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『新・古代学』古田武彦とともに 第5集 2001年 新泉社

持統・文武の大嘗を疑う

「持統周正仮説」による検証

洞田一典

一 不審な持統天皇の大嘗記事

 『日本書紀』(以下簡単に書紀と書く)によれば、天武天皇十五年(六八六)七月廿日に元を改めて朱鳥元年という。天皇は九月九日に崩御、皇后(後の持統天皇)が臨朝称制する。正式に即位したのは、持統四年庚寅(六九〇)正月になってからのことで、翌年の持統五年辛卯条はつぎのように述べる。〔以下《》は引用文を示す。また()内は筆者による〕
  《十一月戊辰大嘗す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞を読む。(中略)供奉せる播磨・因幡国の郡司以下百姓男女に至るまで饗たまい、并せて絹等を賜わること各差有り》
 この大嘗の日付けをめぐって多少の議論がある。岩波大系本の書紀下巻五一二頁頭注には、
  《通証は戊辰の下に「朔辛卯」と補うが〔辛卯は廿四日〕、疑わしい。戊辰は十一月朔日の干支。この頃の大嘗の日は、養老神祇令のように下旬旬の卯の日と決まっていなかったか》

とある。ここでいう通証とは谷川士清『日本書紀通証』(一七六二)を指す。
 また、この制については同大系本四一四頁頭注に、
  《即位が七月以前であれば当年、八月以降ならば翌年十一月の卯の日に行われることになっていた》
という。のちの文献だが『令義解』には、《仲冬下の卯、大嘗祭。謂わく、若し三卯あるときは中卯を祭日とし、更に下の卯の日を待たず》とする記述がある。また、大嘗祭の祝詞にも《中の卯の日に》とある。
 先の頭注の筆者には慮外の発想となるが、古田史学の立場からは、神と王権とにかかわるこの祭祀は九州倭国に古い淵源をもち、近畿天皇家はその形式をそっくりそのまま引き継いだ、と見る。したがってその実施に伴う手順などは既に確立していて、持統即位後の段階であらためて決める必要などなかった。
 さて書紀は、少なくとも持統紀においては、各月に朔日の干支を付するのを通例とする。たとえば、
  《五年春正月癸酉朔、親王諸臣内親王女王内命婦等に位を賜わる》(一日が癸酉)
  《(五年)秋七月庚午朔壬申、天皇吉野宮に幸す》(一日が庚午、壬申は三日)
など。しかし、
  《(五年)六月、京師および郡国四十に雨水》

のようなものもある。これも岩波大系本書紀の頭注には、
  《通証に庚子朔を脱するかという。写本で脱したのではなく、原本ですでに脱していたものか。朔日干支を記入すると、雨水が朔日だけに限られる恐れがある》
と述べる。もっともな意見だと思われる。
 持統大嘗の日付けに朔辛卯の三文字が欠けた件については、第四節において再び触れる。それよりもはるかに重大な疑問点は、「なぜ即位から二年近くも経過した頃になってやっと大嘗の儀式が行われたのか」というところにある。しきたり通りなら即位の年の十一月に行われるはずであった。かかる大幅な遅延を招いた原因は何なのか。その説明は書紀には見当たらない。

二 「周正」とは何か

 書紀の持統四年(六九〇)十一月十一日条に、
  《勅を奉(う)け、始めて元嘉暦を儀鳳暦とともに行う》〔原文は「奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦」〕

