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なかった別冊1

漫画・「邪馬台国」はなかった

ミネルヴァ書房

福與 篤著 古田武彦解説
Fukuyo Atsushi, Furuta Takehiko

あとがき」は、下にあります。

《目次》

Part.1 疑問だらけの「邪馬台国」

Part.2 秋田君、西晋の洛陽にワープ!

Part.3 「三国志」の「里程」について

Part.4 俾弥呼と鏡

Part.5 倭女王・俾弥呼と魏の交流

Part.6 俾弥呼の墓

Part.7 陳寿小伝

Part.8 秋田君の帰還

あとがき

解説/古田武彦

倭人伝原文・読み下し文

 

なかった別冊1
漫画・「邪馬台国」はなかった
_________________________
2012年 1月10日 初版第1刷発行

 著 者  福 與   篤
 発行者 杉 田 敬 三
 印刷社 江 戸 宏 介
 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
_________________
© 福與 篤, 2012    共同印刷工業・共同製本
ISBN978-4-623-05614-9
   Printed in Japan



 あとがき

  古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉性

 朝日新聞社で1971年(昭和46)に古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』が刊行されてから40年になりました。この書は、同社の米田保氏の大英断で刊行され、蛙井管見の淀んだ古代史学界に革命的な第一石を投じたのでした。また続刊も、旧弊な古代史学界・マスコミなどに衝撃的で壊滅的な波紋を広げました。また質直で美しい文章は「市井人」にも「大和朝廷一元説」または「TENNOLOGY(古田さんの造語)」から解放したとも思いました。その時点で陳寿の三国時代は「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」であり、その所在地は「近畿地方の大和」でなく「北九州・筑前中域」であり、「里程問題」等の基本的な諸問題も決着したと思っていました。ところが、爾来巷間には、古田さんの諸説を無視するが如く、「邪馬台国本」が依然として横溢し、徒に江湖の紙を費消しているように思えます。
 陳寿は、三国時代に生きていました。ということは、三国志は彼にとっては現代史なのです。だから、年時・国名・人名・距離・方角・面積などの記述は、明快な反論なくしては、疑いようもないのです。残念ながら、古事記にも日本書紀にも、「邪馬壱国」も「卑弥呼」も登場していません。当時の倭国の文字記録は「事実上」ないので、中国や朝鮮の史書にも頼らざるを得ないのです。古田さんの方法は「文献学」と「考古学」と「民間伝承や市井の人の感性=常識」を大切にした「徹底的な史料批判」からの歴史解釈です。しかし、古代史学界・マスコミなどは、この方法を取らず、言わば「自白」(三国志など史書)のみで、物証(出土した遺跡・遺物)を蔑ろにして、あるいは、その逆で、これも他国から失笑をかう土器による編年法に固執し、科学的測定法を軽視して、陳寿を“断罪”しています。この迷妄を倍加させているのは、大半の古代史学者・教育界・マスメディアが、依然として、古来から大和朝廷が日本列島の唯一の権力者であるとの金科玉条の史観「大和朝廷一元説」に呪縛されているからです。この史観に合わない不都合な記述については、陳寿の誤記・誤解とし、恣意的な想像や思い込みで「三国志」を改竄、改悪して解釈し、立論しています。

