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天孫降臨の真実 へ
釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった(講演集より)
第二章 天皇陵の史料批判(『天皇陵を発掘せよ』三一書房)
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『情況』1993年月 4月号

古代史と国家権力

津田史学を批判する

古田武彦

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一、博多湾岸でうたわれた「君が代」

1 「君が代」発見の旅

 福岡県の糸島平野に天降神社という変わった名前の神社がございます。十社くらいが道路沿いに、ほぼ二列に並んでいるのです。この神社が「天孫降臨」と関係はないだろうかということで、現地調査に行ったときのことです。案内役をつとめる灰塚照明さんがワゴン車の中で説明しておられた。そのときに桜谷神社、ここの祭神に、苔牟須売の神という神様がおられた。これを見た時に私は自分の顔色が変わったと思うのです。と言いますのは、それまでに同じ糸島郡で細石(さざれいし)神社、細い石の神杜という名前の神社があることは良く知っておりました。いわゆる三雲遺跡、井原遺跡と言いまして、江戸時代に農民の手によって発掘され、三種神器セットを豪勢に持つ弥生の王墓が出てきたわけです。その三雲・井原遺跡というのは、細石神社のすぐ裏手、もとは境内だったと言われておりますが、ここには繰り返し、何回となく行っております。この、細石という言葉を聞けば日本人ならば、誰でも「君が代」を思い起こすのですが、だからといって、それぐらいのことで結び付ける気持ちには、私はなれませんでした。
 ところが昨年、吉野ケ里の問題で、博多を根城にして通っておりましたときに、井原遺跡を「いはら」と読んでいたのが、実は「いわら」である。つまり岩石の岩に羅生門の羅ですね。「いわら」である。このおとなりの早良郡、ここは早い、良いと書いてありますが、本来は沢の多いところでありまして、さんずいの沢と羅生門の羅というのが、本来の地名である。そしてまた金印の出た志賀島は「安曇の磯良」という有名な神のひとりでありまして、これは石へんに幾と書いた磯ですね。そして良と書いてありますが、これも羅生門の羅、磯羅と。つまり岩であるとか、沢であるとか磯であるとか、こういう地形ですね。これに地名接尾語の羅がつけられている。こういう形の地名を知ったわけです。そういう予期せざる前段階がありまして、今度は「苔牟須売神」。これはもちろん女を意味する「め」です。音で「売」と書いてあります。これを見た。そうすると君が代の「さざれいしのいわおとなりてこけのむすまで」の下の句が全部入っているわけです。これを偶然の一致と言えるだろうかと、私は考えたわけです。すると灰塚さんがさらにおっしゃるには、「千代もありますよ」こうおっしゃるのです。それは福岡県庁がありますが、ここの地下鉄の駅は「千代県庁前」という名前になっています。「千代町」です。海岸部は「千代の松原」です。八千代というのは千代を増幅しているのが「八千代」です。すると、「君が代は」という初めの句を除いた後ろ全部が糸島・博多湾岸の地名・神名・固有名詞になっていることになる。ここまで偶然の一致だと言えるでしょうか。ちょっとありえないのではないでしょうか。これはやはり、この場で君が代が作られたと考えなければいけないのではないですか、ということをワゴン車の中で私は申したわけです。

2 地歌としてうたわれる「君が代」

 それがさらに決定的になったのは、その翌日にシンポジウムがありまして、「続・邪馬壹国と九州王朝」という私の説のキーポイントを掲げたシンポジウムを民間の市民の方々が催してくださったわけです。それが「倭国の源流と九州王朝」という形になって本になっております。それが三月二十四日からはじまりました。その時に京都から古賀さんという方が来られて、私に会うや否や「古田さん、がっかりしましたよ」と言うのです。「昨日、君が代は九州王朝で作られたとおっしゃったそうですね。私もそれを言おうと思って京都からわざわざやって来たのです」と。しかし、理由はまったく違うのですとおっしゃるのです。
 京都の府立図書館で調べていて、志賀海神杜という神社があり、そのお祭りに君が代がうたわれている。しかも、その君が代は国歌としてうたわれるのではなく、地歌として、あるいは風俗歌としてうたわれているという報告を国学院の西田長男さんの論文に書かれているのをみつけた。古賀さんは私の多元史観・九州王朝説を良く読んでもらっておりますので、志賀島で君が代が地唄としてうたわれるということは九州王朝の歌だったのではないかと、これを古田に知らせれば喜ぶだろうと思って新幹線に乗ってやってきたということだったのです
 ここで私の話とぶつかる。もう留め金ができたようなもので、ほぼ間違いない。そこで、その神杜の祭りにさつそく行ってみました。村人が祢宜と称して手分けをして舞っている。その中で、志賀島から香椎の宮に向かって千代まで、そういうセリフを言う。そして、昔は七日七夜のお祭りの、その、最後の六日目の夜、違った船がやってくる。ああ、あれは我が君の乗りたもう船なり、と一人の人が言う。すると、また一人の人が船を漕ぐ格好をしながら、「君が代は千代に八千代に細石の、いわおとなりて苔のむすまで」とやるのです。しかし、これは節というものはなく、完全に台詞ですね。これは明らかに「我が君」は千代からやってくるのです。
 ご存じの通り、君が代は古今集の中では「我が君は」となっています。祭りの台詞でも「我が君の乗りたもう」となっている。文句なしに君が代の君は千代にいらっしゃる君、筑紫の君、九州王朝の君であるということを、台詞が裏付けている。まず、動かしがたい帰結であると思います。

 

3 九州の朝廷、大和の「幕府」

 ここで、方法の問題として考えてみると、この歌によって九州王朝が存在したとか、邪馬壹国の存在が証明できたことにはならない。なぜなら、そうした地名がいつの時代まで逆上ることができるのかという問題が前提にあるからです。しかし、逆に邪馬壹国が博多湾岸にあり、九州王朝が七世紀末まで続いた、それが倭国の中心の王朝であった。いわゆる大和朝廷は、その間、東アジアでは光る存在ではなかったと。余談になりますが、最近、ある人に「古田は九州王朝とか、十年前から同じ内容で進歩がない」と言われました。その人は古田武彦と古代史を研究する会の会長を勤める方(山本真之助さん)ですけれども、この指摘は正しいものでした。つまり、「近畿天皇家だけが王朝ではない、その前に九州王朝というものがあったのだ」と私は言った。しかし、両者の関係は、その命名でははっきりしていなかった。それをはっきりするようなことを考えろ、というわけです。結論的に言えば、「朝廷」の名に値しているのは七世紀までは九州王朝である。つまり九州朝廷です。そうしたら当時、大和朝廷などというものはありえない。朝廷というものが二つ、狭い日本列島の中に共存しているはずがないですね。すると、それは何なのかというと、それは、九州朝廷の分流であるわけです。図体は大きいが、大義名分は九州朝廷というご主人に仕える一の家来だった。言ってみれば、山本さんが言いかけた表現をお借りすると、大和朝廷と言われているものは、実は大和幕府だと、大義名分上は家来ですが、力は朝廷より大きい、そういう存在です。そのような位取りであるということが、私の結論、歴史学上の仮説と言っても良い。そういう仮説の中から、中国の歴史書、三国志であるとか、隋書であるとか、旧唐書であるとかという史料を理解することができるわけです。
 それに対して別の仮説。いわゆる皇国史観と津田左右吉の説(これは同一の仮説です。別陣営ではない。はっきり言えば、津田説は皇国史観の延長であるということです。日本列島では近畿天皇しか権力中心はなかったんだと、大和中心で日本の歴史はきたのだということが、皇国史観、そして、津田左右吉の根本の立場であるわけです。)その仮説と二つ相対するならば、今の皇国史観+津田左右吉の仮説の場合は、今の君が代問題を解釈できないわけです。これは、今うまく行かないだけではなく、昔もうまく行かなかった。だから、古今集にはこの歌をもって「読み人知らず」と書かれているのです。読み人知らずのはずはないのです。庭で梅がきれいだといって読んだ歌であるならば「読み人知らず」でも良い。しかし、「君が代」という歌は、権力者の前で歌う歌ですね。そういう場所で歌った歌を、誰が歌ったのかも知らない、どこで詠んだのかも知らない、そんなばかな話があるでしょうか。古今集を読んでいて、これを不思議に思わないならば、それは不思議に思う能力が、よっぽどマヒしていた証拠です。それは、知らないから書かなかったのではない、知り過ぎているから書かなかった。いや、書けなかったと見るべきでしょう。つまり、大和幕府という立場から、大和中心というイデオロギーになっている時代だから書きようがないわけです。書けば、どこで作られたのか、誰が歌われていたのか分かってしまう。だからカットした。非常に明快です。壇ノ浦でも「朝敵の名は載せられないから、読み人知らずにしましょう」という、平薩摩守をめぐる有名な話があります。読み人知らずというのは知らないからではなく、知り過ぎているから読み人知らずになるわけです。
 このように、どちらの仮説に立ったならば、この君が代問題の真実にたどり着けるのか、こういう形の問題だと思います。