とある。元嘉暦とは、南朝劉宋において元嘉廿二年(四四五)に制定された暦をいう。梁の武帝天監八年(五〇九)までの六五年間南朝において用いられた。倭の五王が南朝の冊封を受けた以上 (1)、この暦は当時九州倭国へ伝来していたのは当然であろう。一方、儀鳳暦は唐の麟徳暦(六六五〜七二八)の日本国での別称だといわれている。唐の儀鳳年間(六七六〜六七八)に新羅へ伝わったゆえの名か。天武・持統朝へもそれほど間を置かず、新羅で写された暦本が(おそらく暦の知識をもった人とともに)もたらされたと考えられる。
 元嘉暦が平朔法(日・月の天球上での運行を等速とする)によるのに対して、儀鳳暦は定朔法(不等速と考え、暦の上の朔を実際の朔に近づける)のため、一旦平朔法(これは比較的容易)で求めたものを補正する。この手順が結構複雑なため計算にはたいへん手間がかかる。筆者も以前必要があって (2)、ある年の麟徳暦(儀鳳暦)による月朔表を試算してみたことがある。電卓を使ったのにもかかわらず意外に時間を要した。大きな数での「割り算」などは当時の計算技術ではたいへん面倒な作業だったはずである。
 将来を見据えた新暦採用の方針が定まった上で持統四年の勅は、儀鳳暦法習得の号令であったと思われる。定説では書紀の月朔干支は、持統六年から最後の十一年八月一日まで両暦が併用されたといわれているが、それはあくまで書紀文面上のことで、当時世間で実際に併用されたとは到底考えられない。また、この「持統六年から」には大いに異議がある。書紀編集者の相次ぐ錯覚がからんでいるのだが、これについては次節以下においてくわしく述べる。
 一方、唐においては武后がついに政権を握り垂拱五年(六八九)春正月に永昌元年と改元する。その年の十一月には、この月を正月(周正とよぶ)と改め再び改元して載初元年とする。同年九月九日に国名も周(武周ともいう)に変え天授と改元、以後十五年にわたる女帝武則天の時代を迎える。
 中国ではこのような正月(歳首)の変更は過去にもあった。前漢の武帝は一月を正月(夏正とよぶ)と定めたが、王莽や三国魏の明帝は一時、十二月を正月(これは殷正)にしたことがある。夏正が周正に変更されると十二月は臘(ろう)月、従来の正月は単に一月と呼ばれる。武周ではその後十年間にわたり周正が用いられたが久視元年(七〇〇)十月に夏正に復する。また『三国史記』によれば、統一新羅でも唐より少し遅れて孝昭王四年(六九五)に周正に変え、同王九年(七〇〇)ふたたび夏正に戻している。
 唐における周正移行の情報は意外に素早くわが国へも伝わったようである。その二ヶ月後に即位した持統女帝は、武則天と同じく旧制度一掃の手段としての周正採用に、強い誘惑を感じたのではあるまいか。そうでなくても周正は、儀鳳暦への改暦とあわせて対唐(周)外交の上からも必要とされる政策であったはずである。
 しかし、天皇四年十一月十一日からの周正施行に際しいかなる事情があったのか、本来は次の年の干支に改めるべきところを二年先のそれに書き替えてしまった。これを裏付ける史料がある(参考文献4参照)。これが「持統周正仮説」(以下「周正仮説」と略記する)の概略である。その状況をつぎに示す。

  〔書紀〕                 〔周正仮説〕
  持統四年庚寅十一月 ーー 持統五年壬辰正月(十一月)
  持統四年庚寅十二月 ーー 持統五年壬辰十二月
  持統五年辛卯正月   ーー 持統五年壬辰一月
      ↓
  持統五年辛卯十月   ーー 持統五年壬辰十月
  持統五年辛卯十一月 ーー 持統六年癸巳正月(十一月)

三 持統の大嘗は即位の年に行われた

 『皇年代私記』(以下単に『私記』と略記する)という古文書がある。持統天皇の項から大嘗に関係のある部分のみを抜書きする。
  《六年壬辰十一月辛卯大嘗会、因幡・播磨》

 これは同書の本文中に出る。この文書では、朱鳥年号が朱鳥二年(持統元年)丁亥から、朱鳥九年(持統八年)甲午まで継続して使われている。ただ月朔の記入は多くない。文中の六年を朱鳥六年だとすれば、大嘗は書紀と同じ年になる。しかし年の干支が合わない。持統六年なら、干支は一致するが書紀の持統五年記事に矛盾する。
 参考までに左に書紀記載の干支と卯の日を示す。

○持統四年(朱鳥五年)庚寅十一月朔は甲戌(元嘉暦)、
     卯の日は六日己卯・十八日辛卯
○持統五年(朱鳥六年)辛卯十一月朔は戊辰(元嘉暦)、
     卯の日は十二日己卯・廿四日辛卯
○持統六年(朱鳥七年)壬辰十一月朔は辛卯(儀鳳暦)、
     卯の日は一日辛卯・十三日癸卯・廿五日乙卯
        〔ただし、( )内は筆者による〕