   鹿をどうどうどうと牽くばからしさ   俳風柳多留

 『朝日新聞』(2009年5月29日、東京版)の一面に掲載された「(箸墓古墳は)やっぱり卑弥呼の墓?」には、「魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった」とありました。「前方後円墳」を説明するときに、その「後円部だけの径」の測定値をもってレポートするでしょうか。平明な論理の帰結は、「箸墓古墳」が「卑弥呼の墓」でないということでしょう。もっとも、比較する俾弥呼の墓の測定単位は誤っていますが。さらに、「(箸墓古墳は)宮内庁指定の陵墓で本体調査はできない。周囲で出土した土器を手がかりに」した国立歴史民俗博物館の放射性炭素年代測定により、卑弥呼との関連が注目されるようになったとありました。本体を調査せず、堀や堤から出土した土器などを理化学的方法によって測定しても、どのくらいの意味と説得力があるというのでしょうか。
 また2011年2月24日、「応神天皇陵」に少数の研究者の立ち入り調査が許可されたときのことでした。「墳丘部分の立ち入りは許可されず、堀の外側の堤を歩くだけで、掘ることはおろか、巻尺一つ持って入れなかつた」と『週刊金曜日』(838号)にあります。隔靴掻痒とはこのことです。
 11月16日の『朝日新聞』で福尾正彦宮内庁陵墓調査官は、天皇陵が完全に特定されていないことを認めているのです。埋葬者の不明な墳墓を、天皇家が、ご先祖様だとし、「懇ろな」墓参をしているとすれば噴飯ものです。また調査官としては、職務怠慢の諺りをまぬがれないでしょう。
 2010年、朝日新聞社から『マンガ日本史・卑弥呼』が発刊されました。そのチラシに「最新の学説をふんだんに取り入れた新しい日本史」とありました。しかし、旧態依然の新説?の羅列でした。永年、同紙を愛読してきた私は、40年前もの古田さんの「旧説」が無視されていることに、まことに遺憾です。
 同年11月16日に放映されたNHKの「クローズアップ現代」では、箸墓古墳の近くの纒向遺跡の大型建物跡の発見をもって、卑弥呼の宮殿の可能性があり、邪馬台国の近畿説は、ますます有力になったと「邪馬台国」論者の学者が締めくくっていました。九州の「邪馬壱国」に20年間も駐留していた塞曹掾史・張政の軍事報告であるがゆえに、倭人伝の記述は正しいとの衝撃的な「提案」をしたNHK職員の木佐敬久さんの存在を知っての企画だったのでしょうか。
 情けないことに、法曹界も似たような状況です。2010年9月の「郵便不正事件」について、あきれたことに、特捜検事の「ストーリー」に基づいて証拠を捏造し、厚生労働局長を罪に陥れようとしたのです。冤罪でした。しかし古代史学界・マスコミなどの手法は、「大和朝廷一元説」の「護持」が「絶対だとのストーリー」に腐心してしているようです。2011年になって冤罪が確定した「足利事件」「布川事件」も同様でした。
 2011年1月28日に、入学式・卒業式で日の丸に向かっての起立・君が代の斉唱をしなければ処分するとの東京都教育委員会の通達(2003年10月)を高裁は合憲だとし、教職員側の敗訴になりました。その後、最高裁は次々に「反憲法的な判決」を繰り出しています。曰く「思想・良心の自由を間接的には制約しているが制約には必要性・合理性がある」(『朝日新聞』2011年7月5日)とありました。「思想及び良心の自由」にはどんな「制約」もあってはならないと思います。
 だが、君が代の歌詞について、教職員側はどのような解釈・認識に立っていたのでしょうか。君が代が法制化された現在、争点に出来ないと思っているのでしょうか。「だけど、地球は廻っている」です。「学問」と無縁の土俵の外で相撲をとっているように見えます。なぜならば、古田武彦さんは『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、1990年初版)その他で、君が代が、天皇家以前の九州王朝の「君」への讃歌であったことを必要にして十分の証明をしているからです。ぜひ、一読してください。
 「日の丸に起立・敬礼」について言えば、子供のころ「カバヤキャラメル」の景品で読んだ「ウイリヤムテル」を思い出します。悪代官が槍の穂先に自分の帽子を掲げ、住民に敬礼を強制したことに、テルが反抗したという、あの「林檎事件」の発端の物語でした。
 また、戊辰戦争時(1868〜69)には、「官軍」の錦の御旗は「菊花紋」でした。それに対して、「賊軍(幕府の残党)」の旗は「日の丸」でした。今や、賊軍の旗印が「国旗」に制定されたことを付言すれば十分でしょうか。

 私たちもぼんやりしていてはいけないでしょう。マスコミ・古代史・考古学界などの、フィルターのかかった遺跡などの調査・発表があるとしても、遺跡・遺物などの物証は万人の前に裸で存在していて、あるいは路傍で風雪に晒されている未発見・未発掘のものもあるでしょう。文献資料は寺社・旧家などに私蔵・死蔵されているようです。例えば、「東日流外三郡誌」は偽書扱いされてきましたが、古田さんたちの地道な努力により、今や日本史上、第一級の史料であることが解明されました。このような「発見」は、「専門家」だけの仕事ではないでしょうから。
 あろうことか、今年の3月11日の東日本大地震・大津波によって、福島第一原発は破壊され、チェルノブイリ原発爆発の規模を超えるとも言われる、多量に放出された放射能は、天・地・人・海を覆ってしまいました。
 浮遊する「太平洋プレート」など4枚ものプレートが、日本列島でひしめきあい、ゆえに環太平洋火山・地震帯の真っ只中に位置するという明々白々な事実をも無視し、原発は建設されてきました。政財界は札束で人々を籠絡し「核の安全神話」を推進してきました。また「原子力村」は、広告費を餌にマスコミを抱き込み、「文化人」を「人寄せパンダ」とし、「神話」を増幅させてきました。また「事故は全て想定外」「壊れぬものはない」という真理をも無視してきました。しかも、「原発人災」後も、不明を悔い恥じるどころか、その存続・新設を「経済の安定のため」として声高に叫んでいる輩がいるのは驚きです。「邪馬台国論者」と同様な愚を犯しているようです。

   過ちて改めざる是を過ちと謂う 論語

 古田さんたちへのささやかなエールである小書は、公刊された諸本に多大な恩恵を蒙りました。一々、出典を挙げて深謝すべきですが、ご寛恕ください。マンガに不慣れな私に、文字通りの手取り足取りで指導してくださった、バーダー仲間でデザイナーの萩原稔さんには本当に感謝します。また、ミネルヴァ書房編集部の田引勝二さんの、本書出版までの長年のご助力に感謝します。

  あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 権中納言敦忠

     2011年(平成23) 8月31日

                              福與 篤


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