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二、天壌無窮の神勅は史実である

1 福岡県日向で述べられた神勅

 「天壌無窮の神勅」というものをご存じのことと思います。その内容は、

「葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣、寳祚の隆えまさむこと、當に天壌と窮まりなけむ」(日本書紀、第一、一書岩波日本古典文学大系)

 これは、いわゆる天孫降臨の時に天照の孫、ニニギの命が述べた言葉です。戦前の教科書には必ず出ています。しかし、戦後教育を受けた人はご存じない。この話を聞いて「聞いたことはある。しかし、それは歴史とは関係ない」と反応される方がいらっしゃったら、それは古い歴史観の持主の証拠です。狂った歴史観の持主である証拠になるのです。そのことを皆さんにご理解いただきたい。それは何故か。
 こういうイメージがあると思うのです。それは、宮崎県と鹿児島県の間の高千穂連峰あたりに天孫降臨があったという話だろうと。戦前はそれを宣伝したが、それは嘘っぱちであると。しかし、それは間違った歴史観なのです。というのは古事記によって見ると、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣に天降りまして」と、こういう四段の文章になっているわけです。この、竺紫は現地音の「ヂクシ」、天竺のヂクですから、現地音の標記になっています。
 これを国学で有名な本居宣長は、どう扱ったかと申しますと、筑紫と言うのは九州全体を言うんだろう、そして、久士布流多氣は、わからなくなった。だから問題は日向の国の高千穂であろう。こう考えたのですね。それを宣長の弟子が明治維新後、教科書に書かせたわけです。ところが、今の読み方はおかしな読み方です。なぜならば、わたしは東京都文京区本郷Aビルというところに住んでいますが、この東京都は日本のことだから、日本全体で良かろう。Aピルはどこだか分からない。だから文京区と本郷のセットを探せばよろしいと言うことです。しかし、最近は文京ばやりですから、どこにでも有り得ます。本郷だって、ありふれた名前ではないですか。もともと「高千穂」自体が「稲穂のように連なった高い峰々」の意味ですから、特別な名称とは言えない。すると、こんなセットは、日本中にあるはずです。
 何故、そんな読み方をしたのか、理由ははっきりしている。つまり、神武天皇を古代宮崎県人と見なしていた。日向の国を出発して、いわゆる東遷。私は東侵と言っておりますが、その神武天皇を天照・ニニギの直系にしたかったわけです。直系であるからには、ご近所にいてもらわないと直系にならないわけです。だから、今のような、日本語の四段にきちんと書かれているものを第二段目と第三段目だけで論証し、第一段目と第四段目を捨てるという、無茶苦茶な、日本語でない読み方をしたわけです。国学とは、天皇家の神聖さを証明するために行なうと言うのが動機です。そして、到着点も天皇家の神聖さを証明したということで終わるわけです。その途中に古典を利用するのです。本居宜長は、古典をそのまま尊重することを主張したということを小林秀雄さんという文芸評論家が書いておられます。また、宣長を持ち上げる評論家や文学者がよくありますが、これは分からない。これは古事記を読んでいない証拠です。何故ならぱ、古典をそのまま読んで、今のような読み方ができるはずがない。しかし、神武天皇を直系にするためには、それが必要だったのです。そのためには、場合によっては古典を作り変えても宣長は間違ったことをしたとは考えなかった。というのは、国学の出発点と到着点に適っているわけです。しかし、私はそういう立場とは縁がありません。真実を求めるためということが出発点で、真実を求め得たということが到着点で、それ以外には何の関心もないわけです。右翼が良く思おうと左翼が悲しもうと、また、その逆であろうと関心はありません。その、どちらか一方のために歴史学をやっているのではないのですから。
 そういう立場から見ますと、真実の立場ではどうなるのかと言えぱ、筑紫のとあるのですから福岡県です。では、福岡県に日向にあたるところが有るのか。有ります。日向峠。これは、ヒナタと読みます。日向山もある。ここから川が流れ出ていて、これが日向川。この一帯が「日向」と呼ばれる地帯であることは明らかです。福岡県の中に「日向」ありです。高干穂というのは、連峰のということです。そして、最も大事なことは、「久士振流多氣」があるのです。しかも日向峠の近くに。

2 米作民族の神話の一大矛盾

 最近、博多で講演した時に、一人の方が「高祖山連峰の北側の今宿というところでお百姓さんと話していたら『猪や狐がクシフルの山から出て来てしょうがない』と言った。えっ、もう一回言って下さい。『クシフルの山から猪や狐が出て来るんじゃ』『それはどこですか』『あそこじゃ』『高祖山ですか』『いやいや、高祖山の、もうちょっと低くなったところ、あそこがクシフルの山じゃ』という体験談を話して下さった。宣長が「ない」としたクシフル山がちゃんとあるわけです。筑紫からはじまり、クシフル岳で終わる。日本語として当たり前の話です。そのために天皇家が大変喜ぱれても結構ですが、困ったとおっしゃられても仕方がない。そういう立場から言えば、今のように考えざるをえない。しかも、ニニギ命は「葦原の千五百秋瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり」と言っている。ここで言っていることは簡単で、「ここは稲作水田の栄えている土地である。そこを私は今、支配、征服した。この征服を子孫に伝えよう」と、こう言っているんです。このことは日本書紀では同じ内容が本文、一書に次々に出てきますが、全部同じです。違う内容の話はない。それが、何故重要かと言いますと、「私は稲穂を持って来た。皆さんに、この稲穂を配って上げよう」と言っていないということです。あるいは「稲作水田のノウハウを伝えよう。これで、もう飢えることはないぞ」というようなことが全く出てこない。もう全部が、すでに稲作水田がある、それも栄えている場所。そこを「私」は支配したと、こう言っているのです。その一点張りなのです。しかし、これを良く考えると、津田左右吉の造作説はおかしいではないですか。なぜなら、六〜七世紀の大和朝廷の史官たちがデッチ上げたのであれば、どうしてもっとかっこよくデッチ上げなかったのか。「私は稲穂をもたらした。これで飢える心配はなくなった」とか書けば、米を食べるたびに感謝させることができる。ところが、何通り(各一書)も話を作っておいて、稲をもたらしたのは自分だとは一言も書いていないのです。こんな嘘話ってありえますか。津田さんと論争できたならば、本当にこれを論争したかった。
 戦争中は津田に対して村八分があり、東京帝大でも京都帝大でも津田と論争しなかった。東大に津田を呼んだところ、右翼的な学生が質間を集中し、世話役の人々(丸山真男さんたち)が津田を連れ出したという話がありますが、まともに東京帝大の教授が津田と論争をしたというのはなかった。だから津田は、自分の誤りに気がつかずに戦後になり、文化勲章までもらってしまった。これは津田にすれば、不幸な話だった。今の問題を出して迫ったならば、あれだけの鋭い方であるから、「これは無視できない」と、思われたに違いないと思うのです。

