゅうてね、ボクに遺言のようにしていいましたけど。ボクはこの頃よういわれる。「いやァ、もう親父の遺言ですから」

古田
 アハハハ。なるほどね。

上岡
 ボクは、そういう意味では、子どもの頃は親父の話が好きで、親父が死んでからは、古田先生の話を「芸恩」として聞いとこうと思ってね、ええ。今のところだいぶん面白うなってきたんですよ。

古田
 そうですか。いや、今日は本当にありがとうございました。


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東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)

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