 『私記』のこの記述を信用できないものとして捨て去るのは簡単だが、本書の著者がなぜ成立不能なこんな文を載せたのか。矛盾の原因はむしろ書紀の側にあるのではないか。
 あちら立てればこちらが立たぬ、といったこの閉塞状況は、前述の「周正仮説」によって即座に解消する。すなわち、朱鳥五年(持統四年)庚寅十一月が新正月になれば、この月は改めて朱鳥六年壬辰正月(十一月)とよばれる。この「奇妙な正月」の大嘗の祭は、(朱鳥)六年壬辰十一月辛卯の日に行われたと記録に残された。
 年の干支は変わっても、日の干支の方はもとのままだから月朔は甲戌、辛卯の日は十八日になる。この月は小の月(晦日は廿九日)で辛卯は下の卯の日にあたる。つまり事実は、書紀の筆法「夏正」をもってすれば次のようであった。

  〈持統天皇の大嘗は、(書紀にあるより一年早く)天皇四年一一月甲戌朔辛卯の日に挙行された。〉

 この場合、天皇は自らの始めた周正のおかげで、即位の年の十一月には大嘗を行えないことになった。その月は翌五年の正月(十一月)になってしまったからだ。
 すでに述べたように、持統四年十一月から新しい儀鳳暦も試みたはずだった。だが書紀記載の月朔干支は、この月から持統十年十一月までの、閏月二例を含み無記載を四例を除く総数七十一例中、「ただ一つ」を除いてすべて元嘉暦と一致する。つづく十年十二月と翌年四月は、理由は不明だが儀鳳暦になっている。
 さて、ここでいう「ただ一つ」とは書紀の「持統六年十一月朔」を指す。朔干支は書紀では辛卯と書かれてこれは儀鳳暦だが念のため元嘉暦を調べると朔日の干支は壬辰、卯の日は十二日癸卯・廿四日乙卯となっていて辛卯はない。(3)
 朝廷内の大嘗記録は、前述の『私記』と同じく「六年壬辰十一月辛卯の日大嘗」であったと思われる。後の書紀編集者は当初これを持統六年壬辰十一月の記事だと思いこんだ。しかし先に述べたように、元嘉暦ではこの月に辛卯の日はない。儀鳳暦で計算したところ朔日が辛卯であった。そこで取りあえず書紀編集用の暦日表をこの月だけ儀鳳暦に差し替えたうえで大嘗記事を記入した。これが「元嘉暦の海に浮かぶ、たった一つの儀鳳暦」という異常な状況を生むことになる。

四 書紀編集者の犯したダブルエラー

 これで辛卯の日の問題は片づいたかに思われたが、持統天皇の大嘗は天皇五年十一月のことだったという伝承の存在が編集者を困惑させた。しかし、書紀が歴史の真実を記すための書ではないことを、編集者たちは重々承知していたはずである。
 それほど昔でもない時代の出来事も都合が悪い場合には歪曲し、いかに真実らしく取りつくろって記述するかが要求された。ここで隠蔽すべき事項は何であったのか。
 第一に「周正」の存在だった。施行の第一歩で年の干支を二年先のものにするという失態を演じてしまったわけだが、書紀が近畿天皇家唯一正統の宣言書をめざす以上、文化後進性丸だしの「ずれた干支」を表面に出すのは避けたい。始めから周正などなかったふりをするのがこの場合最も手っ取り早い方法だった。
次に「朱鳥」年号がある。天武紀の執筆者が別だったせいか、元年だけが天武十五年条に出てしまったが、もともと九州王朝のものと考えられる。だから持統紀ではタブーになっていたはずだ。
 隠したいのはさしあたりこの二点であった。後になって先の大嘗記録にあった六年は朱鳥六年であることに気づいたが、朱鳥六年が持統四年十一月から始まるとは書けない。朱鳥六年に当たる書紀の持統五年の干支は辛卯であって壬辰ではないが、十一月の下卯の日は幸運にも辛卯だったから代役にはピッタリだった。
 ところでこの時点では、すでに前節で述べた差し替えた儀鳳暦朔干支をもとの元嘉暦に修復しておくことなど、すっかり忘れていたようだ。干支には元嘉とか儀鳳とかの名札が付けられているわけではない。しかし、その気になって調べれば見つけられる明白な証拠を現場近くに残すとは迂闊であった。
 書紀編集者によるこの「お手つきの跡」に気がついたとき、筆者は『私記』の「六年壬辰十一月辛卯大嘗会」が真実の記録であることを再度確認し得た。
 年の干支を記すことの少ない書紀には、さしたる抵抗もなしに持統五年十一月条へ大嘗記事は書きこまれた。
 第一節で問題になった「朔辛卯」三文字の脱落は、つぎのような順序で生じたと推測される。
 まず、誤認にもとづいて
  (1).〔訂正前〕「(持統六年)十一月辛卯朔大嘗神祇伯(中略)各有差。戊戌新羅遣(下略)」
とした後に傍線部(インターネット上では赤色表示)を五年へ移した。
 だが、辛卯朔(儀鳳暦)を元の壬辰朔(元嘉暦)に戻すのを忘れ、
  (2).〔訂正後〕「(持統六年)十一月辛卯朔戊戌新羅遣(下略)」(現存書紀と同文)
  (3).〔転記後〕「(持統五年)十一月戊辰朔辛卯大嘗神祇伯(中略)各有差。」