3 歴史事実だから発掘と合致する

 さて、本当に怖い話は次の問題です。二回ほど高祖山に登りましたが、北側に朝鮮半島に向って立ちますと、右下に博多駅が見えるわけです。この博多駅は、縄文水田、弥生水田のあるところです。今度は西を見ると、唐津湾がけむっている。それから、直接は見えませんが、山の陰に菜畑の、板付よりも、さらに古い縄文水田があるわけです。この天孫降臨の時期は、弥生前期末ごろだと私は考えているのですが、その時期の、日本列島で最も早い水田の豊饒の地域を両側に見下ろせる位置になっているのです。
 この筑紫の日向の高千穂の久士布流多氣、そこでニニギは神勅を述べている。そこで言っている通りなんですね。そうでしょう。そんな話を六世紀の天皇家の史官が、今日の考古学的な成果を予見してデッチ上げたなどということを言える方がいらっしゃいますか? 私には、とても言えません。まぐれで当たりますか? とても、そんなことは考えられません。つまり、歴史事実だから考古学的な発掘と合致したのです。この論証で、まだ「天壌無窮の神勅」がデッチ上げだとおっしゃる方がいたら、その理由をお聞かせいただきたい。天壌無窮の神勅が歴史事実でない。デッチ上げだと思って来られた方は、いかに偽の歴史学に騙されてきたかということを受け止めていただければ有り難いわけです。この点は、最後に述べる「大嘗祭」の問題とも深いかかわりを持っております。

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    三、日出ずる処の天子と、家来としての天皇


1 隋書倭国伝の真実

 隋書倭国伝(普通は倭国伝と書いている)に、有名な「日出ずる処の天子」という一説があります。この「日出ずる処の天子」が推古天皇か、聖徳太子かというのが、戦前・戦後の教科書に一貫しているわけです。漫画の「日出る処の天子」というのも、その立場で書いてありますね。ところが、これが真っ赤な大嘘で、歴史事実とは無関係と言うよりも相反する記述であると、私はかねてから主張してきました。その論証を簡単に申しますと、ここでは多利思北孤という人物が「日出ずる処の天子」として書かれていることは、その文章を読めば明らかです。しかも、その多利思北孤には鶏弥(キミ)という奥さんがいる。「王の妻を鶏弥」というとありますから、多利思北孤が男であることは明らかです。ところが、推古天皇が女性であることも明らかです。男女は同じではありませんから、多利思北孤は推古天皇ではありえないわけです。時代は同じ七世紀前半です。中国の絶対年代で書いてあります。
 一番目に、多利思北孤は天子を自称しているのですから、第一権力者であることは明らかである。ところが、聖徳太子は一生皇太子、摂政であって天皇にはならなかったことも知られています。ですから、第二権力者に終始したわけです。中国の使者は多利思北孤に会って話をしているのですから、第一権か者と第二権力者を間違えて書いたなどという、そんな中国人を馬鹿にしたような議論をすることは、私は許されないと思います。第一権力者と第二権力者は違う。だからこれは、聖徳太子でもありえないのです。
 三番目に「阿蘇山あり、火起こりて天に接す」と、噴火をして火を天に吹き上げている阿蘇山が描かれている。これは、中国の使者が実際に見なければ書けない表現です。この阿蘇山が多利思北孤の国の特筆すべきこととして書かれている。この阿蘇山は大和にはありませんね。大和にあるのは大和三山であり、三輪山であるわけです。だから通説のように、この多利思北孤が推古天皇や聖徳太子のことであるとするならば、ここに三輪山や大和三山が出てこなければおかしいわけです。ところが、阿蘇山は九州にある。先入観も何もない。自分の都合であそこにしたいとか、私は大和が好きだから、大和のものと考えたいとか、このような先入観によれば別ですが、そのような先入観なしに人間の理性の判断による限りは、多利思北孤は九州にいたと考えざるをえない。ですから七世紀前半という時代において、天子は九州にいた。当然ながら推古天皇も聖徳太子も天子を称していない。天皇という言葉が出て来ますが、天皇という言葉は天子に遠慮した言葉です。天子と言いたいのだが、そこまで言ってしまうとヤバイ。自分は、そこまで言える立場にない。だから天皇で我慢しましょうと。つまり、天子を公然と名乗って中国と対時した存在が九州にある。天子と名乗ることを憚って、天皇で我慢した存在が近畿にあるわけです。この、天皇と天子の関係は、ご主人と一の家来、中国でも天王や天皇を名乗った例があります。日本列島でも、天子に対する天皇がいたという形になる。それが、さっき言いました変な表現で言えば、九州朝廷に対する近畿幕府という関係が、この日出ずる処の天子の項を読んだだけでハッキリしているわけなんです。ところが、これを子供の批判力のない時代から聖徳太子だと、あるいは推古天皇だと学習ロポットとして情報を差し込まれたので、今まで、そう思い込んできた人がいらっしゃるのではないか。怖いことです。

2 旧唐書の証言

 さて、そのことをさらに裏付けるのが旧唐書です。ここでは倭国伝と日本国伝とに分かれている。倭国というのは、昔の倭奴国、志賀島の金印の倭奴国だと書かれている。
 これに倭の奴の国という読み方があるのですが、これも、非常に間違った読み方です。中国の印というものを見ますと、与える側と与えられる側しか書いていないのがルールなんです。当たり前の話ですが、ここでも印の通りに読めぱ、漢という与える国と、与えられる委奴国、あるいは倭奴国ですね、二つしか書いていないとみるべきなんです。その委奴国というのは、旬奴という中国のライバル。これとコントラストして、柔順な種族として、与える方は倭奴と名付けているわけです。筑紫の王者を「倭人を統括する王者」と見なしたから、金印を授けるわけです。当たり前のことです。
 ところが、これを三宅米吉という考古学者が「漢の倭の奴の国王」と読んだ。その意味は、倭というのは実際、大和なんです。漢の下に大和朝廷があって、その大和朝廷の下に奴という筑紫の王者がいると。その筑紫の王者が金印をもらったと、こういう解釈をした。しかし、日本の中で第二の、大和に附属する王者が金印を貰ったのなら、大和は何を貰ったのですか。貰うものがないじゃないですか。近畿からは何も出て来ていないでしょう。出てはいないけれども、大和朝廷を入れなければ我慢できないわけなんですね。三宅米吉は、強固な邪馬台国近畿論者でしたから。こっけいな話ですが江戸時代に、こんな話があります。あれは大和朝廷が中国から貰ってきた印であると。ところが、船の中で開けて見た。よく字を読むと、なんと奴隷の奴の字があるではないか。けしからん、こんなものを持って帰れるか、と投げ捨てたものが博多の志賀島に漂着して、そこから出たという説が、当時学説として出ていたそうです。これは皆さん、お解りの通り、大和朝廷の顔を立てたならば、るうならざるをえないですね。大和朝廷しか金印を貰うものはありえないのですから、今のような見て来たような嘘を言い、にならざるを得ない。それを笑っているけれども、実は笑えないのは皆さんが小学校時代から教えられてきた、漢の倭の奴の国王という読み。これは、今の話と同じ思想なんです。漢に附属した大和朝廷があって、それに附属した那の津の王者がもらいましたという、変な読みになっているのです。子供のころから教え込めば、ちゃんとみんな信じこむ。いくら批判だと言い出しても、ここのところは批判の対象にしないのですね。人間というものは。
 ですから、漢の委奴国王と読まなけれぱいけない。そこで、倭国はその委奴国の後の国だと、旧唐書には書かれている。あと、卑弥呼の国、私は糸島、博多湾岸の国、邪馬壹国と考えているのですが、それも、後を受け継いだ国だとハッキリ書いてある。それに対して日本国は別の国だと書いてある。これは小国であると。しかし、小さな国と書うのは、必ずしも地理的に言っているのではなく、附属国、ご主人国に対する家来国のことを小国と言うわけなんです。いわゆる倭種で、倭人に属するが小国である。これが、ご主人国の倭国を併呑したと。併呑した日本国と我が中国が交流しはじめたのは七〇三年であり、それまでは倭国との交流があった。こうちゃんと書いてある。これは唐の歴史書です。しかも、唐の中には阿部仲麻呂がいる。日本から行って中国にとどまり、ベトナムの大守にまで任命された仲麻呂が長安で没したわけですから、こういう記事は当然、仲麻呂のオーケーを取っているわけです。この倭国と日本国が、同じ国であるはずがないです。岩波文庫の解説(旧唐書)では「不体裁」などと言って処理してあるけれども、これも、子供のころの学習ロボット以来、教え込まれて今日に至っているめです。

3 戦後も変わらない天皇家一元史観

 私が、よくする話があるのですが、NHKで「翔ぶがごとく」というのだと思うのですが、めったに見ないものを偶然みたのです。すると、江戸の町娘が薩長軍を出迎えている。江戸の町で、町娘が「官軍が来た、官軍が来た」と囁き合っている。そして、ある娘が「官軍に知った人がいる」というので、表に出ていて再会するという場面がありました。しかし、これは大嘘ですね。司馬遼太郎さんの原本にどうなっているのか確認してはいませんが、もしも書いてあれば大嘘を書いたことになる。NHKが脚色して書いたのであれば、NHKが大嘘を書いたのです。これを見ていて大嘘だと思わないことが、たいへんに怖いことです。言うも愚かですが、あの時代に江戸の町人や小娘達が薩長軍を「官軍」などと言うはずがないのです。これは、絶対に反乱軍なわけですよ。神君家康公の東照宮様以来のご恩を忘れて、薩摩や長州のイモ侍が反乱を起こしおった、どの面を下げて神君の作られた江戸に入ってくるのかと、これですよ。江戸が好きで、そう思っていますから、何だ、俺達の江戸に田舎者が来おってと。反乱軍を意味する様々な、イモ侍、裏切り者というような言葉で呼んでいたに決まっていると私は思うのですが、違うでしょうか。
 だから、そういう評判だから、薩長軍は「いや、そう思うかも知れないが、実は我々は官軍なのだ」「その証拠に錦の御旗をもっているのだ」と、言わざるをえなかったのです。
 あの歌も、私は第一史料だと思います。「宮さん宮さん、お馬の前でひらひらするのは何じゃいな」。ですから片方は、ひらひらするものが何なのか知らないわけです。錦の御旗がなんだろうが、変な旗を振ってるというわけです。天皇家などというものは、全然知らないわけです。それに対して後半の方が「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗だ、知らないか」つまり、我々は「官軍」なのだという、コマーシャルソング入りでやって来ている。ちょうど、あの八路軍が、素晴らしいコマーシャルソングを歌っている。「民家に泊まるときは土間に寝ろ。そこを出るときは、水を汲んでおけ」という、何回聞いても感動しますが、ある意味で、あれと同じように大義名分入りのコマーシャルソングを歌いながら入って来た。これは薩長軍が、いかに賊軍、反乱者としての汚名に悩んだかということを立証している歌なんです。その第一史料なんです。
 だから、彼らは東京で権力を握ると、あの貧乏経済の中で、世界で二番目という学校教育制度をいち早くはじめたわけです。もちろん、芸術や理科教育もやったでしょうが、彼らが一番やりたかったのは、国史教育ですよ。つまり、日本は天皇家を中心に発展して来たのだということです。だから、こういう話がある。時間がなかったらば、国史は簡単だと。大化の改新と明治のご維新さえ覚えれば良い。大化の改新で蘇我氏をやっつけた。同じように明治維新の王政復古があって、江戸幕府をやっつけて、天皇家中心の日本国の本来の姿に戻った。この二つを覚えれば、国史は満点だと。これこそ、明治の薩長政権の本音であるのです。
 これまで言ってきたように、男と女は違う。第一権力者と第二権力者は違う。阿蘇山は九州にある。この、当たり前の三原則を踏みにじった教育が、戦前、戦後を通じて一貫している。しかも怖いことには、戦後は皇国史観に罪を着せて、戦前は悪かったけれども、戦後は良いのだという幻想をふりまいているわけです。戦後も変わらずに大和朝廷一元史観であるのに、目隠しをされて、自分の目に目隠しをされているのに気付かず道を歩いている。それが、現在の日本国民の大部分ではないか、と思います。

現行の教科書に問う
「邪馬台国」・「日出づる処の天子」比定に誤まりはないか(『市民の古代』第二集)

「遣隋使」はなかった(『市民の古代』第3集

 


    四、万世一系思想の帰結、津田=造作説

1 岩波の困惑と、津田思想

 そういう目で見ますと、津田左右吉の歴史観というものに、厳しく批判の目を向けざるをえないのです。勿論、私は津田左右吉を非常に尊敬しております。戦争中に右翼などの大逆思想だという攻撃にもめげず、自分の立場を一貫したという津田さんに対しては、深い敬意を持つものです。しかし、敬意を持っているから、津田さんの思想を正しくとらえ、批判すべきことを批判するのが、津田さんに対する正しい姿勢であると思うわけです。その場合キーとなるのは、津田が戦後、岩波に書かれた有名な文章です。「建国の事情と万世一系の思想」という論文で、岩波の「世界」の一九四六年四月号に載ったものです。この時、論文を受け取った岩波の編集者はびつくりしたらしく、“このままでは発表できないから書き換えてもらえませんか”という手紙を津田のもとに出しているのです。しかし津田は、“それはできない”とはねつけた。書き換えを求める編集者もどうかと思うのですが、これは、変えられないと言った津田が立派です。
 しかし、この題を見て皆さんは、どうお考えになりますか。これは、神武の東征は嘘だとだから万世一系の思想なんて、とんでもないと言っているのだと思われる方もいらっしゃるかも知れない。それこそ、とんでもない。津田左右吉が、ここで言っていることは我国の皇室は万世一系である。そのように見えない者には、我国の歴史は分からないということを力説しているのです。そして、「我らの皇室」という言葉を最後に繰り返し使って、「我らの皇室」を守るのでなければ、民主主義も無理だ。我らの皇室をいかに深く愛するかということで、民主主義が我国に根付くかどうかが測定できる。こういう言い方をしているのです。私が驚いたのは、そこで、戦争責任論を論じている。その戦争責任論とは何かと言うと、「皇室」に対して国民が抱いている戦争責任。つまり、あのような戦争になり、また、敗戦に至らしめたことに対し、そうならないようにすることができなかった日本国民は、皇室に対して重大な戦争責任をもっているということを、津田はまじめに書いているのです。だから、岩波の編集者は頭を抱えてしまった。
 家永三郎さんが、『津田左右吉の思想史的研究』という立派な本を岩波から出しておられますが、ここで家永さんは、非常に苦労をしておられます。家永さんは、津田と直接会ってインタビューをして話を聞かれたり、手紙を出して質問しておられる。つまり、津田さんは戦争中と戦後とでは、書かれたものに思想の変化を生じているのはないか、ということを問い質しておられる。これは良いですね。相手が生きている内に、直接明らかにしようという姿勢です。それをきちんと記録しておられることはたいへんに有難いことです。しかし、岩波の編集者に対して津田は、“私は全然変わっていない。三十年前から同じだ”と答えていたわけです。
 この三十年前からというのは意味があるのです。これは昭和二十一年頃の話ですから、大正の始めから同じだと津田は言っていることになるのです。ということは、言い換えると津田左右吉の研究が「文学に現れたる我が国民思想の研究」や「古事記及び日本書紀の新研究」として出ましたよね。あの研究が、実は万世一系の思想こそ、我国の歴史の根本だという立場で書かれていると、ご本人が言っているのです。どうです皆さん、皆さんの津田左右吉のイメージとしてどうですか。混乱しませんか。実は家永さんも、本人のいないところで申し訳ありませんが、後で直接話しますけれども、少々混乱しておられるように思うのです。それは、“自分が確かめたところによると、津田の思想は一貫しているように見ざるをえないが、思想というものは、時代の社会との関係で成立するものだから、戦争中と戦後の社会の関係で言えば、変質したと言わざるをえない”という、一貫しながら変質したんだとし、「明らかに一種の「転向」があった」という、何か苦しい文章になっている。家永さんは津田さんを尊敬しているのだけれども、進歩的歴史家として尊敬している。その限界としてとらえるという立場で、この本ができている。しかし私は、このとらえかたはやはり正しくないと思います。