とした。(3).ではいったん正しく書いた傍線部だったが、(2).に残したはずの「辛卯朔」をも一緒に転記してしまったと錯覚し、傍線部の「朔辛卯」をけずって、
  (4).〔削除後〕「(持統五年)十一月戊辰大嘗神祇伯(中略)各有差。」(現存書紀と同文)

 としてしまった。六年十一月の辛卯日がたまたま朔日であったのも不運だったが、書紀の文(4).の不備はすべて(2).で壬辰朔への修復を怠ったことからはじまった。
 しかし「周正」と「朱鳥」とを隠すのにこの程度の手落ちだけで処理できたのは、むしろ上出来だったといってよい。それにしても『私記』の一文がなければ、ここまで推論を進めるのはむずかしかったにちがいない。歴史の真実は正史の中よりはむしろ野にひそんでいるようだ。焚書する権力者たちの心の内にある怖れもわかる気がする。

五 文武天皇の大嘗も即位と同年だった

 ひきつづき『私記』を引用する。同書の文武天皇条に、
  《天皇二年戊戌十一月己卯に大嘗会。美濃・尾張》
とある。これは『続日本紀」(以下単に続紀と書く)の大嘗記事
  《(二年)十一月丁巳朔己卯に大嘗す》
に相当する。己卯は廿三日にあたる。
 ところで、この記事には傍注の形で、
  《或即位同年云々》
という奇妙な書きこみがある。
 周正による暦がこの時期にも用いられていたとして、続紀に載る記事との対応は、
      〔続紀〕              〔周正仮説〕、
 文武元年丁酉八月即位   ーー 文武元年戊戌八月即位
   ↓                   ↓ 
 文武元年丁酉十一月    ーー 文武二年己亥正月(十一月)
   ↓                   ↓   大嘗(傍注)
 文武二年戊戌十一月大嘗 ーー 文武三年庚子正月(十一月)

となる。たしかに即位と同年の十一月が、周正ではしきたり通り翌二年十一月の大嘗の月になっている。
 さらに、傍注の記述は他書によっても裏づけられる。『歴代皇紀』の文武天皇の項には、
  《大化三年八月一日受禅同日即位歳十五元東宮。同十一月大嘗会美濃・尾張》

とある。前掲書とともにこの本は、書紀の持統九年乙未(六九五)を元年とする大化年号を用いている。大化三年は文武元年にあたる。
 また、『一代要記』は文武天皇条において、
  《持統十一年丁酉二月立太子。八月一日甲子受禅同日即位時年十五。十一月大嘗会美乃・尾張。異本云大化四年十一月己卯大嘗会始之》

を本文中に載せる。これも大嘗を即位同年だとする。異本云にある大化四年正月(十一月)は、同三年(文武元年)と同一年になる 。(4)
 『皇年代私記』傍注も『歴代皇紀』と『一代要記』の本文も、そろって「周正仮説」を支持する。続紀とは矛盾する記述ではあるが、しきたり通りで何の不都合もない。となると、続紀の述べる文武二年の大嘗記事は、書紀のしるす持統五年の大嘗とまったく同じ状況下に置かれる。即位が一月であろうと、八月であろうと、実質当年の十一月が大嘗の月となることに変わりはなく、それを翌年のことと書く。
 この風変わりな持統周正も、唐(周)や新羅と同じく大宝元年(七〇一)以降には廃止されたはずだが、その時期は不明である。中央以外では、開始時も国ごとに異なっていたふしがある。
 十年余におよぶその存在は正史から抹消され、記録の干支は書き直された。だが、古文書の片隅には、ひっそりと生き延びてきたその姿が見えかくれする。
 ともあれ七世紀最後の十年間は、日本古代史にとって干支には細心の注意を払う必要のある期間となったことは確かである。