2 造作史観の本質は、先行王朝の消去

 津田左右吉が自分で万世一系の皇室という立場は三十年前から変わらない、その立場から一連の著作はできているのだと言っている。この点を見事に突いた論文(と言っても一節ですが)が現れた。それは千歳竜彦さんの「文字の考古学」という、日本書紀研究の第十七冊だと思いましたが、単行本で次々と出ていますね。その中に載ったもので、書かれた千歳さんはは関西大学の大学院の一回生です。この論文は他の内容が大部分なのですが、たいへんに光る一節があります。その二、三行で「津田左右吉の造作説は、大和朝廷に先行する出雲や筑紫の存在を消すことに研究思想の目的の一つがあったことは、おそらく疑いないであろう」と書いているのです。これは、残念ながら前後の説明がないのだけれども、非常に光る一文だと思います。おそらく、大事なイメージだと思って書き込んだのでしょうが、私は、これは正しいと思います。
 というのは、その目でもう一回津田左右吉の文章を読んで見ますと、確かにそうなんです。考えても見て下さい。古事記・日本書紀を信用したら万世一系にならないじゃないですか。国譲りがある。国譲りというのは主権を譲るということです。ということは、それまで出雲に主権があった。しかし、現在の皇室の先祖が出雲はありますか。ないでしょう。しかも、大国主は神武天皇に国譲りしたわけではないんで、筑紫に国譲りをして、ニニギが天孫降臨している。その筑紫に降りたニニギから神武天皇に至るまでの間が、何かモヤモヤしている。ここもストレートに万世一系とは行かないのです。津田にとっては万世一系の皇室が根本なのですから、だから古事記・日本書紀の神話や説話は嘘だ、デッチ上げだと、こうせざるをえないことになります。
 これは、私が理論構成するだけではなくて、先程の「建国の事情と万世一系の思想」を読み返してみると、ハッキリと彼の立場が現れている。それは、古事記・日本書紀の神話は造作だということが、最初に書かれている。その後に、それでは、我国の歴史がどういう発展をしてきたのかを概観を述べようということになる。そして、少なくとも一、二世紀のころには大和に我が皇室は現れたもうたと、地方は出雲などには有力なものがいて、皇室に対して反抗的な態度をとるものがあったが、やがて帰服するようになった。九州には邪馬台国があったようだが、これも皇室の支配を受け入れて帰服したようであるという形で、四世紀くらいから、皇室の下に我国の大部分が帰順したというアウトラインが書かれています。しかし、これはやはり、津田の歴史家としての誤りではないか。
 津田は、こう言うべきだと思うのです。岩波が歴史のアウトラインを示してほしいと注文をしたかもしれませんが、その時には「いや、それはできません。なぜなら、私は古事記・日本書紀・風土記はいずれも造作だと考えています。特に五世紀以前の内容については、信用できないと考えていますから、そこについてアウトラインを示せと書われても言えません。歴史家として史料のないものを言えたらおかしいんです。だから、申せません。」 こう言ったなら、津田は歴史家として一貫していて立派だと思うんです。ところが造作だと言っておいて、信用できないと言っておいて、しかもアウトラインを述べるとは何事ですか。出雲が反抗的態度だとは、どんな史料で言うんでしょうか。それだけではありません。後半で力説する所は、要するに「我が皇室は武力的な態度をもって国民に接しなかったことは明らかである。だから国民は非常に慕って『我らが皇室』と考えるに至るのである」と、こうなって、先程の「我らが皇室を尊敬し愛することによって、今後の民主主義が云々」という結論につながってゆく。
  これについても、私は言いたい。五世紀以前の史料を造作だと言っておいて、皇室は武力的な態度をとることはなかったと、何の史料で言うのでしょうか。言えるはずがない。言えるはずがないことを、戦後になって言っているわけです。

3 合理的研究と皇国史観「合体」の秘密

 これを解く秘密の鍵があると思います。それは、津田の「上代史の研究方法について」、これは、岩波の講座に載った、一世を風靡した文章ですが、ここにこうある。少々長いですが引用します。

「何れにしても上代史の研究には学問的方法に重きを置くことに注意しなければならぬ。なほ、これに関連して一言すべきは、研究の方法が論理的でなければならぬといふことと、歴史そのものの見方が合理的であるといふことが、往々にして混同せられてゐることについてである。学問である以上、研究の方法は論理的でなくてはならず、それを合理的という語でいひ現はしても支障はない。しかし、それは歴史観、従って、其の根抵の人生観、が合理主義的であるには限らぬ。人生を、従って歴史の発展を非合理的に観るにしても、さういふ非合理的の人生、非合理的の歴史を、学問として取り扱ふ方法としては、論理的、合理的であり得るし、またあらねばならぬのである。」で、結論が「余自身としては、歴史を合理主義的、論理的に見る見方には根本的に反対であるが、研究の方法は、あくまで論理的でなければならぬことを主張するものである。」

 哲学の方は驚かれないかも知れないが、普通の人が聞いたら、わけがわからない文章ですね。つまり、歴史に対しては非合理主義的、非論理的な見方をするべきであるが、研究方法は合理的であるべきだ、こう言っているんです。
 これは私の想像ですが、ヨーロッパのキリスト教に学んでいるんだと思うのです。「非合理なる故に我れ信ず」という有名な言葉があります。そういう信仰を告白すると同時に学問研究をやっている。ヨーロッパの歴史家とか哲学者はクリスチャンがほとんどですから、そういうやりかたをしていますよね。それを日本版に仕立てて、皇室は万世一系であるという非合理的信仰と同時に、記紀批判という実証的研究をするという、これが両立するのだという、明治人らしい舶来思想のこなし方ではないかと、私は見当をつけているのです。勿論、津田のもっている日記とかを調べて見ないと確証はとれませんが。ともあれ、津田が万世一系の思想は三十年前からだと言っているのは、その通りなんです。

4 造作説は万世一系思想を拒否できない

 そういうわけで、津田は両立と言っているけれども、言うまでもありませんが、これは明らかに矛盾です。しかし、津田の中では、両方が結び付いている。その結び付き方は何か。すなわち、万世一系の信念を貫くためには、大国主が実在では困るわけです。ニニギも実在では困るわけです。架空の人間にしなければならないわけです。国譲りも架空、天孫降臨も架空としておけば、後は、少なくとも一〜二世紀からは皇室が始まったと、反抗的な者もいたが、武力的な姿勢をとらないうちに、皆、帰服した。で、「我らが皇室」という津田のイメージがぴしゃりと完結するわけです。だから津田の合理的な信念だと、皆さんが今まで良いと思って来られた造作説と、万世一系の思想とは表裏一体、片方だけ取って、片方だけいやだとは言えないものなのです。造作説は好きだが、万世一系はいただけないと、これでごまかさないでいただきたい。造作説は、万世一系の研究思想に立った、論理的な帰結である。その全体を受け入れるか、受け入れないのかの間題である。そして戦後社会は、それを受け入れてきた。だから、この間の即位の礼とか、大嘗祭とかで、津田の思想は完結したと言えると思います。
 国民の様子は、日本の歴史は色々あってわからないけれども、皇室は昔からずっと中心にあったんだと思っているのが大部分ではないですか。津田はそれを望んだわけです。過去を皆消してしまったのですから、残るのは万世一系の皇室と、一時は不心得で反抗しても、やがては帰服して徳に従った日本国民、それが永遠に続く。今年(一九九〇年)、印象的に津田思想は成就したのです。しかし、そういう成就のされ方は、新しい時代が音を立てて始まっている証拠です。
 先程、司会の方から「古田説は試験などには通用できないんだ」という話がありました。これは筋の通った現象です。例えば、江戸時代には宣長の国学では官吏登用の試験には通れなかった。湯島の聖堂の儒教の学問に乗っからなければ日の目は与えられなかった。それと同じことで、私の説を息子に教えても、試験の成績は上がらないわけです。これは非常に道理がある。近代政府は万世一系の皇室、日本の歴史の中心として存在する皇室、それを中心とした「我が皇室」というイメージで戦前も戦後も作り続けて来ているわけですから、それに合うような回答を書く学習ロボットにならなければ、うまく行く筈がないわけです。

 


五、「天は人の上に人を作らず」に原典あり

1 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)の証言

 東日流外三郡誌というものがございます。これは、秋田孝季、妹リク、富農の青年、和田長三郎吉次、この吉次がリクと結婚します。そして、この三人組が、法外な大研究を推進するわけです。これを見て私がいつも思い出すのは、マルクスとエンゲルスの関係です。
 テーマは山ほどあるのですが、今は一つだけ話させていただきます。それは「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という有名な言葉がございますが、それが、この東日流外三郡誌の中に繰り返し出て来る。それも、奈良、平安の頃から、鎌倉、室町、江戸初期、中期と、色々な人が繰り返し、それを述べるわけです。
「もとより、天は人をして上下に造りしなく、光明は無辺に平等なれば、いかでやおのれのみ、もって満足に当たらんや。よって、わが荒覇吐の血累は、主衆にして一人とも賎下に制ふる験しなし。主なりとて、生命の保つこと久遠ならず、従なければ天ならず。民一人として無用なるはなかりき。よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき」これが阿部の安国という平安の初期か、奈良時代にかかるという人の文章です。この後、三郡誌の中に同じ思想が繰り返し、繰り返し出て来るのです。
「学問のすヽめ」の冒頭の言葉として知られているものは、当然オリジナルではないわけです。キーポイントは、そこには「天は人の上に人を作らず、人の下に人の作らずと言えり」と、「と言えり」という一言があるということなんです。つまり、引用なんです。これは、福沢が自分の思想として言っているのではないと言うことなんです。ところが慶応大学、その他の現代の思想家達は、これを独立宣書であるとか、人権宣言であるとか、そういうものからの引用であると解説してきました。しかし、そういうものには、この表現はなかったわけです。平等思想はありますが、肝心な原典がない。そこで苦し紛れに、そういう平等思想を福沢がモディファイして、作り変えて、こう言ったんだろうという注釈になっている。しかし、作り変えておいて「と言えり」と言うのも変ですよね。これも言わば簡単で、福沢の文章から「と言えり」を全部抜き出したら良いのです。それで、作り直して「と言えり」と言っているのかどうか、そういうのを調べて「福沢は、こういう癖があるから、これもモディファイとして考えて良い」という研究をしたものを見たことがない。原典が見付からない以上、モディファイと言っておけばごまかせる、そのように私には見えます。
 しかし種は、もう分かっているのです。この、今の和田長三郎吉次の三代目か四代目の子孫で和田末吉さん。彼が福沢諭吉に見せているのです。福沢先生が「学問のすヽめ」の冒頭にお使い下さった、我が家伝の大事な言葉を使って下さった。これは有り難いと喜んでいる手紙があるのです。ところが今までは、そういうものに見向きもせずに、もっぱら舶来思想の紹介者として、この言葉を教科書にも使って来たのです。
 では、なぜ和田末吉は、東日流外三郡誌の名を書いて貰わなかったのか。また、書かなかったにもかかわらず、なぜ、そんなに喜んでいるのか。それも、手紙に書いてあります。それは「今は名前は自由民権だが、その実は官憲横暴の世なり」と、こう書っているんです。短いけれども、適確な言葉ですね。だから、我が家の、こういうものは、まだ世には出せないんだ。しかし、その中の一節を福沢先生が使って下さったと。おそらく二人の間には、黙約があっただろうと思うのです。福沢諭吉は、それを承知して書いていない。なぜ書くことができないのかと言うと、実は、引用された文章を読んで見れぱ分かります。この思想が、これだけ繰り返し、執拗に述べ続けられる理由は外でもない、反大和朝廷の思想として述べられているからなのです。大和朝廷が我々を蝦夷と呼ぷ、人間でないように扱う。しかし我々は、そのような考え方はしてこなかった。人は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずという考え方でやってきたんだ。しかるに都にいる絹を着た彼らは、我々を蝦夷と蔑み、貢物を取り上げようとし、さもなくば武力で制圧するぞと言っている。こういう反大和朝廷の思想として、反蝦夷観の思想として、繰り返し、巻き返し述べられ続けているのです。今でこそ皆さん「それなら、良い」と思われる方も多いと思うのですが、明治時代に、こんな事を言ったら、官憲横暴が、すぐに乗り込んでくるでしょう。だから、それは出してくれるな、ということだったんだと思います。

2 未解放部落と古墳分布の奇妙な一致

 さて、ここにも怖い話があります。私の個人的な研究を述べるのですが、かつて神戸の高校で教師をしておりました。それで京都で開かれた第一回の部落解放教育の大会に出ろと言われまして、参加者の一員としてシンポジウムや講師の話を聞いたわけです。そして、夜は教職員宿舎の「花の家」というところに泊まった。一部屋に三人が割り当てられて、初対面の方と話を致しました。その一人、山形県の先生かと思いますが、その方が「私は困っている」と言うのです。「私は一所懸命被差別部落の問題を授業で話をするのだが、生徒達がまじめに聞いてくれない。というのは、私のところには部落というものがないからです。『一体何のことだ』と、全然聞いてくれないのです」と言うのです。そこで私は、「良いではないですか、差別というものはないのが当たり前で、それがあるから私達は悩んでいる。ぜいたくな悩みですよ」と、言った。すると、その方は「いや、そうではありません。日本中になければ、それでいいんです。しかし私の学校の生徒は、卒業するとたいてい県外に就職するのです。東京とか、大阪とか、福岡とかに就職するのです。そうすると、当然被差別部落にぶつかる。その時、間違ったことを言ったり、考えたりしてはいけないと思うから、私は絶対に教えなけれぱいけないと思って一所懸命に話すのですが、実感のないものは受け付けてくれないのです」と、こういうのですね。これを聞いて私は、そういう世界があるなんて、うかつながら知らなかった。なにか、日本中にあるように思っておりました。その後、何年かして「全国未解放部落分布図」というものを見る機会がありました。これは、早稲田大学の部落問題研究会の文学班というところが昭和三十六年にまとめたものです。それを見て、私はハッとしたのです。というのは、社会科の教師として古墳の分布図というものは良く知っていた。それと、そっくりなんですね。つまり、東北地方、北海道、沖縄、そういうところは被差別部落はない。あるいは、ほとんどないわけです。ところが、古墳の方も北海道、沖縄には見当たらない。東北地方にもほとんどないのですが、全くないわけではなく、たまにはあるのだけれども、古墳が出て来るとニュースになるくらいに珍しい。被差別部落もあります。都市部などには。これは封建領主が持ち込んだものですが、農村部にはない。被差別部落問題がおこるのは、関東や近畿では農村部が多いですよね。ところが、東北の農村では、そんなことは全然ない、ということを示した図でした。
 これはちょっとおかしいのではないか。というのは、そういうシンポジウムなどでは、部落差別というものは封建領主がやったもんだと、最近では室町幕府で始まっていると、そういうことが言われている。それでは、どうして古墳の分布図と一致するのか。室町幕府が古墳の分布図を手に入れて、それに合わせて被差別部落を作った。そんなばかげた話がありますか。答えは一つ。つまり、被差別部落という差別構造は、少なくとも古墳時代に淵源している。中のメンバーとか、職能とか、色々なことは時代によって変わっているでしょう。中の人達が、全く入れ代わっていることだってあるかも知れない。しかし、そういう杜会の差別構造は、少なくとも古墳時代に淵源している、こう考えざるをえないのではないか。こういうことについて昭和三十七〜八年のころ気が付いた。これは私の、その後の古代史研究にも非常に大きな、大事な方法の淵源となりました。
 さて、この研究を進めて行けば、弥生時代、倭人伝の卑弥呼の世界では奴碑とか、生口が重要な社会構造となっている。武力によって獲得した生口を生産労働者に粗み入れることによって社会を発展させている。私は「生口国家」という言葉を使っているのですが、卑弥呼の国は生口国家であった。その生口国家のモデル、先輩は中国である、ということが分かってきました。
 もう一つ言っておかなければいけないことがあります。本日、司会をやっていただいている藤田さんとは京都の私の家で初めてお会いしたのですが、そのとき藤田さんは、ある質問をもって私の家にやってこられた。その質問は、私にとって忘れることができないものです。
 それは、「天皇陵と部落とは関係があるのでしょうか」というものです。藤田さんは大阪で高校の教師をなさっておられるのですが、被差別部落の生徒の家庭訪問に出掛けて行くと、近くに大きな天皇陵がある。また別の生徒のところに行くと、また天皇陵がある。そこで、何か関係があるのではないだろうかと思うのだが、一般に出されている書物では封建統治者の政策ででっちあげられたのだという説明になっているわけです。そこで私の本を読まれて、この本の著者はどうだろうと思われて訪ねておいでになったのが最初です。私はその時に「もちろん、たいへんに深い関係があります」とお答えしたわけです。天皇陵は古墳の中の古墳ですから、関係がないはずがない。変な言い方ですが、被差別部落は封建領主が原因だという見方は、明治以後の天皇家にとっては、大変に有り難い話で、文化勲章でも上げたいような学説でしょう。悪いのは天皇様ではありません。将軍様ですと言ってくれているのですから。しかも、その将軍様を倒して今に至っているわけですから、なおさら有難いわけです。こんな言い方はだれもしませんけれども、ズバリ言ってしまえぱ有難いことですよね。しかし、私はそうではないと思います。もし、将軍様だけが悪人であるならば、古墳の分布図と一致するはずがありません。将軍様の知らない世界、古墳時代という世界で、ちゃんと一致している。これは大事な問題で、おちゃらかして言うべきものではありません。解放運動に携わってこられた方々は、水平社であれ、日本共産党であれ、私はたいへんに尊敬をしております。
 しかし、そういうことを前提に尚、言いたいこと、申し上げたいことがあります。というのは、もし東日流外三郡誌が言っていること、つまり、自分達は「人の上に人を作らず」でやってきたと、こう言っている。それが、ただ一片の社交辞令というか、口先だけのものであるのか、あるいは社会制度、社会組織、社会生活として実のあるものであるのかは、何で判別するのか。この答えは、未だに部落はない。都市部には、封建領主の持ち込んだ部落はあるけれども、結局、封建領主の努力は及ばなかった。すると東日流外三郡誌が偽書だとか言われるんですが、これは非常にリアルである。しかも、これは東日流外三郡誌が被差別部落問題にとって、大きな、重要なものになってくる。そういう意味では、東日流外三郡誌は日本史の教科書に出なくて良かったのかもしれない。これでは天皇家一元史観で説明するわけには行きませんから、明治以後百年と何年で、今やおじいさん、おばあさんから孫、ひ孫まで明治の国家教育の制度で育ったんだから、皇国史観なり、津田の万世一系史観、それで、全国民を「洗脳」し終えたはずだった。ところが、今、こういう間題が出されてきたのです。
 私は思うのですが、いくら支配者が百年、二百年頑張っても所詮無駄です。真実に合わないものは、結局滅びないはずはないのですから。