 

《注》
 (1) すでに有坂隆道氏が参考文献5の第一章で指摘されている。そこには、《梁初の天監元年(五〇二)に倭王武を征東将軍に進号した記事を最後に、推古朝に至るまで倭からの遣使は中国の史書に記載されておりません。ということは、いわば冊封体制から離脱したからであります。前に申しましたが、『書紀』欽明天皇十四年(五五三)六月条に、百済に対して暦博士らの交代上番と暦本を求めたのは、そのためと考えるべきなのであります。(以下略)》とある。卓見というべきであろう。ただ、氏の視野には九州倭国の存在は、残念ながら、ない。

 (2) 『旧唐書』高宗紀総章二年(六六九)「八月戊申朔日有蝕之」が、『新唐書』では同年「六月戊申朔日有食之」にかわっている。暦日計算の結果は八月朔は丁未、六月朔は戊申であった。

 (3) 持統四年十一月から同十一年八月までの六年間において書紀記載の月朔干支が「儀鳳暦」で書かれたのは、次の三例であった。参考までに()内に「元嘉暦」による干支を示す。
  持統六年十一月 辛卯(壬辰)
  持統十年十二月 己巳(戊辰)
  持統十一年四月 丙寅(丁卯)
 これについては友田吉之助氏が『日本書紀成立の研究』の第七章で小川清彦氏の「日本書紀の暦日について」を論評して
  《小川氏の学説には閏字脱落の問題以外にも、疑点が残されているようである。すなわち小川氏の見解によれば、持統紀は元嘉暦に拠っていることになるのであるが、氏の計算と書紀の暦日との間には、次のようにずれを生じている。
        日本書紀     儀鳳暦  元嘉暦
  持統六年十一月辛卯朔  壬辰朔  壬辰朔
  持統十年十二月己巳朔  戊辰朔  戊辰朔
  持統十一年四月丙寅朔  丁卯朔  丁卯朔
 書紀には「持統六年十一月辛卯朔」とあるが、元嘉暦・儀鳳暦ともに「壬辰朔」とあり、同様に「持統十年十二月己巳朔」・「持統十一年四月丙寅朔」においても、元嘉暦および儀鳳暦との簡に、一日のずれを生じている。朔における三個の一日のずれは誤写とは思われず、しかも六年間に三個のずれを生じているから、暦法の相違に起因しているものと解されるのである。してみると持統紀には、元嘉暦にも儀鳳暦にも合致しない暦日が記されていることになり、書紀の暦日が単純なものでないことを示しているものと思われるのである。》
と述べられている。
 だが友田氏の示された儀鳳暦の朔干支は、平朔計算によるもので、本来の儀鳳暦(定朔)ではない。右の議論は、儀鳳暦への誤解に基づく見当はずれなものであろう。

(4)『一代要記』持統天皇条に、《異本曰、今年十一月己卯大嘗始之》とあるが、十年十一月には己卯の日はない。おそらく同書文武天皇条の《異本云・・・》(前出)の誤入であろう。

 

《参考文献》
1「皇年代私記」(近藤瓶城編『改定・史籍集覧』第十九冊・臨川書店)
2「歴代皇紀」(同右第十八冊)
3「一代要記」(同右第一冊)
4「消された正月ーー持統朝改暦始末記」(『古代に真実を求めて』第三集、明石書店)
5『古代史を解く鍵ーー暦と高松塚古墳』(有坂隆道、講談社学術文庫)
6『日本書紀成立の研究』(友田吉之助、風間書房)
7「日本書紀の暦日に就いて」(内田正男『日本書紀暦日原典』付録、雄山閣・あるいは、斎藤国治『小川清彦著作集1 古天文・暦日の研究』、皓星社)
8『日本暦日原典』(内田正男、雄山閣)

 なお、『日本書紀』は日本古典文学大系本(岩波書店)を、『続日本紀』は国史大系本(吉川弘文館)、『三国史記』は東洋文庫(平凡社)を参照した。


 

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