累代の真実 和田家文書研究の本領(『新・古代学』第一集)へ

神は人の上に人を造らず 第六章 『東日流外三郡誌』を問う『真実の東北王朝』)へ

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり総覧 資料和田家文書2福沢諭吉『学問のすすめ』関係

第二章 天皇陵の史料批判(『天皇陵を発掘せよ』三一書房)

 


六、天皇家成立の秘密を語る、大嘗祭、即位の礼

1大嘗祭、「魂なき稲祭り」の矛盾

 大嘗祭について色々と言われておりますが、その真相について私も含めてですが、気がついていなかったのではないか。私なども、こういう立場で考えておりました。つまり擬古の新式であると。古代風に見せかけた明治以後の新しい作晶である。歴史的な作品と言うよりも一種の芸術的な作品であるという感じで受け取っていたわけです。そういう面で、なんとなく軽視する部分があったことは否めなかった。ところが、それは大きな誤りでありました。というのは、即位の礼大嘗祭をめぐる問題として、第一の問題は、「魂なき稲祭り」であるということです。魂というのは、つまり稲の神様のことです。
 大嘗祭が稲にまつわる祭りであることは、どなたもご存じのことと思います。ところが、不思議なことにあそこには稲の神様がいないということをどの新聞、テレビも、学者の方も、書いたり言ったりしていない。天照がいるではないかと言う方がいるかも知れないけれとも、天照は太陽の神様です。もちろん、稲は太陽のおかげで成育するんだと、子供のころから教えられてきた。それではお聞きしますが、土のお陰では稲は育たないんですか。土の神様がいても良いではないですか。水はいらないんですか。水の神様でも良いわけです。なぜ太陽の神様だけ持ち出すのですか。多神教で何でもかんでも神様に仕立てあげている世界で、なぜ、稲の神様だけ惜しんで他の神様で我慢するのですか。米作民族の日本で、おかしいではないですか。おかしいと書いてある記事をごらんになりましたか。大嘗祭の記事は色々なところに出ていて、全部を切り抜いてはいないけれども、見たことがない。第一、おかしいのは古事記・日本書紀神代の巻に、稲の神様がいない。そんな分かりきったことを、今ごろ気がついて力んでいるのは恥ずかしいですけれども、実際、そうですよね。稲の神様が出てこない。これも、ここまで話を聞いてこられた皆様は真相がお分かりでしょう。
 つまり、その真相を解く鍵は「天壌無窮の神勅」にあるのです。稲作水田の栄えた場所を私は征服すると言っている。そうすると征服された人達は、稲を作っていた。縄文水田の遺跡から足跡も出ましたね。では、その人達は、ひたすら稲を作っていたけれども無神論者だった。そんな想像ができますか。私には、そういう想像はできません。当然、稲の神様はいたわけです。しかし、それは被征服者の稲の神様ではないですか。だから、古事記・日本書紀の神代の巻には、登場させて貰えなかった。あそこに出て来るのは征服者側の神々であるという概念を導入しなければ、この、稲の神様なき稲作民族の国の記紀神話という一大矛盾、あまりにも矛盾が大きすぎると誰も気がつかない、この一大矛盾は解けないということだったのです。
 それでは稲の神様は本当にいたのか、というと、ちゃんといたのです。倉稲魂命、これは、福岡県では有名でない神杜に随分祭られている神様です。クラというのは、神聖な祭りの場を意味するクラである。一言申しますと、カラスンマクラと、伊万里の腰岳で黒曜石を言っております。市で出している広報紙も「カラスンマクラ」と名付けられております。ンは、「の」ですから、カラスのマクラである。カラスは鳥の烏かと思います。黒い黒曜石を烏になぞらえている。マクラのマは真実の真。クラは高御座のクラ。祭りの場をクラという。歴博のある佐倉も狭いクラと書いて狭倉。神聖な祭りの場で狭倉。日本アルプスの乗鞍も祝詞のノリにクラで、祭りの場です。このマクラは神聖な祭りの場です。そうなりますと、カラスンマクラと黒曜石を呼んでいるということは、黒曜石を祭りの場で使っていた時代、つまり旧石器・縄文ですよ。弥生にも若干使われますが、古墳時代となると金属器に取って変わられてしまった。だから、そういう言葉が使われたのは旧石器・縄文、少なくとも弥生時代以前に成立した言葉だということになります。これは言語学的に大事な問題になると思います。なぜなら縄文時代に烏をカラスと言っていた。クラという言葉も神聖な祭りの場として使っていたということになりますから。もちろんこれには、さらにおもしろい発展がありますが、今の問題は縄文の祭りの場のクラである。稲魂というのは、これは稲の魂ですから、稲作と関係が無いという人はいないでしょう。
 というわけで福岡県神社誌の無格杜一覧の中から、この神様を見付けて飛びあがったんです。ところが、また考えて見ると数が足りない。関東でも少ないと思うのですね。ところが、倉稲魂の命は稲荷社に祭られているケースが多いんです。稲荷社というのは、稲に接尾語の「り」がついている。子供のころの記憶では、お祭りのときにお稲荷さんの社の形の所にお金を持って行った。そこで、お金を置くとからくりの狐が出て来て、それをくわえて帰って行くのですが、出てくる時に稲の穂をくわえて出てくるわけです。庶民にとっては、お稲荷さんならば日本中、お稲荷さんのいないところは珍しい位に、どこにでもおいでになる。米作民族に稲の神。だから、倉稲魂の神、お稲荷さんは稲の神様だった。
 ところが、こういう神様は古事記・日本書紀には主神として登場なさらないわけです。だからこれは、近世あたりの俗信仰だという民俗学者は、皇国史観の御用学者ですね。古事記・日本書紀に出ていれぱ、立派な由緒ある神様。出ないのは俗信仰だと言って、私は俗信仰を研究しているのだと威張ってもだめなんで、柳田国男がそうであったように、あれは天皇家を頭の上に置いての民俗学だったんですね。だから柳田国男は天皇家の、大和朝廷の一元史観に立って、それ以外を俗信仰と扱ったわけで、とんでもない間違いです。
 この倉稲魂の神こそ板付・菜畑の、日本列島に水田をもたらした、その人々の神様である。しかし、それは被支配者の神様であるから、神代の巻には登場できなかった。だから大嘗祭には天照しか出て来ないのです。大嘗祭が米作民族の古くからの麗しい稲の祭りであるなんていうコマーシャルソングをメデイアや学者までもが書き立てて、外国の記者もソーカと騙されてしまったが、鋭い方が「稲の神様はどなたですか」と聞き、「天照です」と答えると、「いや、それは太陽の神様でしょう」と聞かれたかもしれません。
 ということで、「稲の神なき稲祭り」ということこそ、大嘗祭の第一の本質である。

2 即位の礼は、「分家」の姿

 第二は、即位の礼の三種の神器の問題です。三種の神器なき、即位の礼という問題です。先日、剣と勾玉を持って即位の礼をやりましたね。つまり、「二種」だったんです。三種の神器ではないのです。
 博多湾岸の室見川、日向川の間に吉武・高木遺跡という三種の神器が出て来る最古の大王墓がある。ところが、その回りに「二種」や「一種」しかもたない墓が取り巻いているわけです。天皇家は二種をいただいている。今は剣と勾玉ですが、延喜式を見ますと鏡と剣を使っています。だから津田左右吉は、これをとらえて天皇家は二種だと、それなのに神代の巻に三種あるのは嘘だと、こういう議論をやった。ところが考古学的な発掘によると、実際には吉武・高木遺跡、そして山ひとつ越えた三雲・井原・平原、ここから豪勢な三種の神器セットが出て来るわけです。そして、春日市の須久・岡本。ここからも豪華な三種の神器セットが出てきた。だから、それは古事記・日本書紀の神代の巻に対応していたわけです。三種の神器は津田の考えていたような、嘘、作りものではなかったのです。となると、では、なぜ、天皇家は平安の延喜式ですら、二種しか持っていないのか、という新たな問題が生まれてきます。これはつまり、天皇家の祖先は、いわゆる「分家」であって、三種の神器を持つことは許されない家柄であったのではないかという問題に突きあたります。これは天皇陵の内部が明らかになりませんとはっきりしたことは言えないんですけれども、こういう問題があることは明らかです。

3 造作説を一蹴する「大嘗祭なき四十代」

 最後に第三の問題です。「大嘗祭を考える」という、国学院大学のOBの方が作った表があります。江戸時代の大嘗祭の行なわれなかった時代は中略としていますが、第四十代の天武天皇から以後、現代までまとめておられます。そして、岡田精司さんの「即位の例と大嘗祭」という、青木書店から出されている本があります。この、岡田精司さんによると、第四十一代の持統朝からはじまるんではなかろうかと、こう書いてある。
 四十代からはじまるという国学院の表と、四十一代からはじまるという岡田さんの文章。この落差が実は、問題の真相を明らかにするものだったのです。なぜかと言うと日本書紀の天武二年、ここに「大嘗に仕え立てまつれる云々」とあって、大嘗祭に参加した人達にご褒美をあげるという記事があるんです。ところが、不思議なことに天武紀には大嘗祭をやったという記事はないんです。もちろん、天武以前には全然ないんです。それに対して持統天皇の五年に大嘗祭をやったという記事が現れている。それでは、天智以前の大嘗祭はやったのかやらなかったのか。やったけれども書き忘れたのか。もっとおかしいのは、天武の時に大嘗祭がなければご褒美は出せないはずなのに、やったという記事がない。舎人親王の下に全学者が共同して作った天皇家の「正史」。つい、この間の、四十年ほどしかたっていないことなのに、大嘗祭をはじめてやったという記事を忘れて日本書紀を書くということがあり得ますか。しかも、ご褒美をあげるという記事は書いておきながら。これに対して、どの学者も答えようとしていないと思うのです。
 ところが、これは白村江の戦いの後、六六二年に「倭国、更えて日本国と号す」と「倭国がなくなって日本国が始まった」と、朝鮮側の歴史書に書いてある。新羅の文武王の十年です。これは、天智十年となります。その年に大変動があったと。
 八世紀に天皇が位に就く時にはいつも、「天智天皇が始めたもうた、この位に就く」と、こう言うんです。神武天皇が始めたもうた位に就くなどと、誰も言っていない。ということは、天智天皇の末年ごろ、大きな変動があったということを自ら証明しているのです。これは先程言いました、旧唐書で唐側が言っているところの「我々が倭人の代表として扱ってきたのは志賀島の金印の筑紫の王朝である。これを白村江でたたき潰した。その後、小国であった日本国が後を受け継いだのだ」というのが、七世紀末の話。そして七〇三年から、日本国を正式の代表として受け入れたという話になっている。つまりこれまで、天皇家は「幕府」だったと変な言葉で先程言いましたが、中心の王者ではなかった。だから、大嘗祭はできなかった。大嘗祭はできなかったから、やっていなかったから、やったとは書いていない。これは、当たり前の話です。これも「造作」という、津田の便利な言葉を使ってしまったら、おかしくなってしまいます。大嘗祭をやりましたと書くくらいのことは神武からやっておかしくない。一行で済むことですし、天皇位にかかわることなんですから、やらないほうが不思議ですよ。ところが、それが書いていないのですから、造作説では、とうてい済まないのです。やっていないから、書いていない。
 それでは、天武のところはどうなのか。これはやったわけです。大嘗祭が行なわれている。しかし、大和で行なわれたのではなかった。当然、筑紫で行なわれた。筑紫で行なわれているけれども、この時には、薩夜麻という筑紫の君が白村江の後、“捕らえられ”てしまった。だから、“代わり”を立てながら、実際には天武の派遣した者が取り仕切った。だから、ご褒美をやっている。しかし、自分の大嘗祭ではなかったから、やったとは書いていない。四〇年ほど前と言えば、つい、この間のことですから、今で言えば敗戦当時の話のようなものです。そして、まともに大嘗祭ができるようになったのが第四十一代の持統なんです。
 なぜ日本書紀が持統天皇で終わっているのかという問いに、私を含め、誰も答えていなかった。別に、第四十二代の文武天皇の「大宝」まで行ったって良いではないですか。ここから連続年号を立てているのですから。ところが、それが書いていない。ということは結局、持統天皇が大嘗祭をできた最初の天皇だと、やっと幕府が朝廷を名乗ることができるようになりましたと、最後に言っているのです。これが、持統で終わる理由です。
 ところが、そのような解説をこれまでご覧になったことがありますか。ないですね。私自身も「擬古の新作」だから、たいしたことはないと思っていたのです。やっぱり私もダメでしたね。先入観をもっていた。大嘗祭こそ、天皇家の真の歴史を明らかにしている。それが新しいという事、自分のご主人筋にとって代わったということ、そして、そこには勝った唐側との「戦前からの黙約」があったということです。それらのことを話し出すと長くなりますが、歴史の真相を、天皇家の成立の真相を語るものが大嘗祭であったということだと思います。これを賛美したり、逆に「あんなものは」と言っていたのでは、真の歴史を明らかにすることはできないと申し上げたい。

4 万世一系思想に乗った神社放火のナンセンス

 最近、神社に放火したりすることがはやっているようですが、あれはとんでもないことです。ゆがめちれた、誤った歴史観に頭を縛られた人達ですね。というのは、天皇家側のコマーシャル通りに、日本中の神社は天皇家の眷族だみたいな、そういう津田流の、皇国史観流の万世一系の歴史観に立って、神社に火をつけているということなんです。そうではなく、日本列島の神杜は天皇家よりも古い、日本民族の伝統を背景に背負うているわけです。先程も細石神社の話なども致しましたが、その一端から天皇家が出てきたわけですが、一端から出たのだという客観的な事実を覆い隠し、いかにも天皇家の下にすべての神社があるのだという姿勢をとろうとしたのが、明治維新以後の薩長政権のコマーシャルなんです。そのコマーシャルに少年時代からの学習ロボットがまんまと乗せられてきたから、神社に火をつけると天皇家は困るだろうと、そういう短絡的な考え方をもっているのではないでしょうか。
 そういう人々には、「そんなことはやめなさい。そんな歴史観では、新しい未来は開けない」ということを、ハッキリ言っていただければ有難いと思います。

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